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論語詳解238郷党篇第十(3)君召して擯せしむる*

論語郷党篇(3)要約:後世の創作。孔子先生は、殿様に国賓の接待を命じられると顔つきや足取りが活き活きし、同僚とお辞儀しても衣裳が乱れず、進むときは小走りし、国賓が帰ると「満足して帰られました」と報告したという作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

君召使擯色勃如也足躩如也揖所與立左右手衣前後襜如也趨進翼如也賔退必復命曰賔不顧矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

君召使擯/色勃如也/足躩如也/揖所與立左右其手衣前後襜如也/趨進翼如也/賔退必復命曰賔不顧矣

慶大蔵論語疏

〔コ丿口〕1𠮦2使〔扌宀尸貝〕3/色〔学力〕4如也/〔口乙〕5躍如也/〔扌口𠃊日〕6所与7立左右手衣前後〔禾詹〕8如也/趍9進翼如也/賓10退必復命曰賓不顧〔ス土〕11(矣)12

  1. 「君」の行書。「跋鶺鴒頌」(北宋)写字近似。
  2. 「召」の異体字。「東魏居士廉富義道俗造天宮壇廟記」刻。
  3. 「擯」の異体字。「高福墓誌」(唐)刻。
  4. 「勃」の異体字。「北魏刁遵墓誌」刻。
  5. 「足」の異体字。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。
  6. 「揖」の異体字。「北魏孝文弔比干墓文」刻。
  7. 「與」の異体字。新字体と同じ。「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
  8. 「襜」の異体字? 未詳。
  9. 「趨」の異体字。「李翕西狹頌」(後漢)刻。
  10. 虫食い。ただし「賓」と判別可能。
  11. 「矣」の崩し字? 未詳。
  12. 傍記。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

君召使擯、色勃如也、足躍如也。揖所與立左右手。衣前後襜如也。趨進翼如也。賓退必復命曰、「賓不顧矣。」

復元白文(論語時代での表記)

君 金文召 金文使 金文擯 甲骨文 色 金文孛 金文如 金文也 金文 足 金文如 金文也 金文 所 金文与 金文立 金文 左 金文右 金文手 金文 衣 金文前 金文後 金文 如 金文也 金文  趨 金文進 金文 翼 金文如 金文也 金文 賓 金文退 金文 必 金文復 金文命 金文 曰 金文 賓 金文不 金文顧 金文矣 金文

※擯→(甲骨文)・勃→孛。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。論語の時代に原則として存在しない熟語を用いている。「如」「也」「進」「翼」「必」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

きみしてあへ使むれば、いろおこるがごとなりあしとびたつがごとなりともところをがみてひだりみぎにす。ころもまへうしろそろふがごとなりはしすすまばつばさごとなりまらうと退しりぞかばかならおきてかへしていはく、まらうとかへりみと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

漢儒
殿様が先生を召して、賓客の接待を命じると、顔色が生き生きし、足は飛び上がるようだった。同じ立場の者にお辞儀する時は、手を左右に広げた。衣の前後は揃った。小走りして進む時は翼のように両肘を張り出した。賓客が帰ったら必ず殿様に報告して「お客様は最後まで後ろを見ませんでした」と言った。

意訳

同上

従来訳

下村湖人

君公に召されて国賓の接待を仰せつけられると、顔色が変るほど緊張され、足がすくむほど慎まれる。そして同役の人々にあいさつされるため、左右を向いて拱いた手を上下されるが、その場合、衣の裾の前後がきちんと合っていて、寸分もみだれることがない。国賓の先導をなされる時には、小走りにお進みになり、両袖を鳥の翼のようにお張りになる。そして国賓退出の後には、必ず君公に復命していわれる。――
「国賓はご満足のご様子でお帰りになりました。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

國君召孔子去接待來賓,孔子表情莊重,腳步迅速;與兩旁的人作揖,左右拱手,衣服前後擺動,很整齊;快速向前時,步伐輕快;來賓走後,必定回報說:「客人走遠了。」

中国哲学書電子化計画

国君が孔子を呼んで来客の接待を命じると、孔子は表情を重々しくし、小走りした。両隣の人とお辞儀するには、左右の手をこまねき、衣服の前後を並んで動かし、非常に端正だった。素早く進むとき、歩みは軽快で、来客が去った後、必ず報告した。「客人は遠くに去りました。」

論語:語釈

君(クン)

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

論語の本章では”国公”。諸侯国の君主。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

君 行書 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「コ丿口」と記す。上掲・蔡卞「跋鶺鴒頌」(北宋)行書に近似。

召(ショウ)

召 甲骨文 召 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(目下の者を)呼びつける”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”容器”+「刀」。甲骨文の字形には、刀が三本、下に受け皿があるものが見える。缶切りのように、刃物で食品や酒などの密閉容器を開けるさま。原義は”開けて口にする”。容器から取り出した食品や飲料を口に”召す”こと。春秋末期までに、地名または氏族名に、”呼ぶ”・”あきらか”・”みことのり”の意に用いた。「召」から周王朝配下の小諸侯の名である「邵」の字が分化したのは、春秋時代末から。詳細は論語語釈「召」を参照。

召 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「𠮦」と記す。上掲「魏居士廉富義道俗造天宮壇廟記」刻。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

擯*(ヒン)

擯 甲骨文 擯 字解
(甲骨文)

論語の本章では”接待する”こと。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文に比定されている字形は「宀」”屋根”+「人」+「㔾」”しゃがんだ人”+「各」”あし(を止める)”。滞在する来客を接待するさま。金文以降は賓と書き分けない。甲骨文から春秋末期まで、”接待する”・”お客”の意に用いた。詳細は論語語釈「擯」を参照。

擯 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔扌宀尸貝〕」と記す。上掲「高福墓誌」(唐)刻。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

勃*(ホツ)

論語の本章では”勢いがついた”。

勃 篆書 勃 字解
(篆書)

「勃」の初出は後漢の篆書。字形は「孛」”子供にふさふさと毛が生える”+「力」。力強く立ち上がるさま。「孛」は「丰」”芽吹いた芽”+「子」。同音に「孛」とそれを部品とした「悖」、「浡」”起こる”、「誖」”乱す”、それに「艴」”気色ばむ”。「ボツ」は慣用音。呉音は「ボチ」。文献上の初出は論語の本章。『孟子』『荀子』にも見える。論語時代の置換候補は「孛」で、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「勃」を参照。

勃 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔学力〕」と記す。「北魏刁遵墓誌」刻。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

足(ショク)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”あし”。初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

足 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔口乙〕」と記す。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。

躩*(キャク)→躍*(ヤク)

論語の本章では”足がおどるさま”。ウキウキと浮き足立つこと。唐石経を祖本とする現伝論語では「躩」と記し、慶大蔵論語疏では「躍」と記す。論語の本章は現存最古の定州竹簡論語に全文を欠き、慶大本は隋代以前の写本とされることから、これに従って校訂した。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

躩 篆書 躩 字解
(篆書)

論語では郷党篇のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷」+「矍」”鳥を手で捕らえる”。飛び立とうともがく鳥の足のように、足が浮き足立つこと。同音に「矍」”驚き見る・はやる”とそれを部品とした「玃」”おおざる・手で打つ”、「攫」”つかむ・うつ”(”さらう”は国義)。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『荘子』にも見える。詳細は論語語釈「躩」を参照。

躍 隷書
(前漢隷書)

「躍」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「足」+「翟」”羽ばたこうとする鳥”。同音に「礿」”祭りの名”、「龠」”ふえ”とそれを部品とする漢字群。重語「躍躍」の時のみ、漢音で「テキテキ」、呉音で「チャクチャク」と読む。戦国初期の『孟子』、末期の『荀子』に見えるが、他の戦国諸家の本に見えない。ここから、前漢に出来た言葉=漢字を以前の儒教経典に遡らせて書き付けたことが想像できる。詳細は論語語釈「躍」を参照。

揖(ユウ)

揖 金文大篆 揖 拝礼
(金文大篆)

論語では、両手を組み合わせて胸の前に持ち上げ、腰をかがめて礼をすること。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に邑とそれを部品とする漢字群。語義は挹が共有するが、初出は後漢の『説文解字』。『大漢和辞典』で”えしゃく”を引くと「揖」とともに「撎」(エイ・イ)が出てくるが、こちらも初出は『説文解字』。詳細は論語語釈「揖」を参照。

揖 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔扌口𠃊日〕」と記す。「北魏孝文弔比干墓文」刻。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”立場(の者)”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”ともに”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

與 与 異体字
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。上掲「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”立つ”。朝廷の一員に加わること。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

其(キ)

隋代(581-618)に書写されたとされる慶大蔵論語疏に、次いで現存最古の古注本である宮内庁蔵清家本(1327-1328写)は、「左右手」→「其左右手」と「其」を加える。現伝論語の祖本である唐石経(837)は加えない。この結果中国伝承の宮内庁蔵宋版論語注疏は加えず、日本伝承の根本本・懐徳堂本は加える。論語の本章は最古の論語の版本である定州竹簡論語に全文を欠き、次いで最古となるのは慶大本だから、これに従って「其」を加えなかった。

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

「其」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詠嘆の意は西周の金文から見られ、派生して反語や疑問に解するのにも無理が無い。詳細は論語語釈「其」を参照。

左右*(サユウ)

左 甲骨文 右 甲骨文
(甲骨文)

「左」の初出は甲骨文。字形は左手の象形。原義は”左”。甲骨文では原義に、金文では加えて”補佐する”の意で用いた。論語語釈「左」を参照。

「右」の初出は甲骨文。字形は右手の象徴。原義は”右”。「ウ」は呉音。甲骨文では原義のほか、”補佐する”の意に、また春秋末期までに地名人名に用いた。詳細は論語語釈「右」を参照。

手(シュウ)

手 金文 手 字解
(金文)

論語の本章では”て”。指とてのひら・甲のある、腕の先についた部分。初出は西周中期の金文。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文では一般に「又」と記すが、金文になって「手」の字形が現れた。字形は五本指を持つ手の象形で、原義は”て”。金文では原義に、”くび”の意に用いた。詳細は論語語釈「手」を参照。

衣(イ)

衣 甲骨文 衣 字解
(甲骨文)

論語の本章では”上着”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。

前後(センコウ)

前 甲骨文 後 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”上着の腹面と背面”。空間的なまえとうしろ。この語義は春秋時代では確認できないが、ただし初出の字形を見るに当初から存在したと思われる。

「前」の初出は甲骨文。字形は履き物を履いた足の先端のさま。現行字体の「䒑」+「刂」は「止」”あし”の変形。「⺼」は履き物の変形。「ゼン」は呉音。甲骨文は欠損が激しく語義を読み取れない。西周早期から西周末期まで”時間的にまえ”の意で、春秋時代の用例は見当たらず、”空間的にまえ”の意が現れるのは戦国時代になる。詳細は論語語釈「前」を参照。

「後」の初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

襜*(セン)

襜 隷書 襜 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”装束がきちんととのう”。「襜」は論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「衣」+「セン」”ととのえる”。「詹」は「𦉜」”さかがめ”の部品として春秋の金文「國差𦉜」に見えるが、字形も語義も「襜」には繋がらない。秦帝国以降、清朝滅亡まで「詹事」の職があり、皇后や太子の家政を担当した。詳細は論語語釈「襜」を参照。

慶大蔵論語疏はへんを禾に換え、「〔禾詹〕」と記す。誤字か異体字と思われるが未詳。

お辞儀をしても衣の裾が乱れないというのは、下半身はどっしりとして余計な動きをせず、上半身が自由に動いたことを想像させる。中国武術で言う「上虚下実」で、ここでも孔子が武術の達人だったことを思わせる。

論語時代の貴族の衣服は、ワンピースの長いもので、帯を締め、裳裾(スカート)や幅の狭い前掛けを腰に巻き、頭には冠をかぶる。なお座るには床の上に座布団を敷き、椅子とテーブルの生活が入ってくるのは、漢が滅び遊牧民が大量に流入した、五胡十六国時代より後のこと。

五経図彙 衣衿帯 五経図彙 裳

論語の時代より後になると、儒者と道士以外はワンピースではなくツゥピースを着るようになり、スカートは必需品になった。男がスカートをはかなくなったのは、最後の王朝・清朝からで、満州服が中国に取り入れられた。いわゆるチャイナドレス。

趨進(シュシン)

論語の本章では、”小走りで進む”。「進」に”進む”の意は春秋時代では確認できない。また、春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「趨」と言えば”小走りに進む”に決まっているから余計な修辞で、論語の時代の漢語ではない。

趨 金文 趨 字解
(金文)

「趨」の初出は西周早期の金文。字形の左と上は「大」”ひと”+「止」”あし”=「走」で、中間の「十」二つの意味するところは不明だが、おそらく右端の傾いた「𠙵」”くち”から出た”命令”を示し、全体で命じられて使いに走るさま。「スウ」は慣用音。呉音はス(平)、ソク(入)。春秋末期までの用例は人名のみが確認出来、明確に”はしる”と解せる用例は戦国時代まで時代が下る上に、字形が「趣」で全く異なる。詳細は論語語釈「趨」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「趍」と記す。「李翕西狹頌」(後漢)刻。

進 甲骨文 進 字解
(甲骨文)

「進」の初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。

翼(ヨクジョ)

翼 金文 翼 字解
「翼」(金文)

論語の本章では”翼”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は通説では甲骨文とされるが、「习」(羽の半分)の字形で賛成できない。殷と周でまるで字形が違う例の一つで、事実上の初出は春秋早期の金文。その字形は頭に羽根飾りを付けた「異」”頭の大きな人や化け物”。「異」の詳細は論語語釈「異」を参照。春秋末期までに、”受け取る”の意に用いた。詳細は論語語釈「翼」を参照。

賓(ヒン)

賓 甲骨文 賓 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(外国からの)来客”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「夫」”かんざしや冠を着けた地位ある者”で、外地より来て宿る身分ある者のさま。原義は”高位の来客”。金文では原義、”贈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「賓」を参照。

退(タイ)

退 甲骨文 退 字解
(甲骨文)

論語の本章は”帰る”。相手が目上の場合に用いる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「スイ」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

復命(フクメイ)

論語の本章では、”命令の結果を主君に報告する”。

復 甲骨文 復 字解
(甲骨文)

「複」初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

「命」は論語の時代、「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。春秋末期、BC518ごろの「蔡侯尊」には、「蔡𥎦󱠜虔共大命」とあり、「つつしんで大命を共にす」と訓める。これを”天命”と解せなくもない。詳細は論語語釈「命」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

顧*(コ)

顧 金文 顧 字解
(金文)

論語の本章では”振り返る”。初出は西周早期の金文。字形は「雇」+「頁」”目の大きな人”。「雇」は甲骨文では地名に用いられ、原義は鳥の一種だったとされる。定まった季節に渡り鳥が去って行く姿で、その間を回顧するさまを指すか。同音は膨大に存在する。春秋末期までに、”回顧する”・”思う”の意に用いた。詳細は論語語釈「顧」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…し終えた”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

慶大蔵論語疏は上下に「〔ス土〕と記す。崩し字と思われるが未詳。王羲之など南北朝時代の草書ににていなくもないかな、といった程度。また「矣」と傍記してある。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に欠く。春秋戦国時代の誰一人引用せず、先秦両漢では「趨進,翼如也。君召使儐,色勃如也。」のみが『史記』孔子世家に載る。

第一句「君召使擯、色勃如也、足躩如也。」の「擯」は、上記語釈の通り「賓」のもったいぶった言い方だが、文献時代での初出は、前漢でいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒による『春秋繁露』で、そのほか両漢時代に偽作された『小載礼記』『周礼』『儀礼』に載る。

「勃如」の語は上掲『史記』のほか、論語郷党篇にしか見られない。「躩如」も郷党篇のほかは、後漢の『説文解字』に一件見られるのみ。

第二句「揖所與立左右手。」のうち、「所與立」は先秦両漢に見られず、「左右手」は定州竹簡論語よりやや先行する『史記』呉起伝に見える。第三句「衣前後襜如也。」は先秦両漢の他文献に全く見られない。第四句「趨進翼如也。」は上掲『史記』のほかは見られない。最終句「賓退必復命曰、賓不顧矣。」のうち、「復命」が”結果報告”の意で用いられたのは『春秋左氏伝』から見える。「賓不顧」は両漢時代に偽作された『儀礼』に見える。

文字史上は「躩」の初出が後漢の『説文解字』であることから、『史記』孔子世家などを材料に、前漢末から後漢初期にかけて偽作されたと考えるのが筋が通る。あるいは王莽とその一党による作品だろうか。古注に孔安国の名が見えているが、この人物は架空である可能性が極めて高い。おもに新代に活動した包咸が注を付けているが、あるいは包咸も偽作集団の一員だったかもしれない。

解説

後の統一帝国時代とは異なり、論語の時代は史書に記述があるだけでも毎年のように使者が往来し、その接待は国の行く末を左右しかねない大事な仕事だった。家老格である孔子が接待を務めるとなると、相手もそれ相応の高い身分であり、会話には巧みに『詩経』の一説を引用するなどして、高度な教養が求められた。この点孔子はうってつけだったろう。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

君召使擯註鄭𤣥曰君召使擯者有賓客使迎之也色勃如也註孔安國曰必變色也足躩如也註苞氏曰盤辟貎也揖所與立左右其手衣前後襜如也註鄭𤣥曰揖左人左其手揖右人右其手一俛一仰故衣前後則襜如也趨進翼如也註孔安國曰言端正也賓退必復命曰賓不顧矣註孔安國曰復命白賓已去也


本文「君召使擯」。
注釈。鄭玄「君召使擯とは、賓客があったときに応接させることである、」

本文「色勃如也」。
注釈。孔安国「必ず顔つきを変えたということである。」

本文「足躩如也」。
注釈。包咸「走り回るさまである。」

本文「揖所與立左右其手衣前後襜如也」。
注釈。鄭玄「左側の人にお辞儀するときには手を左に挙げ、右側の人には右にあげる。一度頭を下げ、一度頭を上げる。だから衣裳の前後はそろったままになる。」

本文「趨進翼如也」。
注釈。孔安国「端正な姿で小走りに進んだという事である。」

本文「賓退必復命曰賓不顧矣」。
注釈。孔安国「結果報告して、お客がすでに去ったと申し上げたのである。」

新注『論語集注』

君召使擯,色勃如也,足躩如也。擯,必刃反。躩,驅若反。擯,主國之君所使出接賓者。勃,變色貌。躩,盤辟貌。皆敬君命故也。揖所與立,左右手。衣前後,襜如也。襜,亦占反。所與立,謂同為擯者也。擯用命數之半,如上公九命,則用五人,以次傳命。揖左人,則左其手;揖右人,則右其手。襜,整貌。趨進,翼如也。疾趨而進,張拱端好,如鳥舒翼。賓退,必復命曰:「賓不顧矣。」紓君敬也。此一節,記孔子為君擯相之容。


本文「君召使擯,色勃如也,足躩如也。」
擯は必-刃の反切で読む。躩は驅-若の反切で読む。擯とは、国公が派遣した使者を応接する者を監督することである。勃とは、表情を変えることである。躩とは、走り回るさまである。すべて主君の命令を敬ったためである。

本文「揖所與立,左右手。衣前後,襜如也。」
襜は亦-占の反切で読む。所與立とは、ともに応接に当たる者である。応接は周王の授ける九等級に従い、その半分の人数を出す。例えば最上級の伯=その地法の諸侯の頭を命じられた国公には、五人が世話を焼き、等級が下がるにつれ人数を減らす。左側の人にお辞儀するには手を左に挙げ、右の人には右に挙げる。襜とは、ととのったさまをいう。

本文「趨進,翼如也。」
小走りして進み、格好良く両袖を張り広げ、鳥が飛び立つときに羽根を広げるようなさまをしたという。

本文「賓退,必復命曰:賓不顧矣。」
報告し終えて主君の命令に対する緊張を解くのである。この一節は、孔子が主君のために賓客を応接するさまを記している。

余話

無礼でないと国が保たない

訪問や客あしらいは、その人物や社会の成熟度をあらわにする。

年齢を重ねても、人をおとしめて自分を大きく見せようとする者がいる。個人のみならず、社会こぞって他社会をおとしめて高まる、情緒不安定な人間の集団がいる。2015年、中国の習近平主席が英国を訪問したが、数々の無作法を仕出かして、女王陛下まで怒らせたらしい。

女王は、園遊会に招かれたルーシー・ドーシー警視長が習主席訪英の戦略責任者だったという紹介を聞き、「運が悪かったですね」と反応。さらに随員が、「(ドーシー警視長たちは)中国側に非常に、非常に業務を妨げられたが、(警視長は)決して揺らぐことなくすべてをまとめ上げた」と説明すると、女王は「あの人たちは大使にとても失礼でした」と、中国駐在のバーバラ・ウッドワード英国大使に対する中国側の行動に言及した。

ドーシー警視長はこれに対して「はい、とても失礼で、外交的ではありませんでした」と述べ、中国使節が会合の席を立って退場した一件について話すと、女王は「なんということでしょう」と答えた。(BBC NEWS:2016年5月11日)

イジワルでは世界第一品のイギリス人が、こんなことをされて黙っているわけがなく、事後に空港での共同記者会見の場所を、トイレの前に設置するというイヤガラセをした。「高慢ちきなジョン・ブルだな」と当時思ったものだが、実は仕返しだったというわけだ。

中国や韓国など、劣等感の裏返しで民族的高慢ちきエスノセントリズムが根付いてしまった社会では、外国に対して無作法をすればするほど、その人物は国内で高く評価される。習近平にとっては「英国女王でさえ足蹴にした俺だぜ」ということで、だから「人民どもは俺を拝め」ということになる。

韓国の場合は、日本に無理難題を吹きかければかけるほど、「日本より偉い俺だぜ」ということで、同様に韓国内での株が上がる。やればやるほど株価が上がるのだから、中韓のイヤガラセは止むことが無い。中韓の一般人も溜飲を下げるし、当人は名を売り大儲けだからだ。

だから怒って損をするのは日本や受け容れ側で、どんなに低姿勢を取っても、中韓のイヤガラセや居丈高が改まる道理が無い。中朝韓とも植民地化の経験があり、それを倒して現政権があるからには、旧宗主国をどこまでおとしめるかが、政権維持のために必要でもある。

従って国人にしつこく「侮外教」を擦り込む。擦り込んでからすでに一世紀近くなる。そして両国内でその信徒であるがゆえの不利益は皆無だから、反動や解消のきっかけが無い。結果、どこまでも無作法な連中が高まるだけであり、こういう国とまともに付き合うのは不可能だ。

帝政以降の儒教の本質は儒術で、領民をクルクルパーにして皇帝や役人の言うことを聞かせる洗脳だった。「異民族を汚らわしいと思え」というのもその一つで、論語憲問篇18「管仲なかりせば」はその根拠とされたが、文字史から後世の偽作が確定している。

従って現在の中韓の対外的ていたらくは、孔子に責任のあることではなく、帝国の儒者には責任があるのだが、はたして儒術がどの程度、かかる無作法の背景になっているのかはわからない。韓国はともかく、大多数の中国人は史上一貫して、儒教の信徒ではなかったからだ。

しかも異民族を蛮族呼ばわりするには、あまりに異民族王朝が多すぎる。仮に殷を漢人国家の始まりとするなら、周は西方の牧畜民、秦も同様、後漢が滅ぶと中国の北半は異民族支配、隋唐帝室は鮮卑人、元はモンゴル人で清は満洲人であったこと、覆いようのない史実である。

結局、漢人国家と言えるのは殷と漢と宋と明だけになってしまう。殷の領域は明確に出来ないし、漢・宋・明の領域は秦とほぼおなじで、ほぼ現中国から自治区と満洲*(「東北部と言え!」とホンゴーでタコによく似た回し者漢学教授に怒鳴られた)と青海省を除いた残り。

つまり漢人的価値観を共有しないあまたの少数民族を抱えてしまっているのだが、元首や役人が国内で威張り返るのには誰もが頭にくるとして、外国で威張るのは漢人ならずとも清涼剤となりうるのだろう。「偉大なる国家の一員」の自覚も生まれるかも知れない。

従って中国に関しては、要人のみならず一般人民も加えた外国での無作法は、実は儒教のせいではない。韓国に関しては、2015年の調査によれば半分以上が無宗教で、最大多数はキリスト教という。それでも日本へのイヤガラセが止まないが、実は侮日教が最大宗教だからだ。

それがこうじて、日本以外にもイヤガラセを繰り返した。キリストが韓国人であるかのような絵を国宝指定し、ローマ法王聖下から「精神的に生まれ変われ」と苦言を呈されるほどになった。無名なうちは無関心ゆえに無作法が通ったが、目立つとなればそうもいかない。

中韓とはまともに付き合えない、と多くの先進国が思い始めたのはもっともだ。これは今に始まったことでない。中華文明没落のきっかけになったアヘン戦争も、同じ理屈で始まっている。英国人となんとか付き合ってきた現地の長官を蹴飛ばして、林則徐は言い放った。

「人即正法(イギリス商人どもの首を刎ねてしまえ)」(『清史稿』林則徐伝)。現場を知らぬ連中は拍手喝采し、林則徐は今なお民族英雄として拝まれているが、大多数の中国人を不幸に突き落としたのは実はこの男で、いまなお侮外教の御本尊になっているから株価が落ちない。

人々がアヘンを吸うしかない社会が間違っているので、そんな社会で特権にふんぞり返っている奴が、何を言っても救いが無い。

宗教キ○ガイだな」「宗教だわ」

従って中国の今後を見るなら、林則徐の評価が変わったかどうかを見ればよいわけだ。林則徐は科挙に合格したあと翰林院(帝国アカデミー)に入っている*からエリート中のエリートで、言い換えると頭でっかちで他者が思い通りに動かないと相手が悪いと思いたがる性格だった。

地方官を歴任したときには、「不正な官吏の大量処分を断行した。彼の地方行政官としての手腕は今日でも高く評価されている」とwikiに言うが、『清史稿』林則徐伝にはそう書いていないから、「林則徐教」の信徒が勝手にでっち上げた話である可能性がある。

中国史に限らず、ものを言うにはできるだけ元データに当たらないと足払いを食らう。林則徐の失敗もその例で、事実をありのままに見ようともしない。これは社会がよってたかって甘やかしたからだが、ドイツ軍部やKGBや日本の官僚など、同類による被害は中韓だけでない。

たぶんエリートそのものを必要としない社会が、進化した人類の集まりと言えるのだろう。


満洲:上記の通り中共の回し者T大漢学教授はひたすらこの言葉を消しに回った。対して近所で繁盛している中華料理屋のおかみさんは、誇らしげに旗袍チーパオ(いわゆるチャイナドレス。元は満洲軍旗本・御家人の装束)をまといタッパのある胸を張って「この店の者は全員満洲人だ(ウォーメントォーマンツゥ)」と言った。訳者がどちらに従うべきか言うまでも無い。

翰林院:清代の翰林院は皇帝の学術顧問団で、科挙の首席合格者は翰林院修撰に、次席と三席は翰林院編集に命じられる。両者は国版図書の編纂と詔勅の起草に当たる。それ以外の者を再度試験して(朝考)、若干の優等者を翰林院庶吉士(知る限りでは明以前に「庶吉」を見ないから、おそらく満州語ジャンギン”隊長”の意か?)に任じる。

林則徐はこれで、庶吉士はおおむね3年間、翰林院で高度な教育を受ける。現代で言えば日本の司法修習生やフランスの国立行政学院(ENA)学生に当たる。ENAは高慢ちきが過ぎてフランス国民に嫌われに嫌われたので、マクロンが看板だけ書き直して誤魔化した。おフランスもろくな国ではない。

参考記事

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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