論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰愛之能勿勞乎忠焉能勿誨乎
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰愛之能勿勞乎忠焉能勿誨乎
定州竹簡論語
……勿勞乎?367……
標点文
子曰、愛之能勿勞乎。忠焉能勿誨乎。
復元白文(論語時代での表記)
忠焉
※愛→哀。論語の本章は、「忠」「焉」字が論語の時代に存在しない。ただし「焉」字は無くとも文意が変わらない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、之愛して勞る勿きこと能はん乎。忠焉るに誨ふる勿きこと能はむ乎。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「まことに愛しているのに、いたわらないでいることができるだろうか。誠実を貫いているのに、教えないでいることができるだろうか。」
意訳
諸君。私はこれでも君たちを愛しており、いたわっているよ? 偽りなく君たちを想い、だからこうして教えているよ?
従来訳
先師がいわれた。――
「人を愛するからには、その人を鍛えないでいられようか。人に忠実であるからには、その人を善導しないでいられようか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「愛護他,能不為他操勞嗎?忠於他,能不對他勸告嗎?」
孔子が言った。「彼を愛して守るなら、骨を折らせないわけにはいかないだろう? 彼に忠実なら、かれに説教しないわけに行かないだろう?」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
愛(アイ)
(金文)
論語の本章では”愛する”。初出は戦国末期の金文。一説には戦国初期と言うが、それでも論語の時代に存在しない。同音字は、全て愛を部品としており、戦国時代までしか遡れない。
「愛」は爪”つめ”+冖”帽子”+心”こころ”+夂”遅れる”に分解できるが、いずれの部品も”おしむ・あいする”を意味しない。孔子と入れ替わるように春秋時代末期を生きた墨子は、「兼愛非行」を説いたとされるが、「愛」の字はものすごく新奇で珍妙な言葉だったはず。
ただし同訓近音に「哀」があり、西周初期の金文から存在し、回り道ながら、上古音で音通する。論語の時代までに、「哀」には”かなしい”・”愛する”の意があった。詳細は論語語釈「愛」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”まことに”。直前に指すべき意味内容を持たないので、指示詞ではない。意味内容を持たないが、「之」には倒置や強調の語義があることから、あえて訳すなら強調”まことに”となる。
『学研漢和大字典』「之」条
②「これ」とよみ、
- 直前の語が動詞であることを示す。▽何をさすかは明示されない。「頃之、襄子当出、予譲伏於所当過之橋下=これを頃(しばら)くして、襄子出づるに当たり、予譲当(まさ)に過ぐべき所の橋下に伏す」〈しばらく経ち、襄子の外出を知り、予譲はその道筋の橋の下に待ち伏せた〉〔史記・刺客〕
④「~之…」は、「~をこれ…す」とよみ、「~を…する」と訳す。倒置・強調の意を示す。「父母唯其疾之憂=父母にはただその疾(やま)ひをこれ憂へしめよ」〈父母にはただ自分の病気のことだけを心配させるようになさい〉〔論語・為政〕
字の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。字の初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
勿(ブツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~がない”。否定詞ではなく動詞であることに留意。初出は甲骨文。金文の字形は「三」+「刀」で、もの切り分けるさまと解せるが、その用例を確認できない。甲骨文から”無い”を意味し、西周の金文から”するな”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「勿」を参照。
勞(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”いたわること”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「労」。初出は甲骨文。ただし字形は「褮」-「冖」。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文の字形は「火」二つ+「衣」+汗が流れるさまで、かがり火を焚いて昼夜突貫工事に従うさま。原義は”疲れる”。甲骨文では地名、”洪水”の意に用い、金文では”苦労”・”功績”・”つとめる”の用例がある。また戦国時代までの文献に、”ねぎらう”・”いたわる”・”はげます”の用例がある。詳細は論語語釈「労」を参照。
この字の解釈は、”働かせる”と”ねぎらう”との二つあり、論語の他章ではほぼ前者の意で、孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた『墨子』もほぼ前者の意で用いる。
ただ、事実上一度滅んだ儒家を再興した孟子は、”労働”の意でこの語を用いると共に、”ねぎらう”の意でも用いた。
放勳曰:「勞之來之,匡之直之,輔之翼之,使自得之,又從而振德之。」聖人之憂民如此,而暇耕乎?
孟子が申しました。「…いにしえの聖王・堯も申されておる。”ねぎらってやるから人が寄ってくる。間違いを正してやるから人は真っ直ぐになる。援助してやるから人は手伝ってくれる。何事もまず方法を教えてやれば、人は言うことを聞いて自分で技能を高めるのだ”と。聖人とはこういうふうに、人々の心配をしてやるものだ。いちいち自分で畑仕事をする暇などあるものか。」(『孟子』滕文公上)
論語の本章の場合、「忠」の字の論語時代の不在によって、全ての文字を春秋時代の解釈に限る必要がない。「先頭に立って民を指導し、仕事を終えた者をねぎらってやる」というのは、「民本主義」を掲げた孟子以降の儒家にふさわしいと訳者は判断する。
なお上掲の『孟子』の一節は、なかなか面白い話でもあるので全訳してある。『孟子』現代語訳・滕文公上篇4を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、「か」と読んで”~かね”、詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
忠(チュウ)
「忠」(戦国金文)
論語の本章では”忠実”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。また別に「中」には”~の中”の用例が戦国の竹簡にあり、ゆえに「忠」は”自分の中の心”、すなわちうそ偽りの無い誠実を意味し得た。
「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。詳細は論語語釈「忠」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「たり」と読んで、”~でありきる”、”全く~だ”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語の本章では疑問辞「いずくんぞ」に読む説があるが誤り。原文の対句構造から考えて、本章の「焉」は「之」と呼応する強調の語義、”~でありきる”と解するべきだからだ。
愛 ”愛する” |
之 ”まさに~する” |
能 ”~できる” |
勿 ”~しない” |
勞 ”いたわる” |
乎 ”~かね” |
忠 ”誠実になる” |
焉 ”~でありきる” |
能 ”~できる” |
勿 ”~しない” |
誨 ”おしえる” |
乎 ”~かね” |
誨(カイ)
(金文)
論語の本章では”教え”。初出は甲骨文とされるが、「每」(毎)の字形であり、「每」に”おしえる”の語義は甲骨文で確認できない。現行字体の初出は西周中期の金文。字形は「言」+「每」で、「每」は髪飾りを付けた女の姿。ただし漢字の部品としては”暗い”を意味し、「某」と同義だった。春秋末期までの金文では人名のほか、”たくらむ”・”教える”の語義がある。詳細は論語語釈「誨」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、前半の「愛之能勿勞乎」は先秦両漢の誰も引用していない。後半の「忠焉能勿誨乎」は、前漢中期の『塩鉄論』と、後漢末期の『蔡中郎集』に引用がある。前漢中期の定州竹簡論語には残欠が残るが、春秋戦国の文献や出土史料には見られない。従って前漢前半、董仲舒あたりによって偽作されたと考えるのが筋が通る。
解説
一般的に師匠というものは弟子に関してネチこいもので、逃げたら追い掛ける習性がある。それはサラリーマン教師には及びも付かないことだったが、こんにち教師稼業に向ける社会の目が厳しくなって、サラリーマン教師も無頓着ではいられなくなった。
それが一派の開祖となればなおさらで、孔子もまた、弟子が逃げるのを恐れた。しかし師匠の意図がすっかり弟子に伝わるなら、そもそも塾や学校は無用。自分の思想信条を書き上げて、どこかに貼り出せばいいのだ。電脳がプログラム通りに動くのはその理屈。
しかし人間はそうはいかない。書く方は自分がよく分かっておらず、読む方は儲け話しか頭に入らないから。要は人間とはバカと助平と欲タカリの集まりなのだ。だから孔子もずいぶん、弟子のブーイングを受けたと見られる。それをなだめようとして言ったのが論語の本章。
さて従来訳のように、「労」を受け身とし”愛する者に苦労を掛ける”と言い出したのは誰だと思って、北宋までの論語の注釈を集めた『論語注疏』と、その後軍国主義者の朱子がまとめた『論語集注』を読み比べてみたら、案の定宋儒による嗜虐的な論語解釈のねじ曲げだった。
『論語注疏』
子曰:「愛之,能勿勞乎?忠焉,能勿誨乎?」孔曰:「言人有所愛,必欲勞來之;有所忠,必欲教誨之。」
孔安国「人を愛したなら、可愛がってそばに寄せたいと想うものだ。真心を向けるなら、必ず教えてあげようと思うものだ。」
新注『論語集注』
子曰:「愛之,能勿勞乎?忠焉,能勿誨乎?」蘇氏曰:「愛而勿勞,禽犢之愛也;忠而勿誨,婦寺之忠也。愛而知勞之,則其為愛也深矣;忠而知誨之,則其為忠也大矣。」
本文「子曰:愛之,能勿勞乎?忠焉,能勿誨乎?」
蘇軾(蘇東坡)「愛して苦労を掛けないようにするのは、鳥や子牛を可愛がるのと同じだ。真心があるのに教えないのは、女やタマ無しのすることだ。愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。」
訳者は詩人としての蘇東坡しか知らなかったゆえ、左遷されても配所の月を眺めつつ、豚の角煮で一杯やったり、河豚に舌鼓を打つ季節を楽しみにして、のんきに暮らしたおじさんだと思っていたのだが、論語にこんな𠮷外沙汰を、堂々と書き込んでいたとは。
愛するから苦しめるのは、SMでなくて何だろう。しかもそれで一層愛が深まると、まじめな顔をして議論している。変態の集まりでなくて何だろう。その解釈を有り難がって江戸の儒者は受け入れた。事大主義でなくて何だろう。そして今なおこの解釈は疑われていない。
論語の本章に関して、『論語集釋』に引く『四書蒙引』には、こんなことが書いてある。
愛不但是父之愛子兄之愛弟士之愛友君之愛臣民師之愛子弟亦有如此者忠不但是臣之忠君子亦有盡忠於末處士亦有盡忠於反處凡為人謀亦有盡其忠處但不必貫忠愛而惆之也
愛とは父親の愛だけではない。兄が弟を愛し、士族が友を愛し、主君が臣下を愛し、師匠が弟子を愛するのも、また愛のうちだ。忠は臣下の忠だけではない。子が父に尽くし、士族が友に尽くす、およそ人の為を思って忠を尽くすことがある。だから忠や愛を貫くやりかたは、一つだけではないのだ。(『四書蒙引』巻七8)
だがこれは、朱子学に頭がイカれた明儒・蔡清の思い込みというもので、孔子はこのような、何らかの反応を期待する「愛」を説かない。それは「愛」の字が、春秋時代に無いことにも起因するが、孔子の言う愛は、取り返しが付かない者への、惜しみない「哀」である。
孔子適齊,中路聞哭者之聲,其音甚哀。孔子謂其僕曰:「此哭哀則哀矣,然非喪者之哀也。驅而前!」少進,見有異人焉,擁鐮帶索,哭音不哀。孔子下車,追而問曰:「子何人也?」對曰:「吾、丘吾子也。」曰:「子今非喪之所,奚哭之悲也?」丘吾子曰:「吾有三失,晚而自覺,悔之何及!」曰:「三失可得聞乎?願子告吾,無隱也。」丘吾子曰:「吾少時好學,周徧天下,後還喪吾親,是一失也;長事齊君,君驕奢失士,臣節不遂,是二失也;吾平生厚交,而今皆離絕,是三失也。夫樹欲靜而風不停,子欲養而親不待。往而不來者、年也;不可再見者、親也。請從此辭。」遂投水而死。孔子曰:「小子識之!斯足為戒矣。」自是弟子辭歸養親者十有三。
孔子が斉に出掛けた途上、泣き叫ぶ声が聞こえてきたが、いかにも悲しそうである。孔子は従者に言った。「まことに哀しい声だ。だが親しい者を亡くした哀しみとは思えない。何かおかしい、車を急がせよ!」
しばらく進むと、変わった風体の男がいて、鎌を抱き、縄で腰を締め、泣き声を上げつつも、表情はむしろからりとしている。孔子は車を降りて男に近寄った。「どなたでござる。」
男は答えた。「丘吾子と申す。」「貴殿を拝すると、お身内を失われたようには思われぬ。なぜ哀しげにお泣きになる。」「拙者は三つの大事なものを失い申した。しかれど気付くのが遅すぎた。ゆえに泣いたのでござる。」「率爾ながらお尋ね申す。その三つとは何でござる。隠さずご教示賜りたい。」
丘吾子「拙者は若き日に学問を好み、師を探して天下を巡り申した。その間に親を亡くしてござる。これが一つ。斉国公に仕えたが暗君におわして、最後まで仕え通せず、臣道を全うできずにしまい申した。これが二つ。友を手厚く迎えたが、今はいずれも手切れとなり申した。これが三つ。
樹木は静かにたたずみたくとも、風はそれを許さず、子は親を養いたくとも、親の寿命は待たず。取り返しが付かぬものは実に時でござる。親でござる。どうかご念の端に留め置き下さればかたじけない。」
そう言い終えると、川に身を投げてしまった。孔子は振り返って弟子に言った。「諸君、よく覚えておきたまえ!」貰い泣きした弟子の中から、帰郷して親を養いたいと願い出た者が、十と三人出た。(『孔子家語』致思10)
なお論語の本章、古注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰愛之能勿勞乎忠焉能勿誨乎註孔安國曰言人有所愛必欲勞來之有所忠必欲教誨之也
本文「子曰愛之能勿勞乎忠焉能勿誨乎」。
注釈。孔安国「本章の心は、人は愛する者が出来れば、必ずいたわって身近に引きつけようとする。誠実であろうとするなら、必ず間違いを教え諭してやりたいと願うようになる、ということだ。」
余話
(思案中)
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