論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子食於有喪者之側未甞飽也子於是日哭則不歌
校訂
東洋文庫蔵清家本
子食於有喪者之側未甞飽也子於是日也哭則不歌
後漢熹平石経
子食…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日也哭、則不歌。
復元白文(論語時代での表記)
※哭→(甲骨文)。論語の本章は「未」「嘗」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子喪有る者之側於食はば、未だ嘗て飽かざる也。子是の日於也哭かば、則ち歌は不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生は喪中の人のそばでは、これまで飽きるほど食べたことがない。先生は死者への礼として泣いたまさにその日は、歌わなかった。
意訳
先生は葬儀に呼ばれてガツガツ食わない。葬儀に出向いた日には歌わない。
従来訳
先師は、喪中の人と同席して食事をされるときには、腹一ぱい召しあがることがなかった。先師は、人の死を弔われたその日には、歌をうたわれることがなかった。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有戴孝人在旁時,孔子從未吃飽過。子於是日哭,則不歌。
喪服を着た人のそばでは、孔子は厭きるほど食べたことが無い。先生は泣きの礼を行った日には、必ず歌わない。
論語:語釈
子(シ)
「子」
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
食(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”食べる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「亼」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”ある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
喪(ソウ)
(甲骨文)
論語の本章では”葬儀”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
側(ソク)
(金文)
論語の本章では”そばで”。初出は西周末期の金文。字形は「亻」”ひと”二人が「鼎」”三本足の青銅器”を間に挟んでいる姿で、”すぐそば”の意。西周末期の金文に”側仕えの”の用例がある。詳細は論語語釈「側」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
嘗(ショウ)
(金文)
論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。
飽(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では”飽きる・満足する”。初出は甲骨文。字形は、飯を盛ったたかつき「豆」に人が上から蓋をする形。”お腹いっぱい、ごちそうさま”の意だろう。「豆」の甲骨文には、蓋を描いたものとそうでないものが混在する。部品の「包」にも”みちる”の意がある。詳細は論語語釈「飽」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「飽也」では「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。「日也」では「なり」と読んで主題の強調。”…はまさに”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
唐石経、その系統を引く宮内庁蔵南宋版『論語注疏』、現伝論語では、「日也」の「也」は見えないが、古注と清家本、正平本にはあり、隋から唐にかけて脱落したと思われる。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
是(シ)
(金文)
論語の本章では”この”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
日(ジツ)
(甲骨文)
論語の本章では”ひにち”。初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。
哭(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”葬礼で泣く”。初出は甲骨文。字形は中央に犠牲獣の「犬」+「𠙵」”くち”二つで、犬を供え物にして故人の冥福を祈ること。同形の「器」より「𠙵」の数が半分であることから、より小規模な祭祀を言う。類義語の「喪」は現行字体は「𠙵」が二つだが、甲骨文では一つ~四つと安定しない。甲骨文では地名、”泣く”に用いる。「在线汉语字典」「国学大師」に金文を載せるが出所が不明。それ以降は戦国時代の竹簡に”なく”の用例がある。詳細は論語語釈「哭」を参照。
現伝儒教では、大声を上げて泣き叫ぶのを「哭礼」といって作法とするが、春秋時代にその作法があったかどうかは定かではない。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
歌(カ)
余贎乘兒鐘・春秋晚期
論語の本章では”歌う”。初出は春秋末期の金文。ただし字形は「謌」または「訶」。「訶」は『大漢和辞典』は”うた”ではなく”しかる”の意とするが、春秋末期に“うたう”の用例がある。現行字体の初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。字形は「言」”声を出す”+「哥」(音符)。「哥」に”こえ・うた”の語義はあるが、初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。「謌」の略体と思われる。現行の字形は「哥」”うた”+「欠」”口を開けた人。同音に「柯」”斧の柄”・「哥」”こえ・うた”・「哿」”よい”・「笴」”矢柄”。春秋末期の用例に”おと”・”うたう”がある。詳細は論語語釈「歌」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は定州竹簡論語には無いが、文字史上は論語の時代に遡れ、内容的にも後世の偽作を疑う要素が無い。前漢中期の『史記』孔子世家には「食於有喪者之側,未嘗飽也。是日哭、則不歌。」と全文を引用し、それまでには成立していたと思われる『小載礼記』檀弓上72に、「食於有喪者之側,未嘗飽也。」と論語の一部を引用している。
解説
孔子塾の財政は厳しく、弟子は普段の生活費稼ぎのためにも、葬礼があると呼ばれて祭司を務めた。要するに現代日本の坊さんである。孔子が葬儀の祭司を務めたという記録はないが、もしあったとすれば、まるで大僧都大阿闍梨の引導による国葬の如き盛観だったろう。
少なくとも前近代の中国人の死生観は日本人とは違っていて、死んでも生活の場をあの世へ移すだけと考えていた。それゆえ生活用具や仕える殉葬者を棺と共に埋めるのだが、論語の時代には生活用具は明器と呼ばれた模型に取って代わられ、殉葬も廃れつつあった。
その代わりに出現したのが俑=土人形だが、人の代わりをする俑を孔子は逆に考えて、俑を作るから人を生き埋めにするようになるのだ、と怒っている。
孔子が言った。「自分のために副葬品を作らせた者は、葬儀の何たるかをきっと知っていたのだろう。作らせても実用品ではなかった」。悲しいことだ、死者が生者の道具を使うとは。生者を殉葬するのとほとんど同じだ。そもそも明器とは、神の明らかに見通す力そのものだ。車のはにわ、お供えのわら人形、これらが昔からあるのは、副葬品のあるべきことわりを示すものだ。だから孔子は言った、「つたないわら人形を作らせた者はよろしい。だが写実的な土人形を作らせた者には仁の心がない。いずれ本物の人を生き埋めにするようになるぞ!」(『礼記』檀弓下)
なお皇侃の『論語義疏』によると、本章はもと文が違っていたという。
(現伝)子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日哭、則不歌。
(古本)於是日哭、則不歌。不食於喪側。
是の日於哭かば、則ち歌わ不。喪の側於食わ不。
また本章そのものが、前漢武帝の時代に発掘された、古論語にはなかったという。
ところで孔門十哲の一人である子游は、彼自身はどうだったか分からないが、その派閥は開き直って冠婚葬祭業に徹し、「この日に哭いて歌い、喪の側で飲み食いした」と荀子が証言している。
偷儒憚事,無廉恥而耆飲食,必曰君子固不用力:是子游氏之賤儒也。
どこかで葬儀があると聞けば、大喜びでわらわらと集まってきて、恥知らずにも腹が膨れるほど飲み食いし、「君子たるもの、力仕事なんかしない」と言い張る。これが子游氏の系統である腐れ儒者どもだ。(『荀子』非十二子篇)
余話
食は六芸でない
論語の本章には「食」と「歌」が出る。孔子塾の必須科目だった六芸は、礼(貴族の一般常識)、楽(音楽)、書(古典)、射(弓術)、御(馬車術)、数(算術)であり、「歌」は「楽」の一部だが、早くからその経典『楽経』は散逸したと言われ、もともと無かったのかも知れない。
漢儒は孔子や聖人周公が書いたとして数多くの儒教経典を偽作したが、「楽経」の再建を試みなかったのは、音楽の才能のある者がいなかったからだろう。その代わりを歌詞集『詩経』が勤めることになり、文学オタクである漢儒にとってはその方が好みに合っただろう。
だが「食」は六芸に入らず、『食経』なるものが先秦両漢に成立していた話を聞かない。古代だから「腹が膨れればええじゃろ」という発想で、食べ物にあきることも「飽」(めし茶碗に蓋をして”もう結構”を示した。語釈)の字は甲骨文からあるが、通常は「厭」の字を使う。
この字は”脂っこいものにあきる”の意で、人口に対して十分な炭水化物が行き渡っていなかった事情を想像させる。今となっては想像しがたいが、人類が食糧危機を解決できたのは20世紀にハーバーボッシュ法が実用化されてからで、訳者の親の世代は餓死者を実見している。
話を論語に戻すなら、孔子は手ずから料理は出来たろうが、当時の貴族の必須教養ではなかったから、六芸に入れず教えなかった。めしはかみさんか使用人が作るもので、あり合わせの材料から好みの食いたいものを言えばそれで良かった。
論語郷党篇8には孔子の食の好みが記されているが、文字史から後世の偽作が確定しており参考にならない。春秋時代の段階では、食が健康を左右する重大性を理解できなかったのだろう。中国古典新書『食経』の前書きに次のように言うのは、漢文業者らしい大げさである。
周末から秦・漢に至る諸儒の礼に関する説を集めた『礼記』や『周礼』、または、孔子・孟子の言行録である『論語』や『孟子』を初めとする中国の古典には、「食」に関する記述が多く散見する。それらの記事に拠っても、中国で如何に「食」を重んじていたかが知られる。(中村璋八・佐藤達全『書経』)
食の不足は誰にとっても死活問題で、少しでも不安があれば恐慌に陥って政治的に極めてまずいから、食を重視しただけだ。その問題と、食はどうあるべきか、どうすべきか、どう資するかを考えるのは全く違う問題で、儒者や漢文業者に論理能力を期待するのは間違っている。
同書は偽作が確定した論語郷党篇を長々と引用した後で、『周礼』に「食医」の規定があると言い、「現代の栄養士に相当する」という。だが、『周礼』を「周末から…に至る諸儒の礼に関する説を集めた」と書きながら、漢儒の偽作である『周礼』を信用する矛盾に陥っている。
これが日中台の漢文業界に染みついている、漢籍の本質的な虚偽に気が付けないか、付かない振りをする座敷わらしであり、IT出現の今はそうした漢文業者に頼らず自分で原文を読んだ方がいい。中国哲学書電子化計画で引く限り、「食経」の初出は後漢滅亡後の「抱朴子」。
その中に「日月廚食經」とあり、日月厨なる人物が記した『食経』がすでにあったと記されている。日月厨とは”毎日調理に従う料理人”の意で、高い身分の者ではなく、名もなき料理人が一生懸命字を覚えて書いたのだろう。もちろん現存せず、何が書いてあったか分からない。
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