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論語詳解253郷党篇第十(19)きはに色めきて’

論語郷党篇(19)要約:孔子先生が子路を連れて山遊び。めんどりが現れて遊びの気分を盛り上げます。めんどりに歌いかけた先生は、子路にえさをやらせましたが…後世の儒者は、子路がめんどりを捕らえてヤキトリにしたと濡れ衣を着せました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

色斯舉矣翔而後集曰山梁雌雉時哉時哉子路共之三臭而作

校訂

諸本

  • 武内本:嗅、説問齅に作る。五経文字云、説文齅の字経伝相承て嗅に作る。論語借りて臭に作る。臭は蓋し狊の誤、狊とは両翅を張る也。
  • 張参撰『五経文字』(唐代宗776年)巻上80:齅嗅、上說文下經典相承隷省。論語借臭字為之。

※「ケキ」に改めるのは、下記の通り宋儒の無根拠な個人的感想に過ぎない。

東洋文庫蔵清家本

色斯舉矣/翔而後集/曰山梁雌雉時哉子路共之三嗅而作

慶大蔵論語疏

色斯舉矣/翔而後集/曰山梁雌(雉)1時〻〔土夕乚丶〕2〻/子路共之/三臰3而作

  1. 傍記。
  2. 「哉」の異体字。「魏石門銘」(北魏)刻。
  3. 「臭」の異体字。「魏冀州刺史元壽安墓誌」(北魏)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

色斯舉矣、翔而後集。曰、「山梁雌、時〻哉〻。」子路共之、三臭而作。

復元白文(論語時代での表記)

色 金文斯 金文喬 金文矣 金文 揚 金文而 金文後 金文集 金文 曰 金文 山 金文梁 金文匕 金文 時 石鼓文論語 二 金文哉 金文論語 二 金文 哉 金文路 金文 共 金文之 金文 三 金文臭 金文而 金文作 金文

※舉→喬・翔→揚・雌→匕・供→共。論語の本章は、「作」の用法に疑問がある。

書き下し

きはいろめきてあがるの、かけのちあつまる。いはく、やまやなめんどりときなるぞやときなるぞやと。子路しろこれささげば、たびつ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

状況に気配を感じて飛び立ってしまったのが、空を舞ってまた集まる。言った。「山の魚梁やなのメス鳥よ、時だぞ、時だぞ。」子路がえさを差し上げた。三度(疑わしそうに)匂いを嗅いで飛び立った。

意訳

子路と孔子が山遊びをした。山に住むメス鳥たちは、人の気配に飛び立ったが、しばらく天を舞ってまた降りてきた。孔子はメス鳥に歌で呼びかけた。

孔子「♪コッコッコッコ、コケコちゃん。あなたにお昼をあげましょう。…子路や、鳥たちにえさをあげなさい。」

子路は孔子が歌いかけた鳥だから貴んで、丁寧にメス鳥たちにえさを与えた。だがメス鳥たちは三度匂いを嗅いだだけで、「キケーン!」と飛び立った。

従来訳

下村湖人

人のさま あやしと見てか、
鳥のむれ 空にとび立ち
舞い舞いて 輪を描きしが、
やがてまた 地にひそまりぬ。

師はいえり「み山の橋の
雌雉(めきじ)らは 時のよろしも、
雌雉らは 時のよろしも。」

子路ききて 腕(かいな)なでつつ、
雌雉らを とらんと寄れば、
雌雉らは 三たび鳴き交かい
舞い立ちぬ いずくともなく

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子郊游,看見野雞飛翔一陣後停在樹上,孔子神情一變,說:「山脊上的野雞啊,時運好啊!時運好!」子路向它們拱拱手,野雞長叫幾聲飛走了。

中国哲学書電子化計画

孔子が野遊びに出掛け、野生のニワトリが空を回って飛び、木の枝に止まったのを見た。孔子は感興を覚え、言った。「尾根の上を飛ぶ野生のニワトリや、今こそ良い時だぞ!良い時だぞ!」。子路は鳥たちに向かって手をこまねいて挨拶したが、野生のニワトリは何度か長く鳴いて飛び去った。

論語:語釈

、「 ()、 。」    


色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”気配を感じる”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

武内本の注には、「色斯は色然と同じ、驚飛のすがた」とある。結論は訳者と同意見だが、根拠は書いていない。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、「きは」と訓読して”状況”。どういう状況かは原文にない。おそらく孔子と子路が近づいた”状況”。

初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

舉(キョ)

挙 金文 舉 字解
「舉」(金文)

論語の本章では”飛び立つ”。新字体は「挙」。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。初出の字形は「與」(与)+「犬」で、犬を犠牲に捧げるさま。原義は恐らく”ささげる”。ただし初出を除く字形は「與」+「手」で、「與」が上下から両腕を出して象牙を受け渡す様だから、さらに「手」を加えたところで、字形からは語義が分からない。論語時代の置換候補は、”あげる”・”あがる”に限り近音の「喬」。また上古音で同音の「居」には”地位に就く”の意がある。詳細は論語語釈「挙」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…してしまう”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

翔*(ショウ)

翔 篆書 翔 字解
(篆書)

論語の本章では”羽ばたいて飛び上がる”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。字形は音符「羊」+「羽」。同音は「詳」「庠」”学び舎”、「祥」「痒」”病む”、「象」「像」「橡」”トキノキ”。近音に「揚」。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『荘子』にも用例がある。論語時代の置換候補は近音の「揚」。詳細は論語語釈「翔」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

後(コウ)

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その後で”。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

集*(シュウ)

集 甲骨文 集 字解
(甲骨文)

論語の本章では”集まる”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「木」。止まり木に鳥が集まっているさま。甲骨文・金文での語義はよく分からない。”あつまる”の意が確認できるのは戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「集」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

山(サン)

山 甲骨文 山 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”山”。初出は甲骨文。「セン」は呉音。甲骨文の字形は山の象形、原義は”やま”。甲骨文では原義、”山の神”、人名に用いた。金文では原義に、”某山”の山を示す接尾辞に、氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「山」を参照。

梁*(リョウ)

梁 金文 梁 字解
(金文)

論語の本章では”やな”。川の流れを一部せき止めて、魚を捕る仕掛け。初出は西周末期の金文。ただし字形は異体字の「氵刅」。現行字形の初出は晋系戦国文字。字形は「水」+「刅」”いばら”。原義不詳。ただし『大漢和辞典』に”やな”の語釈があり、トゲの多いイバラを束ねて川をせき止め、水は通すが大きな魚は通れないような仕掛けを表す字と解するのには無理が無い。

通説では川を渡る”橋”と解する。同音異調に「兩」があり、春秋時代以前の字形は橋の象形に見えなくもないから、論語の本章での「梁」は”橋”の意になりそうだが、ならばなぜ「〔氵兩〕」の字形にならなかったのか説明が付かない。西周の金文では人名に、春秋の金文では加えて穀物の”キビ”(コウリャン)の意に用いた。文献時代になると、家屋の”はり”・河を渡る”橋”の意が確認できる。詳細は論語語釈「梁」を参照。

論語の本章について”橋”と言い出したのは、古注に付け足し「疏」を記した南北朝の儒者で、「梁者以木架水上可踐渡水之處也」”梁とは木で造った川の上に架けた構造物で、川を渡れるしつらえである”と記す。記名が無いから南朝梁の皇侃による記入と解してよいが、孔子没後967年に生まれた男である上に、どうして”橋”の意になるか説明していない。孔子没後1411年に生まれた宋儒の邢昺も同様に”橋”説を取るが、もちろん根拠を言っていないから信用できない。

雌*(シ)

匕 甲骨文 雌 字解
(甲骨文)

論語の本章では”めんどり”。つくりが隹(ふるとり)だから、この一字だけで”めんどり”の意がある。”メスの”は唐石経以降に「雉」字が加わった場合の語釈。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし「匕」から未分化。甲骨文の由来は人の横姿で、袖の先が上に跳ね上がっているものだが、指示内容が明確でない。「匕」に「止」を加えて「此」”ここ”が派生し、さらに「隹」”鳥”を加えて「雌」となる。他方で「匕」に「牛」を加えて「牝」”雌牛”が派生した。同音に「此」「跐」”踏む”、「佌」”小さいさま”、「玼」”鮮やか・傷”、「泚」”きよい”、「庛」”鋤の部品”。部品の「此」に”メス”の意は無い。「隹」は”鳥”。甲骨文から”メス”の意に用いた。詳細は論語語釈「雌」を参照。

雉*(チ)→×

論語の本章は全体を定州竹簡論語・漢石経に欠き、次いで古い、隋代の中国筆写とみられる慶大蔵論語疏はもと「雉」字を記さず、おそらく日本に輸入後、唐開成石経に従って傍記して書き足してある。慶大本は語句の抜けが見られる版本ではあるが、原文を尊重して「雉」字がないものとして校訂した。

ないものとするについては、論語の成立過程と、漢詩の規則による裏付けがある。論語の本章の解説、ならびに「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

なお国会図書館蔵で「古寫」とあるのみで年代不明の龍雩本(本サイトでの仮称)は「雉」を記すので、慶大本よりは新しいことになる。他の箇所からは正平本と同等以上に古いのがわかるので、鎌倉から室町にかけての写本ということになる。

東洋文庫・京大・宮内庁蔵清家本は、いずれも「雉」を記す。清家本は唐石経より前の古注系論語の文字列を伝えるが、年代的には唐石経より新しい。従って唐石経を訂正しうるものの、すでに「雉」を加えた文字列を伝えていることになり、原典は隋末から中唐ということになる。

雉 甲骨文 雉 字解
(甲骨文)

「雉」は論語の本章では、”キジ”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は音符「矢」+「鳥」。部品の配置はさまざまあり、「矢」は音符と解するのが妥当。甲骨文の用例は鳥の一種と解せるが、必ずしも”キジ”とは限らない。西周の金文では、「薙」”払いのける”の意に用いた。詳細は論語語釈「雉」を参照。

上掲現代中国での解釈が、「キジ」ではなく「野雞」(野生のニワトリ)となっているのはいかにもその通りで、「雉」字が怪しいという説が現代中国にはあるのだろうか。なお漢の高祖劉邦の正夫人リョ后は、本名を呂雉と言った。

時(シ)

論語 時 甲骨文 時 字解
(甲骨文)

論語の本章では食事をすべき”時間”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。甲骨文の字形は「之」(止)+「日」で、その瞬間の太陽の位置。石鼓文の字形はそれに「又」”手”を加えた形で、その瞬間の太陽の位置を記録するさま。詳細は論語語釈「時」を参照。

武内本は「時とは善なり」という。根拠は書いていない。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”ほれ…であるぞよ”。詠嘆の一種で、親しみを込めた呼びかけの語気を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「〔土夕乚丶〕」と記す。「魏石門銘」(北魏)刻。

子路(シロ)

子路

記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

路 金文 路 字解
「路」(金文)

「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”あし𠙵くち”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。

共(キョウ)

共 甲骨文 共 字解
(甲骨文)

論語の本章では”えさを与える”。初出は甲骨文。字形は「又」”手”二つ=両手+「口」。原義は”両手でものを捧げ持つさま”。派生義として”敬う”。「供」の原字。論語の時代までに”謹んで従う”の用例があり、「恭」を「共」と記している。また西周の金文に、”ともに”と読み得る例がある。詳細は論語語釈「共」を参照。

供 隷書 供 字解
(前漢隷書)

版本によっては「供」と記す。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。字形は「亻」+「共」”差し出す”。人に差し出すさま。西周末期の金文で「工」を、戦国の金文・竹簡で「共」を「供」と釈文する例がある。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『荘子』『荀子』『韓非子』にも用例がある。論語時代の置換候補は部品の「共」。詳細は論語語釈「供」を参照。

武内本の注によると「供唐石経共に作る、向かう也」とある。武内本の依る「清家本」が京大本であるからで、東洋文庫本は「共」と記す。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

子路共之(しろこれにささぐ)

論語の本章では”子路がめんどりたちにえさを上げた”。「子路」が「之」”これ”に「共」”両手を添えて差し上げる”というSVO。素直に読めばそうなる。子路は師の孔子が歌いかけためんどりを、尊重して丁寧にえさを”差し上げた”わけ。孔子が歌を好んだ事情は論語述而篇31を参照。

だが儒者は、子路が鳥にもえさを与える優しい人物に読めるのが、気に入らなかったらしい。

古注『論語集解義疏』

註言山梁雌雉得其時而人不得時故歎之子路以其時物故供具之非其本意不苟食故三嗅而起也


注釈。「山梁雌雉…」と孔子が言ったわけは、雉が山遊びの興を催すべき時に、ふさわしく出てきたのに対して、人は時代にとって都合よく世に出る事が出来す、自分も現世で受け容れられない、その不遇を歎いたからだ。だが子路は、「時であるぞ」を、”都合よく食事時に食材の雉が出てきた”と誤解し、雉を捕まえてヤキトリにし、孔子に差し出した。孔子は誤解されたのだから、食べようとせず三度臭いを嗅いで席を立った。

この文字列は清代の四庫全書版から引いたので、後世の手によって「雉」字が加わっている。それにしても馬鹿げている。孔子は子路がキジを捕えて締め、血抜きをし、石を組んでかまどを作り、枯れ枝などを集めて火打ち石で火を起こし、雉の羽をむしり解体し串に刺して火で炙り、自分に差し出されるまで、誤解されたのにボンヤリと見ていたことになる。儒者は孔子をアホウか何かと思っているのだろうか?

自分で火を起こしたことも、鳥を締めたことも、焼き物料理すらしたこともない、何でも下僕にやらせないと生きられない、人間の出来損ないにしか出来ない発想だ。下記するようにこの注を書き付けたのは、歴代儒者の中でも指折りに愚かな何晏だから、当然かも知れない。

新注『論語集注』

邢氏曰:「…時哉,言雉之飲啄得其時。子路不達,以為時物而共具之。孔子不食,三嗅其氣而起。」…愚按…則共字當為拱執之義。然此必有闕文,不可強為之說。姑記所聞,以俟知者。


邢昺の『論語注疏』に言う。「…時哉というのは、雉の飲み喰いには定まった時間があるのに感じ入ったからである。だが子路は孔子の意図を理解せず、食事時に丁度よい食材がやってきた、と勘違いし、孔子の食膳に上せた。孔子は食べず、三度臭いを嗅いだだけで席を立った。」

愚か者の私・朱子が考えるに、「共」の字は手をこまねいて挨拶することではあるが、この部分には文字の脱落があり、無理に解釈すべきではない。とりあえず諸説を記しておき、よく分かった人が現れるのを待つ。

朱子
邢昺が雉に「定まった時間がある」というのは、おそらく論語郷党篇8「不時不食」を意図している。だが朱子は「よく分かった人が現れるのを待つ」必要なんて無かったのだ。素直に読めば分かるものを、朱子さえ過去の儒者の出任せにたぶらかされている。

論語 宮崎市定 宮崎市定 論語
宮崎本は解釈に苦しんだ挙げ句、ある日子路が孔子の食膳にメス雉のヤキトリを出した際、孔子が「時哉」の古歌を持ち出して説教し、逃げて飛び立つべき時を誤った雉を憐れみ、ただし子路の手料理も粗末には出来ないので、三度臭いを嗅いで席を立ったとする。なんでまあ、こうも理屈をこね回して、かえって難しくするんですかね。

藤堂明保 藤堂明保 論語
藤堂本は「時哉」を「雌の雉は、いかにもよき時を見定めて行動するものではないか!」と解し、子路については「子路は雉に餌をさし出したが、雉は何度かそのにおいをかいだだけで、さっと飛び立った。(まことに用心深いものである。)」と解している。一応理は通る。

宇野哲人 ニセ論語指導士養成講座 ニセ論語教育普及機構
宇野本や加地本などその他凡百の論語本はもちろんヤキトリ説で、バカ過ぎて話にならない。

三(サン)

三 甲骨文 三 字解
「三」(甲骨文)

論語の本章では”三たび”。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

臭(シュウ)

唐石経は「臭」と記す。京大蔵清家本は「嗅」と記し、東洋文庫蔵清家本は「嗅」と記す。慶大蔵論語疏は「臭」の異体字「臰」と記す。「魏冀州刺史元壽安墓誌」(北魏)刻。論語の本章は定州竹簡論語、後漢熹平石経に全体を欠くので、次いで古い慶大本に従い校訂した。

嗅 古文 嗅 字解
(古文)

論語の本章では”匂いを嗅ぐ”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。字形は「口」+「臭」(臭)。「臭」の派生字で、名詞”におい”に「臭」字を専用し、動詞として「嗅」が派生した。犬が口先を突き出してにおいをかぐさま。「臭」シュウにも「キュウ」の漢音がある。戦国文字から”においをかぐ”の意に用いた。論語時代の置換候補は部品の「臭」。詳細は論語語釈「嗅」を参照。

臭 甲骨文 臭 字解
(甲骨文)

「臭」の初出は甲骨文。字形は「自」”鼻”+「犬」。犬が臭いを嗅ぐさま。新字体は「臭」(下部が「犬」でなくて「大」)。同音は「充」など。甲骨文では氏族名に用いた。春秋末期の金文にも用例があるが、解読不能。詳細は論語語釈「臭」を参照。

武内本には「嗅」を「ケキ」(鳥が羽根を広げる)と書いている。

嗅、説文キュウに作る、五経文字云、説文齅の字経伝相承て嗅に作る論語借て臭に作る、臭は蓋し狊の誤、狊は両翅を張る也。(武内本)

だが「狊」は甲骨文・金文・古文には見られず、初出は前漢ごろ編集とされる『爾雅』で、論語の時代に存在しない。

『五ケイ文字モンジ』とは、唐代の張参が著した、儒教経典の校訂(さまざまある版本により違っている文字の唯一解を定めること)本で、それによるともと「齅」の字だったのを経典では「嗅」と書き、論語ではさらに「臭」となっていると言うが、「狊」の間違いとは言っていない。

そして例によって、根拠を一切言っていない。以下は『五経文字』四庫全書本の該当部分。
嗅 五経文字

劓鼽音求見禮記齅嗅上說文下經典相承隷省論語借臭字為之(巻上80)


齅と嗅は、古くは『説文解字』に載り、時代が下って儒教経典に代々引き継がれ、隷書に始まった字体が簡略化された。論語は臭の字を使って嗅の代用にしている。

つまり武内本の言う「臭は蓋し狊の誤」は文字通り武内博士の個人的感想であり、『五経文字』は何ら博士の説を補強しない。要は古本を出したハッタリである。その無関係な『五経文字』もご覧の通りで、唐代には嗅を口偏のない臭と書く版本が有ったことが分かるだけ。

武内博士の想像の元ネタは、宋儒が論語の本章に書き付けた新注。

劉勉之(朱子の師)「嗅は狊と改めるべきだ。古-闃の反切で読む。両方の羽根を広げることである。『爾雅』に書いてある。」

だが「狊」が”翼を広げる”の意だと言い出したのは、下記するように『爾雅』を編んだ漢帝国から約千年後の宋儒・邢昺で、もちろん根拠は書いておらず、とうてい真に受けられる話ではない。

「狊」kiwek(入)の文字は相当に珍しく、訳者の持ち字書では『大漢和辞典』にしか載っていない。仮に宋儒や武内博士の感想が当たっていても、字が存在しないから、論語の本章がニセモノである証明になってしまう。

作(サク)

作 甲骨文 作 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飛び立つ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下り、”立つ”の語義は、事実上論語が初出。詳細は論語語釈「作」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無いが、前漢初期の『韓詩外伝』に「論語曰」として「色斯舉矣、翔而後集」を記す。定州竹簡論語での不在と、「翔」の字の初出が後漢であることと理屈が合わない。ただし文字の不在は「翔」→「揚」と置換すれば合理化できる。再出は後漢末期の『蔡中郎集』。

本章は論語郷党篇の中で、意図的な重出と見なせる論語郷党篇15「太廟に入らば」を除き、唯一論語の時代に遡りうる章。ただ定州竹簡論語に欠けた事情は、竹簡の最後だから焼けやすかったか、もともと後漢ごろになって論語に編入されたかのいずれかと考えるしかない。

後漢末期に刻まれた熹平石経(漢石経)は、現在はばらばらのカケラしか残っておらず、この論語郷党篇全体がまだ見つかっていない。従って論語の本章も後漢末期にあった物証が無く、最古の物証は隋代の筆写とされる慶大本になる。

後漢以降の編入かもしれないが、とりあえず、論語の本章を孔子の史実を伝える話として扱う。

解説

論語の本章の解釈につき、子路によるヤキトリ説の馬鹿馬鹿しさは、上掲語釈「子路供之」の通り。また本章は引用のうたから、孔子が子路を伴い南方の諸侯国を放浪中の情景かも知れない。飛び立ったのがケンケンチョッチョと鳴く「キジ」ではなく、コケコッコと鳴く「トリ」だからだ。

セキショクヤケイ

セキショクヤケイ via Wikipedia

慶大本による校訂の結果、メス雉ならぬめんどりに孔子の歌いかけた歌は七言となった。その調子は「ン・ンク・ル、クッ・クッ・クッ・ク」と、まさにトリを呼ぶような韻を踏む。孔子と子路が放浪した華南は、すでにニワトリ化もしていた原種、セキショクヤケイの生息地でもある。

字(声調) 山(平) 梁(平) 雌(平) 時(平) 哉(平) 時(平) 哉(平)
上古音 săn li̯aŋ tsʰi̯ăr ȡi̯əɡ tsəɡ ȡi̯əɡ tsəɡ
隋唐音 ʂăn li̯aŋ tsʰie̯ ʑi tsɑ̆i ʑi tsɑ̆i

上の表はカールグレンによる古典中国語の再建音だが、晩唐につけ加えた「雉」(上)は上古dʰi̯ər、隋唐ȡʰiで明らかに原詩の調子を崩す。原詩は七言絶句など南北朝以降のやかましい平仄の規則にこだわらない、ずっと平らでおおらかに伸びやかな調子で歌う七言歌だったことになる。

原詩は唐代の平起式七言絶句の規則、

  1. 「二四不同」二字目と四字目の平仄を違える
  2. 「二六同」二字目と六字目の平仄を揃える
  3. 「一三五不論」一・三・五字目は自由
  4. 「忌尾三連」句末の三字の平仄は揃ってはいけない

の1.4.からはずれ、唐人には変なうたに聞こえた。だが「雉」を加えることで、分割された「山梁雌、時哉時」二句の句末は、上古音でなく隋唐音ならiで韻を踏むことになる。これなら春秋時代の四言詩のように聞こえた。言い換えると、唐人が論語をいじくったと白状したのも同じ。

藤堂明保 藤堂明保 学研漢和大字典
高低アクセントが…組織立てられたのは五世紀のことである。…おおらかにのばせる平らなアクセント(平)が、すんづまりでひねったアクセント(仄。これはさらに上・去・入に分けられる)に属するかという分類が行われるようになった。(藤堂明保『学研漢和大字典』中国の詩)

論語の本章の七言詩一句を、四言詩二句に唐儒が書き換えたのは理解出来る。『詩経』に見られるように、春秋以前の中原のうたは四言詩であり、七言詩は南北朝時代の民謡に淵源のある新しいうたとされた。孔子を権威づけたい文宗皇帝と唐儒としては、それでは困るのである。

だからこそ、唐代の七言絶句は新しい調子のうたとして暇を持て余した役人などの連中に受けたのであり、孔子が七言詩を歌うのは、「五箇条の御誓文」をヘビメタで歌い上げるような珍妙に思えた。珍妙を感じた唐が開成石経を建てたのは晩唐初めで、つまり唐が傾き始めた頃だった。

それより前の唐帝室には自信があり、老子の末裔を名乗ったように、儒教の権威に頼らずとも大帝国を切り回せた。対して晩唐では、すがりたいからこそ御本尊はキラキラ光っていないといけない。そこで論語にもメッキを貼ることになり、本章のうたも古くさそうな形式に改めたのである。

もちろん七言詩は民謡発祥に限られるわけではない。七言古詩という宮廷の歌もあった。初出は前漢武帝が作った歌だとされる。ということは、孔子の歌う歌としてやはりふさわしいとは思えなかった。時代ごとの中国人によって、都合良く論語もその他の古典も書き換えられたのである。

なお前漢武帝は常人未満の知能しかなかったから(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)、七言古詩の創始は代筆だと言われたこともある。だが阿保たれ小僧が、ペケペケ楽器を弾きながら「アーティスト」とか自称するのは今でもあることで、武帝もその例に過ぎない。

参考動画

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

色斯舉矣註馬融曰見顔色不善則去之翔而後集註周生烈曰迴翔審觀而後下止也曰山梁雌雉時哉時哉子路供之三嗅而作註言山梁雌雉得其時而人不得時故歎之子路以其時物故供具之非其本意不苟食故三嗅而起也


本文「色斯舉矣」。
注釈。馬融「表情を見て、機嫌がよくないと思ったので飛び去ったのである。」

本文「翔而後集」。
注釈。周生烈「飛び回って地上をよく観察し、その後で降りたって止まったのである。」

本文「曰山梁雌雉時哉時哉子路供之三嗅而作」。
注釈。「山梁雌雉…」と孔子が言ったわけは、雉がその時にふさわしく出てきたのに対して、人は時代に都合よく現れる事が出来す、自分も世に受け容れられない、その不遇を歎いた。だが子路は、「時であるぞ」を”都合よく食事時に食材の雉が出てきた”と誤解し、雉を捕まえてヤキトリにし、孔子に差し出した。孔子は誤解されたのだから、食べようとせず三度臭いを嗅いで席を立った。

論語 古注 何晏
子路のヤキトリ説を言いだしたのが、無記名の注釈であることから、三国魏の何晏であると分かる。この男は名門出身のナルシストで、歴代の儒者の中でも抜きん出て、ひょろひょろと文系オタクとメルヘンがすさまじかった。祖父は後漢末期の権臣だった何進、その妹は霊帝を尻に敷いて好き放題した何皇后。生母は曹操の妾で、養父で義父は曹操。なるほど自分で火を起こしたり、料理したことが無いのはもっともだ。

曹操に娘まで貰う厚遇を受けながら、戦乱の世で義父を助けて従軍した事など一度も無く、曹操の実子にはものすごく嫌われた。とんでもない助平との伝説があり、実の同母妹と通じたとまで言われる。姪を●して国外逃亡した島崎藤村も真っ青だ。

新注『論語集注』

色斯舉矣,翔而後集。言鳥見人之顏色不善,則飛去,回翔審視而後下止。人之見幾而作,審擇所處,亦當如此。然此上下,必有闕文矣。曰:「山梁雌雉,時哉!時哉!」子路共之,三嗅而作。共,九用反,又居勇反。嗅,許又反。○邢氏曰:「梁,橋也。時哉,言雉之飲啄得其時。子路不達,以為時物而共具之。孔子不食,三嗅其氣而起。」晁氏曰:「石經『嗅』作戛,謂雉鳴也。」劉聘君曰「嗅,當作狊,古闃反。張兩翅也。見爾雅。」愚按:如後兩說,則共字當為拱執之義。然此必有闕文,不可強為之說。姑記所聞,以俟知者。


本文「色斯舉矣,翔而後集。」
鳥が人の顔色を見て、機嫌が悪いとみたから飛び去ったのである。

本文「回翔審視而後下止。」
人が何をするか観察して、降りるに都合のよい場所を選んぶ様子が、まさにここで言う通りの飛び回り方だったのである。ただしこの句の前後には、必ず文字列の脱落がある。

本文「曰:山梁雌雉,時哉!時哉!」子路共之,三嗅而作。
共は、九-用の反切で読む。あるいは居-勇の反切で読む。嗅は許-又の反切で読む。

邢昺の『論語注疏』に、「…時哉というのは、雉の飲み喰いには定まった時間があるのに感じ入ったからである。だが子路は孔子の意図を理解せず、食事時に丁度よい食材がやってきた、と勘違いし、孔子の食膳に上せた。孔子は食べず、三度臭いを嗅いだだけで席を立った。」という。

晁説之:「漢石経では嗅の字を戛と記している。雉の鳴き声の意である。」
劉勉之(朱子の師)「嗅は狊と改めるべきだ。古-闃の反切で読む。両方の羽根を広げることである。『爾雅』に書いてある。」

愚か者の私・朱子が考えるに、「共」の字は手をこまねいて挨拶することではあるが、この部分には文字の脱落があり、無理に解釈すべきではない。とりあえず諸説を記しておき、よく分かった人が現れるのを待つ。

「『爾雅』に書いてある」と言う通りに現伝の『爾雅』にあるが、実は何が書いてあるか分からない。と言うより、宋儒のでたらめで分からなくされた。

本文「獸曰釁,人曰撟,魚曰須,鳥曰狊。須屬。」

注「…張兩翅。皆氣體所須。」

『爾雅』釈獣45

『爾雅』は前漢初期に編まれたとされる中国最古の辞書だが、「狊」を羽根うんぬんと言い出したのは北宋の邢昺で、何晏の猿まねで子路のヤキトリ説を言い直したように実にデタラメな男であり、生まれたのは前漢滅亡後924年。その手になる「注」を信用できるわけがない。

ではなぜ、邢昺が「狊」を”両方の羽根を広げる”と勝手なことを言い出したのだろう?

儒者は論理思考能力を試される事は無かったが、科挙で暗記力は問われた。政論でもどれだけ過去のウンチクを蓄えているかを競った。「託古改正」”昔にかこつけて今を改める”と言って、新規な提案も「過去に例がある」と言わないと賛同を得られなかった。

だから論語雍也篇30、「能く近くにたとえを取るは、仁之みちと謂う可き也るのみ。」(偽作)はもちろん暗記していた。論語の本章の「近く」には何が書いてあるだろう。論語郷党篇3同じく4に、二度も「翼如也」と書いてある。そして本章は鳥の話だ。

多分この単純な連想から、「狊」の羽根ばなしをこしらえた。中途半端に中国の科挙なるものを知ってしまうと、その合格者がものすごい優秀に見えてしまうが、社会の中で脳が優れた人の割合はどこでも同じで、ざっと年当たり3桁ほども出る連中の、誰もが優秀なわけでない。

論語は日中共に、漢文の基本であること古今変わらない。だから中国の物書きの頭には、常に論語があった。それゆえ論語に書き付けられたデタラメが、膨大な漢籍に反映されもする。『爾雅』のこの部分がトンデモになっているのもその例で、だから論語を正しく読めないと、なべて漢文が分からない。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

須 甲骨文
「須」(甲骨文)

なお上掲『爾雅』の本文は「獣はキン」と始まり、「(以上が)須の属(たぐい)である」で終わる。「須」の初出は甲骨文で、生け贄にされ柱からぶら下げられた人の姿。現行字形は似ても似付かないようにみえるが、キッチリ甲骨文から少しずつ変化した結果

「釁」とは通常、犠牲獣の血を祭器に塗ることで、「ちぬる」と訓読する。「人は撟」は”高く掲げる”ことだから、これもいけにえの意と考えた方がよい。「魚は須」はヒゲのようにぶら下がることで、これも魚を器に盛って供え物にしたさま。「鳥は狊」の「狊」は犬の目を大きく描いて頭を強調した字で、犬もまた古代から供え物とされたから、横たわった犬の姿。

余話

水を飲むな

来たな…。

あれは昭和の末年だったか、鳥の足を4本に描いた小学生が出たと言って騒いだ者がいた。火の無いところへ煙を噴き上げて儲けるのがマスメディアの商売なのだから、別に驚くにも歎くにも当たらないが、恐れるべきは上掲何晏のように、自己生存の作業を何も出来なくなることだ。

訳者はいわゆる文系学問の裏と表を見て歩いたから、業界人がどれほどたわけた存在になり切っているかを知っている。ざっとまとめて言えば、汗流して働く人の存在を者どもは理解出来ない。筆と箸とワイロ以外に物を手に取ろうとしなかった中国儒者と、同類に属している。

働かないで高額の報酬を受け取り、教授先生とチヤホヤされるのが当然になり切ってしまっているからだ。その一人に、「あんたは配管工にでもなるのかね」と言われたことがある。配管工を馬鹿にする者には、水道の水を飲む権利は無いし、電気やガスを使う権利もない。

金を出せば何をしてもよいわけではない。労賃は労働の対価に過ぎず、馬鹿にする権利を買ったわけではないからだ。そういう者にはよくあるが、自分は不幸だと思っていたりする。これは憐れむべき本当の不幸で、あまりに頭が悪いから、自分で自分を不幸にしている。

生まれながらの差別や病気、悪環境に苦しむ人々の不幸も確かに不幸だが、自分次第であるいはのし上がれる可能性がある。だがおのれで不幸を作っている者は、死ぬまで改善の気配はない。自分の愚かは他人に指摘されても決して分からず、自分で悟るしかないからだ。

人間は他人が思うよりは賢いが、自分で思う以上に愚かでもある。愚かな者は自分を不幸にするだけでは済まず、必ず他人をも不幸にしたがる。誰も行きたがらない寒村で、今なお村八などする田舎者どもと同様に、より下位の人をいじめないと自分を保てないのだ。

人は望んだわけでもないのに、そういう寒村に居させられることがある。さっさと出て行くのが一番の解決だが、そうもいかない場合もあるだろう。ならば取れる行動は二つしかない。サドの連鎖に加わって、いじめられいじめる生活を送るか、きっぱりサドと手を切るかだ。

どちらかにしろとお他人様に説教する権利は訳者にない。だが自分を振り返って、サドの連鎖にいるうちは、心身ともに蝕まれるとははっきり言える。蝕まれきってしまえば気にならなくなるが、ひょっとすると訳者同様に、痛恨の記憶として残ってしまう場合がある。

だから、サドとは手を切った方がいいですよ、とは言える。更に蝕まれているのだから、確実に生存の力が衰える。真っ先に勘が鈍くなり、せずに済む大けがや、時に死に至るようなことを平気で自分から仕出かしたりする。この手の愚か者は、さっさと死ぬように出来ている。

勘が鈍いと、何をしてもうまく行かない。当たり前で、危険を察知できない上に、好機をみすみす見逃すからだ。勘の鈍さも愚かの一種であるからには、やはり他人に指摘されても鈍さが分からない。どころか、他人より自分の方が鋭敏だと思っていたりする。

配管工を馬鹿にする業界人と同じ理屈で、ここから立ち直るのは容易ではない。勘の鈍さが最も表れるのは、何を食うかの選択だ。愚か者はまず間違いなく、金が無いわけでもないのに、ろくな食い物を食べていない。これは若いうちはそれほど体に影響しないかも知れない。

だが悪影響は必ず蓄積して、若かろうとある一線を超えれば爆発する。そうなったらもう、薬石効なくあの世へ行くか、身の不自由に苦しみつつ生きることになる。仮に食に金を掛けてもさほどの効果は無い。選択が間違っていれば意味が無い。悪徳業者の食い物になるだけだ。

悪徳でなくとも、否応なくオカルトな専門家の管理に入れられてしまうこともある。訳者若年の頃は、足腰を鍛えるのに「兎跳び」をしろとか、真夏の野外でさんざん体を動かしたのに、「水を飲むな」とか指導者が平気で言っていたし強制した。死亡例もあるのではないか。

youtubeのゆっくり動画などを少しでも見れば分かるが、専門家を名乗ろうとも、食や保健衛生に関してどれほどのデタラメが平気で垂れ流されているか分からない。毒を薬だと言って平気で売りつける悪党はいくらでもいる。そしてそこから抜ける道も、勘が鈍いと分からない。

地道に科学を勉強するか、専門家と誠実に付き合って信用を得て、素人には知れない事実を教えて貰うしかないのだが、頭がやられているとオカルトからオカルトへ、金と寿命をすり減らしながら渡り歩く事になる。全ては自分でしたことで、誰のせいにも出来はしない。

そういう愚か者からは金を絞れるから、一見世間が甘やかしてくれるように見える。だがその実、だまされているだけだ。恋から醒めた後で、「なんでこんな奴に惚れちまったのか?」と首をかしげるように、思い込みの衝動はすさまじく、警戒線を簡単に突破してしまう。

何晏は思い上がりの果てに、司馬懿に殺された。はじめ司馬懿は許すように見せかけ、何晏とつるんでいた魏帝室の処断を担当させた。何晏は喜んで判事になり死刑を宣告した。司馬懿は敵の手で敵を葬らせたわけだが、裁判が終わると判決書の被告欄に何晏の名を書き加えた。

宣王使晏典治爽等獄,晏窮治黨與,冀以獲宥。宣王曰:『凡有八族,』晏疏丁、鄧等七姓。宣王曰:『未也。』晏窮急,乃曰:『豈謂晏乎?』宣王曰:『是也。』乃收晏。


司馬懿は何晏を曹爽等の判事に任じた。何晏はもとの仲間の裁判を厳しく行い、それで自分が許されるようにゴマをすった。司馬懿は「合計で八族を滅ぼせ」と言った、何晏は判決書に丁謐、鄧颺らかつての仲間の名を記し、七族の皆殺しを判決したが、司馬懿は「まだ足りない」という。何晏は怯えて言った、「まさか私、何晏ではないでしょう?」「何の。その通りじゃ。」そのまま何晏の名を処刑リストに書き加えた。(『資治通鑑』引用『魏氏春秋』)

間抜けな死である。だから気を付けて気を付けること。凡人の訳者にはそれしか出来ない。

『論語』郷党篇おわり

お疲れ様でした。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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