論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子之燕居、申申如也、夭夭如也。
校訂
定州竹簡論語
[子]之燕a居也b,申申如也,沃沃c如[也]。142
- 燕、鄭本作「宴」、『後漢書』仇覧伝注引作「宴」。
- 也、今本無。
- 沃沃、今本作「夭夭」。
→子之燕居也、申申如也、沃沃如也。
復元白文
※燕→(甲骨文)。論語の本章は也の字を断定で用いている。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。
書き下し
子之燕居は、申申如也、夭夭如也。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生のくつろいだ姿はのびのびと、元気いっぱいだった。
意訳
同上
従来訳
先師が家にくつろいでいられる時は、いつものびのびとして、うれしそうな顔をしていられた。
現代中国での解釈例
孔子在家沒事時,衣冠整潔,悠閒自在。
孔子は家にいてすることの無いときも、衣冠は正しく綺麗に整え、ゆったりとしていた。
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
燕居
「燕」(甲骨文)
「燕」は「宴」と音が通じ、さらに「安」へと転用された。燕居は自宅などでくつろいでのんびり過ごすこと。「燕」は論語では本章のみに登場。
『学研漢和大字典』によると「燕」は象形文字で、つばめを描いたもので、その下部は二つにわかれた尾の形であり、火ではない、という。『字通』によると[象形]つばめの飛ぶ形。〔説文〕十一下に「玄鳥なり」とあり、燕燕・鳦(いつ)ともいう、という。
申申如也
「申」(金文)
「申」は”のびる”。申申如で、のびのびとすること。論語の時代では、「神」と書き分けられていない。
『学研漢和大字典』によると「申」は会意文字で、甲骨文字と金文とは、いなずま(電光)を描いた象形文字で、電の原字。篆文(テンブン)は「臼(両手)+┃印(まっすぐ)」で、手でまっすぐのばすこと。伸(のばす)の原字。電(のびるいなずま)・引(ひきのばす)・呻(シン)(声を長くのばしてうなる)・紳(からだをまっすぐのばす帯)などと同系のことば、という。詳細は論語語釈「申」を参照。
夭→沃
論語では本章のみに登場。夭のカールグレン上古音はʔi̯oɡまたはʔoɡ。沃”そそぐ・みずみずしい・若く美しい”はʔok。語末のgとkは入れ替えうるのだろう。
夭夭如也(ヨウヨウジョ)
「夭」(金文)
論語の本章では”若やいで元気がある”こと。「夭」の『大漢和辞典』での第一義は”わかい・若死に”。
『学研漢和大字典』によると象形文字で、人間のしなやかな姿を描いたもの。幼(細く小さい)・妖(ヨウ)(しなやかな女性)・優(しなやかな動作をする俳優)などと同系のことば、という。
『字通』によると象形文字で、人が頭を傾け、身をくねらせて舞う形。夭屈の姿勢をいう。〔説文〕十下に「屈するなり。大に從ふ。象形」とし、〔繫伝〕に「其の頭頸を夭嬌(えうけう)するなり」という。若い巫女が手をあげ、髪を乱して舞う形は芺(しよう)で、笑の初文。その前に祝詞の器である𠙵(さい)をおく形は若、ゆえに夭若の意がある。その祝詞を捧げて舞う形は呉、神を娯(たの)しませることをいう。若・呉には笑い娯しむ意がある。もと神を娯しませる意であった。また早折を夭といい、災いを殀(よう)という。その鬱屈の象をとるものであろう、という。
武内本には、「申申夭夭は和舒(=なごみゆるむ)の貌」とある。
論語:解説・付記
論語の本章は、上記の検証に拘わらず、ある仮定が真だとすれば、史実と言いうる。已zi̯əɡを後世の儒者が勝手に也di̯aと書き換えたなら、論語の本章は真である。
身長2mを超える大男だった孔子は、自宅でもじじむさく過ごしては居なかったとされたわけ。はだ脱いで、孔子塾でも必須科目だった、武術の稽古に励んだりもしただろう。孔子塾の必須科目は六芸と呼ばれ、礼法、音楽、古典、弓術、馬車術、算術だった。「礼楽書射御数」という。
射と御が入っている理由が、戦時には出陣する君子の必須技能だったことはすでに書いたが、弓と馬車術だけを教えたのでは、必須を満たしたことにならない。おそらくは車上で当時の主兵器だった戈(ほこ)の使い方も教えただろうし、近接戦闘に用いる剣術も教えただろう。
ただし馬も車も武器も高価だから、交代で稽古を進めたはず。さらに馬車については、戦車ではなく孔子が乗用に使った車の傘を外し、稽古したかも知れない。孔子は財産の点で山あり谷ありの生涯を送り、どうしても、と車を乞われて与えられなかった言葉が論語にある。
顔回が死去したときの話がそれで(論語先進篇7)、車を一乗しか持っていなかった時期があった。戦車と乗用車(乗車)は作りが違い、諸侯が会盟を催すときも、「兵車の会」と「乗車の会」は意義が異なった。もちろん乗車の会が、友好を深めるための会である。
論語の本章に話を戻すと、出仕せず、講義せず、稽古を付けていないとき=燕居の孔子のまわりには、弟子たちが集い、気ままにおしゃべりしている事が多かったようだ(論語先進篇12)。そういう時には、孔子は弟子たちを促して、思っていることを語るように言った。
後世まとめられた礼法書である『小載礼記』にも、「仲尼燕居」という一篇を設けて、弟子たちとのやりとりが記されている。このあたり論語に見られるように、孔子は黙っていることが出来ない性格で、弟子に言わせた言葉をきっかけに、長々と説教するのが好きだったようだ。
ただ弟子がそれを嫌がったなら、そもそも孔子のそばに寄ってこないはずで、「徳は孤ならず」(論語里仁篇25)は孔子のことでもあった。孔子は他の教師と比べると弟子に非常に恵まれており、それがのちの儒教の隆盛につながった。世にはいい組み合わせはあるものだ。