論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰甚矣吾衰也久矣吾不復夢見周公
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰甚矣吾衰也久矣吾不復夢見周公也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公也。」
復元白文(論語時代での表記)
※久→舊。
書き下し
子曰く、甚しかり矣、吾が衰へたる也。久しかり矣、吾復び周公を夢て見え不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「はなはだしくなってしまった。まさに私の衰えは。長くなってしまった。私が二度と夢で周公にお目に掛からなくなったのはまさに。」
意訳
どうも歳を取るといかん。ずいぶん長いこと周公の夢を見なくなった。
従来訳
先師がいわれた。――
「私もずいぶん老衰したものだ。このごろはさっぱり周公の夢も見なくなってしまった。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我衰老得多嚴重啊!很久沒再夢見周公了。」
孔子が言った。「私の老衰は激しくなったな!非常に長い間改めて周公の夢を見なくなってしまった。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
甚(シン)
(金文)
論語の本章では”はなはだしい”。この語義は春秋時代では確認できない。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は西周早期の金文。初出の字形は「𠙵」”くち”または「曰」”いう”+「一」または「二」+「𠃊」”かくす”・”かくれる”。ほかに「○」+「乍」”大ガマ”の字形もある。由来と原義は不明。春秋末期までに人名・器名のほか、”たのしむ”の用例がある。詳細は論語語釈「甚」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、「ぬ」と読んで”…てしまった”。完了の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
日本古語では、大雑把に言って勝手にそうなった行為に「ぬ」、そうしようと意図的にした行為に「つ」を用いる、と説明される。孔子も好き好んで老いぼれたわけではなかろうから、訓読には「つ」より「ぬ」の方がふさわしいと判断した。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行)
秋が来たのも「おどろ」かされたのも、勝手にそうなったのであって敏行のせいではない。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたしの”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。
衰(スイ)
(金文)
論語の本章では”衰え”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は藁蓑の象形で、原義は”蓑”。春秋末期まででは、人名の用例のみが知られる。論語語釈「衰」を参照。
論語では病気と老いとを区別しておらず、老いは病気の一種と捉えられていた。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。”…はまさに”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
文末の「也」は日本伝承の清家本は記し、中国伝承の唐石経とその系統を引く宋儒の『論語注疏』・新注『論語集注』に欠く。また後漢熹平石経、定州竹簡論語は本章そのものを欠いている。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系統の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。従って本章末の「也」はあるものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
久(キュウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”期間が長い”。初出は西周早期の金文。ただし漢字の部品として存在し、語義は不明。明確な初出は秦系戦国文字。字形の由来は不明。「国学大師」は、原義を灸を据える姿とする。同音に九、灸、疚(やまい・やましい)、玖(黒い宝石)。論語時代の置換候補は近音の「舊」(旧)。詳細は論語語釈「久」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
復(フク)
(甲骨文)
論語の本章では、”もう一度する”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
夢(ボウ)
(甲骨文)
論語の本章では”夢に見る”。初出は甲骨文。初出の字形は「爿」”ベッド”+”目を見開いた人”で、寝ながら見る夢の意。「ム」は呉音。甲骨文から”夢(をみる)”の意に用い、春秋末期までには、人名にも用いられた。詳細は論語語釈「夢」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
周公(シュウコウ)
論語の本章では、周公旦。姓は姫、名は旦。周王朝開祖の文王の四男で、事実上の初代武王の弟。魯に封じられ(=領地を与えられ)たが、武王が早くに死んだので、まだ幼かった後継の成王の補佐を、燕に封じられた召公(ショウコウ)と共に行った。副都洛邑を建設し、叛乱を鎮圧し、礼法を定めたとされる(→wikipedia)。
孔子にとっては文武両道の政治家で周の文化の開祖であり、聖人として崇めていた。文字的には論語語釈「周」・論語語釈「公」を参照。
吾不復夢見周公也(われふたたびゆめみてしゅうこうにまみえざるや)
いろいろな訓読が可能だが、仮に論語の本章が史実とすると、春秋時代の漢語は原則として一字一語で熟語は無いので、「復夢見」はそれぞれ独立した三語と解すべき。また漢語・中国語も修飾語→被修飾語の順が原則なので、この句の述語動詞は「見ゆ」”お目にかかる”。「復」も「夢」もそれを修飾する語であり、副詞または補助動詞として考えねばならない。
従って「復びせず」と動詞に読むのは賛成できない。ただし漢語の「見」に敬語の語意は無いから(ゆえに漢代から「引見」の語がある)、「見」を「みる」「あう」と読んでもかまわない。また、仮に本章が漢儒の創作だとするなら、熟語として読んでも構わないことになる。
また漢語の特徴は、「言いたい事からまず言う」であり、この句では”二度と”が一番に言いたかったことであり、”夢”・”会う”はそれに次ぐ。実は夢見の対象が周公かどうかは、一番どうでもいいことになる。つまり要点は孔子の衰えで、それを強調するのが本章の論旨。
論語:付記
検証
論語の本章、前半「甚矣吾衰也」は先秦両漢の引用が無い。後半の「久矣、吾不復夢見周公」も先秦両漢の引用が無い。ただ類似の文字列が『春秋左氏伝』にある。
本章は文字史的にはとりあえず史実として扱うが、定州竹簡論語に無いこと、漢字の用例に疑問が多いこと、後世の引用が無いことから、おそらく前漢後期の儒者が、いわゆる儒教の国教化の進展にともない、論語を膨らませるためにこしらえた作文の疑いがある。
解説
検証の通り疑わしいとすると、本章の初出は後漢から南北朝にかけて編まれた古注になる。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰孔子衰老不復夢見周公也明盛時夢見周公欲行其道也
注釈。孔安国「孔子が歳を取って衰え、二度と周公を夢に見なくなったのである。壮健な時期は周公を夢に見、その道を実践しようとしたのである。
孔安国は前漢の儒者と言われるが、史実性に問題のある人物で、おそらくは古注を編んだ儒者による架空の人物。その「注釈」も、この通り本文を繰り返しているのみで、オウムや九官鳥のたぐいと言ってよく、ほぼ全て論語読解の役には立たない。
新注は次の通り。
新注『論語集注』
復,扶又反。孔子盛時,志欲行周公之道,故夢寐之間,如或見之。至其老而不能行也,則無復是心,而亦無復是夢矣,故因此而自歎其衰之甚也。程子曰:「孔子盛時,寤寐常存行周公之道;憕其老也,則志慮衰而不可以有為矣。蓋存道者心,無老少之異;而行道者身,老則衰也。」
復の字は、扶-又の反切で読む。孔子が創建だったとき、周公の道を実現しようと志した。だから夢見の間、時には周公を見た。しかし置いてからは見られなくなった。つまり周公の道うんぬんを思わなくなったから、ふたたび夢に見ることが無くなったのである。だから自分の衰えの甚だしさを歎いた。
程頤「孔子が壮健なとき、寝ても覚めてもいつも周公の道を実践していた。ところがその志が薄れて年老いると、つまり志が衰えたからにはやる気も失せたのである。おそらく道への志向はまだ心にあり、老いても少しも変わらなかったはずだ。道を実践する者にも、年を重ねれば志が衰えることがあるものだ。」
出任せだ。孔子存命中、周公の言行録のたぐいはあっただろうが、周公の行ったことは、幼い主君の摂政となり、反乱を起こした殷の残党を苦戦しながら攻め滅ぼし、周王室の一族を諸侯として各地にばら撒いたことであり、孔子とは立場も志向も違う。
孔子が目指したのは、鉄器と小麦と弩(クロスボウ)の実用化によって激動をはじめた春秋後半の世に在って、それまでの血統貴族だけでは行政が立ちゆかなくなったところへ、庶民から弟子を集めて、官僚・政治家として諸侯国の官界政界に押し込むことだった。
周公はおそらく、孔子在世中には文王と共に最古の聖人として崇められた人物。堯舜といったそれより古い聖王は、孔子没後に諸学派の抗争の中で、互いに屋上屋を架すからくりで次々とでっち上げられた人物で、ゆえにその伝承は人間離れしている上に、非常に似通っている。
孔子の生国魯は、周公の子が開祖とされ、周公は周の事実上の開祖武王の弟という事になっている。ただし後世に創作された伝説が数多く貼り付けられており、史実を明らかにするのは容易なことではない。
現中国政府でさえ、ニセモンのホンモン化計画を国家的にやるほどだから。せめての比較材料として、似たような人物で時代が下るのに、清朝の開祖ヌルハチの子、ドルゴンがおり、二代君主で兄のホンタイジの没後、幼君順治帝の摂政を長く務めた。
引退は穏やかでなく、狩猟中の事故死という事になっている上、近親には過酷な処罰が行われた。要するに権力の委譲とは、そう明るい話にはならないと言うことだが、周公から成王への権力委譲は、結婚式の新郎新婦紹介みたいなぬるい話になっている。
だが周公の同僚だった太公望が斉に引き籠もった事を考えると、そんないい話ではなかったと考えるのが妥当だろう。周公は殷の残党が起こした三監の乱(BC1042-BC1039)を鎮圧したが、三年以上も国軍を専断したからには、地位を降りるにも降りられなくなっていたはず。
中露の首脳が、死ぬまで首脳であり続けねば命が危ないのと同じ。成王へ権力を委譲した後、洛邑(現洛陽)に都城を築いたのは、何も周王室のためだけではないだろう。成王の六年(BC1037)にあっけなく死んでいるのも何やら怪しく、自然死ではなかった可能性がある。
さて本章が史実としても、分かるのは孔子が周公を慕っていた、ということだけ。架空の事物が夢に出てきたことのない訳者には、孔子の気持ちは想像するしかない。「他人の夢の話ほど聞いてつまらないものはない」と聞いたことがあるが、それは孔子であっても変わらない。
それを敏感にかぎ取って後世笑い話にした話は、論語公冶長篇9解説に記した。ここでは別バージョンを記す。
夫子責宰予以朽木糞土。宰予不服曰。吾自要見周公。如何怪我。夫子曰。日間豈是夢周公時候。宰予曰。周公也不是夜間肯來的人。
宰予が昼寝をしたのを孔子先生はきつく咎めた。「お前のような奴は、腐れ木、腐れ土とおんなじだ(論語公冶長篇9)。」
宰予は恐れ入らずに言い返した。「私も周公のお目にかかっていたのです。お咎めはあんまりです。」
孔子「なんじゃと? 真っ昼間に眠りこけておきながら、何が周公じゃ。」
宰予「でも周公は、夜中になってからコソコソやって来るような、いかがわしい人物とはお会いになりますまい。」(『笑府』巻二・昼寝又)
余話
漢方が発達したわけ
中華文明が通時代的に追い求めたのは生存の確保と、その派生として福禄寿(乜-的快感とカネと長寿・健康)だった。その要請からいわゆる漢方(日本での呼び名で、中国では中医という)は古代から発達した。カネも元手は健康であり、健康でなければ●生活も不十分だからだ。
殷の遺蹟からすでに、鍼治療に用いた石製の鍼が出土しているという。当時どのような内服薬が用いられたかは定かでない。植物性・鉱物性の中薬ならば、数千年後にも痕跡が残るはずだが、寡聞にしてそうした出土例を聞かない。中国医学は外科からまず始まった。
現伝最古の医学書は、前漢ごろ成立と言われる『黄帝内経』で、「こうていだいけい」と漢語読みする座敷わらしになっている。中国の伝説上の開祖である黄帝が賢臣と交わした問答形式の本だが、黄帝が実在しないのはもちろんで、戦国時代に現れた五行思想で理論をまとめる。
従って孔子の時代の医学については、ほとんど分からない。ただ老いを病気の一種として捉えていたようで、論語郷党篇12に若家老の季康子が孔子に薬を贈った話が残っている。おそらく暗殺を恐れて孔子は飲まなかったのだが、「今さら若返りなど」とも思ったのだろう。
孔子の他の発言から類推すると、孔子は極めて合理的な精神で自他を見ており、人が老いるのは当たり前だと思ったはず。加えて身長2mを超え武術の達人で頭脳明晰な孔子は、論語為政篇2「吾十有五にして」が偽作であるように、老いをぼやくようなことは無かったと思う。
孔子が自分は殷の末裔だなどとうろたえたのは、死の寸前になってからだった。
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