論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰富而可求也雖執鞭之士吾亦爲之如不可求從吾所好
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰冨而可求也雖執鞭之士吾亦爲之/如不可求者從吾所好
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子曰:「富而可求也,雖執鞭之]士,吾a為之。如不可求也b,148從吾所好。」149
- 今本我下有「亦」字。
- 也、阮本無、皇本・高麗本作「者」字。
標点文
子曰、「富而可求也、雖執鞭之士、吾爲之。如不可求也、從吾所好。」
復元白文(論語時代での表記)
※富→(甲骨文)。論語の本章は、「之」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、富に而て求む可き也、鞭を執る之士と雖も、吾之を爲さむ、如し求む可から不る也、吾が好む所に從はむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「富の中でも得ることが出来るものは、御者だろうと私はやろう。もし全然得られないものなら、私は好きなようにする。」
意訳
もし儲けるという事そのものが可能なら、雇われ御者だってやるよ。でも全然儲からないとなれば、ワシの好き勝手にするさ。
従来訳
先師がいわれた。――
「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「如能緻富,哪怕是趕車,我也乾;如不能,則隨我所好。」
孔子が言った。「もし富を実現できるなら、御者だってかまわずに、私だってやる。もしできないなら、つまりは私の好きなようにする。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
富
(甲骨文)
論語の本章では”財産”。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であって同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
可(カ)
「可」(甲骨文)
論語の本章では”…できる”。「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
求(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”もとめる”。初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
執(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”手に取る”。初出は甲骨文。「シツ」は慣用音。字形は手かせをはめられ、ひざまずいた人の形。原義は”捕らえる”。甲骨文では原義で、また氏族名・人名に用いた。金文では原義で、また”管制する”の意に用いた。詳細は論語語釈「執」を参照。
鞭(ヘン)
(甲骨文)
論語の本章では”むち”。「ベン」は慣用音。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は手に鞭を持った象形。金文では「人」と「宀」”屋根”が加わり、家内で使用人を鞭打ってコキ使う様。「便」とも釈文される。西周中期の用例に、”鞭打つ”と解せるものがある。詳細は論語語釈「鞭」を参照。
「鞭」はムチの中でも、革のムチ。従って打つ範囲が広いから、車上からでも家畜をムチ打てる。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、「執鞭之士」では”…の”。「爲之」では”それ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
士(シ)
(金文)
論語の本章では、”士族”。最下級の貴族で、現代で言う下士官に当たる。春秋時代は都市の商工民であることが多い。初出は西周早期の金文。「王」と字源を同じくする字で、斧を持った者=戦士を意味する。字形は斧の象形。春秋までの金文では”男性”を意味した。藤堂説では男の陰●の突きたったさまを描いたもので、牡(おす)の字の右側にも含まれる。成人して自立するおとこ、という。詳細は論語語釈「士」・論語解説「論語解説春秋時代の身分秩序」を参照。
乗車は論語時代の貴族の特権だが、御者は士分ではあっても、一番階級が低い者が通常務めた。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”もし”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの行動”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の引用がなく、「富而可求也、雖執鞭之士、吾爲之。」は、前漢初期の『韓詩外伝』に「孔子曰:富而可求,雖執鞭之士吾亦為之。」として再出。「如不可求、從吾所好。」は『史記』伯夷伝に再出。文字史的には全文が論語の時代に遡れるので、史実として扱う。
解説
語義・語法から、本章を孔子の無欲恬淡を示すものと読んではならない。
「革命とは暴カである」と毛沢東は喝破し、それはその通りなのだが、同時に革命とは政治の一種だから結局ゼニきんであり、政治工作には多大の出費が必要になる。孔子は儲け話に無縁だったのではなく、儲かるなら飛びつく人物でもあった。それを示すのが本章である。
孔子の生涯を財産の点から見ると、破綻寸前国家のFXチャートのように、急激な山あり谷ありだった。弟子の原憲を執事に雇った際、巨額の俸禄を弾んだこともあれば(論語雍也篇5)、自分の子の葬儀に十分な経費が出せなかったこともある(論語先進篇7)。
また放浪時代は最初の亡命国衛で、殿様の霊公に巨額の捨て扶持(現代換算で111億円)を貰えたが、それ以外の国では領地まで指定された上にお預けを喰らい、どうやって食べていたのか分からない。ここで登場するのが、『史記』の貨殖列伝にも名が載った弟子の子貢である。
子貢がやり手のアキンドだったことは、論語先進篇18にも記されており、大バクチに出てはしばしば当てて、巨額の金を稼いだ。ただし子貢が孔子一門の財政を支えていたという記録は一切無い。だから四角四面に考えると、子貢が一門の資金源だったとは断定できない。
だが人は沈黙によって雄弁に語ることもある。孔子一門が革命政党だったのは事実で、政治や革命には巨額の金が要ること、古今東西変わらない。息子の葬儀にも事欠くような孔子が、生涯政治活動を続けたからには、どこかで巨額の金を稼いでいなければ理屈に合わない。
分からないことは分からないとしておくのもいいが、ここまで状況証拠が揃っていると、やはり子貢が資金源だったと見るしかない。発掘などで新史料が出ない限り、古代史の研究、もとい論語のような古代の古典を楽しむには、十分確からしい話を想像で補うしかないのである。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰富而可求也雖執鞭之士吾亦為之註鄭𤣥曰富貴不可求而得者也當修徳以得之若於道可求者雖執鞭賤職我亦為之矣如不可求者從吾所好註孔安國曰所好者古人之道也疏子曰至所好 云子曰云云者孔子意云夫富貴貧賤皆稟天之命不可苟且求若可求而得者雖假今執鞭賤職而吾亦為之則不辭矣繆協稱袁氏曰執鞭君之御士亦有祿位於朝也云如不可求者從吾所好者既不可求則當隨我性所好我性所好者古人之道也註鄭𤣥曰至之矣 云富貴不可求而得者言不可以非理求也云當修徳以得之者若值明世修徳必得也若逢亂世雖修徳不得而是得之道也猶如言寡尤行寡悔祿在其中矣云若於云云者道猶世道也若於世道可求則吾不辭賤職也周禮有條狼氏職掌執鞭以趨避王出入則八人夾道公則六人侯伯四人子男二人鄭言趨而避行人若今卒避車之為也
本文。「子曰富而可求也雖執鞭之士吾亦為之」。
注釈。鄭玄「富貴は求めたら得られるものではない。他でもない、徳を治めることで得るものだ。もし儒学の教えに従って富貴が得られるなら、雇われ御者のような卑しい仕事をしてでも、私はやって見せよう、ということだ。」
本文「如不可求者從吾所好」。
注釈。孔安国「好きなようにと言ったのは、昔の人が従った原則を言う。」
付け足し。先生は好むことの極致を言った。「子曰」とは発言者が孔子だと示す。その心は、富貴や貧賤は全て天命だから、軽々しく考え、また求めてはならない。もし思うままになるのなら、一時的になら雇われ御者でもやるということだ。そして「吾亦為之」と言うのは、つまり嫌がりはしない、ということだ。
繆協が袁氏を讃えて言った。「執鞭とは主君の御者であり、朝廷に籍のある立派な貴族だ。」
「求めても得られないなら好きなようにするさ」とは、求めてもダメと分かれば、自分の好き勝手にするということだ。好き勝手とは、昔の人が従った原則だ。
注釈。鄭玄「これは行き尽くした言葉だ。富貴は求めても得られないものである。」
付け足し。理屈では得られないことを言う。
鄭玄「他でもない、徳を修めることで得られる。」
付け足し。もしまともな世の中なら、徳を修めれば必ず得られる。しかし乱れた世では、徳を修めても得られない。これが富貴を得る得ないの原則である。丁度、「言葉に間違いが少なく、行動に後悔がないなら、職はそこから見つかる」と論語為政篇18にあるのと同じ。
鄭玄「もし道=儒学の教えに従ったまま富貴が求められるなら、雇われ御者のような卑しい仕事をしてでも、私はやって見せよう、ということだ。」
付け足し。道とは、世の中で従うべき道を言う。もしその道に従って富貴が得られるなら、卑しい職でも嫌がりはしない、ということだ。『周礼』にある「條狼氏」は、馬車の先走りをして人を除ける仕事だった。王が出御する際は八人で、公爵は六人で、侯爵伯爵は四人で、子爵男爵は二人で人払いをした。
鄭玄「人払い役は、今で言う車のお供衆のうち、人よけをする者である。」
繆協も袁氏も誰だか分からない。東京外大の紀要論文に取り扱ったのがあることまでは分かったが、ネット上に公開されていない。
新注『論語集注』
好,去聲。執鞭,賤者之事。設言富若可求,則雖身為賤役以求之,亦所不辭。然有命焉,非求之可得也,則安於義理而已矣,何必徒取辱哉?蘇氏曰:「聖人未嘗有意於求富也,豈問其可不可哉?為此語者,特以明其決不可求爾。」楊氏曰:「君子非惡富貴而不求,以其在天,無可求之道也。」
好の字は尻下がりに読む。執鞭とは卑しい者の仕事だ。「富がもし得られるなら」と言ったのは、卑しい仕事をしてでも富を求める、それを嫌がりはしないということだ。しかし天命により、求めても無駄なら、他でもない義理の世界に安住ればよく、何で卑しい仕事などする必要があろう。
蘇氏(=蘇軾。蘇東坡)「聖人は富を求めたことなど無いのに、どうして出来る出来ないを論じたのか。それはこの話を言うことで、求められはしないとはっきりさせるためだ。」
楊時「君子は富貴を嫌わないが、求めもしない。それを決めるのは天だから、求める法などないからだ。」
蘇東坡は論語憲問篇8の新注でサディストであることをばらされている。
愛して苦労を掛けないようにするのは、鳥や子牛を可愛がるのと同じだ。真心があるのに教えないのは、女やタマ無しのすることだ。愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。
楊時は論語里仁篇16解説でも書いたように、極めつけの悪党で、「富貴を嫌わ」ず求めてばかりいた役人。宋儒については論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
俺じゃない
論語の時代における貨幣の存在が極めて心許ないことは、論語学而篇15解説に書いた通りだが、安能務の言う中華文明の根幹を語るキーワード、「カネは万能の宝貝(秘密兵器)」が、論語の時代のそれも孔子にも当てはまることが、本章から見て取れるだろう。
およそ全世界の中国人が集住する所で、関帝廟の無い所は無いが、その理由は関帝=関羽が忠義のサムライだからでなく、財神として崇められているからだ。算盤の発明も関帝によるものだと信じられ、そのご加護でカネが儲かるよう、中国人は争って線香を焚き土下座して拝む。
だが中国人が拝むのはカネそのもので、財神ではない。ホトケもご利益の分しか拝まない。
祖師殿中忽聞屁臭。衆互推不認。乃推祖師曰。汝為正神。受萬方香火。如何撒屁。祖師驚起辨曰。尚有四將。何獨推我。四將亦辨曰。尚有龜蛇。何獨推我。蛇欲辨而口不能言。乃努嘴向者數四。原來撒屁的是烏龜。
お釈迦様を祭った本堂でおならのにおいがする。坊主どもは互いに「俺じゃない」と他人に押し付ける。とうとうお釈迦様のしわざだということになり、皆で文句を言う。
「あなたは本尊として、千万回も線香を上げてもらいながら、なんだっておならなんかするのです。」
お釈迦様はびっくりして立ち上がり、無実を訴えた。「四天王もここにおるのに、なんだってワシのせいばかりにするのだ。」
四天王もいきり立って、「ここに居るのは我らばかりではありません。亀と蛇(北方の魔除けである玄武)もいるのに、どうして我らのせいにするのです。」
蛇は弁解しようとしたが口がきけないので、四度ほど口を尖らせた。すると屁を垂れたのは真っ黒な亀(”ウスノロ”・”チン○゚コ”をも意味する)だったのだ。(『笑府』巻十・祖師殿)
コメント