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論語詳解153述而篇第七(6)道に志し徳に拠り*

論語述而篇(6)要約:後世の創作。道徳にこころざし、道徳に行動原則を置き、いつも情け深さを心に抱き、孔子塾で教わる技術で暇つぶしをせよ、とニセ孔子先生。春秋時代の「芸」に”技術”の語義は無く、はじまりは戦国時代でした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰志於道據於德依於仁遊於藝

校訂

諸本

  • 武内本:魏書崔光伝此章を引く、子曰の下に士の字あり、礼記少儀に「士依於德、游於藝」とあると同一句法。
  • 京大蔵清家本・宮内庁蔵清家本・宮内庁蔵宋版論語注疏・国会図書館蔵正平本・文明本:「遊於藝」。乾隆御覽四庫全書薈要本新注・鵜飼文庫蔵根本本・早大蔵新注:「游於藝」。

東洋文庫蔵清家本

子曰志於道/據於德/依於仁/遊於藝

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

曰:「志於143……

標点文

子曰、「志於道、據於德、依於仁、遊於藝。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 於 金文道 金文 於 金文徳 金文 依 甲骨文於 金文仁 甲骨文 遊 金文於 金文芸 金文

※依/仁→(甲骨文)。論語の本章は、「志」「據」の字が論語の時代に存在しない。本章はおそらく前漢儒による創作である。

書き下し

いはく、みちこころざし、おきてり、なさけり、わざあそべ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「宇宙の原則を知ろうと志し、道徳を頼りとし、情け深さを基準にし、教えた技術で暇つぶしをせよ。」

意訳

孔子 人形
同上

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「樹立崇高理想、培養高尚品德、心懷仁慈友愛、陶冶高雅情操。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「崇高な理想を立て、高尚な人格を養い、心に仁慈と友愛を抱き、高雅な性格を鍛えよ。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

なお上掲武内本は「子曰、志於道」と「曰」の後ろに「士」と『魏書』が記すという。『魏書』とは北朝の北魏の歴史を記述した史書で、北魏分裂後の北斉で編まれた。つまり古注よりは新しく、『経典釈文』よりは古く、唐石経よりもろん古い。だが古注の文字列に「士」の字は見られない。従って校訂しなかった。『魏書』の記述は以下の通り。

時靈太后臨朝,每於後園親執弓矢,光乃表上中古婦人文章,因以致諫曰:「孔子云:『士志於道,據於德,依於仁,遊於藝。』藝謂禮、樂、書、數、射、御。明前四業,丈夫婦人所同修者。若射、御,唯主男子事,不及女。


当時霊太后が政治を摂り、宮殿の裏庭で手ずから弓矢を執って射た。崔光は諌めるために過去の婦人のありさまについて上奏した。「孔子が言いました。士族は道に志し、道徳に寄り添い、仁義の情けを実践し、教えられた芸事で遊べ、と。芸とは、礼法、音楽、古典、算術、弓術、馬射術です。このうち前から四つ目までは、明らかに男女を問わず習うべきです。しかし弓術と馬射術は、男性だけが習うもので、女性が習うべきではありません。」(『魏書』巻六十七・崔光伝)

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

志(シ)

志 金文 志 字解
(金文)

論語の本章では”こころざす”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。

「志」が戦国時代になって漢語に現れたのは、諸侯国の戦争が激烈化し、敗戦すると占領され併合さえ、国の滅亡を意味するようになってからで、領民に「忠君愛国」をすり込まないと生き残れなくなったため。つまり軍国美談や戦時スローガンのたぐいと言ってよい。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”(宇宙のことわりに従った)道徳”。この語義は春秋時代では確認できない。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

據(キョ)

拠 秦系戦国文字
(秦系戦国文字)

論語の本章では”そこに身を据える”。新字体は「拠」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「扌」”て”+「虍」”トラの頭”+〔豕〕”ブタ”で、トラが野ブタを捕らえるさまか。戦国の楚系竹簡で「據」と釈文する例があるが、いずれも人名の一部。論語に次ぐ文献上の初出は、『墨子』『荘子』『荀子』に”拠る”の語義で用例がある。詳細は論語語釈「拠」を参照。

德(トク)

徳 金文 論語 徳
(金文)

論語の本章では”道徳”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔コン〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語における「徳」を参照。文字的には論語語釈「徳」を参照。

依(イ)

依 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”原則として頼る”。初出は甲骨文。字形は「衣」+「人」で、由来と原義は不詳。甲骨文では人名に用い、春秋末期までの用例は語義がよく分からない。”依拠する”の用例は戦国の竹簡から見られる。詳細は論語語釈「依」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 仁 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”情け深い”。この道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

遊(ユウ)

游 甲骨文
「遊」(甲骨文)/「旅」(甲骨文)

論語の本章では、”暇つぶしをする”。初出は甲骨文。字形は〔辶〕”みち”+「ユウ」”吹き流しを立てて行く”で、一人で遠出をするさま。原義は”旅(に出る)”。対して「旅」は旗を立てて大勢で行くさま。「遊」は甲骨文では地名・人名に用い、金文では人名に用いたほかは、原義で用いた。詳細は論語語釈「遊」を参照。

早大蔵新注・四庫全書新注・根本本では「游」になっている。朱子による書き換えと判断するのが理にかなう。地上を旅する「遊」に対して、水上を旅すること。字の詳細は論語語釈「游」を参照。

論語雍也篇23に「知者樂水仁者樂山」とあり、「依仁」と本章にあるからには、「游」に描き換えた理由はわからない。朱子は南宋寧宗の時代に世を去っているが、それ以前も以降も宋の皇帝のいみ名に「遊」は見られず、避諱でもない。元明清の皇帝のいみ名も同様。

藝(ゲイ)

芸 甲骨文 芸 字解
(甲骨文)

論語の本章では”孔子の教えた六芸”。この語義は春秋時代では確認できない。原字「埶」の初出は甲骨文。現行書体の初出は後漢の隷書。字形は人が苗を手に取る姿で、原義は”植える”。甲骨文では原義に、”設置する”に、金文でも原義に用いた。”技術”の語義は戦国時代から。”芸術”・”見せ物”の語義は、先秦両漢の漢語に見られない。詳細は論語語釈「芸」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は後漢末期の『中論』芸記篇まで先秦両漢の誰一人引用していない。

後漢年表

後漢年表 クリックで拡大

定州竹簡論語には「子曰志於」までしか残っていないが、この文字列は論語の中で本章だけだから、本章は前漢中期までには存在したことになる。だが文字史の上から史実の孔子の発言とすることは出来ない。おそらくは前漢儒による創作だろう。

解説

孔子は「六芸」を教えたことになっており、それはおそらく史実だろうが、その教授内容を「六芸」と呼んだのは前漢初期の『新書』からであり、孔子や直弟子が「芸」と言ったわけではない。また「六芸」の初出はおそらく前漢儒の手に成る『周礼』から

どの文化圏でも生活に余裕が出て来ると、必ず問題になるのが暇のつぶし方で、その選択を誤ると麻薬のように犯罪につながったり、お笑いのように人を貶めて楽しむサディズムに陥る危険がある。孔子塾で教えた芸は就職のため→貴族に成り上がるためが第一番だが、仮に仕官できなくともまともで安上がりな暇つぶしにはなる。しかもこれらの芸は、他人を必要としない。馬車を除けば大がかりな道具も必要ない。個人で完結できるのである。

この個人完結は、「徳に據(拠)り」という言葉にも関連する。本章の偽作は明らかだが、春秋時代には「徳」は個人的な人格力を意味した。これは同時代の賢者ブッダが、自灯明=自らだけをよりどころとするのを説いたのと一致する。自灯明のためには自分に頼りがいが無くてはならないが、そのために徳=隠然たる能力・人格的迫力を養わなければならないわけ。

しかしいくら技能を身につけたとしても、他人や環境に振り回されては、いつまで経っても心の安らぎは得られない。仮に論語の本章のようなことを孔子が言ったとするなら、そのためには、貴族の常識を理解する必要があり、その軌範を知ろうとする企みが「道に志す」こと。

しかし同時に人間は社会的動物だから、個人の安心立命だけを確立して、世間のことなど知りません、といった道家的態度は孔子には思いも寄らなかった。従って他人と接するには、貴族らしく、指導者として振る舞え、と説いた可能性はある。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

註志慕也道不可體故志之而己…註據杖也徳有成形故可據也…註依倚也仁者功施於人故可倚之也…註藝六藝也不足據依故曰游也


注釈。志とはそれを良いものと思って目指すことである。道徳は実践しなければ意味が無い。だから道に志し切ってしまうのである。…注釈。據は頼ることである。道徳には形として人に見せられる所作がある。だから道徳に頼るのである。…依はよりかかることである。情け深い仁者は人に恩恵を施す。だから仁者に頼ることが出来るのである。

新注『論語集注』

志者,心之所之之謂。道,則人倫日用之間所當行者是也。如此而心必之焉,則所適者正,而無他歧之惑矣。…據者,執守之意。德者,得也,得其道於心而不失之謂也。得之於心而守之不失,則終始惟一,而有日新之功矣。…依者,不違之謂。仁,則私欲盡去而心德之全也。功夫至此而無終食之違,則存養之熟,無適而非天理之流行矣。…游者,玩物適情之謂。藝,則禮樂之文,射、御、書、數之法,皆至理所寓,而日用之不可闕者也。朝夕游焉,以博其義理之趣,則應務有餘,而心亦無所放矣。此章言人之為學當如是也。蓋學莫先於立志,志道,則心存於正而不他;據德,則道得於心而不失;依仁,則德性常用而物欲不行;游藝,則小物不遺而動息有養。學者於此,有以不失其先後之序、輕重之倫焉,則本末兼該,內外交養,日用之間,無少間隙,而涵泳從容,忽不自知其入於聖賢之域矣。


志とは、心の赴く先である。道とは、人として守るべき日常の行うべき事柄である。もし人がこれを心に思うなら、何を行おうと正しく、行く道に分岐が多くて迷うことが無い。

…據とは、確かに把握してそれを続けることである。徳は、会得することである。道徳を心に会得すれば、失敗することが無い、ということである。道徳を会得したまま忘れることがなければ、始めから終わりまで行動原則が一本に定まり、さらには毎日自分を向上できる。

…依は、従って背かないことである。仁とはすなわち、我欲を心からことごとく取り去って道徳を完成させることである。修養の程度がそこまで至れば、食事の最中でも仁を離れず、ますます発展して高度化する。およそ咎められることが無く、天のことわりが運行する流れから外れることもない。

…游とは、ものごとをたしなんで心を楽しませることである。芸とはいわゆる六芸、礼楽の文章・弓術・馬車術・古典と歴史の教養・算術をいう。すべて世のことわりに至る道でことわりを含み、日々の生活に欠かすべからざるものである。朝夕芸をたしなめば、それで六芸を幅広く学ぶことが出来、仕事に余裕の有る時にたしなみ、心が取り散らかることを防ぐものである。論語の本章が人間の学習を説いているのは、正にこれが理由である。

思うに、学ぶにはまず志さねばならず、道徳を志すなら、必ず心が正されてそれいがいになったりしないのである。徳に拠るとは、つまり道徳を心得て心から忘れることがない、ということである。仁に依るとは、つまり道徳的な性格がいつも働いて物欲が起こらないことである。芸に游ぶとは、つまり細大漏らさず息をするように六芸を修養することである。学ぶものがこの境地に至れば、ものごとの優先順位を間違えず、人としての重んずべき事軽んじるべきことが分かる。つまり行動の根本も端々も充実し、自分の中と外が整えられ、日常生活でわずかのすきも無く、六芸をたしなんで身につけ従い、知らず知らずのうちに聖人や賢者の境地にまで達するのである。

余話

皇幇士幇の世界

上掲北魏の霊太后は女傑で、結局は政治の混乱を招いて殺されたが、中国を知るには良い材料となる。安能務は中国史を、人民が観客となる、帝室(ファンパン)と官僚(パン)が綱引きを繰り返す奉納芝居と表現した。「士」は北京語ではshì(シィ)だが、広東語ではsi6(スー)になる。

安能氏は留学先に北京や上海でなく香港を選び、その後も大陸中国人より、台湾人との付き合いが長かったようだ。発音が広東語に拠っているのはそれゆえだろうが、職業的履歴を明らかにしないまま世を去った。だが中国通史を明確に説明できた数少ない日本人の一人である。

ただし「四人組」はレンパンとルビを振っており、必ずしも広東語で統一していない。

安能氏に拠れば人民は観客だから国家の構成要員でない。皇幇と士幇が結びついたファンリンパン国家こそが中華帝国に他ならず、人民は連幇国家から自立しネンに生きる社会を構成しつつ、その上に芝居小屋としての中華帝国を乗せている。政府と人民が決定的に断絶しているのだ。

さて士幇が常に互いに足を引っ張っているように、皇幇も一枚岩でない。まず帝室そのものの男系血統宗族があり、次に帝室に迎えられた夫人の実家、外戚がおり、皇帝の夫人はいわゆる「後宮三千人」だから、外戚同士も激烈な闘争にふける。ここへさらに宦官が加わる。

後漢は宦官の横暴で滅びたと言われるが、その前に外戚が好き勝手をやり過ぎて国をガタガタにしていた。その後の西晋も外戚が国を左右し、ロウソクが溶けるように国が滅びた。西晋の役人のふざけようと、あまりに下らない滅び方については、論語為政篇16余話を参照。

その過去を見て取ったからだろう、北魏の制度では皇太子の生母は確定時点で殺された。

つまり将来の外戚の横暴を未然に食い止めたわけだが、それゆえに男子を産んでしまった妃は誤魔化しを図り、かえって皇統が途絶えるおそれが出てきた。霊太后はのちに皇太子となる男子を産んだが、運良く夫の宣武帝がこの制度を廃止したために生き残った。

息子の孝明帝が即位するとやがて皇太后となったが、息子が言うことを聞かないので殺してしまったとも言われる。事の真偽は定かでないが、結果として霊太后が専権を振るうことになった。貴族の反発を喰らって一時は隠居したが、もっと朝廷が混乱したので返り咲いた。

最後は政争に負けて川に沈められた。皇幇士幇の世界はかくも残酷極まるのである。

『論語』述而篇:現代語訳・書き下し・原文
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