論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰攻乎異端斯害也巳
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰攻乎異端斯害也已矣
※「異」字は〔甲共〕。「韓勅造孔廟禮器碑」刻。
後漢熹平石経
…乎異端斯害也已
※「端」字は〔立山门巾〕。「斯」字の「其」の上半分中央に縦線一画あり。「異」字は〔甲共〕で〔田共〕ではない。「害」字は〔宀𠮷〕。「龶」ではなく「土」で、一画少ない。
定州竹簡論語
子曰:「功a乎異端,斯害也已b。」21
- 功、今本作「攻」。此字有作「知学」的知解、有作「攻撃」的「攻」解、此処応作「治」的解為宜。
- 皇本、高麗本「已」下有「矣」字。
標点文
子曰、「功乎異端、斯害也已。」
復元白文(論語時代での表記)
※端→耑。論語の本章は、「乎」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、異なる端乎功るは、斯害也る已。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「異様な新説を責めても、そういう場面には害しかない。」
意訳
他人の主張が変だからと言って、ケチを付けるんじゃない。何一つろくなことにならないぞ。
従来訳
先師がいわれた。
「異端の学問をしても害だけしかない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「走入異端邪說中,就是禍害。」
孔子が言った。「正統派でないよこしまな教えに入り込んでしまえば、これはもう災いしかない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
攻(コウ)→功(コウ)
「攻」(金文)
論語の本章では”せめる”。学問を学ぶことではない。
「攻」の初出は春秋中期の金文。字形は「工」”工具”+「又」”手”で、工具を手に取るさま。原義は”打つ”。金文では”攻撃”(㚄鼎・年代不明)、”軍事”(王孫誥鐘・春秋)、また官職名に用いられた。”作る”の語義が現れるのは戦国時代、”おさめる”の語義が現れるのは文献時代以降。詳細は論語語釈「攻」を参照。
「功」(金文)
定州竹簡論語の「功」は、論語の本章では”反論する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。同音に公、工、貢、攻。初出の字形は「工」”工具”+「屮」で、「屮」はおそらく農具の突き棒。全体で工具で作業するさま。原義は”功績”。現行字体は「工」+「力」だが、その初出は前漢の隷書で、おそらく書き間違えと思われる。戦国末期の金文では、「工」と書き分けられなかった事例がある。金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「功」を参照。
『大漢和辞典』は、『漢書』の顔師古注を引いて、攻→功と書いた例を示している。
しかしその原文を読んでみると、「董賢の屋敷が新築された。堅=頑丈に功=建てたのに、外門がわけも分からないまま突然崩れた。董賢は気味悪がった」の意で、「攻」とする理由が見つからない。つまり『漢書』の書かれた後漢の時代も、「功」=「工」と解されていたわけ。
つまり話は振り出しに戻り、「攻」だろうと「功」だろうと、論語の時代には「工」と記された。春秋時代に「攻」は存在したが、人名か官職名の一部か”攻める”の意でしかない。「工」は超多義語で(論語語釈「工」)、「攻」「功」いずれかだけでは語義を決めがたい。目的語が「異端」=違った正義であることから、それに対し何らかの行動を起こすこと、すなわち”異論を言う”と解した。
なお湯浅邦弘「漢代における『論語』の伝播」では、「功」を「攻」の誤字としている。論拠は何だろう。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~を”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
異(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”異様な”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭の大きな人が両腕を広げたさまで、甲骨文では”事故”と解読されている。災いをもたらす化け物の意だろう。金文では西周時代に、”紆余曲折あってやっと”・”気を付ける”・”補佐する”の意で用いられている。”ことなる”の語義の初出は、戦国時代の竹簡。詳細は論語語釈「異」を参照。
端(タン)
「端」(楚系戦国文字)・「耑」(甲骨文)
論語の本章では、”端正”の派生義として”正義”。初出は楚系戦国文字。同音に「耑」とそれを部品に持つ漢字群、「段」を部品に持つ漢字群、「短」・「断」など。部品で同音の「耑」の初出は甲骨文。「耑」の字形は根を含む植物が雨に潤うさまで、原義は”みずみずしく美しい”。「端」は”みずみずしく美しい位置に立つ”。原義は”端正”。「耑」は甲骨文では国名に、金文では酒器の一種を意味し(義楚觶・春秋末期)、また人名に用いた。戦国時代の竹簡では、「端」を「耑」と記し、また「短」として使われた。詳細は論語語釈「端」を参照。
『字通』は別のことを言う。
「耑」(「父辛耑觚」殷代末期・集成7141)
若い巫女が端然と坐する形。〔説文〕七下に「物初めて生ずるの題なり。上は生ずる形に象り、下は其の根に象るなり」とし、草木初生の象とする。字は而に従い、而は髪を髠にした巫女の正面形。上部は髪飾りをつけている形である。共感呪術として、巫女の徒を敺つことがあり、微・徴はその側身形に従う。微は敵の呪詛を「微くする」、徴は懲らす意。耑に従う字は、若い巫女の姿と解するとき、おおおむねその声義を説くことができる。耑の字形は、列国期の〔義楚耑〕〔徐王耑〕の耑(觶)にみえる。訓義:みこ、若いみこが端然として坐する形、ただしい。はし、末端、はじめ、こぐち。専と通じ、もっぱら。
ごもっともながら、「巫女が髪飾りをつけている形」で記されているのは、上掲金文一例しかない。他の甲骨文や金文を見ると、根を伴った植物が、みずみずしく雨に潤うさまと見るべきだ。
http://www.guoxuedashi.com/zixing/yanbian/7501wd/
ちなみに岐阜県に瑞浪市があり、「瑞」の大漢和による第一義は”しるしの玉”で、「みず」の訓は日本だけの解釈とされているが、これを言い出した古代の坊主かおじゃる公家は、存外漢字に通じている。おそらく磨きたての玉か、いかにもみずみずしい色の玉を言うのだろう。
さてここから少しおしゃべりをせねばならない。お忙しい方は読み飛ばして下さい。

第1ニカイア公会議を画いたイコン。アリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。(メテオラ・大メテオロン修道院所蔵)©Jjensen
「端」の字が甲骨文にも金文にも無いとすると、論語の本章は例によって、儒者がニセ孔子に語らせたでっち上げということになる。その可能性は多いにある。上掲「異」の字に”ことなる”の語義が現れるのは戦国以降だし、前漢帝国の国教となる過程で、どの派閥が正統か、それこそニケーア公会議のような闘争があっただろうからだ。
その後も分派活動はいくらでもあったから、キリスト教同様の異端狩りは、儒教が国教を降りる二次大戦後まで続いた。だから儒者が互いに真っ赤になって、「この異端者め!」とつかみ合いのケンカをしたのは間違いない。本章はそういう、儒者のためのお墨付きなのだろうか。
どうもそうには思えない。全く個人の感想ながら、訳者は本章が、”他人の正義は放っておきなさい”という、孔子の肉声に思えてならない。仮にそうなら、孔子は「端」を何と言ったのだろうか。上記のように、一応「耑」で字形上の解決はついた。だがもう少し音も掘ってみよう。
ここで候補に挙がるのが、「タン」と読み”こころ”を意味する、「胆」だ。
旧字体は「膽」と書く。『字通』に、「形声、詹声。〔説文〕四下に「肝を連ぬるの府なり」とあり、肝臓の右にあって胆汁を分泌する器官。胆略・胆勇など、ここに智勇の力があるとされた」とある。ならば「異胆」とは、”他人の智勇・こころ”の意味となろう。
ただし残念ながら「膽」もまた、甲骨文にも金文にも無い。部品の「詹」すら出てこない。
白川静『字通』
(楚系戦国文字)「詹」字の初形は厂+八+言。金文の〔国差𦉜〕の缶詹の従う字形によって考えると、字は厂と八と言とに従う。厂は厂(巌)、巌下のところで祝禱し、そこに神意の彷彿として下る形(八)を示す。尚・兌・容の字形に含まれる八は、みな神気の象。その呪誦の言を詹という。〔荘子、斉物論〕「小言は詹詹たるなり」のように、つぶやくような声をいう。〔説文〕二上に「多言するなり。言に従い、八に従い、厃に従う」とする。譫言のような呪誦の意である。すべて数の多いこと、濃厚でないものを詹という。
ただし「タン」という音の言葉に、”ブツブツ言う”の意があると分かった。”おかしなな他人のタンは放っておきなさい”。孔子は、他人が無いチエ絞ってブツブツ言いに来ても、「そうそうそうだね、じゃ、あっちへ行こうね」と追っ払うことを指導したのだ、と思いたい。
攻乎異端
さて以上を踏まえて、「異端」が火あぶり的なそれでないこと、「攻」が”おさめる・学ぶ”の意ではないことをもう少し説明しよう。まずここでの「乎」は目的語を導く格助詞のような働きをしており、「を」と読んでかまわない。
「乎~」は、「~に」「~を」「~より」とよむ。起点・対象・比較・受身の意を示す。《同義語》於・于。「君子所貴乎道者三=君子の道に貴ぶ所の者は三つ」〈君子が礼について尊ぶことは三つあります〉〔論語・泰伯〕(藤堂明保『学研漢和大字典』)
次に「異端」だが、論語に次ぐ孔子語録である『孔子家語』に、次のような一節がある。
子貢問於孔子曰:「昔者齊君問政於夫子,夫子曰:『政在節財。』魯君問政於夫子,夫子曰:『政在諭臣。』葉公問政於夫子,夫子曰:『政在悅近而來遠。』三者之問一也,而夫子應之不同,然政在異端乎?」
子貢が孔子に質問した。「むかし先生は斉の殿様に政治を問われて…と答え、魯の殿様に…と答え、楚の葉公に…と答えました。問いは同じなのに答えは違っています。ならば政治には異端があるのですか。」(弁政篇1)
ここでの「異端」はどう曲解しても、孔子が示したそれぞれ別の正解、と解釈するしかない。異端=異なった意見、が確定するなら、異端を学ぶことは「害のみ」とは言えない。従って「攻」も「おさめる」と読んで”学ぶ”意に解するのは、間違いだということになる。
また論語衛霊公篇40は、史実の孔子の肉声と思われるが、次のように言っている。
異端を攻めるは、これ害なるのみ。それぞれ立場が異なったおかしな意見を、責めてもよいことなどありはしない。孔子はそう言いたかったのだ。
『孔子家語』の正統・正当性には異論があるが、荀子・礼記・韓詩外伝・説苑など、筋目正しい儒学書から孔子の言葉を抜き書きしている点は揺るがず、論語に次ぐ孔子語録として扱っていい。しかも定州漢墓竹簡の発掘により、その成立は前漢まで遡ると示唆されている。
流布に際して撰者の王粛がやった小細工など、内容の重さに比べれば些細なものだ。それに引き換え通説の、火あぶり的解釈がどこに淵源があるかと言えば、後漢末から南北朝にかけて編まれた、古注に記された儒者の個人的感想だった。
古注『論語集解義疏』
註攻治也善道有統故殊途而同歸異端不同歸者也疏…異端謂雜書也言人若不學六籍正典而雜學於諸子百家此則為害之深故云攻乎異端斯害也已矣斯害也已矣者為害之深也
註。攻は治むる也。善き道は統有り、故に殊なる途にし而同じく歸るも、異端は同じく歸ら不る者也。疏…異端は雜なる書を謂う也。言うらくは人若し六籍の正典を學ば不し而、諸子百家於雜に學ばば、此れ則ち害之深きを為す、故に乎異端を攻むるは斯れ害也る已矣と云う。斯害也已矣者、害之深き為る也。
注釈。攻はおさめる、の意だ。善い道というのは根本が同じであって、違う枝道があっても結局は同じ本道に帰る。しかし異端は同じ本道に帰らないものをいう。
付け足し。…異端とは有象無象の書物を言う。本文が説くのは、人がもし儒教正統の、易経・詩経・書経・春秋・礼記・楽記または周礼を学ばず、諸子百家の雑な教えを学べば、とりもなおさずとんでもない害を被ることを言う。だから異端を学ぶのは害になるだけだ、と言ったのだ。斯害也已矣者とは、害のうちでもとりわけひどいものを言う。
雜の原義は”ボロ布”だ。「異端は雜なる書を謂う也…諸子百家於雜に學ばば」とか、儒教の国教化から600年も過ぎると、儒者は高慢ちきにも他学派を雑巾扱いしている。平野画伯の「雑多な小火器で健気にも立ち上がってきたのを、ドーラの4.8t榴爆弾で…」を思わせる。
他に書きようがあるだろう。正気の沙汰とは思えない。狂信無くしてありえぬことだ。しかも古注が編まれた西晋から南朝とは、中国史上極めつけにふざけた時代で、門閥として代々社会に巣食ったあげく、国を食い潰した高官が、「ワシの知ったことではない」と開き直る始末。
皇帝は寺に身売りし、臣下がこぞって買い戻す芝居をし、不真面目と怠惰が粋と混同され、儒者は真面目に勉強せず、昼間から酒に酔っ払ったり、あぶない𠂊ス刂を飲んではうろつき回っていた時代。とてもではないが、他学派を雑巾呼ばわりできるほど立派ではなかった。
穀潰しとふざけた皇帝の身売りについて詳細は下記「余話」にて。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では「きは」と読み、”そういう行為一般”の意。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
害(カイ/カツ)
(金文)
論語の本章では”損害”。初出は西周中期の金文。「ガイ」「ガチ」は呉音。上古音の同音は存在しない。近音に「盍」”覆う”gʰɑp(去)、「蓋」gʰɑp(入)など。字形は「車轄」=”車の輪が外れるのを防ぐくさび”で、「轄」の初出は楚系戦国文字、それまでは「害」と書かれた。車轄には刃物を取り付けて敵軍を傷付けたことから、”そこなう”の意になった。派生字「割」は、車轄を割り入れることから起こった字と思われる。金文では”大きい”、”乞い願う”の意に、また人名に用いた。西周末期の「毛公鼎」の釈文は、「なんぞ」か「そこなう」か決めがたい。詳細は論語語釈「害」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。ただし詠歎「かな」と解しても誤りではない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
已(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…てしまう”の派生義として”…だけだ”。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
也已(のみ)
伝統的な訓み下しでは、二字で「のみ」と読み、”…だけだ”と訳す。それでも構わないが、論語の時代は一漢字一語が原則なので、分けて扱った。
古注はおおむね「也已矣」と記す。
皇本「已」下有「矣」字。 天文本論語校勘記:天文本「已」下有「矣」字,古本、唐本、津藩本、正平本同。(『論語集釋』)
しかし先行する定州竹簡論語では「也已」で終わっており、「已」以降に判読不能文字がある事を示す記号は無いから、前漢後半以降に「矣」が付け加わったことになる。さらに語関西末期の漢石経でも「矣」は記さない。要するにふざけた南朝儒者が、もったい付けてくっつけた、というわけだ。
論語:付記
検証
論語の本章は、後漢末期の漢石経には断片が残るが、文献では南北朝期に成立の『後漢書』鄭范伝まで、先秦両漢の誰一人引用していない。また”邪説”という意味での「異端」は、前漢初期の『韓詩外伝』巻六が初出になる。従って本章を孔子の言葉とするなら、”おかしな意見を攻撃しても益は無い”と解するしか無い。
解説
論語の本章は、孔子が弟子に対して、自立してものを考え、自立して言ったり行動したりすることが大切か、諭した言葉と受け取れる。人の数だけ正義があるのだからそれに文句は付けず、自分の正義を確立しなさい。これは前々章の主張とも合致する。
現代の論語読者が異端という言葉を聞くと、カッパ頭の酷薄そうなローマ坊主が出てきて、あわれな被告を拷問したり、火あぶりにかけたりするけしきを想像すると想像するが、論語時代の異端には、そのような意味はない。加えて熟語として成立していたかも極めて怪しい。
論語本章に言う異端とは、上記の通り珍しい正義のことで、孔子は人の数だけ宇宙があり、正義は人によって違うことを理解していた。確かに孔子は、『孔子家語』にあるように、自分とは考えの違う少正卯を処刑したかも知れないが、だからといって他学派を認めなかったわけではない。
例えば孔子は鄭の家老・子産を賢者として褒め称えているが(論語公冶長篇15)、子産は孔子の嫌う法の公開に踏み切った人で、孔子はそれを承知で讃えている。また異端呼ばわりして学問の幅を狭めるなら、論語学而篇6で説いた、幅広い人から学ぶのが不可能になる。
漢文を読む時、日本語の意味に釣り込まれて読み誤るのを、「和臭」と江戸の儒者は言ったが、論語の本章を異端審問のように解するのはその例。加えて論語は古典として最古の部類に入るから、読解にはできるだけ熟語的解釈を取り除き、単漢字の意味をさぐる必要がある。
つまり論語の時代では、まだ言葉が熟していないわけ。もちろん中国語史としては、少なくとも甲骨文字が出土する殷後期以降の伝統があるから、熟語が皆無とは言わない。しかし中国語は現在も原則として、一漢字が一単語を表すので、原意を知るには辞書を引く手間が不可欠。
詳細は論語解説「漢文が読めるようになる方法2022」を参照。
なお上掲の『孔子家語』の、読み下しと訳を記す。
子貢孔子於問うて曰く、「昔者齊君政を夫子於問うて、夫子曰く、『政は財を節むに在り』と。魯君政を夫子於問うて、夫子曰く、『政は臣を諭すに在り』と。葉公政を夫子於問うて、夫子曰く、『政は近きを悅こばせ而遠きを來らすに在り』と。三者之問は一也、し而夫子之に應えて同じから不。然らば政は異端在る乎」と。
子貢が孔子に質問して言った。「以前、斉の殿様が政治を先生に問うて、先生は”政治は費用を節約するのが肝心です”と仰いました。魯の殿様が政治を先生に問うて、先生は”政治は家臣を教え諭すのが肝心です”と仰いました。楚の葉公が政治を先生に問うて、先生は”政治は手近な住民を喜ばせ、遠くの民が慕い寄ってくるのが肝心です”と仰いました。お三方の問いは一つですのに、先生はお答えして同じでないことを申し上げました。となると、政治には異なった正解があるのですか。」
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰攻乎異端斯害也已矣註攻治也善道有統故殊途而同歸異端不同歸者也
本文「子曰攻乎異端斯害也已」。
注釈。攻とはものごとを整えることである。生き方をよくするのには伝統的な方法に従うべきで、だから変な方法に従うのは、従うと言っても伝統的な方法とはまるで違った結果になる。
新注『論語集注』
子曰:「攻乎異端,斯害也已!」范氏曰:「攻,專治也,故治木石金玉之工曰攻。異端,非聖人之道,而別為一端,如楊墨是也。其率天下至於無父無君,專治而欲精之,為害甚矣!」程子曰「佛氏之言,比之楊墨,尤為近理,所以其害為尤甚。學者當如淫聲美色以遠之,不爾,則駸駸然入於其中矣。」
本文「子曰:攻乎異端,斯害也已!」
范祖禹「攻とは専門としてものごとを仕上げることである。だから木石金玉を加工するのも攻という。異端とは、聖人の道ではない道で、別の学派として世に出たのをいい、列子や墨子の学派がそうである。こやつらは天下にデタラメを広めて、この世には父も主君もいないといい、自文の欲望を満たすことだけを説いた。ものすごく害のある連中であるなあ!」
程頤「坊主どもの言い分は列子や墨子とよく似ており、あやつらの害は一番ひどい。儒学を学ぶ者は、こんなインチキで耳障りだけがいい話を遠ざけねばならぬ。そうでないと、うっかり釣り込まれて馬鹿になってしまう。」
余話
魏晋南朝の不真面目
上掲晋と南朝の「中国史上極めつけにふざけた時代」については、次の通り。
越之討苟晞也,衍以太尉為太傅軍司。及越薨,眾共推為元帥。衍以賊寇鋒起,懼不敢當。辭曰:「吾少無宦情,隨牒推移,遂至於此。今日之事,安可以非才處之。」俄而舉軍為石勒所破,勒呼王公,與之相見,問衍以晉故。衍為陳禍敗之由,雲計不在己。勒甚悅之,與語移日。衍自說少不豫事,欲求自免,因勸勒稱尊號。勒怒曰:「君名蓋四海,身居重任,少壯登朝,至於白首,何得言不豫世事邪!破壞天下,正是君罪。」使左右扶出。謂其党孔萇曰:「吾行天下多矣,未嘗見如此人,當可活不?」萇曰:「彼晉之三公,必不為我盡力,又何足貴乎!」勒曰:「要不可加以鋒刃也。」使人夜排牆填殺之。衍將死,顧而言曰:「嗚呼!吾曹雖不如古人,向若不祖尚浮虛,戮力以匡天下,猶可不至今日。」時年五十六。
(すでに分裂状態にあった西晋の東海王)越が挙兵して苟晞と戦うに際し、王衍(皇帝を凌ぐ権勢を誇った琅邪王氏の一人)が大尉(陸相兼参謀総長兼軍事参議官)兼侍従武官長になった。越が破れて死ぬと、将兵から推戴されて元帥になった。だが石勒(五胡の一つ、羯族の頭領)が攻め込んでくると、王衍は恐れて戦わなかった。その言い訳。
「私は子供の頃から役人になる気が無かったのに、なりゆきでこんな事になってしまった。こんにちの事態も、私のせいではない。」それでも仕方なく出陣したが石勒に破れてしまった。石勒は捕らえた西晋の有力者を引見し、王衍も引き出された。
石勒「どうして晋はこんなことになったのか?」王衍はあれこれの言い訳を並べた挙げ句、「計りごと己に在らず(こんな事になるなんて知りませんでした)」と言った。石勒は(苦労人上がりで、かつて晋の奴隷に売られたこともある。雲の上だった王衍に頭を下げられたので)機嫌を良くして、数日間語り合った。王衍は図に乗り、さらに言い訳を並べ立て、「釈放して下されば、あなたを帝位に就けて差し上げましょう」とへつらった。
するとついに石勒は怒り出し、「お前の名声は天下に轟いている。代々国家の重職を独占しておきながら、少しも国のために働かず、自分から降参しておきながら、知りませんとは何事か。晋を滅ぼしたのは、お前のような穀潰しどもだ。」そう言って連れ出させた。
そして一族の孔萇に言った。「ワシは広く天下を駆け回ってきたが、あんな奴は見たことがない。生かしておく必要があるか?」孔萇「あれでも晋の三公(最高官職)です。我らのためには働かんでしょう。丁重に扱う必要もありません。」石勒「そうだな。だがあんな奴、刀で斬ったら武人の名折れだ。」
というわけで生き埋めで殺された。その直前、王衍は「ああ、我らは先祖のような働きが出来ず、世間に甘やかされて浮ついた生活をしてしまった。天下のために精一杯働いていれば、こんなことにはならなかったのに。」享年五十六だった。(『晋書』王衍伝)
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