論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子之所愼齊戰疾
校訂
諸本
- 武内本:釋文云、齊或は齋に作る。
東洋文庫蔵清家本
子之所愼齋戰疾
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子之所慎:齊a,戰,疾。150
- 齊、何本作「齋」、『釋文』云「齊、本或作”齋”、同」。二字経典中互見。
標点文
子之所愼、齊、戰、疾。
復元白文(論語時代での表記)
※「戰」→「嘼」。
書き下し
子の愼む所は、齊・戰・疾なり。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が慎んだのは、潔斎、戦争、病気だった。
意訳
先生は非常事態での身の清め、戦争、疫病にとりわけ気を遣って、縮こまるような気持でいた。
従来訳
先師が慎んだ上にも慎まれたのは、斎戒と、戦争と、病気の場合であった。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子慎重的事:齋戒、戰爭、疾玻
孔子が慎重に取り扱ったのは、斎戒、戦争、病気だった。
論語:語釈
子(シ)
「子」
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの事項”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
愼(シン)
(金文)
論語の本章では”つつしむ”。新字体は「慎」。中国、台湾、香港では新字体の「慎」がコード上の正字として扱われている。初出は西周中期の金文。論語の時代に通用した字体では、「真」と書き分けられていないものがある。字形は「阝」”はしご”+「斤」”近い”+「心」。はしごを伝って降りてきた神が近づいたときのような心、を言うのだろう。詳細は論語語釈「慎」を参照。
齊(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”祭礼の前の潔斎”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
「斎」と同じ。非常時に身を清め、飲食に気を付けて、おとなしく慎んだ態度で一定期間過ごすこと。世界の宗教の多くで、葬儀の前後などになまぐさ物を食べなかったり、水垢離をして身を清めたりするのに相当する。
ただし史実の孔子の場合、「神事の前の潔斎」は慎まない。孔子は神霊を否定して見せた古代人で、神事の前に付き合いで潔斎の真似はしたかもしれないが、自身は神事に関わろうとすらしなかった(→論語八佾篇12)。従って本章がもし史実を伝えるとするなら、疫病の際によく体を洗うなど、非常事態に面して生活を引き締めただけで、神霊のために潔斎したのではない。
「齋」蔡侯盤・春秋晚期
なお清家本の記す「齋」(斎)は『学研漢和大字典』によると「示+(音符)齊(きちんとそろえる)の略体」の会意兼形声文字で、祭りのために心身をきちんとととのえること。春秋時代以前はしめすへんと横並びの字形で記され、”厳粛に祭る”の意に用いた。詳細は論語語釈「斎」を参照。
戰(セン)
「戰」(戦国金文)
論語の本章では”戦争”。新字体は「戦」。この文字の初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音も存在しない。字形は「單」”さすまた状の武器”+「戈」”カマ状の武器”。原義は”戦争”。部品の單(単)は甲骨文から存在し、同音は丹や旦、亶などのほか、単を部品とする漢字群。いずれも”たたかう”の語義はない。
また戦国の竹簡では「𡃣」「嘼」を「戰」と釈文する例があり、「嘼」字の初出は殷代末期の金文、春秋末期までに”戦う”と解せなくもない用例があるが、”おののく”の用例は無い。詳細は論語語釈「戦」を参照。
”たたかう”意では、甲骨文から鬥(=闘)が存在し、長柄武器を持った二人の武人が向き合う様。合、格にも”たたかう”意がある。闘トウ→単タン→戦セン、という連想ゲームは出来るが、ゲームに過ぎず、「セン」系統の”たたかう”言葉は、戦国時代の楚の方言といってよい。
疾(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”急性の病気”。疫病のたぐい。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。
ペニシリンが無い時代、伝染病は恐ろしいもので、ささいなことから人は死に至った。また薬湯を用いて治療する、いわゆる漢方はまだ成立しておらず、鍼灸が医療の中心だった。
虚実、陰陽、表裏といった概念を用いて病気を系統立って分析し、適切な薬湯を与えられるようになったのは、論語時代より700年も過ぎた、三国時代の『傷寒論』からになる。
論語にも薬を用いる記述はあるが、「のどの痛みには南天の実」といった、まだ粗放な医学に過ぎなかったと思われ、漢方ほど有効に効いたとは思えない。それより鍼灸の方が効いただろう。孔子は季氏から贈られた薬の服用を断っている(論語郷党篇12)。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用していない。『史記』孔子世家に引用があり、定州竹簡論語にもあるが、その後の再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になる。
解説
孔子の無神論については孔子はなぜ偉大なのかにまとめた。
そんな孔子が神事の前の潔斎を慎むわけがない。慎んで貰いたかったのは帝国の官僚儒者で、神主として皇帝の陵墓などに配置されると、雇われ人の漢文業者と同じで、じゃぶじゃぶと国費を使える美味しい稼業だったから、孔子先生は潔斎を重視したと言い募った。
戦争と疫病に怯えるのは、古今東西人類の普遍的現象だから、何も孔子に限った話ではない。孔子は兵法にも長けていたことが『史記』孔子世家から分かるが、戦争に対して慎んだという話は史書に無い。むしろ春秋諸国のいくさを煽ったという証言ならあるのだが。
現伝『墨子』が、歴史人物の墨子の言葉をそのまま伝えているとは限らないし、史書でない文献を史料として用いるのに抵抗があるかも知れない。だが墨子は孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた人物で、第三者的に孔子を観察した証言者としての地位は揺らがない。
孔子が武術の達人で、直弟子は春秋の君子として出陣したのに対し、孟子以降の儒者はひょろひょろばかりで、漢以降の儒者官僚は筆と箸とワイロより重いものを持とうともしなかった。いわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒もその一人。
董仲舒には「戦争ハンターイ」を叫ぶ動機が十分にある。仕えた主君の暴君武帝の趣味は戦争で、それまで帝国が貯め込んだカネを戦争で使い果たしてすっからかんにしたが、戦争など止めてくれればその分儒者のポストが増え、董仲舒は子分を大勢従えて大いばりできる。
まるで戦後日本の左翼とそっくりだが、人間は古今東西こういう部分が変わらない。董仲舒が自分の勢力拡大に腐心し、やり損なって隠居を余儀なくされた事情は、論語公冶長篇24余話を参照。人でなしの暴君のもとには、ろくでなしの家臣しか集まらないのである。
疫病と孔子については、諸史料が沈黙している。論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
子之所慎齊戰疾註孔安國曰比三者人所不能慎而夫子能慎之也疏子之所慎齊戰疾 記孔子所慎之行也齊者先祭之名也將欲祭祀則散齊七日致齊三日也齊之言齊也人心有欲散漫不齊故將接神先自寜靜變食遷坐以自齊潔也時人漫神故於齊不慎而孔子慎之也戰者兩刃相交性命俄頃身體髪膚彌宜全重時多暴虎不避毀傷唯孔子慎之故後則云子畏於匡又云善人教民七年亦可即戎又云以不教民戰是謂棄之並是慎戰也疾者宜將養制節飲食以時人不慎而孔子慎之也故云子之所慎齊戰疾也
本文「子之所慎齊戰疾」。
注釈。孔安国「この三つは、凡人には気を付けることが出来ないが、先生は出来た。」
付け足し。先生は潔斎、いくさ、疫病に気を付けた。孔子が気を付けた条目を記したのである。
齊とは、祭祀に先立つ行いの名である。祭りの前には、軽い物忌みを七日、重い物忌みを三日行った。齋とは齊である。人には欲があるから、ちゃらんぽらんできちんとしないから、神に接するには、まず自分をよく鎮めて、食事を変え座り場所を移し、それで自分を清める。当時の人は神を馬鹿にして、物忌みなのに慎まなかったが、孔子は慎んだのである。
いくさとは、両軍が刃を交え、人死にが急激に出るものだが、体は親に頂いた大事なものだから、傷付けると不孝者になる。しかし当時は子路のような乱暴者が多く(暴虎。→論語述而篇10)、怪我が避けられなかった。ただ孔子だけが気を付けていたのだが、だからこそ「匡におそる」(論語子罕篇5)結果になった。また、「有能な為政者が七年教えて、やっと民を徴兵できる」(論語子路篇29)。「それなしで徴兵する、これを民を磨りつぶすと言う」(論語子路篇30)。これらの言葉は、すべていくさに気を付けたからである。
疫病は、暴飲暴食をやめて養生することだが、当時の人は慎まず、孔子は慎んだ。だから「先生が慎んだのは、潔斎、戦争、病気だった」と言ったのだ。
新注『論語集注』
齊,側皆反。齊之為言齊也,將祭而齊其思慮之不齊者,以交於神明也。誠之至與不至,神之饗與不饗,皆決於此。戰則眾之死生、國之存亡繫焉,疾又吾身之所以死生存亡者,皆不可以不謹也。尹氏曰:「夫子無所不謹,弟子記其大者耳。」
齊は、側-皆の音の組み合わせである。齊を齊と言うのは、祭祀で重いがちゃらんぽらんになっているのを整えて、神霊と交信するためである。誠意が神に通じるか、神がお供えを受け取るかは、この物忌みに掛かっている。いくさとは大勢の生死や国の興亡がかかった大事で、疫病もまた我が身の生き死にに関わる大事だから、慎まないわけには行かなかった。
尹焞「先生は慎まないことが無かったが、弟子はその中で目立つことだけ記したのだ、」
儒学に黒魔術を持ち込んだのは、新注を書いた朱子とその引き立て役だが、どうやらこの一味は、「以て神明於交わる也」=”神と交信する”らしい。おやおや、頭のおかしな危ない人たちではないか。「神明」は”精神”をも意味するが、ここではカミサマと解さないと通らない。
宋儒については論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
尹氏とは尹焞、黒魔術の開祖である程頤の弟子で、住んでいた洛陽に金軍が押し寄せた際に逃げ遅れ、家族が殺され当人も死にかけたが、息を吹き返したのを弟子一同に担がれて、四川の山奥にまで逃げ延びた。ところが南宋が成立するとノコノコと山を下りてきて官職をあさり、金との和平を進める宰相・秦檜の悪口ばかり言った。ひどい目に遭ったからには分からなくはないが、そんなこんなで辞職して、娘婿の家で隠居したという。
余話
尼僧侶
論語の本章、武内本や定州竹簡論語の注釈が言うように、南朝末期の『経典釈文』に「齊側皆反本或作齋同」という。”齊の音は側-皆の反切で、もとはあるいは齋と書いた。意味は同じ”の意。どうでもいいだろうが、と言う程度の違いで、これを『笑府』はからかっている。
一僧讀齋字。尼認是齊字。因而相爭。一人斷之曰。上頭是一樣的。但下頭畧有些差。
ある僧侶がある字を指して「齋」だという。同じ字を尼は「齊」だという。言い争いの決着が付かず、人を呼んで来て裁定してもらった。その人曰く、「上はおんなじですが下はちょっとだけ違います。」(『笑府』巻五・斉字)
男僧齋 尼僧齊
頭が固いと何を言っているのか分からない。下半身の話だと気が付けるのが、漢文を読めるということでもある。
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