論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰述而不作信而好古竊比於我老彭
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰述而不作信而好古𫁝比於我於老彭
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[而不作,信而好古,竊比]我於a老彭。」138
- 我於、今本作「於我」。
標点文
子曰、「述而不作、信而好古、竊比我於老彭。」
復元白文(論語時代での表記)
竊
※論語の本章は、「竊」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の創作である。
書き下し
子曰く、述べ而作らず、信じ而古を好む。竊に我を老彭於比ぶ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「記録して創作しない。信じて昔を好む。ひそかに自分を老彭と比較する。」
意訳
過去の良い所を選んで記録に残すが、でっち上げはしない。良いと信じて過去を好む。ふふ、これで私も老子先生と肩を並べるぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私は古聖の道を伝えるだけで、私一箇の新説を立てるのではない。古聖の道を信じ愛する点では、私は心ひそかに自分を老彭にも劣らぬと思っているのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「傳授知識而不從事創作,相信先人而又愛好古代典籍,我可以自比於商朝時的老彭。」
孔子が言った。「知識を伝え授けるだけで、創作には関わらない。個人と信頼し合って古代の格調高い本を好む。私は自分を、殷王朝の頃の老彭と並んだと見ていいと思っている。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
述(シュツ)
(金文)
初出は西周早期の金文。「ジュツ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「辵」(辶)”みち”+「又」”て”+「∴」”穀物の粒”。手にくっついて取れない粟粒のように、すでにある道をたどっていくこと。春秋末期までに人名のほか、”落とす”・”古式通りに行う”・”たどる”の意があった。詳細は論語語釈「述」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…すると同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
作(サク)
(甲骨文)
論語の本章では”創作する”。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「作」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”信じる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
古(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”むかし”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「口」+「中」”盾”で、原義は”かたい”。甲骨文では占い師の名、地名に用い、金文では”古い”、「故」”だから”の意、また地名に用いた。詳細は論語語釈「古」を参照。
竊(セツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”ひそかに”。初出は楚系戦国文字。異体字の「窃」も論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。初出の字形は「戈」二つ+「攵」”うつ”+「米」で、武装して穀物を奪う事か。戦国の竹簡に、”ぬすむ”・”ひそかに”あるいは”切実に”の意に用いた。詳細は論語語釈「窃」を参照。
比(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”ならべる”。初出は甲骨文。字形は「人」二つ。原義は”ならぶ”。甲骨文では「妣」(おば)として用いられ、語義は”先祖のきさき”。また”補助する”・”楽しむ”の意に用いた。金文では人名・器名の他”ならべる”・”順序”の意に用いた。詳細は論語語釈「比」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(を)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
老彭*(ロウホウ)
古来誰だか分からない。古注やそれを引いたとみられる武内本によると、殷王朝時代の賢者と言うが、人物像不明。鄭玄の説によると、老子と、彭祖(ホウソ)=800年以上も生きたという伝説上の人物、の組み合わせという。
論語の本章では、孔子が青年期に学んだ、何代目かの老子と解した。『大漢和辞典』によると、清の趙翼が著した『陔余叢考』という書物に、彭祖、即ち老聃(ロウタン、老子のこと)の論があるという。いずれにせよ仙人のたぐいで、実証的な研究は不可能。
なお現代日本の中国史学では、老子は居なかったことになっている。史料をまじめに読むと寿命が人間離れしているのが理由。そして『史記』に言う、孔子の洛邑留学時に老子に学んだというのは、道家が儒家に対抗するためにでっち上げた伝説だという。
しかし訳者の見解は異なり、歌舞伎役者や落語家のように、老子というのは代々受け継ぐ名跡のようなものであって、その何代目かの老子が周王朝に仕え、王室アーカイブの長官を務めていたと考える。
趙翼の言うように、儒家の経典にも数多く、孔子の言葉として「これを老聃に聞けり」とあるからだ。
なおこの孔子の留学は、魯国門閥三家老家の一家、孟孫氏の推挙によって、時の魯国公昭公から奨学金を貰い、孟孫氏当主の弟・南宮敬叔と共に赴いたと『史記』にある。身分低く生まれた孔子が大出世する当初には、こうした門閥家老家の後ろ盾があった。
(甲骨文)
「老」の初出は甲骨文。字形は髪を伸ばし杖を突いた人の姿で、原義は”老人”。甲骨文では地名に用い、金文では原義で、”父親”、”老いた”の意に用いた。戦国の金文では”国歌の元老”の意に用いた。詳細は論語語釈「老」を参照。
(甲骨文)
「彭」の初出は甲骨文。字形は「壴」”つづみ”+「彡」音の示す記号。原義は”太鼓の音”。春秋末期までに、地名人名のほか、”太鼓を打つ”の意に用いた。詳細は論語語釈「彭」を参照。
竊比於我老彭→竊比我於老彭
論語の本章では、”ひそかに老彭と比較する・肩を並べたと夢想する”。
定州竹簡論語では「竊比我於老彭」と記し、古注では「竊比於我於老彭」と記し、邢昺の『論語注疏』、朱子の新注『論語集注』では定州竹簡論語と同じ。京大蔵唐石経でも定州竹簡論語と同じで、古注が日本に入ってから「比」の後ろに「於」が付け足されたことになる。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語での「われ」の用例は、主格では「吾」、目的格では「我」が多い。所有格でも「我」の独擅場(独檀場の誤用が定着しているが文字も読みも誤り。擅=ほしいまま、檀=まゆみ、木製の祭壇)とまでは言えないが、圧倒的に多い。詳細は論語における「われ」を参照。
従って伝統的な論語の解釈では、「ひそかに我が老彭に比す」と読み下すが、それでは各種の論語本が言うような現代語訳にならない。”私の敬愛する先達”と、好意的に解釈することは可能だが、やや無理がある。
ゆえにここでの「我」は、「老彭」と対等に並立する目的格と解すべきで、「竊に我を老彭於比ぶ」と読んだ。
しかも定州論語による校訂により、語順が変わったため、従来の読み下しには根拠が無くなった。定州論語は前漢宣帝期の史料で、現伝の論語が固まるのは後漢から南北朝にかけてだが、それまでの間で、何らかの書き写し間違いがあったのだろうか。
次に「於」の語法に、AX於Bで、”AはBよりX”というのがある。論語先進篇16の、「季氏富於周公=季氏周公より富めり」というのがその例。おそらく春秋時代の文法では、現伝の論語本章のように、「於」の直後に比較対象を二つ並べておくのではなく、比較するものとされるものの間に、「於」を入れたように見受けられる。つまり「於」の直後は目的語が一つ。
論語を通読する限り、「於」の直後に目的語を二つ持つ例は、現伝の本章のみで、後は全て、一つ持つだけである。
もっともこれは、「比AB」という、比較の表現が本章以外に無いからであり、安易な一般化は差し控える。ただ先秦両漢の文書史料では、「比A於B」”AとBを比べる”が圧倒的で、「比於AB」は”AやBのたぐいと比べる”であって比較表現ではない。金石文ではどうなっているのだろうか。
論語:付記
検証
論語の本章、「述而不作」の再出は前漢中期の『塩鉄論』、それより前の『史記』日者列伝にも見えるが、後世の創作という。「信而好古」は後漢初期の『漢書』、「竊比我於老彭」は定州本を除き先秦両漢の引用が無い。文字史的にも論語の時代に遡れず、本章は後世の創作。
『史記』日者列伝の全訳は論語述而篇16余話を参照。
解説
論語の本章の偽作は明らかで、儒者が「述べず作った」ものには違いないが、史実の孔子に創作の意欲が高かったとは思えない。軍事的経済的に激動の始まった春秋後半の世に在って、前代未聞の事態に対処するには、普通なら新たな手を打つが、孔子にそうした賭博性は薄い。
例えば殷の前に夏王朝があったという伝説はすでに出来ており、孔子も知っていたはずだが、殷そっくりの「酒池肉林」伝説などを、孔子はこしらえなかった。それより前に、すでに蓄積された中華文明の精華を学び取る方を優先し、その学習の積み重ねを弟子に説いた。
以上を踏まえると、孔子が政権についてすぐ少正卯を処刑したという『史記』の伝説と、その詳細を伝える別伝は、それなりに分けのあったことと思えてくる。混乱の時代は世間師が横行して、でたらめなバクチを人に勧めて儲けるが、為政者としては当然罰するべきだったろう。
子貢が孔子の前に出て言った。「あの少正卯という人は、魯国でも名声のある人です。今、先生は政務の執り始めにあたって、この人物を処刑したのは、あるいはまずいのではないですか。」
孔子「座りなさい。理由を聞かせてやろう。天下に何が悪いと言って、五つの大罪ほど悪いものはない。窃盗・強盗すらそれに入らないぐらいだ。一つ目は、反逆の心を抱いて目つきが険しいこと。二つ目は行いが悪くて頑固なこと。三つ目は嘘つきで口車が回ること。四つ目は悪だくみばかり覚えていてしかもそれが豊富なこと。五つ目は悪事に手を染めながら人当たりがいいこと。このうち一つでもあるなら、君子として処刑されても仕方がない。
ところが少正卯はこれを全部兼ねているばかりか、地位は子分どもを守って徒党を組むに十分で、言葉は褒めちぎりがうまくて人を迷わせ、その理屈の強さは正義をひっくり返して他者の意見の助けが要らないほどだ。こうまで悪党の度が過ぎると、取り除かない訳にはいかない。
昔殷の湯王は尹諧を処刑し、文王は潘正を処刑し、周公は管蔡を処刑し、太公は華士を処刑し、管仲は付乙を処刑し、子産は史何を処刑した。この七人の先賢が、時代は違えど同じように処刑した者は、やはり時代が違っても賢者に憎まれるほど普遍的に悪いのだ。だから許すわけにいかない。
詩に言うだろう、”狙ったようにカンにさわることをしやがる。奴らにはいちいち腹が立つ”と。下らない人間が群れたら、腹が立って当然なんだ。」(『孔子家語』始誅1)
なお本論語述而篇は、版本によって順序が違う。
古注・唐石経 | 南宋本論語注疏 | |
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余話
ゆとり儒者
現代中国語で「老…」と言えば「…さん」の意味で、若い人にも使う。論語時代にその用法が通用するかとなると訳者にもわからない。だから老彭という人が論語時代にいたか、あるいは孔子の読んだ記録にあったか。おそらくは上記で検討した通り、全く架空の人物だろう。
だが創作とは知らない儒者は、一生懸命誰のことだか考えようとした。本に「太郎君」とあって、読み手が太郎君を知らないから大騒ぎして、これはきっと近所のタローという犬のことだろう、とやいやい議論しているのが儒者の言う「考証」で、論理的には意味が無い。
情報の地平の彼方に去ったものは分からない。藤堂博士もこう言う。
孔子の尊敬した老彭という賢者がいたらしい。老子の名は聃であるというが、聃とは耳たぶが大きく垂れていることだ。老彭・老聃の老とは、申すまでもなく長老のことである。この二人がはたして同じ人物であったかどうかは、今では知る由もない…。(『漢文入門』老子のこころ)
老彭とは誰かは清儒の興味も引いた。満州人皇帝の下で、現在を研究すると刑死の憂き目に遭いかねなかったから、儒者は過去を題に選び、重箱の隅を突くような難癖を付けて「考証」と称した。しかしのちに考古学が盛んになると、ブツが出てあっさり覆った「考証」も多い。
そりゃそうだ。円周率を「径一周三」で済ませ、逆裏対偶の区別もつかなかったんだから。
つまるところ文系学問は、理系のように数学というOSを持たないから、何が正しいのかは決めようが無く、言い出した者の権力で決まってしまう。だがそういう時代も、そろそろ終わりそうな気がする。漢学業界が世間から見放され、個人の趣味になりかけているからだ。
それでもつまらぬ権威主義が漢学から消えるなら、その方が目出度いように思う。
参考記事
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
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