論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
朝與下大夫言侃侃如也與上大夫言誾誾如也君在踧踖如也與與如也
校訂
東洋文庫蔵清家本
朝與下大夫言侃〻如也/與上大夫言誾〻如也/君在踧踖如也與〻如也
慶大蔵論語疏
朝与1下大夫言侃〻(如)2也/与1上大夫言誾〻如也/君在𨁕3踖如也/与1〻如也
- 「與」新字体と同じ。「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
- 傍記。草書体。
- 「踧」の異体字。『龍龕手鑑』(遼)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
朝與下大夫言、侃〻也。與上大夫言、誾〻如也。君在、踧踖如也、與〻如也。
復元白文(論語時代での表記)
踧踖
※論語の本章は踧・踖の字が論語の時代に存在しない。「與」「如」「也」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
朝にて下つ大夫與言へば、侃〻也。上つ大夫與言へば、誾〻如也。君在さば、踧踖如也、與〻如也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
朝廷で下級家老と話す時は、口達者にものを言った。上級家老と話す時は、言葉を尽くしてものを言った。殿様がお出ましの時は、慎み深く小刻みな立ち居振る舞いをし、かつ余裕ありげに振る舞った。
意訳
同上
従来訳
朝廷で、下大夫とは、心置きなく率直に意見を交換され、上大夫に対しては、おだやかに、しかも正確に所信を述べられる。そして国君がお出ましの時には、恭敬の念をおのずから形にあらわされるが、それでいて、固くなられることがない。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
上朝時,同下大夫說話,輕鬆快樂;同上大夫說話,和顏悅色;在國君面前,恭恭敬敬,儀態安詳。
朝廷では、格下の家老と話すときは、気楽に楽しそうだった。格上の家老と話すときは、温和でにこやかに語った。国公の前では、うやうやしくし、物静かにしていた。
論語:語釈
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”朝廷”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
論語の時代、朝廷は早朝と夕方の二度開かれ、列席する家老たちは一旦屋敷に帰って昼食をとった。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章、「與下大夫」では”~と”。「與與如」では”余裕のあるさま”。後者の語義は春秋時代では確認できない。武内本もこの説で、「安舒の貌」という。
新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。上掲「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
『学研漢和大字典』によると「与与」については以下の通り。
- 作物がいっしょに群れ茂っているさま。「我黍与与=我が黍与与たり」〔詩経・小雅・楚茨〕
- ゆったりと落ち着いているさま。また、威儀を整えて歩くさま。《同義語》予予。「与与如也」〔論語・郷党〕
- いったり来たりするさま。〔漢書・揚雄〕
このほか、前漢初期の『淮南子』に用例がある。
故善用兵者,見敵之虛,乘而勿假也,追而勿舍也,迫而勿去也。擊其猶猶,陵其與與,疾雷不及塞耳,疾霆不暇掩目。
だから用兵の上手は、敵の思いもせぬ所を見つけたなら、図乗りして余裕をあたえず、追撃して逃さず、迫撃して手を緩めない。敵が油断しているのを撃ち、自信ありげなのをひしぎ、雷鳴のように耳を覆う前に轟き、稲光のように目を覆う時間をあたえない。(『淮南子』兵略訓13)
文字史から論語の本章が偽作と断じるしかない以上、「與與」も漢代の用例に従うほかない。解釈を断定する一応の手続きとして、新古の注の解釈を示す。
古注『論語集解義疏』
馬融曰…與與威儀中適之貌也
馬融「與與とは、過不足無く威儀がととのった表情である。」
新注『論語集注』
與與,威儀中適之貌。
與與とは、過不足無く威儀がととのった表情である。
馬融はでたらめばかり言う男なので当てにならない。論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。新注は馬融を猿真似しているだけで当てにならない。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
下(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”下級の”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
大夫(タイフ)
(甲骨文)
春秋時代の領主貴族のこと。諸侯国の閣僚級の仕事に就いた。邑(都市国家)の領主である「卿」(郷)の下位で、領地を持たない貴族である「士」の上位。詳細は春秋時代の身分秩序を参照。辞書的には論語語釈「大」・論語語釈「夫」を参照。
一例として崔杼は斉の大夫であり、実権を握っていたがあくまでその地位は大夫に過ぎず、江戸期の日本で言うなら老中筆頭であり、大老ではなかった。楚の令尹が、明確に楚王の代理人で宰相だったのとは事情が異なる。従って本サイトでは、「令尹」は「おほおみ」と訓読したが、「大夫」は「おとど」と訓読して解釈を分けた。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
侃*(カン)
論語の本章では”すらすらと語る”。「侃侃」で”ベラベラと語るに語る”。
(金文)
「侃」は論語ではこの郷党篇と先進篇のみで見られる。初出は事実上西周早期の金文。金文の字形は「人」+「𠙵」”くち”+「川」で、川の流れのようにすらすらと語る人のさま。原義は”口の達者”。春秋末期までに、人名と”耳に聞こえのよい言葉”の意に用いた。詳細は論語語釈「侃」を参照。
「侃侃諤諤」は中国の甲金文や竹簡帛書、歴史的文献には見られない。コトバンクでは中江兆民の言葉として載せる。おそらく和製漢語。
武内本が「衎衎の仮借、和楽の貌」というのは古注『論語集解義疏』で「孔安国曰」として「侃侃和樂貌也」とあるのによる。”耳に聞こえのいい言葉”→”楽しむ”という、派生義の派生義に過ぎない。また孔安国は高祖劉邦を避諱しないなど、架空の人物である疑いが極めて強い。対して新注『論語集注』は後漢の『説文解字』を引いて「侃侃,剛直也。」という。
侃:剛直也。从㐰,㐰,古文信;从川,取其不舍晝夜。《論語》曰:「子貢𠈉𠈉如也。」(『説文解字』侃条)
『説文解字』が「論語曰」と書く以上、「子貢侃侃如也」のある論語先進篇12はそれ以前に創作されたことになる。口が回る子貢だから、「侃侃如」は”剛直に”でないといけないわけだ。だが論語の本章を引用しているわけではない。
本章は定州竹簡論語に無いから、『説文解字』と時系列の前後はわからない。本章には『説文解字』が初出の漢字があるから、後だと考えたくなるがそうでもない。ある漢字が所収されたからには、すでにその字が有ったことになるからだ。ただどこまで遡るかはわからない。
〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期
慶大蔵論語疏は重文「侃侃」「誾誾」「與與」の二文字目を「〻」で記す。重文号(繰り返し記号)は金文の時代では小さく「二」を記し、慶大本もそう記している箇所がある。現行では「〻」と記す。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
隋代以前の筆写と言われる慶大蔵論語疏は、「侃侃如」に限り「如」字を欠く。ただし格外に草書で傍記する。対して晩唐初期に刻まれた唐石経以降は本文格内に記す。口調を揃えるためだろう。
朝 | 與下大夫言 | 侃侃如也 |
與上大夫言 | 誾誾如也 | |
君在 | 踧踖如也 | |
與與如也 |
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
隋代(581-618年)以前に中国で書き写された慶大本を日本人が輸入した。その後唐石経が刻まれた(837年)翌年、最後の遣唐使が渡唐した。従って「大唐帝国公認の本場の論語」に従い、日本人の読者が傍記して「如」字を書き加えたのはほぼ間違いない。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”上級の”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
誾*誾如(ギンギンジョ)
論語の本章では”言葉を重ねるさま”。
(金文)師
「誾」の初出は西周末期の金文。字形は「門」+「言」。原義は不明、春秋末期までの用例は一件のみで、語義を確定しがたい。詳細は論語語釈「誾」を参照。
ただ論語先進篇12の定州竹簡論語では、「言言如」と記しており、「木」が集まって「林」になり「森」になるように、言葉を重ねるさまと解せる。
武内本が「訢訢の仮借、謹敬の貌」というのは古注の「註孔安國曰誾誾中正貌也」によるが、孔安国は実在そのものが疑わしい(論語郷党篇17語釈)。新注では「許氏說文…誾誾,和悅而諍也。」という。「與」「侃」字同様、説文解字に載った後漢儒の出任せには従えない(論語郷党篇2余話「説悶怪事」)。
君(クン)
(甲骨文)
論語の本章では”国公”。諸侯国の君主。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”いる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
踧*踖*如(シュクセキジョ)
論語の本章では、”慎み深い小刻みな足取りのさま”。「踧」も「踖」も、論語ではこの郷党篇の二ヶ章で用例があるのみ。
(篆書)
「踧」の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷]+音符「叔」。「叔」に”年少者(らしいつつしみ)”の意がある。同音多数。”平らな”の意での漢音は「テキ」。文献上の初出は論語の本章。前漢中期の『塩鉄論』にも見られる。詳細は論語語釈「踧」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「𨁕」と記す。刻石は見つからなかった。『龍龕手鑑』(遼)所収。『大漢和辞典』によると「𠦑」は「叔」の俗字。
(篆書)
「踖」の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷」+「昔」。「昔」の字形は水平線に沈んだ太陽のさま。全体で沈み行くような小刻みな足取りのさま。同音に「借」「跡」。文献上の初出は論語の本章。前漢中期『塩鉄論』にも見える。詳細は論語語釈「踖」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語には欠いているが、やや先行する『史記』孔子世家に「誾誾如也」までが「上大夫」と「下大夫」の記述を入れ替えて記されている。「君在,踧踖如也。與與如也。」は、春秋戦国を含めた先秦両漢の文献に見られない。ただし定州竹簡論語と同時期の、前漢中期『塩鉄論』に「文學…鞠躬踧踖,竊仲尼之容。」とあり、「踧踖」が孔子の立ち居振る舞いと理解されていたことがわかる。おそらくは前漢中期までに論語の本章に組み込まれていただろう。
ただし「踧」「踖」ともに論語の時代に存在せず、置換候補も無いことから、本章は前漢儒による偽作と断じてよい。
解説
本章に用いられた漢字は、この郷党篇と次の先進篇のみで見られるものがあり、両者が同時期に作られたことを思わせる。また論語の本章と関連する『孔子家語』の記述があり、以下に現代語訳を記す。
子夏三年之喪畢,見於孔子。子曰:「與之琴。」侃侃而樂,作而曰:「先王制禮,不敢不及。」子曰:「君子也!」閔子三年之喪畢,見於孔子。子曰:「與之琴,使之絃。」切切而悲,作而曰:「先王制禮,弗敢過也。」子曰:「君子也!」子貢曰:「閔子哀未盡,夫子曰:君子也。子夏哀已盡,又曰:君子也。二者殊情,而俱曰君子,賜也惑,敢問之。」孔子曰:「閔子哀未忘,能斷之以禮;子夏哀已盡,能引之及禮;雖均之君子,不亦可乎?」
弟子の子夏が三年の喪(礼法では親の喪に相当する)を終えて、孔子の前に出た。
孔子「誰か、子夏に琴を渡してやりなさい。」そう言って子夏に琴を弾かせた。その音色は侃侃として楽しげである。
弾き終えて子夏は立ち上がり、言った。「いにしえの聖王は、礼法を定めました。従わないわけにはいきません。」
孔子「貴族らしくなったな、子夏。」
閔子騫が三年の喪を終えて、孔子の前に出た。
孔子「誰か、子騫に琴を渡してやりなさい。」そう言って閔子騫に琴を弾かせた。その音色は切々として哀しげである。
弾き終えて閔子騫は立ち上がり、言った。「いにしえの聖王は、礼法を定めました。出過ぎたことがないようにしないわけにはいきません。」
孔子「貴族らしくなったな、子騫。」
それを見ていた子貢が言った。「閔子騫は哀しみを引きずっていたのに、先生は貴族らしいとほめました。子夏は哀しみを尽くしてさばさばしていたのに、先生は同じように貴族らしいとほめました。二人の態度は違いますが、同じように誉めました。私にはわけが分かりません。どういうことでしょうか。」
孔子「閔子は引きずって、断ち切るのに礼法に頼った。子夏は哀しみ尽くして、その結果礼法を体得した。二人とも一人前の貴族だと評価しても、間違いではあるまいよ。」(『孔子家語』六本5)
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
朝與下大夫言侃侃如也註孔安國曰侃侃和樂貌也與上大夫言誾誾如也註孔安國曰誾誾中正貌也君在踧踖如也與與如也註馬融曰君在者君視朝也踧踖恭敬貌也與與威儀中適之貌也
本文「朝與下大夫言侃侃如也」。
注釈。孔安国「侃侃とは和み楽しむさまである。」
本文。「與上大夫言誾誾如也」。
注釈。孔安国「誾誾とは片寄りのないまっすぐなさまである。」
本文。「君在踧踖如也與與如也」。
注釈。馬融「君在とは、主君が朝廷に出席することである。踧踖とは恭しく敬うさまである。與與とは威儀が片寄りなくまっすぐなさまである。」
新注『論語集注』
朝,與下大夫言,侃侃如也;與上大夫言,誾誾如也。侃,苦旦反。誾,魚巾反。此君未視朝時也。王制,諸侯上大夫卿,下大夫五人。許氏說文:「侃侃,剛直也。誾誾,和悅而諍也。」君在,踧踖如也。與與如也。踧,子六反。踖,子亦反。與,平聲,或如字。君在,視朝也。踧踖,恭敬不寧之貌。與與,威儀中適之貌。張子曰:「與與,不忘向君也。」亦通。此一節,記孔子在朝廷事上接下之不同也。
本文「朝,與下大夫言,侃侃如也;與上大夫言,誾誾如也。」
侃は、苦-旦の反切で読む。誾は、魚-巾の反切で読む。ここまでは、主君が朝廷に出席していない時のもようである。周王朝の制度では、諸侯の上大夫は邑の領主が務め、下大夫は五人いた。許氏の説文解字によると、侃侃とは剛直のさまで、誾誾とは和み楽しみながらも議論は言うさまをいう。
本文「君在,踧踖如也。與與如也。」
踧は子-六の反切で読む。踖は子-亦の反切で読む。與は平らな調子に読む。あるいは如の字が書き換わったのかも知れない。君在とは、主君が朝廷に出席することである。踧踖とは、恭しく敬いつつも穏やかでない表情を言う。與與とは、威儀が片寄らず適切なさまを言う。
張載「與與とは、主君を真っ直ぐ見上げ続けることを言う。」
この意見にも一理ある。この一節は、孔子が朝廷では、目上と目下で態度を違えたことを記している。
余話
説悶怪事(けうときを説けば、事怪しむべし)
『学研漢和大字典』悶条
- {動詞・名詞}もだえる(もだゆ)。もだえ。心中につかえてむかむかする。心中にこもった、むかむかするいやな気分。「苦悶(クモン)」「排悶強裁詩=悶を排はんとして強ひて詩を裁す」〔杜甫・江亭〕
- (モンス){動詞}気がふさがり、不快な感じがする。▽平声に読む。「(崕理)閉則熱而悶=(崕理(さうり))閉づれば則(すなは)ち熱して悶す」〔素問・風論〕
- 《日本語での特別な意味》もつれる。もめる。「悶著」「悶着」。
上掲「侃」の語釈に記したように、従来訳のように通説が”はっきりとものを言うさま”と解しているのが、新注『論語集注』の受け売りであることは明らかだが、新注に一つ先行する『論語注疏』では、古注をコピペして「孔曰、侃侃,和樂之貌。」とだけ記している。
つまり誤訳の元ネタは朱子で、朱子が依拠した『説文解字』ということになる。『説文解字』は今なお金科玉条のように日中の漢文業界で扱われているが、先秦両漢の文献を読む際にあてにすると、とんでもないデタラメに釣り込まれて誤読する危険が甚だしい。
誤読しても困らないような連中が、漢文業界で飯を食っているのだから付ける薬が無いのだが、本章に限ると間違いの起こりは、帝政崩壊直後の儒者が子路筋肉ダルマ説を信じ込んだことにある。実は上掲『説文解字』侃条は、四部叢刊初編本では「子路侃侃如也」とある。
訳者もうっかり釣り込まれたのだが、どう考えても先進篇「子貢侃侃如」と合わない。そこで今のところ最も古いと思われる四庫全書本を参照すると、「子貢侃侃如」になっていた。民国初期の儒者は、「剛直」ならば「子路」である、と頭から思い込んでいたわけだ。
編者はかつて科挙を突破したような連中ばかりで、暗記力はほどほどにあったのだろうが、批判精神がまるで無い。この思い込みの強さは日本の漢文業者も同じで、子路筋肉ダルマ説は日本でも史実として疑われていない。だが論語先進篇2では「政事…季路。」と明記してある。
つまり戦国時代に儒家を再興した孟子も、子路を政治の達者とし筋肉ダルマ説をとらなかった(論語解説「孔門十哲の謎」)。対して日本の漢文業者では例えば白川静が、ろくに史料も読まずに子路筋肉ダルマ説を書き散らし、こんにちのデタラメが流布する原因を作っている。
危険な亡命の遍歴に、必ず師の身辺にあって、数々の武勇を発揮した。(中公叢書『孔子伝』p.243)
子路が孔子の身辺で武辺働きをしたという記録は『史記』に無く、衛国の内乱に巻き込まれた死去の際も、冠をかぶっており武装していたとは書いていない。『孔子家語』には一例だけ、宋国で包囲されて武器を手に取ろうとした記述があるが、孔子に止められ結局戦っていない。
孔子之宋,匡人簡子以甲士圍之。子路怒,奮戟將與戰。孔子止之,曰:「惡有脩仁義而不免俗者乎?夫《詩》、《書》之不講,禮樂之不習,是丘之過也;若以述先王好古法而為咎者,則非丘之罪也。命夫!歌!予和汝。」子路彈琴而歌,孔子和之,曲三終,匡人解甲而罷。
孔子が宋に行き、匡のまちの住人で簡子という者が甲冑武者を送りつけて取り囲んだ。子路が怒って、戟(西周早期には出現した、カマ状の戈に槍の穂先を付けた武器)を取って戦おうとした。孔子が止めて言った。
「仁義を学んだ者が、下らない連中と関わるなんて馬鹿らしいぞ。『詩経』も『書経』も十分教えられず、礼儀作法も音楽も下手くそなのは、たしかにワシの責任だ。だがいにしえの聖王の道を書き留めその教えを好むのを咎められても、ワシが悪いわけではない。こうなったのも運命だ。ワシと一緒に歌でも歌おうではないか。」
言われて子路がチンチャカ琴を弾いて歌うと、孔子も合わせてチンチャカ弾き、歌った。三度ほど歌うと、匡の住人はよろいを脱いで去った。(『孔子家語』困誓5)
匡が宋のまちというのはおそらく間違いで(論語子罕篇5)、孔子ではなく孟子が言いだした「仁義」を言っていることから、この話は作りばなしとわかるのだが、仮に史実であっても「数々の武勇を発揮し」たとは書いていない。白川はデタラメを書いているのである。
いっぽう朱子が後漢儒の語釈を論語に書き付けたのは、自分の趣味に合ったからだとしか言いようが無い。『説文解字』を編んだ許慎は、武官として出世した後に個人的文化事業として字書を編んだのだが、当人の人柄はともかく、本には後漢儒の愚劣が相当に反映している。
重ねて「後漢というふざけた帝国」のリンクを貼るのを諒解されたい。
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