論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子謂顔淵曰用之則行舍之則藏唯我與爾有是夫子路曰子行三軍則誰與子曰暴虎馮河死而無悔者吾不與也必也臨事而懼好謀而成者也
- 「淵」字:国会図書館蔵拓本ではこの部分が摩滅しているが、他の箇所の通り、最後の一画〔丨〕を欠いたと思われる。唐高祖李淵の避諱。
校訂
諸本
- 武内本:憑、釋文唐石経馮に作る。
- 正平本:「馮」→「憑」。
東洋文庫蔵清家本
子謂顔淵曰用之則行舍之則藏唯我與爾有是夫/子路曰子行三軍則誰與/子曰暴虎憑河死而無悔者吾不與也/必也臨事而懼好謀而成者也
後漢熹平石経
…懼好謀而…
定州竹簡論語
……謂顔淵曰:「用a則行,舍之則臧b,唯]144……路曰:「子145……子曰:「暴虎馮c河146……[吾弗]d與也。必也臨事而懼,好謀而成者□。」147
- 今本「用」下有「之」字。
- 臧、今本作「藏」。二字可通借。
- 馮、皇本、高麗本作「憑」、『釋文』云、「”馮河”亦作”憑ママ”」。
- 弗、今本作「不」。
標点文
子謂顔淵曰、「用則行、舍之則臧。唯我與爾有是夫。」子路曰、「子行三軍、則誰與。」子曰、「暴虎馮河、死而無悔者、吾弗與也。必也臨事而懼、好謀而成者也。」
復元白文(論語時代での表記)
懼
※藏→臧・悔→毎。論語の本章は「懼」の字が論語の時代に存在しない。「吾」と「我」を混同し、「行」「之」「臧」「夫」「誰」「馮」「也」「必」「事」の用法に疑問がある。本章は前漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子顔淵に謂ひて曰く、用ゐらるれば則ち行ひ、舍て之ば則ち臧る、唯我與爾と是有る夫。子路曰く、子三軍を行らば、則ち誰を與にせむ。子曰く、虎を暴ぎて河を馮り、死し而悔なき者は、吾與にせ弗る也、必ず也事に臨み而懼れ、謀を好み而成さむ者也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が顔淵に言った。「自分が用いられれば確かに仕事をし、自分が捨てられれば確かに隠す、ただ私とお前だけにあることだなあ。」子路が言った。「先生が三軍を率いるなら、とりわけ誰を連れて行きますか。」先生が言った。「虎を見れば襲いかかり、川を見れば飛び込み、死んでも悔いのない者とは、私は共に行かない。間違いなく、目の前のことに慎重になり、計画立案を好んで達成する者とだ。」
意訳
孔子「顔回や、職に就けたらまじめに働き、就けなければ世間から隠れる。これが出来るのは、私とお前だけだな。」
子路「でも出征するなら私を連れて行くでしょう?」
孔子「いやだね。お前は虎を見れば殴刂かかり、川を見ればザブザブと飛び込む。死んでもかまわないと思っている。そうじゃなくて、連れて行くなら事態を前によく考え、計画を立ててからやり遂げる者の方がいいに決まっている。」
従来訳
先師が顔渕に向っていわれた。
「用いられれば、その地位において堂々と道を行うし、用いられなければ、天命に安んじ、退いて静かに独り道を楽む。こういった出処進退が出来るのは、まず私とお前ぐらいなものであろう。」
すると子路がはたからいった。――
「もし一国の軍隊をひきいて、いざ出陣という場合がありましたら、先生は誰をおつれになりましょうか。」
先師はこたえられた。――
「素手で虎を打とうとしたり、徒歩で大河をわたろうとしたりするような、無謀なことをやって、死ぬことを何とも思わない人とは、私は事を共にしたくない。私の参謀には、臆病なぐらい用心深く、周到な計画のもとに確信をもって仕事をやりとげて行くような人がほしいものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子對顏淵說:「受重用時,就展露才華;不受重用時,就韜光養晦。衹有我和你能做到!」子路說:「您帶兵作戰時,讓誰輔助?」孔子說:「徒手斗猛虎、赤腳過深河,至死不悔的人,我不需要。我需要的是那種小心行事、以智謀取勝的人。」
孔子が顔淵に言った。「重く用いられたときは才能を尽くして働き、重く用いられないときは爪を隠してくらます。私とお前だけができることだな。」子路が言った。「先生が兵を連れて戦をするとき、誰に補佐させますか?」孔子が言った。「素手で猛虎と戦い、裸足で川を渡り、死んでも悔いの無い人は、私には要らない。要るのは気を付けて事を行い、知謀で勝利を得る人だ。」
論語:語釈
子 謂 顏 淵 曰、「用 之 則 行、 舍 之 則 臧(藏)。唯(惟) 我 與 爾 有 是 夫。」子 路 曰、「子 行 三 軍、則 誰 與。」子 曰、「暴 虎 馮 河、死 而 無 悔 者、吾 不 與 也。必 也 臨 事 而 懼、好 謀 而 成 者 也。」
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”…だと言う”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
顏淵(ガンエン)
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。
「顏」(金文)
「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。
「淵」(甲骨文)
「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”用いる”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”…で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章、「則行」では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。「行三軍」では”薦める”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。字形は十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
舍(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”放置する”。「宿舎」のように”いえ”の意で用いられることが多いが、『字通』によると”捨てる”が原義だという。初出は甲骨文。新字体は「舎」。下が「𠮷」で「舌」ではない。字形は「𠆢」”屋根”+「干」”柱”+「𠙵」”くち=人間”で、人間が住まう家のさま。原義は”家屋”。春秋末期までの金文では”捨てる”、”与える”、”発布する”、”楽しむ”の意、また人名に用い、戦国の金文では一人称に用いた。戦国の竹簡では人名に用いた。
論語では全て”顧みない・置く・隠す”の語義で用いられる。漢文的には、ほかに”おく”の読みを記憶しておくと読みやすくなる。現行の「捨」の初出は後漢の説文解字で、それまでは「舎」が”すてる”の語義を兼任した。詳細は論語語釈「舎」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、「これを」ではなく「これ」と読んで”まさに”。直前の動詞を強調する。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義は”これ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
藏(ソウ)→臧(ソウ)
唐石経・清家本は「藏」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「臧」と記す。両字は事実上の異体字だが、時系列に従い「臧」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「藏」戦国末期金文
論語の本章では”隠す”。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。”隠す”の意味では論語時代の知漢候補もない。現行字形は「艹」+「臧」で、「臧」に「葬」”かくす”の音があり、草むらに隠すさま。原義は”仕舞い込む”。「ゾウ」は呉音。同音は無い。戦国中末期の竹簡に”仕舞う”と解せる例がある。詳細は論語語釈「蔵」を参照。
「臧」(甲骨文)
定州竹簡論語は「臧」と記し、論語の本章では”隠れる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「臣」”うつむいた目”+「戈」”カマ状のほこ”で、威儀を整え敬礼した近衛兵の姿。原義は”格好のよい”。甲骨文では”よい”を意味し、金文では”成功”(小盂鼎・西周早期)の意に用いた。楚系戦国文字でも同義に用いた。詳細は論語語釈「臧」を参照。
「臧」に”隠す”・”隠れる”の用例が見つからないことには、論語の本章は定州竹簡論語が埋蔵された漢代の創作であることの傍証になる。
惟(イ)→唯(イ)
(金文)
論語の本章では”ただ~だけ”。「ユイ」は呉音。初出は殷代末期の金文。ただし字形は部品の「隹」のみで、現行字体の初出は楚系戦国文字。戦国時代の金文に「惟」に比定されている字があるが、字形は「口」+「廿」+「隹」で、どうして「惟」に比定されたか明らかでない。金文では「唯」とほぼ同様に、”はい”を意味する肯定の語に用いられた。春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の意がある。詳細は論語語釈「惟」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語は「唯」と記す。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章、「與爾」では”~と”。「誰與」では”ともに”。いずれも並列の意。「弗與」では”味方する”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
爾(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”いる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”この”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では”…だなあ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
三軍*(サンクン)
論語の本章では、”全国軍”。ここでは漠然と、「軍を率いるなら」程度の発言。
漢儒がでっち上げた周代の礼法の規定では、天子は六個軍、大諸侯は三個軍、中諸侯は二個軍、小諸侯は一個軍を持つ。一軍は兵力一万で五旅からなり、一旅は十卒、一卒は四小戎、一小戎は十伍、一伍は五人から成る。
そもそも「天子」という言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
孔子の母国である魯は、論語当時では中程度の国だったが、立国当初は君主に周王の弟で摂政を務めた周公旦を据えた大国だったので、三軍を持った。一方当時の大国である晋は六軍を持っていた。
魯国軍は論語の時代、すでに三軍の半分を家老家筆頭の季氏が持ち、残りを叔孫氏と孟孫氏が半分ずつ分け合った。
「三」(甲骨文)
「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照
(金文)
「軍」の初出は春秋末期の金文だが、一説に部品として西周の金文にも見える。「グン」は慣用音で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)でも呉音(それ以前に日本に伝わった音)でも読みは「クン」。初出の字形は「勹」”包む”の中に「車」であり、戦車に天蓋ととばりを付けた指揮車を示すか。詳細は論語語釈「軍」を参照。
誰(スイ)
「誰」(金文)
論語の本章では”だれ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は字形は「䇂」”小刀”+「𠙵」”くち”+「隹」だが由来と意味は不詳。春秋までの金文では”あお馬”の意で用い、戦国の金文では「隹」の字形で”だれ”を意味した。詳細は論語語釈「誰」を参照。
暴(ホウ/ホク)
(甲骨文)/(秦系戦国文字)
論語の本章では”トラに殴刂かかる”。「ビウ」は呉音。”乱暴”の意での漢音は「ホウ」、”天日に曝す”の意では「ホク」。始皇帝の統一によって全く字形が変わった字で、甲骨文から金文まではトラに長柄武器で打ちかかる様だったのが、戦国の竹簡で上に「盍」”ふた”が加わり、天下統一と共に天日で穀物を干す現伝字形に置き換わった。西周の金文で”乱暴”の用例を確認できる。詳細は論語語釈「暴」を参照。
虎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”トラ”。字形はトラの象形。詳細は論語語釈「虎」を参照。
馮(ヒョウ/ホウ)
(金文)
論語の本章では”川に足を突っ込んで渡る”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。初出は春秋時代の金文。字形は脚に保護具を取り付けた馬のさまで、原義は”補助する”。春秋末期までに”補助するもの”・人名の用例がある。「かちわたる」の語釈を『大漢和辞典』が載せるが、出典は前漢の『爾雅』。詳細は論語語釈「馮」を参照。
東洋文庫蔵清家本など日本伝来の古注系論語では「憑」と記す。初出は戦国中末期の竹簡で、しかも字形が全く違う。論語時代の置換候補は無い。定州竹簡論語が「馮」と記すため校訂しなかった。文字的には詳細は論語語釈「憑」を参照。
河(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”黄河”。「ガ」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「人」が含まれており、その多くが首かせを付けられている。人をいけにえにして投げ込む大河のことで、具体的には洪水を繰り返す黄河を指す。甲骨文の例では「燎」”火あぶり”にしたあと「牢」”動物の生け贄”を川に投げ入れ、さらに奴隷の羌族を十人投げ入れようか、と占っている。華北文明圏では主流である黄河を「河」と呼び、華南文明圏では主流の長江を「江」kŭŋ(平)と呼んだ。黄河文明圏の産物である『論語』には「河」は出てきても、「江」はただの一字も出てこない。詳細は論語語釈「河」を参照。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死ぬ”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…すると同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…がない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
日本語の「無い」は形容詞だが、漢語の「無」は動詞。
悔(カイ)
(晋系文字)
論語の本章では”後悔”。初出は甲骨文。春秋時代の字形は「每」(毎)+「心」で、心を暗くするさま。原義は”悔いる”。未来を気にかける「憂」に対して、過去への後悔を言う。『字通』によると、甲骨文では部品の「每」で”くやむ”を表したという。詳細は論語語釈「悔」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。新字体は「者」。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
弗(フツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
「弗」の語法には時代性がある。
『学研漢和大字典』
漢代以前は、「弗+動詞」=「不+動詞+之」と目的語を省略した動詞の否定の場合に用いる。漢代以後は、「不」と同じ用法で、形容詞や動詞を否定する。
つまりここでは、「死して悔いなき者」を示すべき「之」の類が省かれている。言い換えると、「不(動詞)之」よりもぶっきらぼうな物言いであり、もし本章が史実とするなら、孔子が子路をたしなめるにはふさわしい。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「弗與也」「成者也」では「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。「必也」では主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
臨(リン)
(甲骨文)
論語の本章では”見守る”→”…を目の前にする”。字形は大きな人間が目を見開いて、三人の小人を見下ろしているさま。原義は”下目に見る”・”見守る”。金文では原義に用いられ、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「臨」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”解決すべき出来事”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。
懼(ク)
「懼」(金文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”おそれる”。「グ」は呉音。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「忄」+「瞿」で、「瞿」は「目」二つ+「隹」。鳥が大きく目を見開くさま。「懼」全体でおそれおののくさま。原義は”恐れる”。戦国の金文でも竹簡でも原義に用いた。詳細は論語語釈「懼」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
謀(ボウ)
(金文)
論語の本章では、”たくらみ”。初出は西周早期の金文で、ごんべんが付いていない。「謀反」の「ム」の読みは呉音。原義は”梅の木”。初出の金文は”たくらむ”と解釈されており、論語の時代までには他に人名に用いた。”なにがし”の語義があった可能性がある。詳細は論語語釈「謀」を参照。
「梅」の部品である「每」(毎)は、海(海)”深くて暗いうみ”・晦”くらます”の共通部品となっているように、原義は”暗い”こと。カールグレン上古音ではmwəɡ(上/去)であり、「謀」mi̯ŭɡ(平)と音素が50%共通し、頭と終わりが共通している。
「甘」(甲骨文)/「曰」(甲骨文)
甲骨文の時代、「𠙵」”くち”にものを含んでいる状態を「甘」kɑm(平)と記した。語義は”あまい”ではなかった。現在ではこの語義には「銜」ɡʰam(平)・「含」ɡʰəm(平)などの字がが当てられている。「楳」が”うめ”を意味するのはそのためで、梅mwəɡ(平)の実は酸っぱくて、しゃぶるのに適している。含んだものを表に表すのを「曰」gi̯wăt(入)と記し、”言う”の意で用いた。
対して「甘」は黙ったままでいること。「某」məɡ(上)は自分の名を黙って告げない者。
成(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”成し遂げる”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「用之則行,舍之則藏,唯我與爾有是夫。」は前漢初期の『新語』が再出とされるが、『新語』そのものに後世の偽作説が有り、確実な再出は前漢中期の『史記』弟子伝。「子行三軍,則誰與。」の再出は後漢初期の『白虎通義』。「暴虎馮河」の再出は南北朝の『後漢書』。「死而無悔者、吾不與也。必也臨事而懼、好謀而成者也。」は先秦両漢に全く引用が見られない。
文字史からも論語の時代に遡れず、論語の本章は前漢前半までに漢儒の手によって偽作されたと考えるのが筋が通り、顔淵(顔回)神格化を図ったのが董仲舒であることから、おそらく偽作者は董仲舒。論語為政篇9解説を参照。
解説
論語の本章の元ネタは、論語公冶長篇20「政道がまともなら賢者として仕官し、まともでなければバカのふりをして丸く収めた。賢者の真似は誰でも出来るが、バカのふりは真似できない」。これを漢儒が顔淵神格化に利用したのだが、見え透いておりあまり上手とは言えない。
本章はそうした儒者の愚劣さの一つの側面を捉えている。総じて儒者はひ弱であり、体を使うことや肉体労働する者をひどくいやしんだ。孔子一門きっての政治の達者である子路も儒者の魔の手にかかり、ただの乱暴者として描かれることが多い。乱暴者に政治は務まらない。
子路は衛の霊公から、たびたび反乱を起こす面倒くさい住人が住む蒲のまちを押し付けられており、当時の殿様としては非常に優秀な霊公でも手放すほどのまちを、孔子の入れ知恵はかりたものの、代官ではなく領主としてみごとに治めきっている。乱暴者にできることではない。
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)
また、本章でも顔淵を孔子と同級に引き上げる記述により神格化が行われているが、論語為政篇9で検討したように、顔淵神格化は漢代に始まる。従って論語の本章は、文字的に孔子生前まで遡れないばかりか、内容的にもあり得ない話だと言っていい。董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。
既存の論語本では吉川本で、一軍を一万二千五百人とする。だが当時の兵法書では編成に違いがあり、上掲の語釈は『国語』斉語の記述による。論語と同時代の『孫武兵法』では同じく一万だが、『太平御覧』の記述では吉川本の通りになる。ただし『孫武兵法』では別に輜重部隊を数えるので、『太平御覧』とほぼ同じになると考えていい。
なお孔子は弓術など古人武芸にも優れていたが、戦術戦略に当たる兵法も心得ていた事が、弟子の冉有(冉求)の証言から分かる。東方の大国・斉の侵略軍を撃退した冉有が、家老にどこで戦術を学んだかを聞かれ、孔子から教わったと答えた話が、『史記』・『左伝』に見える。
余話
孔子は楚国に行かなかった
孔子は生まれ育った華北だけでなく、亡命中は華中の陳・蔡国に滞在し、楚の昭王に会いに出掛けたが、王の死去で果たせなかったとされる。また川を渡ろうとして渡し場を地元の農夫に尋ねる話が論語微子篇6にあり、この話は楚国での出来事だという儒者や漢文業者がいる。
だが上掲の通り、論語に長江を示す「江」の字が、ただの一つも出ない。弟子の子貢は長江より南の越や、長江下流の呉に出掛けているが、孔子が長江流域にまで足を伸ばしたのなら、「江」について一つは言及があってもよいはず。従って孔子楚に行った説には疑いがある。
孔子の、楚の領域内にある大名だった葉公との対話は論語子路篇16に、子路が葉公への使いに出た話が論語述而篇16にあるが、ドロボーだろうと親子同士なら隠し合うものだと葉公に説教した論語子路篇18の話は、後世の創作が確定している。
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