論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
𦯧公語孔子曰吾黨有𥄂躬者其父攘羊而子證之孔子曰吾黨之𥄂者異於是父爲子隱子爲父隱𥄂在其中矣
- 「𦯧」字:〔艹〕→〔十十〕。
校訂
武内本
唐石経、葉を𦰧に作る。釋文云、躬鄭本弓に作る。
東洋文庫蔵清家本
葉公語孔子曰吾黨有𥄂躬者/其父攘羊而子證之/孔子曰吾黨之𥄂者異於是父爲子隱子爲父隱𥄂在其中矣
- 「葉」字:〔艹〕→〔十十〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……公語孔子曰:「吾黨有直弓a者,其父襄b羊,而345……曰:」吾黨之直者……為子隱,子為父346……
- 弓、今本作”躬”、釋文云、”鄭本作弓”。
- 襄、今本作”攘”、襄借為攘。
標点文
葉公語孔子曰、「吾黨有直弓者、其父襄羊、而子證之。」孔子曰、「吾黨之直者異於是。父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣。」
復元白文(論語時代での表記)
黨 證
※「隱」→「陰」。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「語」「異」「爲」字の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
葉公孔子に語げて曰く、吾が黨に直弓といふ者有り、其の父羊を襄み而、子之を證す。孔子曰く、吾が黨の直き者は是於異なれり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す、直きこと其の中に在り矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
葉公が孔子に語った。「我が領民に直躬という者がいて、父親がヒツジを盗んだら、子なのにそれを証言した。」孔子が言った。「私の地元の民は違いますな。父は子をかくまい、子は父をかくまう。正直とはきっとそういうことです。」
意訳
葉公「我が領民は正直者でござってな、正直者で評判の躬という子供が、裁判で”ヒツジを盗んだのはうちの父ちゃんです”と証言したものでござる。」
孔子「それがしの田舎では違いますな。父と子で互いの悪事をかばい合う。それがきっと本物の正直でござるよ。」
従来訳
葉公が得意らしく先師に話した。――
「私の地方に、感心な正直者がおりまして、その男の父が、どこからか羊が迷いこんで来たのを、そのまま自分のものにしていましたところ、かくさずそのあかしを立てたのでございます。」
すると、先師がいわれた。――
「私の地方の正直者は、それとは全く趣がちがっております。父は子のためにその罪をかくしてやりますし、子は父のためにその罪をかくしてやるのでございます。私は、そういうところにこそ、人間のほんとうの正直さというものがあるのではないかと存じます。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
葉公對孔子說:「我家鄉有正直的人,父親偷羊,兒子告發了他。」孔子說:「我家鄉正直的人不同:父為子隱瞞,子為父隱瞞,正直就在其中了。」
葉公が孔子に言った。「私の故郷には正直者がいて、父親が羊を盗むと、その子が彼を訴えた。」孔子が言った。「私の故郷の正直者は違う。父は子をかくまい、子は父をかくまう。正直は必ずきっとその中にある。」
論語:語釈
葉公(ショウコウ)
論語では、楚の王族で楚王の諸侯の一人。詳細は論語述而篇18語釈を参照。
(金文)
「葉」の初出は春秋時代の金文。ただしくさかんむりを欠く。字形は「木」に葉が生えた象形。春秋時代の用例では「世」と釈文されているが、”枝分かれ”→”家に伝える”とも解せる。戦国の竹簡では”葉っぱ”の意で用いた。詳細は論語語釈「葉」を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
語(ギョ)
(金文)
論語の本章では”対話して語る”。おしゃべりのついでに話すこと。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。「ゴ」は呉音。字形は「言」+「吾」で、初出の字形では「吾」は「五」二つ。「音」または「言」”ことば”を互いに交わし喜ぶさま。春秋末期以前の用例は1つしかなく、「娯」”楽しむ”と解せられている。詳細は論語語釈「語」を参照。また語釈については論語子罕篇20余話「消えて無くならない」も参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
論語の本章ではこのほかに、「子證之」「父爲子隱、子爲父隱」では”こども”の意で用いている。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたしの”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
黨(トウ)
(戦国末期金文)
論語の本章では”領民に”。初出は戦国末期の金文。新字体は「党」。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。ただし物証とは言えない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。字形は「𦰩」”みこの火あぶり”+「冂」”たかどの”+「⺌」”まど”または”けむり”で、屋内でみこを火あぶりにして祈るさま。原義はそのような儀式をする共同体。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”持つ”の派生義として”いる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
直(チョク)
(甲骨文)
論語の本章では”正直者の”。初出は甲骨文。「𥄂」は異体字。「ジキ」は呉音。甲骨文の字形は「丨」+「目」で、真っ直ぐものを見るさま。原義は”真っ直ぐ見る”。甲骨文では祭礼の名に、金文では地名に、戦国の竹簡では「犆」”去勢した牡牛”の意に、「得」”~できる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「直」を参照。
躬(キュウ)→弓(キュウ)
論語の本章では人名。現存最古の論語本である定州竹簡論語は「弓」と記し、唐石経・清家本は「躬」と記す。定州本の時代に「躬」字は存在するが、時系列に従い「弓」へと校訂した。
「直弓」で”正直者の弓”。というあだ名半分になるが、「直躬」の場合「直」は”正直”、「躬」は”身・率先して行う”の意だから、後漢の儒者が「弓」をもっともらしい姓氏に書き換えたことになる。「自分からハイハイと言い出す正直者」というあだ名に化けたのである。
独裁国家で、家族の犯罪を告発した子供が顕彰されることはよくあることで、スターリンもポルポトもそれをやった。だが中国では論語の本書の影響からか、寡聞にしてその話を聞かない。武内本は釋文の躬→弓を採用し、「弓は人名、弓という正直者なり」という。
なお論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(楚系戦国文字)
「躬」字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。この語義では、論語時代の置換候補は無い。字形は「身」+「呂」”背骨”で、原義は”からだ”。現行字形は「身」+「弓」で、体を弓のようにかがめること。英語のbowと同様。詳細は論語語釈「躬」を参照。
「弓」(甲骨文)
「弓」字の初出は甲骨文。字形は弓の象形。弓弦を外した字形は甲骨文からある。原義は”弓”。同音は無い。詳細は論語語釈「弓」を参照。
『大漢和辞典』に姓の一つとあり、『通志』氏族略を引いて、「弓氏、魯大夫叔弓之後」という。論語語釈「弓」も参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”という人物”。新字体は「者」(耂と日の間に点が無い)。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
父(フ)
(甲骨文)
論語の本章では”父親”。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
攘(ジョウ)→襄(ショウ)
論語の本章では、”盗む”。定州本では「襄」と記す。唐石経・清家本では「攘」と記し、論語では本章のみに登場。
「攘」(前漢隷書)
「攘」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は〔扌〕+〔襄〕”袖をまくり上げる”。腕で払いのけるさま。戦国時代から”盗む”・”取って食う”の意に用いた。詳細は論語語釈「攘」を参照。
尊王攘夷の「攘」。第一義は”手で押す”そして”打ち払う”だが、「纕」(腕まくりする)と音が同じなので”盗む”の意となった、と『大漢和辞典』に言うが、”腕まくり”から”盗む”までは、随分遠いような気がする。
「襄」(甲骨文)/(金文)
定州竹簡論語は「襄」と記す。初出は甲骨文だが、現行の字体と似ても似付かず、比定の理由はまるで分からない。甲骨文の字形は、頭に角状のかぶり物をかぶった人の姿。金文の字形は、「衣」にさまざまなものを「又」”手”で詰め込む様。上古音の同音に「纕」”うでまくりする・たすき”。「ジョウ」は慣用音。甲骨文には地名のほか”排除する”・”撃退する”の用例があり、西周の金文では人名・”高い”の意に用い、これ以降、春秋末期までの用例では、明瞭に読めるものでは器名または人名と解せる例しか無い。詳細は論語語釈「襄」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
證(ショウ)
(前漢隷書)/(後漢篆書)
論語の本章では”証言した”。正字「證」の初出は前漢の隷書(居延漢簡)。論語では本章のみに登場。新字体「証」の初出は後漢の説文解字。字形は〔言〕”ことば”+〔登〕”上に上げる”。言葉を申し上げてあかすこと。”いさめて誤りを正す”の意での漢音は「セイ」。同音に「蒸」、「烝」”蒸す”、「脀」”おろか”、「拯」”すくう”。「證」は戦国初期の『墨子』、中期の『荘子』、末期の『韓非子』に用例があるが、当時どのように記したのか明らかでない。戦国中末期の「包山楚簡」「郭店楚簡」では〔言山升〕の字形が「證」と釈文されている。
「証」は戦国最末期の『呂氏春秋』『戦国策』に用例があるが、当時どのように記されたかは分からない。詳細は論語語釈「證」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章、「證之」では”まさにそれ”。「吾黨之」では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
異(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”違う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭の大きな人が両腕を広げたさまで、甲骨文では”事故”と解読されている。災いをもたらす化け物の意だろう。金文では西周時代に、”紆余曲折あってやっと”・”気を付ける”・”補佐する”の意で用いられている。”ことなる”の語義の初出は、戦国時代の竹簡。詳細は論語語釈「異」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~とは”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”それ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~のために”。この語義は春秋時代では確認出来ない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
隱(イン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”かくす”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「阝」”階段”+「爪」”手”+「工」「尹」”筆を持った手”+「心」。高殿でこそこそと分からないように思うところを記す様。同音に殷”さかん”・慇”ねんごろ”と、隱を部品とした漢字群。戦国最末期の竹簡に「隱官」とあり、判決を受けた犯罪者がまだ捕まっていない累犯者を自分で捕まえるよう命じられることであるらしい。論語時代の置換候補は近音の「陰」。詳細は論語語釈「隠」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~にいる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
中(チュウ)
「中」(甲骨文)
論語の本章では”中央”→”~の中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”きっと~する”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、人情話でもあり史実と捉えたくなるが、文字史的にどうあっても春秋時代に遡れず、戦国時代以降の創作と断じるしかない。
解説
論語の本章の「正直者の躬」は、戦国中期の『荘子』、戦国末期の『韓非子』にも登場する。
直躬證父,尾生溺死,信之患也。
正直者の躬が親父の罪を証言し、女の子に逢い引きをすっぽかされた尾生が、約束した橋の下で洪水にやられて溺死したのは、信義がかえって人に害を与えた例である。(『荘子』盜跖2)
楚之有直躬,其父竊羊而謁之吏,令尹曰:「殺之,」以為直於君而曲於父,報而罪之。以是觀之,夫君之直臣,父之暴子也。
楚の正直者の躬が、「親父が羊を盗んだ」と役人に訴え出ると、宰相は「その小僧を殺せ」と命じた。正直が過ぎて親不孝になったので、その罪をとがめたのである。こうしてみると、君主にとっての正直な臣下は、父親にとっての乱暴者である。(『韓非子』五蠹8)
両方ともいつ記されたか確証はできないが、とりあえず戦国時代の作だとすると、そこに葉公も孔子も登場しない。すると論語の本章はこれらの寓話を元に、法家や道家に対抗するため、前漢の儒者が創作したのだと考えれば理が通る。
高校教科書的には、武帝以降の漢帝国は儒教国家だが、実情は全然違っていた。
景帝(=武帝の父)の母である竇太后は、老子の書を好んで読んでいた。あるとき儒教を奉じる生=学者の轅固を呼んで老子の書について意見を聞いた。
轅固「これは奴隷根性のたわごとです。」太后は真っ赤になって怒った。「お前を牢に放り込んで、毎朝城壁造りにコキ使ってやろうか!」というわけで固は牢に放り込まれ、それもイノシシの檻に入れられて戦うよう命じられた。(『史記』儒林伝)
陛下持刑太深,宜用儒生。」宣帝作色曰:「漢家自有制度,本以霸王道雜之,奈何純住德教,用周政乎!
のちの元帝(武帝より4代あと)が父親の宣帝に言上した。「父上は法家好みで、重い刑罰を科しすぎです。儒家をもっと重用なさいませ。」宣帝は真っ赤になって起こった。「このタワケめ、我が漢帝室には先祖代々のおきてがあり、覇道(=法家)を基本に道家を交えるものじゃ。あの道徳ばかり言いふらす儒家だけに頼って、政治が回ると思うてか!」(『漢書』元帝紀)
つまり儒家が寓話を利用して、法家や道家を排除する動機は十分にあったわけだ。
余話
信じがたい人間不信
論語の本章は、論語の中でも指折りに人の心に響くものを持っていながら、同時に中華文明の抜きがたい病巣を示してもいる。中華文明の特徴の一つは、他文化圏では信じがたいほどの人間不信で、それゆえにどこまでも身内びいきで、公共とか公平と言った概念が無い。
薄いのではなく存在しない。論語の本章を偽作した漢の儒者も同じで、社会の公正を保つための、誰もが服すべき法を忌み嫌い、身内への甘さがむしろ善とされた。一例が後漢時代の偽善的な「善政」である。なお日本の現行法も、家族をかくまった場合は罪に問われないらしい。
確かに法と刑罰でギリギリ社会を縛り上げるのは暴政に他ならないが、あまりに公正を欠いた社会は万人の万人に対する殺し合いになってしまう。中国社会とはそういうもので、だからこそ血縁で結びついた宗族を作り、一人が出世すると会ったことも無い親戚がタカリに来る。
その結果実入りのよい官職が、権力者の一族によってたちまち独占されるのは普遍的現象で、見知らぬ親戚を追い返しでもしようものなら、あることないことを言いふらされて、権力の座から引きずり下ろされる。権力者には常に政敵が居るからであり、それは皇帝も変わらない。
名君・清の康煕帝の太子ですら、おやじの皇帝を、「さっさと死ね」と思っていた。
総統も主席も変わらない。まるで乞食同然の言いふらし屋だろうと、政敵は大げさに仕立てて権力者を引きずり下ろすのである。他方で身より頼りの無い者は、そういう者同士が集まって幇(秘密結社)を作る。いわゆる青幇紅幇のたぐいだが、中国である以上必要なインフラだ。
権力にも宗族にも縁が無い者は、幇に頼らないと、よってたかっていじめ殺されるからで、「世界人民大団結万歳」とマルクスに煽られる二千年以上前から、中国人はつるむことの力を熟知していた。かつて猛威を振るった四人組も、中国語での呼称は四人幇である。
かように中国社会の苛烈さは、論語の時代も現在も、日本人の想像を超える。幇が趣味の会や仲良しグループと同時に、当然のように犯罪組織を兼ねている事実を、納得できるだろうか。中国社会から権力の家産化と幇を一掃するのは、日本でヤクザを根絶するより難しい。
だから団結の力を知らない中国支配下の少数民族は、現在ホロコーストの憂き目を見ているのだ。安易に中国を持ち上げる「中国通」は、中途半端にしか中国を知らないから暢気なことが言えるので、そういう連中にだまされないためには、日本人も中国を知る必要があろう。
中華文明は西欧文明と共に、古代に淵源を持ちつつ現存しているが、決定的な違いは1911年までただの一度も、共和政や選挙王政を経ず世襲帝政が続いたことで、理由は権力が言えばカラスも真っ白になる中国社会で、肉親以外に権力を委譲するなど思いも寄らなかったからだ。
王朝交代と共に、前王朝の末裔が一人残らず皆殺しになる中国社会では、他人に権力を譲れば自分と一族が根絶やしになる。だから共和政にならないのだが、その結果法は尊重されず、Salus populi suprema lex esto(人民の安寧こそ最高の法たるべし)も根付かなかった。
共和政とは誰を人民と呼ぶかの範囲に差はあるが、要するに民主政=多数による支配である。従って多かれ少なかれ、多数派である人民の安寧を至上課題にせざるを得ない。だが共和政を経ないでこの優先順序は根付きがたく、それは壊滅的な敗戦を経た日本人なら分かるだろう。
万機公論に決すべし。五箇条の御誓文にそう明記されていたのに、バカとクズどもがよってたかって無いことにした。始まりは𠮷外儒者の元田永孚であり、そのあとを東京帝国大学法科教授の上杉慎吉が継ぎ、玄洋社やらの頭の悪いゴミの集まりが、日本人皆殺しを推進した。
他方で辛亥革命と共和政を見て、当時の中国人は面食らい、中華民国大総統を、皇帝の異称として理解することにした。袁世凱が帝政を志向したのもそれゆえだ。現中国が誇大広告しているが、帝政反対運動の実体ははあまりに微弱で、大方の中国人には反対する理由がなかった。
帝政が撤回されたのはひとえに、列強が承認しなかったからであり、徴税能力を欠いた初期の中華民国政府は、列強の借款無しに政権を維持できなかった。だから帝政の代わりに軍閥政権が続いたが、蒋介石がその最後を飾れたのは、私兵の武力で塩税を徴収できたからだ。
ただし軍閥の支配は今なお続き、現中国は共産党軍閥という幇による独裁に他ならない。人民解放軍が国軍ではなく、共産党の私兵であることはよく知られている。国軍の私兵化は漢の武帝もやったことで、中国人と相性がいい。だから今後も中国の民主化などあり得ぬだろう。
共産主義という独自の教義を持つ幇が、一国を独裁支配している様は、ナチズムを教義とするナチ党が、ドイツを独裁支配したのとそっくりだ。ナチがドイツを壊滅的な敗戦へ追いやったのと同様、国民国家でもない現中国が、暴走し壊滅的に自壊する未来はあり得るけしきだ。
訳者が、誰それが共産党の序列何番とかいった、半可通が得意げに語る「中国情報」を下らないと断じる理由は以上の通りで、原則を分かっていない者が、朝夕変化する現状をいくら追いかけても、幇の連合体である中国の今や今後は分からないし、まして過去は分からない。
ゆえに幇は論語や孔子とも、無関係ではあり得ない。そもそも孔門が幇であり、春秋時代の身分秩序を破壊する犯罪組織を兼ねた。だから公冶長は収監されたのだ。そして孔子をシングルマザーの孤児から宰相へと押し上げたのも、新興氏族という幇だった(孔門十哲の謎)。
春秋時代の姓が、血縁を前提とする組織だったのに対し、氏が必ずしも血縁を必要としなかったのはそれゆえだ。つまり宗族だけでは社会的インフラとして不十分で、疑似宗族としての氏が姓を補完した。身寄り無き小悪党が集まった山賊は、それゆえ氏を名乗ったのである。
だから顔氏に属する孔子の母と幼い孔子は、無法地帯である上にトラ・ヒョウ・サイ・ゾウのうろつく中原を放浪できたし、成人後の孔子とその一門も、同じくサファリパークな旅が可能だった。事跡の伝わらない顔回が、なぜ神聖視されるかの元ネタは、この幇の力にある。
なお「共和」という言葉は周代の昔から中国語にあるが、実態は失政ゆえに国都を追い出された周の厲王に代わり、共和伯の和が政権を代行した摂政政であり、デモクラシーでも非君主制でもない。一説には周公と召公の合議による政治と言われるが、考古学的には信用できない。
最後に、論語の本章を元ネタにした笑い話を記しておく。
一婦攘鄰家羊一隻。匿之床下。嘱其子勿言。已而鄰人沿街呌罵。其子曰。我娘並不曾偷你羊。婦惡其惹事。以目睨之。子指其母言曰。你看。我娘這眼。活像床底下這隻羊。
(『笑府』巻十一・攘羊)
ある女が隣家のヒツジを一頭かっぱらった。ベッドの下に隠して、子供には黙っていろと言いつけた。隣のおやじが、「ヒツジがいなくなった! 誰が盗んだんだ!」と怒鳴りながら街路をやってきて、一軒一軒尋ねて回る。子供は「うちのお母ちゃんは、おじさんのヒツジを盗んでいません」と言う。母親が睨み付けると子供、「ほらこのお母さんの目、ベッドの下のヒツジにそっくりだよ」と言った。
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