論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
長沮、桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、「夫*執輿*者爲誰*。」子路曰、「爲孔丘。」曰、「是魯孔丘與。」對*曰、「是也。」曰*、「是知津焉*。」
(次回に続く)
校訂
武内本
史記世家夫を彼に作り、漢石経輿を車に作り、誰下子の字あり。蓋し夫彼同義、輿車通用、誰子当に誰乎に作るべし。唐石経對の字なく漢石経是の下也曰の二字なく、史記世家是也を然に作る。唐石経、焉を矣に作る。
後漢熹平石経
…孔子過…執車者爲誰子子路白爲孔丘白是魯孔丘與白是是知津矣
- 「丘」字:〔八丨丨一〕。
- 「是」字:上下に〔日一乙〕。
- 「知」字:〔土八口〕。
定州竹簡論語
……車a者為誰子b?」子路557……孔丘。」曰:「是魯558……
→長沮、桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、「夫執車者爲誰子。」子路曰、「爲孔丘。」曰、「是魯孔丘與。」對曰、「是也。」曰、「是知津焉。」
復元白文(論語時代での表記)
耦耕
※桀→(古文)・焉→安。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は少なくとも導入部が、戦国時代以降の儒者による加筆である。
書き下し
長沮桀溺耦び而耕す。孔子之を過ぐるに、子路をして津を問はしめ焉り。長沮曰く、夫の車を執る者は誰れの子とか爲す。子路曰く、孔丘と爲す。曰く、是れ魯の孔丘與。對へて曰く、是なり。曰く、是れならば津を知ら焉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
長沮と桀溺が並んで耕していた。孔子(の一行)がそのかたわらを通り過ぎ、子路に渡し場を尋ねさせたという。長沮が言った。「あの馬車の手綱を取っている者はどこのお方だというのか。」子路が言った。「孔丘です。」(長沮が)言った。「これは魯の孔丘か。」答えて言った。「そうです。」(長沮が)言った。「それならば、渡し場を知っているに違いない。」
意訳
隠者の長沮と桀溺が、並んで耕していた。そこへ孔子の一行が通りがかり、孔子は子路に渡し場を聞かせた。
長沮「あの馬車の手綱を取っているお人は誰かね。」
子路「孔丘ですが。」
長沮「ほう、そりゃ”貴族成り上がり塾”で世間師稼業を開帳している、魯の孔丘かね。」
子路「そうです。」
長沮「その先生なら、渡し場ぐらいご存じだろうて。」
従来訳
長沮と桀溺の二人が、ならんで畑を耕していた。巡歴中の先師がそこを通りがかられ、子路に命じて渡場をたずねさせられた。すると長沮が子路にいった。――
「あの人は誰ですかい。あの車の上で今手綱をにぎっているのは。」
子路がこたえた。――
「孔丘です。」
長沮――
「ああ、あの魯の孔丘ですかい。」
子路――
「そうです。」
長沮――
「じゃあ、渡場ぐらいはもう知っていそうなものじゃ。年がら年中方々うろつきまわっている人だもの。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
長沮、桀溺一起耕田,孔子路過,讓子路詢問渡口。長沮說:「駕車人是誰?」子路說:「是孔丘。「是魯國孔丘嗎?「是。「他天生就應該知道渡口在那裏。」
長沮と桀溺が一緒に畑を耕していた。孔子は道を通り過ぎ、子路に川の渡し場を問わせた。長沮が言った。「車を操っている人は誰だ?」子路が言った。「孔子です。」「それは魯国の孔丘のことか?」「そうです。」「彼なら生まれつき、渡し口がどこにあるかなど知っているに違いない。」
論語:語釈
長 沮、桀 溺 耦 而 耕。孔 子 過 之、使 子 路 問 津 焉。長 沮 曰、「夫 執 車(輿) 者 爲 誰 子。」子 路 曰、「爲 孔 丘。」曰、「是 魯 孔 丘 與。」曰、「是 也。」曰、「是 知 津 焉(矣)。」
長沮・桀溺
論語の本章では人名。「長」「沮」の字は甲骨文から、「桀」の字は秦系戦国文字・古文から、「溺」の字は金文から見られる。ただし「沮」の字は金文~古文まで見られなくなる。「桀」は夏王朝を滅ぼした暴君の名でもあるが、文字から言ってその伝説は存外新しい。
「沮」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると且(ショ)は、物を積み重ねたさまを描いた象形文字。沮は「水+(音符)且」の会意兼形声文字で、水が重なってひかない湿地。また、阻(石や土を重ね積んで、行く手をはばむ)と同じに用いる、という。詳細は論語語釈「沮」を参照。
「桀」は論語では本章のみに登場。初出は晋系戦国文字。論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音や近音の全てが論語時代の置換候補になりうる。『学研漢和大字典』によると「両あし+木」の会意文字で、罪人をしばって木の上にのせ、はりつけにしたさまをあらわす。高くかかげて目だつ意を含む、という。詳細は論語語釈「桀」を参照。
「溺」は論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』によると「水+(音符)弱」の会意兼形声文字で、弱の字は、弓を二つ並べたさまで、なよなよと曲がった意を含む。水でぬれて、柔らかくぐったりとなること。また、尿に当てる、という。詳細は論語語釈「溺」を参照。
『論語集釋』に引く宋儒・金履祥『論語集注考証』には次のように言う。
長沮も桀溺も、どちらも氵がある。そして子路が渡し場を聞いただけで、どうしてその名が分かろう。おそらく二人の名はもののたとえに過ぎず、論語の他章で「荷蕢」”もっこかつぎ”(論語憲問篇42)、「晨門」”門番”(論語憲問篇41)、「荷蓧」”もっこ担ぎ”「杖人」”杖の人”(論語微子篇9)と書いてるたぐいと同じだ。
二人は並んで畑作していたが、一人は長”背丈が高い”で沮洳”びしょぬれ”で、もう一人は桀然”いさましい”として体が大きく、足を泥田にまみれさせていた。だからこういう名が付いた。
言っていることはその通りかも知れないが、個人の想像には違いない。
耦(ゴウ/グウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”並んで耕す”さま。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。「グウ」は慣用音、漢音は「ゴウ」、呉音は「ゴ」。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「耒(すき)+(音符)禺(グ)(人に似たさる、似た相手)」。似た者二人が並んですきをとること、という。詳細は論語語釈「耦」を参照。
ただしこの解釈は、古注の儒者がデタラメを言っていなければ、という心細い前提が必要になる。
註鄭𤣥曰長沮桀溺隱者也耜廣五寸二耜為耦(疏)耕用耒是今之鉤鎛耜是今之釋廣五寸五寸則不成伐故二人竝耕兩耜竝得廣一尺一尺則成伐也故云二耜為耦也
鄭玄「長沮桀溺は隠者である。農具のスキは幅が五寸(後漢の一寸は約2.3cm)で、スキを二本並べるのを耦という。」
付け足し。「耕やすにはスキを用いるが、これは今で言う鉤鎛である。スキは今の幅で言えば五寸である、五寸では畑をすき起こすのに十分ではない。だから二人が並んですき起こし、スキも二本並ぶから幅は一尺になる、一尺ならすき起こすに十分だ。だから二本のスキを耦といった。」(『論語集解義疏』)
付け足しを書いた南北朝時代の皇侃はもちろん、前漢末の鄭玄も、「耦」の意味は想像するしかなかったのだ。これは現代人が、皇侃の言う「鉤鎛」の姿が分からないのと同じである。
もっとも、「耦」」は「耒」(スキ)+「禺」(偶数・よせる)に分解できるから、まるまるの絵空事ではないにしても、「禺」には”オナガザル”・”人形”の語義もある。従って”かかし”と言い張ることも出来て、儒者の言い分が必ず正しい、とはここでも言いかねる。
子路
記録に残る中では、最も早く孔子に弟子入りした弟子の一人。弟子の歳年長であり、いささか武芸のたしなみがあったらしく、のちに樊遅が入門するまで、孔子の警護役を務めた。
ただし記録の限りでは、武人としての活躍は見られないが、腕利きの行政官だった史料はある。詳細は論語の人物・仲由子路を参照。
津
(金文)
論語の本章では”川の渡し場”。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。ただし字形は現行と異なり、つくりは鳥+舟になっている。下記する『学研漢和大字典』による字解は、おそらく金文を参照していない。
『学研漢和大字典』によると津の字の右側はもと「聿(手で火ばしを持つさま)+火(もえかす)」の会意文字で、小さい燃えかす。または、「聿(手でふでを持っているようす)+彡(しずくがたれるしるし)」の会意文字で、わずかなしずく。
津はそれにさんずいを加えた会意兼形声文字で、水が少なく、尽きようとしてたれることを示す。のち、うるおす、しめった浅瀬などの意を派生した、という。詳細は論語語釈「津」を参照。
焉・也
論語の本章では「問津焉」「知津焉」で”…であるという状態にある”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。近音の安は、『大漢和辞典』に「然の意」とあり、「焉」”である”と通じる。詳細は論語語釈「焉」を参照。
「也」の初出は春秋時代の金文で、論語の時代に存在するのだが、出土品に句末で用いられた事例がない。従って句末の「也」は後世の付加ということになるが、「焉」と同様に、「…である」ことを念を押す言葉は、省いても文意が変わらない。ゆえに本章の内容そのものが後世の創作とは断じかねる。論語語釈「也」も参照。
執輿(シツヨ)→執車
「輿」(金文)
論語の本章では”馬車の手綱をとる”。「輿」はもと担いで人を乗せるかごやこしのことだが、乗り物一般を指す場合がある。論語の本章では、まさか担ぐ人に手綱を付けたわけではなく、馬車を少し気取って言う表現。現に定州竹簡論語では「車」になっている。論語語釈「輿」・論語語釈「車」も参照。
論語:付記
孔子の放浪中に、こうした場面があってもおかしくはないが、論語の本章の史実性について、武内義雄『論語之研究』では、内容が疑わしい章としている。もっともその疑義は、清儒の崔東壁の説を転記したものだから、儒者による道家への反発からと言えなくはない。
確かに固有名詞の漢字や、句末の助辞が論語の時代に遡れないが、固有名詞など何とでも表記できるし、句末の助辞の多くはなくても意味が変わらない。従って論語の本章の話そのものはあったと見ていいし、「魯の孔丘か」と聞いていることから、外国での話と分かる。
ただし前章が楚での話だったからと言って、本章もそうであるとは言えない。長沮と桀溺が隠者だというのはそうだろう。長沮(どこまでも続くぬかるみ)・桀溺(簀巻きにされて川に放り込まれる)などといった名は、世をすねていないと名乗ったり呼ばれたりしないだろうから。
桀溺にはもう一つ、「磔台から立ちションベン」という大胆不敵な解釈も出来る。「世間様のおかげです」と言い暮らした普通の人ではやはりない。孔子の時代は身分の入れ替わりが激しく、その口火を切ったのが孔子でもあるが、身分を落とすすね者も少なくなかったろう。
いずれにせよ両人の名が本物かはどうでもよく、要するに無名のすね者だった。
だがそれゆえに、論語の本章が孔子放浪の末期だったことを想像させる。孔子は55で放浪に出、各国で政府転覆を謀って追い出され、政治いじりに飽きて68で魯国に戻った。その途中のいずれかで、「これからは弟子育成に専念しよう」と言い出した(論語公冶長篇21)。
孔子の教説は、礼=貴族にふさわしい技能と教養を教えて、平民を貴族に成り上がらせることだが(→論語における君子)、長沮はかつて貴族だったか、平民ながら貴族を目指して勉学と稽古に励んだ時期があったのだろう。だがそれらの夢が破れた結果、隠者となったに違いない。
「礼など身につけても、何の役にも立たなかった。」それを思い知っているからこそ、孔子を孔子と知って「誰子」(どこのお方)と問い、「孔子先生なら渡し場ぐらい知っているだろう」とイヤミを言った。それは儒者の言うような、儒と道の対立や、頭の悪さが原因ではない。
閲覧者諸賢におかれては、長沮の思いを酌んで頂けると存ずる。
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