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論語詳解252郷党篇第十(18)車にのぼるに*

論語郷党篇(18)要約:後世の創作。車に乗るときは、真っ直ぐ立ち、取り縄を取って乗車し、乗ったら視線は真っ直ぐ前を見て動かさず、「急がんか」とせかさず、道行く人を指ささない。「立ったまま乗る」の解釈は物理的に無理。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

升車必正立執綏車中不内顧不疾言不親指

校訂

諸本

  • 武内本:魯論には不の字なし。
  • 『経典釈文』:魯讀車中內顧今從古也

東洋文庫蔵清家本

升車必正立執綏/車中不内顧/不疾言不親指

慶大蔵論語疏

〔丶丿卞〕1車必正立執綏/車中不內項/不疾言/不親𢫾

  1. 「升」の異体字。「藥方石刻都邑師道興造釋迦二菩薩像記」(東魏)刻。
  2. 「指」の異体字。「白石神君碑」(後漢)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……必以貌。六者式258……[雷]風[烈]必變。升車b259……

  1. 今本”升車”後為別一章。

標点文

升車、必正立執綏。車中不內項、不疾言、不親指。

復元白文(論語時代での表記)

升 金文車 金文 必 金文正 金文立 金文執 金文 車 金文中 金文不 金文內 内 金文項 甲骨文不 金文疾 金文言 金文 不 金文親 金文旨 金文

※項→(甲骨文)。論語の本章は「綏」が論語の時代に存在しない。「必」「執」「指」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

くるまのぼるに、かならただしくちてつなる。くるまうちにてはうちうつむかせのものいみづかゆびさ

論語:現代日本語訳

逐語訳

漢儒
車に乗る時には、車の前で姿勢を正して立ち、取り縄につかま(ってよじ登)る。車の中では胸に向かってうつむかず、急がせるようなことを言わず、誰かを指さすような失礼はしない。

意訳

同上

従来訳

下村湖人

車に乗られる時には、必ず正しく立って車の吊紐を握り、座席につかれる。車内では左右を見まわしたり、あわただしい口のきき方をしたり、手をあげて指ざしたりされることがない。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

上車時,一定先站直,然後拉著扶手上車,在車中,不回頭,不急切說話,不指指劃劃。

中国哲学書電子化計画

車に乗っている時は、必ず真っ直ぐに立ち、それから取り縄を取って乗車した。車の中では、きょろきょろせず、早口でしゃべらず、あれこれ指ささなかった。

論語:語釈

升(ショウ)

升 甲骨文 升 字解
(甲骨文)

論語の本章では車に”乗る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「斗」”ひしゃく”+「氵」”液体”で、ひしゃくで一杯すくうさま。原義は”ひしゃく一杯分の量”。甲骨文では原義で、金文では加えて神霊に”酒を捧げる”、”のぼせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「升」を参照。

升 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔丶丿卞〕」と記す。上掲「藥方石刻都邑師道興造釋迦二菩薩像記」(東魏)刻。

当時の車は床が高く、よじ登るようにして乗った。

車(シャ/キョ)

車 甲骨文 車 字解
(甲骨文)

論語の本章では”くるま”。初出は甲骨文。甲骨文・金文の字形は多様で、両輪と車軸だけのもの、かさの付いたもの、引き馬が付いたものなどがある。字形はくるまの象形。原義は”くるま”。甲骨文では原義で、金文では加えて”戦車”に用いる。また氏族名・人名に用いる。「キョ」の音は将棋の「香車」を意味する。詳細は論語語釈「車」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

正(セイ)

正 甲骨文 正 字解
(甲骨文)

論語の本章では”真っすぐ”。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”立つ”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

執(ショウ)

執 甲骨文 執 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に取る”この語義は春秋時代では確認できない。。初出は甲骨文。「シツ」は慣用音。字形は手かせをはめられ、ひざまずいた人の形。原義は”捕らえる”。甲骨文では原義で、また氏族名・人名に用いた。金文では原義で、また”管制する”の意に用いた。詳細は論語語釈「執」を参照。

綏(スイ)

綏 楚系戦国文字 綏 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では、”乗車のための垂れひも”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「妥」”下る”。同音は存在しない。辞書類はみな「スイ」の音を付けるが、本来「タ」と音読すべき字。部品の「妥」に”ひも”の語義は無い。詳細は論語語釈「綏」を参照。

論語時代の車は地面から高かったから、取り縄がなければ乗れたものではない。例えば兵馬俑出土の戦車は、車輪の直径が約1.5mという。下記モデルは出土史料の数値を元に3Dソフトでモデリングしたもの。
戦車 横

通説では”立ったまま乗る”というが、それは無理というものだ。

中(チュウ)

中 甲骨文 中 字解
「中」(甲骨文)

論語の本章では”…の中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

內(ダイ)

内 甲骨文 内 字解
(甲骨文)

論語の本章では”体の内側”。新字体は「内」。ただし唐石経・清家本とも「内」と新字体で記す。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ダイ」で”うちがわ”、「ドウ」で”入れる”を意味する。「ナイ/ノウ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「ケイ」”広間”+「人」で、広間に人がいるさま。原義は”なか”。春秋までの金文では”内側”、”上納する”、国名「ゼイ」を、戦国の金文では”入る”を意味した。詳細は論語語釈「内」を参照。

顧(コ)→項(コウ)

顧 金文 顧 字解
(金文)

論語の本章では”見つめる”。初出は西周早期の金文。字形は「雇」+「頁」”目の大きな人”。「雇」は甲骨文では地名に用いられ、原義は鳥の一種だったとされる。定まった季節に渡り鳥が去って行く姿で、その間を回顧するさまを指すか。同音は膨大に存在する。春秋末期までに、”回顧する”・”思う”の意に用いた。詳細は論語語釈「顧」を参照。

項 甲骨文 項 字解
「項」(甲骨文)

慶大蔵論語疏は「項」と記す。”うつむく”の意。論語の本章ではこの部分を定州竹簡論語に欠き、次いで古い版本は慶大本になる。これに従って校訂した。

「項」の初出は甲骨文。現伝の字形は音符「工」+「頁」”くび”。甲骨文から”くび”の意に用い、春秋の金文では”うなずく”、戦国文字では”くび”・”もとどり”の意に用いた。詳細は論語語釈「項」を参照。

疾(シツ)

疾 甲骨文 論語 疾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”急がせる”。疫病のたぐい。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ものを言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

親(シン)

親 金文 親 字解
(金文)

論語の本章では、”自分で”。初出は西周末期の金文。字形は「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。

指(シ)

指 金文 指 字解
(金文)

論語の本章では”指さす”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。同音に「脂」「祗」”つつしむ”(以上平)「旨」「厎」”みがく”「砥」”といし”(以上上)。字形の由来は不明。金文では”頭を下げる”の意にも用いた。詳細は論語語釈「指」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「𢫾」と記す。「白石神君碑」(後漢)刻。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、再出は後漢初期の『漢書』成帝紀に「升車正立,不內顧,不疾言,不親指」とある。「執綏」は『漢書』より遅れて後漢末期の「風俗通義」に見える。定州竹簡論語には「升車」としか残っていないから、「執綏」は後漢になってからの付け足しと考えてもよい。いずれにせよ文字史からも、漢儒の創作と判断できる。

解説

論語の本章について、上掲定州竹簡論語の校勘が言うのは、竹簡では本章は前章と一体に書かれていたという事だが、古注では分割し新注では分割していない。理としては、前章本章の数語はどちらも「君子」だから、定州論語や新注の方に分がある。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語
定州

さてここでこの論語郷党篇を、定州竹簡論語にあるかどうかで分類していくと、上掲のようになる。一見して主語が「君子」であれば定州論語に有り、孔子であれば無い傾向がある。そこで改めて篇の頭から読むと、2~5には主語がなく、1の引き続きで孔子だと断じただけ。

これは「君子」章も同様で、6に君子と明記した以外、主語を記していない。12「康子薬をおくる」、13「うまや焼けたり」は明確に「丘」「子」と主語が孔子であることを示し、16は「うちで引き取ろう」と言ったのが行動規範ではなく風景の描写と思われるゆえの孔子話。

すると表はこう改める事になろうか。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語
定州
竄入  

そして次のように言えるだろう。主語が孔子であるか君子であるかにかかわらず、前漢以前に孔子の言動を元にした、孔門の行動規範集があった。そののち後漢時代になって、思慮の足りない儒者が何らかの意図で無原則に郷党篇を膨らませた。

12「薬」・13「うまや」・16「うちで」の三つは、強いて解すれば行動規範と取れなくもない。正体不明の薬、火事という異常事態、身寄り無き友人の死への作法と言えなくはないからだ。すると従来難解と言われてきた、次の論語郷党篇最終章を読み解くよすがが出来る。

孔子が子路を連れて山歩きに出掛け、数羽のキジに出会った。孔子はキジに歌で呼びかけた。「時なるかな、時なるかな。」難解な歌だがまあいい。そのあとの句が問題で、子路がキジに近寄ったとする説と、捕らえて焼き鳥にし、孔子の食卓に上せたという説が分かれる。

詳しくは次章に記すが、度しがたい偽善とネット掲示板荒らし風味に解さねばならない。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

升車必正立執綏註周生烈曰正立執綏所以為安也車中不內顧註苞氏曰輿中不內顧者前視不過衡枙旁視不過輢轂也不疾言不親指


本文「升車必正立執綏」。
注釈。周生烈「正立執綏とは、体を安定させるためである。」

本文「車中不內顧」。
注釈。包咸「車の上でうつむかないとは、前を見るときには馬のくびき(首の上に横たえた牽引機構の一部)より下を見ず、横を見るときは車輪のこしき(車輪のスポークが集まった中心部分)より後ろを見ないことである。

本文「不疾言不親指」。

車の上部構造は、細い軸で立ち上げた傘が付いているだけで、そこからつり革を下げたのにつかまれば、すぐに折れるのは理の当然。そもそも車に立って乗るのは戦闘中の戦車だけで、立ってつかまるつり革などあるわけがない。古注は春秋の車について儒者が勝手な妄想を膨らませたラノベと解釈するしかないが、三国魏に仕えた周生烈は、車に乗ったことがあったのだろうか。

新注『論語集注』

本文升車,必正立執綏。綏,挽以上車之索也。范氏曰「正立執綏,則心體無不正,而誠意肅恭矣。蓋君子莊敬無所不在,升車則見於此也。」車中,不內顧,不疾言,不親指。內顧,回視也。禮曰:「顧不過轂。」三者皆失容,且惑人。此一節,記孔子升車之容。


本文「升車,必正立執綏。」
綏とは、車に乗り上がるときの取り綱である。

范祖禹「正立執綏とは、つまり心や姿勢に正しくないところが無く、意識に偽りが無く、慎み恭しいさまを言うのだなあ。たぶん君子は、どこでも敬いの気持を明らかにするので、そうしない場合が無い。車に乗るときにも、このように威儀を明らかにするのである。」

本文「車中,不內顧,不疾言,不親指。」
內顧とは、まわりを見回すことである。『礼記』に言う。「横を見ても、こしきより後ろは見ない」と。ここに言う三つの事柄は、どれもみっともないし、道中の人々に「

あれでも君子か」と笑われる。この一節は、孔子が車に乗るときの作法を示す。

宋儒がいつも通り安定して、他人をおもちゃにするサディズムを発揮している件については、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

立ちあがれない見本

論語の本章、「不疾言」を、通説では”早口で言う”と解す。それなりに理はある。

論語の時代でも、何事にも合理的なやり方があり、それに逆らって威儀を見せつけても、物理の力にあっさり負ける。舗装も無い道の上を、ゴムタイヤもサスペンションも無い車で行けば、すさまじく揺れるのは当然で、天の一点を睨み付けても、すってんころりと落ちる。

笑いものになるだけならまだいいが、大けがにもなりかねない。しかも「ガラガラ」とうるさいので、早口でものを言っても聞こえない。ものを言うにも合理的な言い方がある。例えば帆走実習に参加するとわかるが、船の世界でも、早口や小声で言う習慣はなかった。

帆船時代が過ぎ去り拡声器がある今では、「面舵、取り舵」の号令は普通の口調、それも英語で言うらしいが、帝国海軍では「おもぉうかぁぁぁじ」と言うような習慣があった。これは船の上は常に強い風が吹き、小声や早口では聞こえないので、習慣として定着したもの。

車に乗るのも同様で、現代のオフロードバイクでさえ、未舗装路を行くには立ち乗りし、かかとを締めて振動に備えるのが基本で、ともすればあまりの振動に跳ね飛ばされて恐ろしい。訳者は若年時、山奥でバイクごと谷へ落っこちたことがあるから、古注はウソだと確信する。

鋼鉄のハンドルとステップがあってもこの始末で、ヤワなつり革につかまった程度で、立ったまま車に乗れるわけがない。春秋の君子は立ったまま戦車に乗って戦ったが、ただ立つだけでは済まず、長柄武器を振るい、弓を射なければならなかった。つかまる手はないわけだ。

それでも車上戦闘できたのは、よほど鍛えた足腰に加え、腰回りを車に縛っていたはずだ。孔子存命の頃から戦車戦が廃れ、本章が偽作された漢代では、軍用でもただの乗用車や荷車になっていた。もちろん論語の時代にも非軍用の乗用車はあったが、座って乗るものだった。

さらに現代日本の未舗装路は、春秋の道路らしきものよりまだましで、定期的に整備されている。対して古注を書き付けた周生烈は、都城内のよほど整備が行き届いた道しか知らなかったと見えるし、車は立って乗るものだと思い込んでいる。車に慣れ親しんでいたとは思えない。

ローマ皇帝の凱旋式のように、貴人が車上に立ったまま民衆の歓呼を受けるけしきは、漢から三国にもあっただろう。定州竹簡論語が埋蔵される宣帝期の前の前、武帝期は外征続きで、たまには勝って帰る将軍がいた。だが立って乗るものと思い込むのは、見物人の視点だ。

筆と箸とワイロより重いものを持とうともしなかった帝国の儒者が、立って乗れるほど足腰を鍛えていたとは思えない。前漢までは腕の立つ儒者もいたが(『史記』儒林伝)、後漢から儒者はひょろひょろばかりの上、デタラメばかり言った。後漢というふざけた帝国を参照。

人類にとって車の発明は一大画期で、自分で背負ったり家畜に担がせたりするより、はるかに大量の荷を運べるようになった。重量を持ち上げつつ水平移動するには、丸いものに載せて回転させるだけでいい。重さに筋力が要らず、回転の摩擦と引き出す力だけで済む。

その祖型はコロだがずらりと並べる必要がある。これが車輪になって人類は大化けした。

だが全人類がこの発見に至ったわけではない。アメリカ先住民は車輪を持たなかった。中南米の文明が相当に進んでいたのはよく知られるが、技術革新は頭打ちになった。経済をジャガイモとトウモロコシに頼らざるを得なかったからだが、加えて車輪の不在にも理由がある。

発掘品から見て原理は知っていたらしいが、実用化はできなかった。車の発明はBC36世紀のメソポタミアにあるらしいが、「ウルのスタンダード」にあるように、始めは半円形に切り抜いた木版2枚を継ぎ合わせて車輪にしていた。いわゆるばね下重量が重いし、脆くもある。

ウルのスタンダード

対して中国ではBC18世紀の遺蹟から車輪があり、殷代の遺蹟からはスポークで形成された車輪を持つ戦車が出土している。西方から伝わったのか、独自に発明したのかは分からない。ただ驚くべき事は、1,800年前の三国魏の時代に、いわゆる「指南車」が現れたことだ。

與常侍高堂隆、驍騎將軍秦朗爭論於朝,言及指南車,二子謂古無指南車,記言之虛也。


(魏の時代、)宦官の高堂隆と、驍騎將軍の秦朗が朝廷で言い争いをしたが、指南車に話が及ぶと、どちらも「こんな車は昔には無かった。古記録があったあったと書いているのは嘘っぱちだ」と意見が一致した。(『三国志』魏書杜夔伝註)

魏明帝青龍中,令博士馬鈞紹而作焉。車上有木仙人,舉手恒指南。


魏の明帝の青龍年間、博士の馬鈞が先人の発想を元に造った。車には仙人の人形が乗っており、手を挙げていつも南を指す。(『通典』指南車5)

ベアリングが発明されるまで、左右の車輪は1本の車軸に固定されるものが多かった。すると角を曲がるときには、内外の車輪の軌跡に長短が出る。これを内輪差という。当然引きずりが出て曲がりにくい。中国の戦車はその解決のため、こしきを巨大に作って軸から滑らせた。

史料に「車に脂を塗る」とあるのは、その摩擦がたいへんだったことを示している。だが中国人の工夫はそれに止まらず、内輪差を打ち消す差動装置を作った上に、その働きで車の向きにかかわらず一定の方角を指す指南車を作りだした。古代中国文明の精華といってよい。

車の進化については、日本人も一役買っている。江戸時代の大八車は、祇園の山鉾同様に左右同軸で曲がりにくい上に、荷台が軸より上にあって転倒しやすい。明治になって自転車が入ると、日本人はすぐにその機構を転用して、曲がりやすく重心の低いリヤカーを発明した。

ベアリングで左右の車輪を独立懸架させ、荷台の底を車輪の回転軸より低く出来たからだ。今では取り締まりの厳しい地域の宅配などでしか見かけないが、戦後の復興をリヤカーがどれほど支えたか分からない。また日本人はママチャリも発明した。外国には無い車種らしい。

いまママチャリが日本のママや中高生の移動を、どれだけ支えているか分からない。

なお『平家物語』の以下のくだりは、論語の本章を踏まえているだろう。

木曾…車に屈み乗りぬ。牛飼は八島大臣殿の牛飼なり。牛車もそなりけり。逸物なる牛の据ゑ飼うたるを門出づるとて一楚当てたらうになじかはよかるべき。牛は飛んで出づれば木曾は車の内に仰のきに倒れぬ。蝶の羽を広げたるやうに左右の袖を広げ手をあがいて起きん起きんとしけれどもなじかは起きらるべき。木曾牛飼とはえ云はでやれ小牛健児よやれ小牛健児よと云ひければ車遣れと云ふぞと心得て五六町こそあがかせけれ。今井四郎兼平鐙を合はせて追ひ付き何とて御車をばかやうには仕るぞと云ひければあまりに御牛の鼻強う候ふてとぞ述べたりける。牛飼木曾に仲直りせんとや思ひけんそれに候ふ手形と申す者に取り付かせ給へと云ひければ木曾手形にむずと掴み付いてあつぱれ支度や牛健児が計らひか殿のやうかとぞ問ひたりける。


木曽義仲は…牛車にかがんで乗った。牛飼いは八島大臣が使う者だったし、車もそうだった。牛はただでさえ気の荒いもので、それが長い間引き出されず小屋に飼われっぱなしだった。そこへ「それ行け!」とひと鞭当ててしまったから、どうしてほどよく歩む道理があろう。

牛は飛び出すように車を引っ張り、義仲は車内であおのけに倒れた。蝶が羽根を広げるように左右の腕を広げ手をもがいて、起きよう起きようとしたが、起き上がれる道理が無い。義仲は「牛飼い」という言葉も知らず、「やれ牛小僧、やれ牛小僧」と牛飼いを呼んだが、牛飼いの方では「もっと車をやれというのだな」と合点して、五六町も車を飛ばした。

義仲の家来、今井四郎兼平が、騎馬を飛ばしてやっと追いつき、併走しながら牛飼いに「なんでこんな無茶な飛ばし方をするんだ」と言うと、「この牛がもともとこういう奴なんです」と答えた。牛飼いはさすがに義仲が気の毒になって、「車の前にある取っ手につかまりなさいませ」と言うと、義仲はむんずと取っ手を掴んで、「天晴れな用意だ。牛飼い、お前の気配りか、それとも大臣どのの普段の用意か」と問うた。(『平家物語』猫間)

©学研

牛車は乗るときには後ろから、降りる時には牛を外して前から降りるとされている。「かがんで乗った」というのは、前から乗ったと解するらしい。だが牛飼いは徒歩で付き添っているはずで、武勇絶倫の義仲が転げ、戦場往来の騎馬武者がやっと追いつくとは合点がいかない。

それとも騎牛していたのだろうか。そんな話は読み聞きしたことがないのだが。

参考動画

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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