論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「德之不脩*、學之不講*、聞義不能徙*、不善不能改*、是吾憂也。」
校訂
武内本
清家本により、脩の下、講の下、徙の下、改の下、それぞれ也の字を補う。徙の字を從の字に作る。從、唐石経徙に作る。徙は改と韻をふむ。此本(=清家本)從に作るは誤なるべし。
定州竹簡論語
[子曰]:「德之不脩也,學之不[講]也,聞義不能徙也,[不善]140[不]能改也a,是吾憂也。」141
- 德之不脩也,學之不講也,聞義不能徙也,不善不能改也、阮本作「德之不脩、學之不講、聞義不能徙、不善不能改」、皇本与簡本同。
→子曰、「德之不脩也、學之不講也、聞義不能徙也、不善不能改也、是吾憂也。」
復元白文
※脩→攸・講→冓。論語の本章は、文末で也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
子曰く、德之脩まらざる也、學之講まざる也、義しきを聞いて徙る能はざる也、善からざるを改むる能はざる也、是れ吾が憂ひ也/也。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「全く人格が完成していない。全く学問を組み立てない。全く為すべき事を聞いても取りかかれない。全く能力が足りないのが改められない。これが私の心配事だなあ。」
意訳
隠然たるパワーが全然身に付かない。学問を少しも整理して話せない。やるべき事がどれも出来ない。無能がちっとも改まらない。これが私の心配事だよ。
従来訳
先師がいわれた。――
「修徳の未熟なこと、研学の不徹底なこと、正義と知ってただちに実践にうつり得ないこと、不善の行を改めることが出来ないこと。――いつも私の気がかりになっているのは、この四つのことだ。」
現代中国での解釈例
孔子說:「對品德不進行培養,對學問不進行鑽研,聽到好人好事不能跟著做,有了錯誤不能及時改正,這就是我所擔憂的。」
孔子が言った。「人品の修養が進まない、学問の研鑽が進まない、良き人良き行いを聞いて真似できない、間違いを起こしてその都度改めない、つまりこれらが私の悩みだ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
德(徳)
(金文)
何かしら道徳的なことではなく、人が無言の内に発する人格力、人の能力。詳細は論語における「徳」を参照。
脩(シュウ)
(金文)
論語の本章では”おさめる・会得する”。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音は声母のsのみで、sを声母に持つ漢字は膨大にある。藤堂上古音はsiog。修siog(カ音sのみ)と同音。ただし修の初出は後漢の『説文解字』。
『字通』でも原義を干し肉とし、声符の攸(ユウ)に”世を水で流す”みそぎ”の意があるとする。修はみそぎして修潔となったことを指し、脩と通用することが多いという。
「攸」に『大漢和辞典』は”おさめる”の語釈を載せ、甲骨文から存在する。
『大漢和辞典』の第一義は”ほじし”=干し肉。音から「修」に転用される。『学研漢和大字典』によると会意文字で、攸(ユウ)は、人の背に細ながく水を流すさま。脩は「肉+攸」で、細ながく引きさいた肉。秀(すらりと細ながい)・痩(ソウ)(細ながくやせた)などと同系のことば、という。詳細は論語語釈「脩」を参照。
也
文末の「也」は断定か詠歎、それ以外は主語の強調。詳細は漢字の通用と古書体についてを参照。
講
(金文大篆)
論語の本章では”組み立てる”こと。論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkŭŋで、同音に江・杠”よこぎ”・矼”飛び石”・虹。部品の「冓」kuに”組み立てる”の語釈を『大漢和辞典』が載せる。
「講」の『大漢和辞典』の第一義は”講話する”。『学研漢和大字典』によると意兼形声文字で、冓(コウ)は、上と下(向こうとこちら)を同じように構築した組み木を描いた象形文字で、双方が同じ構えとなるの意を含む。構(くみ木)の原字。講は「言+〔音符〕冓」で、双方が納得して同じ理解に達するように話すこと。
篝(コウ)(同じ構えに組んだかがり火の木)・遘(コウ)(双方から出てきてあう)などと同系のことば、という。
『字通』では形声文字で、声符は冓(こう)。冓は結合を象徴する組紐(くみひも)の形。〔説文〕三上に「和解するなり」という。その意には、古くは媾を用いることが多く、講和のために通婚することがあったのであろう。講は内部構造を解明することをいい、事理を通じ、事案を考えることをいう。ゆえに論講の意となる、という。
義
(金文)
”筋の通った正しいこと”と解しておくと、論語では大体通用する。詳細は論語語釈「義」を参照。
徙(ショウ)
(金文)
論語の本章では”行動に移す”こと。『大漢和辞典』の第一義は”移る・移す”。『学研漢和大字典』によると原義はすり足のように足をずらし進むこと。詳細は論語語釈「徙」を参照。
善
(金文)
”よい”ではなく、論語の本章では”有能”。『字通』による原義は神に愛でられること。
詳細は論語語釈「美」・「善」を参照。
論語:解説・付記
孔子は万能を自称しなかった(論語子罕篇6)。その意味で普通の人だった。しかし儒者は本章に別の意味を貼り付けた。万能の孔子ですらこのような謙虚を言う、凡人はもっと謙虚でなければならない、と他人に言った。批判のしようがない古人を持ち出す悪弊が生まれた。
だからといって、教師としての孔子の偉大さが損なわれるわけではない。孔子の責任ではないからだ。だが訳者の子供時代までは、この悪弊が残っていて、昔の人は偉かった式の説教を数多く聞かされた。変化のない時代だけに通用するやり方で、今はもう一掃されただろう。
子供たちや若手社員は言ってやれば良かったのだ。じゃあなんで戦争に負けたの? なんで業績が上がらないの? それにそのエラい人はあなたじゃない。あなたがそのエラい人同等の業績を挙げてからお話を伺いましょうと。組織では論理的に正しい事は通用しないものだ。
論語に話を戻すと、もし既存の論語本を買って読もうと思う場合、目の付け所が一つある。それは出来るだけ、漢語が日本語に直っていることだ。従来訳のように「修徳」「不善の行」といった漢語をそのまま用いて訳している本は、十中八九自分で訳していない。儒者の孫引き。
儒者だって嘘つきばかりではないから、儒者だから悪いとは言えない。しかし訳をする場合、儒者を参考にするまではいいが、儒者だって人間という事実を忘れてはいけない。辞書を引くのが面倒だからと言って、儒者のコピペをしたのでは、論語を訳したことにならない。
すなわち、読者に対して誠実ではない。なお既存の論語本では吉川本に、荻生徂徠は孔子自身の事ではなく、弟子の心配をしているのだと解したという。つまり吉川も、自分の言葉で語れるほど、本章について深く考えはしなかったのだ。役立たずな男である。