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孟子は曽子をどう見たか

曽子は論語に孔子との対話が一つしかなく(論語里仁篇15)、それも偽作の上に、明らかに曽子神格化のために作られた話と分かる。従って孔子の直弟子とは思えないのだが、孔子没後一世紀に生まれた孟子は、かろうじて孔門の史実を伝え聞いただろう。では孟子は曽子をどのように記しているだろうか。本稿は『孟子』から曽子を扱った部分を切り出して並べることで、曽子の実情を知るよすがにしようとする。

梁恵王下19

鄒與魯鬨。穆公問曰:「吾有司死者三十三人,而民莫之死也。誅之,則不可勝誅;不誅,則疾視其長上之死而不救,如之何則可也?」
孟子對曰:「凶年饑歲,君之民老弱轉乎溝壑,壯者散而之四方者,幾千人矣;而君之倉廩實,府庫充,有司莫以告,是上慢而殘下也。曾子曰:『戒之戒之!出乎爾者,反乎爾者也。』夫民今而後得反之也。君無尤焉。君行仁政,斯民親其上、死其長矣。」


孟子の生国、鄒(スウ)(=邾(チュ))と魯が戦った。鄒の穆公が問うた。「我が方には将校の戦死者が33人出た。ところが徴兵した兵卒には1人もいない。逃亡の罪で処刑してやろうと思うが数が多すぎる。だが処刑しなければ今後も上官の死ぬ目を見るのが怖さに助けないだろう。どうすればいい?」

孟子「かつて飢饉の年、殿の領民のうち弱者はばたばたと倒れ、強者は四方へ逃げ散りました。合わせて数千にはなるでしょう。それなのに収税した穀物の倉はいっぱいで、布や貨幣の蔵も一杯でした。仕官した者は嬉しがり、殿にこの実情を訴えもしませんでした。お上が民衆をいたぶったのです。むかし曽子は言いました。”用心用心、自分から出たものは、きっと自分に返ってくる”と。民は今になって、いじめられた仕返しをしたのです。罰してはなりません。殿が情け深い政治を行えば、民はお上を敬って、上官のために命を投げ出すでしょう。」

穆公:位BC382?-BC330?。魯の穆公だとすると位BC415-BC383となり、孟子BC372?-BC289?と時代が合わない。

公孫丑上2

公孫丑問曰:「夫子加齊之卿相,得行道焉,雖由此霸王不異矣。如此,則動心否乎?」
孟子曰:「否。我四十不動心。」
曰:「若是,則夫子過孟賁遠矣。」
曰:「是不難,告子先我不動心。」
曰:「不動心有道乎?」
曰:「有。北宮黝之養勇也,不膚撓,不目逃,思以一豪挫於人,若撻之於市朝。不受於褐寬博,亦不受於萬乘之君。視刺萬乘之君,若刺褐夫。無嚴諸侯。惡聲至,必反之。孟施舍之所養勇也,曰:『視不勝猶勝也。量敵而後進,慮勝而後會,是畏三軍者也。舍豈能為必勝哉?能無懼而已矣。』孟施舍似曾子,北宮黝似子夏。夫二子之勇,未知其孰賢,然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰:『子好勇乎?吾嘗聞大勇於夫子矣:自反而不縮,雖褐寬博,吾不惴焉;自反而縮,雖千萬人,吾往矣。』孟施舍之守氣,又不如曾子之守約也。」孟施舍之所養勇也,曰:『視不勝猶勝也。量敵而後進,慮勝而後會,是畏三軍者也。舍豈能為必勝哉?能無懼而已矣。』孟施舍似曾子,北宮黝似子夏。夫二子之勇,未知其孰賢,然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰:『子好勇乎?吾嘗聞大勇於夫子矣:自反而不縮,雖褐寬博,吾不惴焉;自反而縮,雖千萬人,吾往矣。』孟施舍之守氣,又不如曾子之守約也。」


公孫丑「先生が斉国の閣僚となり、正しい政道を実施できれば、斉王を覇王同然にできて不思議はありません。もしそうなったら、嬉しくてウキウキするでしょうね。」

孟子「いいや。ワシは四十を過ぎてから不動心を得た。」
公孫丑「はああ。それではあの怪力無双な、秦の孟賁将軍よりすごいことになりますね。」

孟子「大した事じゃない。告子の奴がこういう不動心を先に身につけていたよ。」
公孫丑「へええ。不動心には身に付く法が有るんですか?」

孟子「あるぞ。まず北宮黝(ユウ)が勇気を養うには、筋肉をムキムキに鍛え、戦場では逃げるつもりを持たず、ひとえに敵兵をぶちのめすことを願い、ボコボコにしてまるで市場で見せしめに百叩きを喰らわせるようだ。気位が高くて町のヤクザからの付け届けも、戦車万乗の国王からの施しも受けない。じっと国王を睨み付ける様は、町のヤクザをねめつけるのと変わらない。諸侯だろうと恐れず、悪口を言われると必ず殴刂込みに行く。

次に孟施舍が勇気を養うにあたり、こう言った。”勝てそうにない奴にも勝つ法がある。敵の力を見極めてから前進し、勝算が立ってから軍勢を薦めるのは、国軍の損失を恐れる者のやり方だ。これでワシが必ず勝てる道理が有るか。いかなる大敵も恐れず戦うのみだ”と。

孟施舍のやり方は曽子に似ているし、北宮黝のやり方は子夏に似ている。二人の勇気は、どちらが偉いとは言えないが、孟施舍はまだ控えめだ。

むかし曽子が子襄に言ったという。”へえ。あなたは勇気を尊ぶようですね。私は以前、孔子先生に勇気の奥義を聞きました。自分を反省してやましくなければ、ヤクザに脅されても行きたくないところには行かない。自分を反省してやましければ、千万人が引き止めても、行くべきところに行くことだ、と”。つまり孟施舍が勇気を養ったやり方は、曽子の謙虚には及ばない。」

公孫丑下11

景子曰:「否,非此之謂也。禮曰:『父召,無諾;君命召,不俟駕。』固將朝也,聞王命而遂不果,宜與夫禮若不相似然。」
曰:「豈謂是與?曾子曰:『晉楚之富,不可及也。彼以其富,我以吾仁;彼以其爵,我以吾義,吾何慊乎哉?』夫豈不義而曾子言之?是或一道也。天下有達尊三:爵一,齒一,德一。朝廷莫如爵,鄉黨莫如齒,輔世長民莫如德。惡得有其一,以慢其二哉?故將大有為之君,必有所不召之臣。欲有謀焉,則就之。其尊德樂道,不如是不足與有為也。故湯之於伊尹,學焉而後臣之,故不勞而王;桓公之於管仲,學焉而後臣之,故不勞而霸。今天下地醜德齊,莫能相尚。無他,好臣其所教,而不好臣其所受教。湯之於伊尹,桓公之於管仲,則不敢召。管仲且猶不可召,而況不為管仲者乎?」惡得有其一,以慢其二哉?故將大有為之君,必有所不召之臣。欲有謀焉,則就之。其尊德樂道,不如是不足與有為也。故湯之於伊尹,學焉而後臣之,故不勞而王;桓公之於管仲,學焉而後臣之,故不勞而霸。今天下地醜德齊,莫能相尚。無他,好臣其所教,而不好臣其所受教。湯之於伊尹,桓公之於管仲,則不敢召。管仲且猶不可召,而況不為管仲者乎?」


(孟子が斉王の呼び出しを、仮病を使って断った。その上外出し、さらに斉の家臣の景子の屋敷に泊まった。景子が”いかんでしょう”と言うと、孟子が言いくるめにかかった。)

景子「いや、そういう話じゃありません。礼法に言うではありませんか。父が呼べば、返事をするより前に行け、主君が呼んだら、馬車の用意を待たずに行け、と。明日には急いで参内すべきです。王の命を聞きながら無視していると、礼儀作法に外れることになりはしませんか。」

孟子「そうですかな? むかし曽子が言いました。”晋や楚の殿様には、どうやってもその財産に勝てない。だから勝手に財産を使ったらいい。私は私の仁義を実践するまでだ。殿様は爵位で人を従わせるが、私は私の正義を貫くまでだ。何でおそれ敬う必要があろうか”と。

もしこういう態度が正義に背くなら、曽子がこんな話をしたわけがない。曽子が言ったのは、正義の揺るぎない一線です。天下で尊ばれるのは三つ、爵位と年齢と人徳です。朝廷では爵位が一番尊ばれ、村々では年齢が一番尊ばれ、世を治め民生向上を図るには人徳が一番です。

ですがこのうち一つがあるからと言って、残り二つをないがしろには出来ません。だから偉大な君主の下には、必ず言うことを聞かない臣下がいるのです。そうした家臣に相談したいなら、主君は自分から出向くべきなのです。口先で人徳を尊び理想の政道を行うと言いながら、そうした家臣のところへ出向かないのは、大事業を成し遂げる君主の器ではありません。

だから殷の湯王は、まず賢臣伊尹に学んでから家臣の列に加えました。だから政治を任せきりにしても王者でいられたのです。覇者桓公も名臣管仲に、まず学んでから家臣の列に加えました。だから政務を任せきりにしても覇者でいられたのです。

いま天下の諸侯国は、領地も国力も似たり寄ったりです。他国をすごいな、と思う諸侯は居ません。どうしたそうなったかと言えば、家臣が献策をするのを好んでも、家臣に教えられるのは嫌がるからです。湯王の伊尹、桓公の管仲のような人材は今でもいるのでしょうが、腹立たしくて呼ばないのです。

管仲のような人材を呼ばないのに、どうして管仲のような仕事の出来る家臣が出る道理があるでしょうか。」

滕文公上2

滕定公薨。世子謂然友曰:「昔者孟子嘗與我言於宋,於心終不忘。今也不幸至於大故,吾欲使子問於孟子,然後行事。」
然友之鄒問於孟子。孟子曰:「不亦善乎!親喪固所自盡也。曾子曰:『生事之以禮;死葬之以禮,祭之以禮,可謂孝矣。』諸侯之禮,吾未之學也;雖然,吾嘗聞之矣。三年之喪,齊疏之服,飦粥之食,自天子達於庶人,三代共之。」


滕の定公(位?-BC327)が世を去った。世継ぎ(=文公。位BC327-?)が然友に言った。「以前、孟子が宋国で私に言った事があり、それが心に忘れられない。いま、不幸にも父上を失った。だから私は孟子を呼んで、その教えを受けて葬儀を行いたい。」然友は鄒に赴いて孟子に「というわけですが」と問うた。

孟子「そりゃあいけません。親の葬儀というのは、自分でやり尽くさないといけません。むかし曽子が言いました。”親の生前は礼儀作法に従って奉仕し、没後は礼儀作法に従って弔い、礼儀作法に従って追善供養する。それでやっと孝行者になれる”と。諸侯の葬儀については、私はよく知りません。ただこういう話を聞いています。”三年間喪に服し、その間粗末な喪服で過ごし、質素なお粥のみ食べるのは、天子から庶民までみな同じだ”と。」

この曽子の発言は、論語為政篇5で孔子が友人の孟懿子に語った言葉の引き写しである。

孔子「親が生きている間も、亡くなった時も、亡くなった後も、世間の常識程度に孝行すれば、それで文句は出るまいよ。今跡取りの孟武伯どのがいるが、気に触ったことがあっても常識の範囲内なら、大目に見てやらにゃあいけませんぞ。」(論語為政篇5)

「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

滕文公上4

「吾聞用夏變夷者,未聞變於夷者也。陳良,楚產也。悅周公、仲尼之道,北學於中國。北方之學者,未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年,師死而遂倍之。昔者孔子沒,三年之外,門人治任將歸,入揖於子貢,相向而哭,皆失聲,然後歸。子貢反,築室於場,獨居三年,然後歸。他日,子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,彊曾子。曾子曰:『不可。江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』今也南蠻鴃舌之人,非先王之道,子倍子之師而學之,亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷于喬木者,末聞下喬木而入於幽谷者。《魯頌》曰:『戎狄是膺,荊舒是懲。』周公方且膺之,子是之學,亦為不善變矣。」


(南方の楚国から許行という遊説家が、神農の法を知ると言って滕の国へ来た。かつて陳良の弟子だった陳相と弟の陳辛は、その話を聞いて宋から滕へ来、許行の弟子になった。そして孟子に許行の学説を説教した。)

孟子「私は中華文明が野蛮を開化させた話は聞いているが、中華文明が野蛮に戻ったという話は聞いていない。陳良は楚国の生まれで、周公や孔子の教えをしたって、北に向かって中原諸国で学んだ。当時の中原の学者は、必ずしも陳良ほどの学識があったわけではないから、陳良はいわゆる豪傑のたぐいだった。あなた方兄弟は陳良に教えを受けて数十年、なのに陳良が世を去るとすぐさま変節した。

むかし孔子が亡くなったとき、弟子が三年の喪に服し終え、それぞれの任地に帰っていくとき、とりまとめ役の子貢に挨拶し、さらにお互い泣いたという。みな泣き尽くしてから、やっと帰った。子貢はみなを見送ると、自分だけお墓の側に小屋がけして、さらに三年の喪に服した。それが終わってからやっと帰った。

それからしばらくして、子夏、子張、子游の三人が、有若が孔子先生に顔が似ていると言って、孔子先生同様に師匠として仰ごうとした。曽子にも”そうしろ”と三人は言ったが、曽子は言い返した。”イヤですね。大河でジャブジャブ洗い、秋の陽にカンカンとさらした布のように、有若の頭は真っ白だ。こんなバカを拝むなんてとんでもない”と。

いま、南蛮出身の鳥のような言葉をしゃべる者(許行)が、先王の教えに背いており、あなたはあなたの先生だった陳良に背いて、その教えを受けている。曽子の節操とはまるで違う。私は、薄暗い谷間から生えた木が大木になる例は知っているが、大木が縮んで谷間の木の芽に戻ったという話は聞いたことがない。

詩経の魯頌にいわく、”西北の蛮族は引き込んで迎え撃て。南方の蛮族は懲らしめろ”と。周公なら間違いなく迎え撃ったはずの者を、あなたはその下で学んでいる。大変な破廉恥で変節だ。」

滕文公下17

公孫丑問曰:「不見諸侯何義?」
孟子曰:「古者不為臣不見。段干木踰垣而辟之,泄柳閉門而不內,是皆已甚。迫,斯可以見矣。陽貨欲見孔子而惡無禮,大夫有賜於士,不得受於其家,則往拜其門。陽貨矙孔子之亡也,而饋孔子蒸豚;孔子亦矙其亡也,而往拜之。當是時,陽貨先,豈得不見?曾子曰:『脅肩諂笑,病于夏畦。』子路曰:『未同而言,觀其色赧赧然,非由之所知也。』由是觀之,則君子之所養可知已矣。」


公孫丑「どうして諸侯に遊説しなくなったんです?」

孟子「むかしは家臣の列に列ならない者は、殿様に会うことは無かった。段干木は垣根を飛び越えて殿様を避け、泄柳は門を閉じて殿様を閉め出した。それほど殿様に会うのを嫌がった。どうしてもと願い倒されてから、やっと会うことにしたものだ。

陽貨は孔子に会おうとして、”無礼者”と言われるのがイヤだったから一計を案じ、家老格の陽貨が士分の孔子に贈り物をして、士分が留守だった場合返礼に出向かねばならない礼儀を使った。陽貨は孔子の留守を狙って、豚の丸焼きを贈ったのだが、孔子も陽貨の留守を狙って、返礼には行ったが会わずに済むようにした。この時陽貨が先手を打って、きちんと家で孔子を迎えたなら、孔子も会わないわけには行かなかっただろう。

曽子が言った。”首をすくめて愛想笑いするのは、実は夏の畑仕事よりくたびれる”と。子路が言った。”仲間でもないのに話をし、相手の顔色を窺っては恐れ入るのは、私に出来ることではない”と。こうした話を考えると、君子はどういう人格を磨くべきか、分かるというものだ。」

離婁上19

孟子曰:「事孰為大?事親為大;守孰為大?守身為大。不失其身而能事其親者,吾聞之矣;失其身而能事其親者,吾未之聞也。孰不為事?事親,事之本也;孰不為守?守身,守之本也。曾子養曾皙,必有酒肉。將徹,必請所與。問有餘,必曰『有』。曾皙死,曾元養曾子,必有酒肉。將徹,不請所與。問有餘,曰『亡矣』。將以復進也。此所謂養口體者也。若曾子,則可謂養志也。事親若曾子者,可也。」


孟子「一番奉仕すべきものはといえば、親に奉仕するのが一番だ。一番守るべきものはといえば、我が身を守る事が一番だ。我が身を守って親に奉仕できた者は、その例を聞いたことがあるが、我が身を失って親に奉仕できた者は、その例を聞いたことがない。

奉仕しない者はこの世に居ない。親に奉仕することが、奉仕の基本である。我が身を守らない者はこの世に居ない。身を守る事が、守る事の基本である。

曽子は父親の曾皙を養うに当たって、必ず酒と肉を食膳に上せた。片付ける前には、必ず”もうよろしいですか”と聞いた。”おかわりをくれ”と言われたときに、必ず”ではすぐ用意しましょう”と言った。

曾皙が死ぬと、曽元が曽子を養ったが、やはり食膳には酒と肉があった。ところが片付けるときに、黙ってさっさと片付けてしまい、”おかわりは”と言うと”もうありません”と言った。要するに、自分が養って貰った程度に恩返ししているだけだ。これがいわゆる、”ただ親の体に飲み食いさせるだけの孝行”だ。曽子ほどの孝行を尽くして、やっと”親を養う心がある”と言える。曽子のように親に奉仕して、それでやっと及第点なのだ。

離婁下59

曾子居武城,有越寇。或曰:「寇至,盍去諸?」曰:「無寓人於我室,毀傷其薪木。」寇退,則曰:「修我牆屋,我將反。」寇退,曾子反。左右曰:「待先生,如此其忠且敬也。寇至則先去以為民望,寇退則反,殆於不可。」沈猶行曰:「是非汝所知也。昔沈猶有負芻之禍,從先生者七十人,未有與焉。」
子思居於衛,有齊寇。或曰:「寇至,盍去諸?」子思曰:「如伋去,君誰與守?」
孟子曰:「曾子、子思同道。曾子,師也,父兄也;子思,臣也,微也。曾子、子思易地則皆然。」


曽子が武城(魯国南部のまち)に住んでいた。そこへ越軍が攻めてきた。

ある人「いくさが始まります。どうしてボンヤリしているのですか。」
曽子「どこぞの他人に、勝手に我が家に棲み着かれてはたまらない。逃げる前に叩き壊して薪にしてしまおう。」

やがて越軍が撤退した。曽子「では我が家を再建しよう。まちに帰るとするか。」
そう言って曽子が帰ろうとすると、身近な者が言った。

「先生ちょっとお待ちを。これが忠実で慎み深い者のすることですか。いくさが始まれば真っ先に参陣して民の希望を担い、敵軍が退いたら家に帰るのが君子の務めです。これでは君子らしくないと言われても仕方がありません。」

沈猶行が言った。「事の是非は君たちに分かることではない。むかし沈猶は負芻の戦乱をこの目で見たが、その時先生に従っていた者は七十人いた。だが従軍した者は一人もいなかった(先生はその時も従軍しなかったし、させなかったのだ)。」

子思が衛に住んでいた。そこへ斉軍が攻めてきた。

ある人「いくさが始まります。どうしてボンヤリしているのですか。」
子思「私のような(ひょろひょろ)者が戦場に出て行ったら(邪魔になるだけです)、あなたは一体誰と共に参陣するつもりですか(、もっと強い人を呼んだらいいでしょう)。」

孟子が申しました。「曽子と子思は同じ状況にあったが、曽子は大勢の弟子を引き連れていたし、老人でもあった。子思は一介の庶民に過ぎなかったし、何の力も無かった。曽子と子思が立場を変えても、どちらも正当な振る舞いと言える。」

盡心下82

曾皙嗜羊棗,而曾子不忍食羊棗。公孫丑問曰:「膾炙與羊棗孰美?」
孟子曰:「膾炙哉!」
公孫丑曰:「然則曾子何為食膾炙而不食羊棗?
曰:「膾炙所同也,羊棗所獨也。諱名不諱姓,姓所同也,名所獨也。」


曽子の父・曾皙はナツメで煮た羊のうま煮*を好んで食べた。だが曽子は食べようとしなかった。

公孫丑「膾(カイ)炙(シャ)(肉のたたき。刺身で食べられるほど新鮮な獣肉の表面だけあぶった料理。要するにバーベキュー)と羊のうま煮では、どちらがうまいですか?」
孟子「そりゃあもうたたきに決まっている。」

公孫丑「ではなぜ曽子は、たたきは食べたのにシナノガキは食べなかったのです?
孟子「たたきはみんなでわいわい食べるものだが、シナノガキは一人でこっそり食うものだ。誰かを呼ぶとき、本名は避けて言わないが、姓は呼べるだろう? 姓は一族に共有されているが、名はその人だけのものだ。(指を突きつけて呼ぶようなもので、不躾なことこの上ない。)

羊棗を羊のうま煮と訳したが、シナノガキだと言っている儒者もいる。しかし肉のたたきと比べてみすぼらしすぎ、話が成り立たない。

論語内容補足
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