論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰志於道據於德依於仁遊於藝
校訂
諸本
- 武内本:魏書崔光伝此章を引く、子曰の下に士の字あり、礼記少儀に「士依於德、游於藝」とあると同一句法。
- 京大蔵清家本・宮内庁蔵清家本・宮内庁蔵宋版論語注疏・国会図書館蔵正平本・文明本:「遊於藝」。乾隆御覽四庫全書薈要本新注・鵜飼文庫蔵根本本・早大蔵新注:「游於藝」。
東洋文庫蔵清家本
子曰志於道/據於德/依於仁/遊於藝
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「志於143……
標点文
子曰、「志於道、據於德、依於仁、遊於藝。」
復元白文(論語時代での表記)
志 據
※依/仁→(甲骨文)。論語の本章は、「志」「據」の字が論語の時代に存在しない。本章はおそらく前漢儒による創作である。
書き下し
子曰く、道於志し、德於據り、仁於依り、藝於遊べ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「宇宙の原則を知ろうと志し、道徳を頼りとし、情け深さを基準にし、教えた技術で暇つぶしをせよ。」
意訳
同上
従来訳
先師がいわれた。――
「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「樹立崇高理想、培養高尚品德、心懷仁慈友愛、陶冶高雅情操。」
孔子が言った。「崇高な理想を立て、高尚な人格を養い、心に仁慈と友愛を抱き、高雅な性格を鍛えよ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
なお上掲武内本は「子曰、士志於道」と「曰」の後ろに「士」と『魏書』が記すという。『魏書』とは北朝の北魏の歴史を記述した史書で、北魏分裂後の北斉で編まれた。つまり古注よりは新しく、『経典釈文』よりは古く、唐石経よりもろん古い。だが古注の文字列に「士」の字は見られない。従って校訂しなかった。『魏書』の記述は以下の通り。
時靈太后臨朝,每於後園親執弓矢,光乃表上中古婦人文章,因以致諫曰:「孔子云:『士志於道,據於德,依於仁,遊於藝。』藝謂禮、樂、書、數、射、御。明前四業,丈夫婦人所同修者。若射、御,唯主男子事,不及女。
当時霊太后が政治を摂り、宮殿の裏庭で手ずから弓矢を執って射た。崔光は諌めるために過去の婦人のありさまについて上奏した。「孔子が言いました。士族は道に志し、道徳に寄り添い、仁義の情けを実践し、教えられた芸事で遊べ、と。芸とは、礼法、音楽、古典、算術、弓術、馬射術です。このうち前から四つ目までは、明らかに男女を問わず習うべきです。しかし弓術と馬射術は、男性だけが習うもので、女性が習うべきではありません。」(『魏書』巻六十七・崔光伝)
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
志(シ)
(金文)
論語の本章では”こころざす”。『大漢和辞典』の第一義も”こころざし”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
「志」が戦国時代になって漢語に現れたのは、諸侯国の戦争が激烈化し、敗戦すると占領され併合さえ、国の滅亡を意味するようになってからで、領民に「忠君愛国」をすり込まないと生き残れなくなったため。つまり軍国美談や戦時スローガンのたぐいと言ってよい。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”(宇宙のことわりに従った)道徳”。この語義は春秋時代では確認できない。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
據(キョ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”そこに身を据える”。新字体は「拠」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「扌」”て”+「虍」”トラの頭”+〔豕〕”ブタ”で、トラが野ブタを捕らえるさまか。戦国の楚系竹簡で「據」と釈文する例があるが、いずれも人名の一部。論語に次ぐ文献上の初出は、『墨子』『荘子』『荀子』に”拠る”の語義で用例がある。詳細は論語語釈「拠」を参照。
德(トク)
(金文)
論語の本章では”道徳”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔丨〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語における「徳」を参照。文字的には論語語釈「徳」を参照。
依(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”原則として頼る”。初出は甲骨文。字形は「衣」+「人」で、由来と原義は不詳。甲骨文では人名に用い、春秋末期までの用例は語義がよく分からない。”依拠する”の用例は戦国の竹簡から見られる。詳細は論語語釈「依」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”情け深い”。この道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
遊(ユウ)
「遊」(甲骨文)/「旅」(甲骨文)
論語の本章では、”暇つぶしをする”。初出は甲骨文。字形は〔辶〕”みち”+「斿」”吹き流しを立てて行く”で、一人で遠出をするさま。原義は”旅(に出る)”。対して「旅」は旗を立てて大勢で行くさま。「遊」は甲骨文では地名・人名に用い、金文では人名に用いたほかは、原義で用いた。詳細は論語語釈「遊」を参照。
早大蔵新注・四庫全書新注・根本本では「游」になっている。朱子による書き換えと判断するのが理にかなう。地上を旅する「遊」に対して、水上を旅すること。字の詳細は論語語釈「游」を参照。
論語雍也篇23に「知者樂水仁者樂山」とあり、「依仁」と本章にあるからには、「游」に描き換えた理由はわからない。朱子は南宋寧宗の時代に世を去っているが、それ以前も以降も宋の皇帝のいみ名に「遊」は見られず、避諱でもない。元明清の皇帝のいみ名も同様。
藝(ゲイ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子の教えた六芸”。この語義は春秋時代では確認できない。原字「埶」の初出は甲骨文。現行書体の初出は後漢の隷書。字形は人が苗を手に取る姿で、原義は”植える”。甲骨文では原義に、”設置する”に、金文でも原義に用いた。”技術”の語義は戦国時代から。”芸術”・”見せ物”の語義は、先秦両漢の漢語に見られない。詳細は論語語釈「芸」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は後漢末期の『中論』芸記篇まで先秦両漢の誰一人引用していない。
定州竹簡論語には「子曰志於」までしか残っていないが、この文字列は論語の中で本章だけだから、本章は前漢中期までには存在したことになる。だが文字史の上から史実の孔子の発言とすることは出来ない。おそらくは前漢儒による創作だろう。
解説
孔子は「六芸」を教えたことになっており、それはおそらく史実だろうが、その教授内容を「六芸」と呼んだのは前漢初期の『新書』からであり、孔子や直弟子が「芸」と言ったわけではない。また「六芸」の初出はおそらく前漢儒の手に成る『周礼』から。
どの文化圏でも生活に余裕が出て来ると、必ず問題になるのが暇のつぶし方で、その選択を誤ると麻薬のように犯罪につながったり、お笑いのように人を貶めて楽しむサディズムに陥る危険がある。孔子塾で教えた芸は就職のため→貴族に成り上がるためが第一番だが、仮に仕官できなくともまともで安上がりな暇つぶしにはなる。しかもこれらの芸は、他人を必要としない。馬車を除けば大がかりな道具も必要ない。個人で完結できるのである。
この個人完結は、「徳に據(拠)り」という言葉にも関連する。本章の偽作は明らかだが、春秋時代には「徳」は個人的な人格力を意味した。これは同時代の賢者ブッダが、自灯明=自らだけをよりどころとするのを説いたのと一致する。自灯明のためには自分に頼りがいが無くてはならないが、そのために徳=隠然たる能力・人格的迫力を養わなければならないわけ。
しかしいくら技能を身につけたとしても、他人や環境に振り回されては、いつまで経っても心の安らぎは得られない。仮に論語の本章のようなことを孔子が言ったとするなら、そのためには、貴族の常識を理解する必要があり、その軌範を知ろうとする企みが「道に志す」こと。
しかし同時に人間は社会的動物だから、個人の安心立命だけを確立して、世間のことなど知りません、といった道家的態度は孔子には思いも寄らなかった。従って他人と接するには、貴族らしく、指導者として振る舞え、と説いた可能性はある。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
註志慕也道不可體故志之而己…註據杖也徳有成形故可據也…註依倚也仁者功施於人故可倚之也…註藝六藝也不足據依故曰游也
注釈。志とはそれを良いものと思って目指すことである。道徳は実践しなければ意味が無い。だから道に志し切ってしまうのである。…注釈。據は頼ることである。道徳には形として人に見せられる所作がある。だから道徳に頼るのである。…依はよりかかることである。情け深い仁者は人に恩恵を施す。だから仁者に頼ることが出来るのである。
新注『論語集注』
志者,心之所之之謂。道,則人倫日用之間所當行者是也。如此而心必之焉,則所適者正,而無他歧之惑矣。…據者,執守之意。德者,得也,得其道於心而不失之謂也。得之於心而守之不失,則終始惟一,而有日新之功矣。…依者,不違之謂。仁,則私欲盡去而心德之全也。功夫至此而無終食之違,則存養之熟,無適而非天理之流行矣。…游者,玩物適情之謂。藝,則禮樂之文,射、御、書、數之法,皆至理所寓,而日用之不可闕者也。朝夕游焉,以博其義理之趣,則應務有餘,而心亦無所放矣。此章言人之為學當如是也。蓋學莫先於立志,志道,則心存於正而不他;據德,則道得於心而不失;依仁,則德性常用而物欲不行;游藝,則小物不遺而動息有養。學者於此,有以不失其先後之序、輕重之倫焉,則本末兼該,內外交養,日用之間,無少間隙,而涵泳從容,忽不自知其入於聖賢之域矣。
志とは、心の赴く先である。道とは、人として守るべき日常の行うべき事柄である。もし人がこれを心に思うなら、何を行おうと正しく、行く道に分岐が多くて迷うことが無い。
…據とは、確かに把握してそれを続けることである。徳は、会得することである。道徳を心に会得すれば、失敗することが無い、ということである。道徳を会得したまま忘れることがなければ、始めから終わりまで行動原則が一本に定まり、さらには毎日自分を向上できる。
…依は、従って背かないことである。仁とはすなわち、我欲を心からことごとく取り去って道徳を完成させることである。修養の程度がそこまで至れば、食事の最中でも仁を離れず、ますます発展して高度化する。およそ咎められることが無く、天のことわりが運行する流れから外れることもない。
…游とは、ものごとをたしなんで心を楽しませることである。芸とはいわゆる六芸、礼楽の文章・弓術・馬車術・古典と歴史の教養・算術をいう。すべて世のことわりに至る道でことわりを含み、日々の生活に欠かすべからざるものである。朝夕芸をたしなめば、それで六芸を幅広く学ぶことが出来、仕事に余裕の有る時にたしなみ、心が取り散らかることを防ぐものである。論語の本章が人間の学習を説いているのは、正にこれが理由である。
思うに、学ぶにはまず志さねばならず、道徳を志すなら、必ず心が正されてそれいがいになったりしないのである。徳に拠るとは、つまり道徳を心得て心から忘れることがない、ということである。仁に依るとは、つまり道徳的な性格がいつも働いて物欲が起こらないことである。芸に游ぶとは、つまり細大漏らさず息をするように六芸を修養することである。学ぶものがこの境地に至れば、ものごとの優先順位を間違えず、人としての重んずべき事軽んじるべきことが分かる。つまり行動の根本も端々も充実し、自分の中と外が整えられ、日常生活でわずかのすきも無く、六芸をたしなんで身につけ従い、知らず知らずのうちに聖人や賢者の境地にまで達するのである。
余話
皇幇士幇の世界
上掲北魏の霊太后は女傑で、結局は政治の混乱を招いて殺されたが、中国を知るには良い材料となる。安能務は中国史を、人民が観客となる、帝室(皇幇)と官僚(士幇)が綱引きを繰り返す奉納芝居と表現した。「士」は北京語ではshì(シィ)だが、広東語ではsi6(スー)になる。
安能氏は留学先に北京や上海でなく香港を選び、その後も大陸中国人より、台湾人との付き合いが長かったようだ。発音が広東語に拠っているのはそれゆえだろうが、職業的履歴を明らかにしないまま世を去った。だが中国通史を明確に説明できた数少ない日本人の一人である。
ただし「四人組」は四人幇とルビを振っており、必ずしも広東語で統一していない。
安能氏に拠れば人民は観客だから国家の構成要員でない。皇幇と士幇が結びついた皇士連幇国家こそが中華帝国に他ならず、人民は連幇国家から自立し自然に生きる社会を構成しつつ、その上に芝居小屋としての中華帝国を乗せている。政府と人民が決定的に断絶しているのだ。
さて士幇が常に互いに足を引っ張っているように、皇幇も一枚岩でない。まず帝室そのものの男系血統宗族があり、次に帝室に迎えられた夫人の実家、外戚がおり、皇帝の夫人はいわゆる「後宮三千人」だから、外戚同士も激烈な闘争にふける。ここへさらに宦官が加わる。
後漢は宦官の横暴で滅びたと言われるが、その前に外戚が好き勝手をやり過ぎて国をガタガタにしていた。その後の西晋も外戚が国を左右し、ロウソクが溶けるように国が滅びた。西晋の役人のふざけようと、あまりに下らない滅び方については、論語為政篇16余話を参照。
その過去を見て取ったからだろう、北魏の制度では皇太子の生母は確定時点で殺された。
つまり将来の外戚の横暴を未然に食い止めたわけだが、それゆえに男子を産んでしまった妃は誤魔化しを図り、かえって皇統が途絶えるおそれが出てきた。霊太后はのちに皇太子となる男子を産んだが、運良く夫の宣武帝がこの制度を廃止したために生き残った。
息子の孝明帝が即位するとやがて皇太后となったが、息子が言うことを聞かないので殺してしまったとも言われる。事の真偽は定かでないが、結果として霊太后が専権を振るうことになった。貴族の反発を喰らって一時は隠居したが、もっと朝廷が混乱したので返り咲いた。
最後は政争に負けて川に沈められた。皇幇士幇の世界はかくも残酷極まるのである。
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