論語における「徳」

「徳」とは人間や生物が持つ”機能”、およびそれが発揮された結果”能力”・”利益”・”恩恵”を意味する。”人徳”とは本来その意味であり、”道徳”=”社会から要請される行動原則”の語義が付け加わったのは、早くとも戦国時代になる。諸国は領民に愛国心を植え付けねば生き残れず、そのために発明された概念だった。

「德」(徳)の字を『学研漢和大字典』で引くと次のように書いてある。

藤堂明保 藤堂明保 学研漢和大字典
会意兼形声。その原字は悳(トク)と書き「心+(音符)直」の会意兼形声文字で、もと、本性のままのすなおな心の意。徳はのち、それに彳印を加えて、すなおな本性(良心)に基づく行いを示したもの。直(まっすぐ)と同系。

  1. {名詞}本性。うまれつきの人がら。「全徳=徳を全うす」「君子之徳風、小人之徳草=君子之徳は風なり、小人之徳は草なり」〔論語・顔淵〕
  2. {名詞}ものに備わった本性。▽五行説では、秦(シン)は水徳、漢は火徳などといい、また、春の徳は木、夏の徳は火、秋の徳は金、冬の徳は水、中央の徳は土という。
  3. {名詞}道徳。「失徳=徳を失ふ」。
  4. {名詞}本性の良心をみがきあげたすぐれた人格。「有徳之人」「為政以徳=政を為すに徳を以てす」〔論語・為政〕
  5. {名詞}恩恵。《類義語》恵。「記徳=徳を記す」「何以報徳=何を以てか徳に報いん」〔論語・憲問〕。「負戴之徳、何可忘哉=負戴の徳、何ぞ忘るべけん哉」〔捜神記〕
  6. (トクス){動詞}恩恵を与える。《類義語》得。「吾為若徳=吾若の為に徳せん」〔史記・項羽〕
  7. (トクトス){動詞}恩を感じる。ありがたく思う。「然則徳我乎=然らば則ち我を徳とするか」〔春秋左氏伝・成三〕
  8. {形容詞}恵みがこもった。ありがたい。「徳政」。
  9. {名詞}利益。もうけ。▽得に当てた用法。「徳用」。
  10. 《俗語》「徳国(トオクオ)」とは、ドイツのこと。

徳 甲骨文
「徳」甲骨文合集20547

ただ残念ながらこの解字は、甲骨文を参照できなかった古い説で、原字は「悳」ではなく、「心」を欠き、「彳」が加わっていた。甲骨文の字形はいずれも「目」の上に縦線を加え、道の左右をじっと見つめるさまで、縦線は歩行の筋を示すのだろう(論語語釈「徳」)。

つまり「徳」の原形は、道を行きつつ左右を監視する目付役の姿であり、原義は”監視する”が正しい。『字通』も概ねその説を取る。「徳」に「心」が加わるのは西周早期の金文からで、欠かさず記されるようになったのは西周末期以降になる。論語の時代はそこに相当する。

「小学堂」徳条字形演変

「小学堂」徳条字形演変

ただしその語義は甲骨文を引き継いで、威圧しされる心理状態、つまり人格的迫力を指すと解するべきだが、伝統的には『学研漢和大字典』のような”素直”・”道徳”の解釈が主流で、「漢語多功能字庫」など中国では今なおこの説を取る。

監視するのは威圧することであり、目付役の地位や権能を発揮することでもある。水戸の黄門様は印籠を出すから悪代官もひれ伏すのであり、印籠は黄門様の権能の象徴でもある。「徳」を見せられる側から見れば、「徳」とは発揮する者の威力・権能を含めた”機能”のことだ。

もちろん黄門様の「徳」には、介さん格さん弥七にお銀といった、えげつないカを備えたお付きも含まれている。孔子の最晩年になるまで、君子=貴族の本領は戦場働きにあり、それゆえ従軍しない庶民の社会に特権を説明できた。「徳」はカさえ意味し得たのだった。

この「徳」を”道徳”と理解しては読めない論語の章がある。

いはく、はそのちからたたへず、とくたたふ。(論語憲問篇35)

この章は「驥」の字が戦国時代にならないと現れないことから、史実性にやや難があるのだが、それに目をつぶれば、孔子が駿馬の力ではなく「徳」を讃えたと読める。しかし「馬の徳ってなんだ」と聞かれて、答えられる人は居ないだろう。

さあ事だ 馬のしょうべん 舟の上(江戸川柳)

所構わず大小便を垂れる動物に、「徳」などありはしない。この解読不能は、「徳」を”道徳”と考えるからで、”機能”と解すれば、”人は名馬が走るともてはやすが、走らずとも、もともとその機能を備えているのに気付かないのだろうか”とここでの孔子の言葉を理解出来る。

そして前漢までは、このような正確な理解が出来ていた。

いはく、ちからたたへざるなりとくたたふるなり。(定州漢墓竹簡『論語』)

「徳」=「得」、つまり機能を発揮して得たもの、能力を讃えると言ったのだ。定州漢墓竹簡は現存最古の論語の版本で、欠損だらけだがこれより古い『論語』は2022年1月現在存在しない。すると後漢~南北朝の儒者が「得」を「徳」に書き換えた可能性すらあるわけだ。

また次のような例もある。

いはく、てんとくわれせり、桓魋くわんたいわれ如何いかんせん。(論語述而篇22)

桓魋とは孔子の弟子だった司馬牛の兄で、宋国の将軍。司馬牛はおそらく孔子に政治利用された挙げ句に窮死したのだが、本章はそれに怒った桓魋が、孔子害に押しかけた時の孔子の言葉。”道徳”を天に授けられたからといって、しに来た桓魋が恐れ入るわけがない。

孔子は春秋の君子=貴族に相応しく、自身も素手で人をせるえげつないカを身につけていた(論語における君子)。引き連れた弟子も重武装しており、放浪中に激しい戦いがあったことを『史記』は記している。”貴様ごときにやられたりするか”と孔子は言ったのだ。

また「徳」は”機能”だけでなく、それによって発揮される効果をも意味した。

いはく、まつりごとととのふるにとくもちふ。たとへば北辰ななつぼしごとし。ところ衆星もろほしこれしたがふ。(論語為政篇1)

為政者の人徳や道徳的お説教で、政治が回ることはあり得ない。この章で「徳」というのは、発揮された結果の”利益”や”利権”であり、政治の要諦は利益分配であることを示している。どう分配しようと必ず不満を持つ者が出る政治の困難を、宰相を務めた孔子はよく知っていた。

余談ながら「道徳」は”社会がそうあれと望む行動原則”であり、「倫理」は”個人がそうあれと望む行動原則”。後者の例は『孟子』公孫丑篇に言う「千万人といえども吾往かん」だが、前者を春秋の君子に当てはめると、やはり無理なく”君子に期待される能力”と解しうる。

もちろん論語の中には、”道徳”と解さないと読めない話はあるが、それらはいずれも文字史から見て、春秋時代の言葉とは言えない文字列ばかりで、言い換えると孔子の没後、「徳」の意味が大きく変わったことを意味している。

「徳」をメルヘンチックに解し始めたのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子とされる。

孟子曰:「以力假仁者霸,霸必有大國,以德行仁者王,王不待大。湯以七十里,文王以百里。以力服人者,非心服也,力不贍也;以德服人者,中心悅而誠服也,如七十子之服孔子也。《詩》云:『自西自東,自南自北,無思不服。』此之謂也。」


孟子が申しました。「力で仁者のふりをする者を覇者と言い、覇者は必ず大国の主だ。徳を用いて仁者の行いをする者を王者と言い、王者は領土の広さに頼らない。殷の湯王は七十里しか領地がなく、周の文王は百里しか領地がなかった(が、天下を取った)。力で人に従わされている者は、心から服従したりしない。力だって無限にあるわけではない。徳で人に従う者は、心から喜んで偽りなく従う。七十人の弟子が孔子に従ったのがその例である。古詩に言う、”東西南北どこの者でも、従いたくないと思う者はいなかった”と。これが徳による政治というものだ。」(『孟子』公孫丑上3)

だがこれですっかり「徳」=「道徳」になったわけではない。『孟子』も『論語』と同程度には、後世の創作や改編が加わっている。「徳」を相変わらず”機能”・”利得”と捉えた中国人もいた。戦国最末期、ウソには即クビ刎ねで応じたのちの始皇帝に、韓非はこう説いている。

人主者、以刑德制臣者也,今君人者、釋其刑德而使臣用之,則君反制於臣矣。故田常上請爵祿而行之群臣,下大斗斛而施於百姓,此簡公失德而田常用之也,故簡公見弒。


人の主君たる者、刑罰と徳=褒美で家臣を従えるものだ。ところが今の君主は、刑罰と褒美の決定権を手放し、家臣に運用させている。だからかえって家臣に従わされるはめになった。むかし斉の田常は、群臣への褒美を君主の簡公に口利きしてやって恩を売り、わざと大きく作った枡で民衆に施して恩を売ったが、こうやって簡公は徳=力を失い田常がその力を奪った。その結果簡公は田常にされた。(『韓非子』二柄1)

※「刑徳」を”刑罰の力”と解することも可能。

そして徳を道徳だと言い回った前後の漢儒も、本当の語義は”機能”だと知っていた。

狐:䄏獸也。鬼所乘之。有三徳:其色中和,小前大後,死則丘首。从犬瓜聲。


狐、妖獣である。亡霊が乗騎とする。三つの徳があり、その色は中和している。前脚が小さく後ろ脚が大きく、死に際に生まれた丘を向いて死ぬ。字形は犬に従い、音は瓜である。(『説文解字』巻11犬部・狐)

つまり儒者にとって人間以外の動物は政治の対象ではないから、道徳だという嘘っぱちを言う必要が無かったわけだ。歴代の儒者の書き物を読んで、時折メルヘンが過ぎると感じるが、彼らはメルヘンの通じない相手には、事実を言う合理性を持っていた。

つまり利「得」のために正気でおかしな事を言うのも、人間の「徳」の一つである。

現代の論語読者は以上を踏まえて、その章の史実性を検討した上で、どのような語義を当てはめるか考える必要がある。これは「徳」に限ったことではないが、権威といえども盲信せず、一字一句をおろそかにせず、合理的な判断を頼りに、古典は読まれるべきだと訳者は思う。



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