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論語詳解240郷党篇第十(5)圭を執るには*

論語郷党篇(5)要約:後世の創作。宮廷での礼儀作法について、笏の上げ下げ、その時の表情、歩き方、使いに出たときに、殿様から託された礼物の受け渡し式での表情、私的な会合での表情。文字史的には、後漢滅亡後に現形になりました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

執圭鞠躬如也如不勝上如揖下如授勃如戰色足蹜蹜如有循享禮有容色私覿愉愉如也

校訂

東洋文庫蔵清家本

執圭鞠躬如也如不勝/上如揖下如授勃如戰色足蹜〻如有循也/享禮有容色/私覿愉〻如也

慶大蔵論語疏

執圭鞠躬如也如不勝/上如〔扌口𠃊日〕1/下如授/〔学力〕2如戰色/〔口乙〕3〔𧾷八尸一日〕4〻如有循也/享〔禾乚〕5有容色/私覿愉〻如也

  1. 「揖」の異体字。「北魏孝文弔比干墓文」刻。
  2. 「勃」の異体字。「北魏刁遵墓誌」刻。
  3. 「足」の異体字。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。
  4. 「蹜」の異体字と思われるが未詳。
  5. 「禮」の異体字。「魏定州剌史元湛墓誌」(東魏)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

執圭、鞠躬如也、如不勝。上如揖、下如授。勃如戰色、足蹜蹜如有循也。享禮、有容色。私覿、愉愉如也。

復元白文(論語時代での表記)

執 金文圭 金文 鞠躬如 金文也 金文 如 金文不 金文偁 金文 上 金文如 金文 下 金文如 金文受 金文 孛 金文如 金文色 金文 足 金文如 金文有 金文徳 甲骨文也 金文 享 金文礼 金文 有 金文頌 金文色 金文 私覿 愉 金文愉 金文如 金文也 金文

※勝→偁・勃→孛・循→德(甲骨文)・容→頌。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「執」「如」「也」の用法に疑問がある。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。

書き下し

たまのしゃくるには鞠躬かがむがごとなりるがごとし。ぐるにはをがむがごとく、ぐるにはさづくるがごとくす。つがごといろおそれ、あし蹜蹜すくみてしたがひをつくるがごとし。けのゐやには容色かたちつくり、わたくし覿まみゆるには愉愉たのしむがごとなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

漢儒
玉(ギョク)の笏(しゃく)を手に取る時は、背中をかがめて、突き出さないようにした。
笏を上げる時は、両手を胸の前で組むようなしぐさをし、下げる時は誰かに授けるようなしぐさをした。毛が逆立つように表情を恐れ慎み、足がすくんでおとなしく従う気持ちがあるように振る舞った。
殿様より預かった土産物を渡す儀式では表情を整えたが、私的な会談では、楽しげだった。

意訳

同上

従来訳

下村湖人

他国に使し、圭(けい)を捧げてその君主にまみえられる時には、小腰をかがめて進まれ、圭の重さにたえられないかのような物腰になられる。圭を捧げられた手をいくらか上下されるが、上っても人にあいさつする程度、下っても人に物を授ける程度で、極めて適度である。その顔色は引きしまり、恰も戦陣にのぞむかのようであり、足は小股に歩んで地に引きつけられているかのようである。贈物を捧げる礼にはなごやかな表情になられ、式が終って私的の礼となると、全く打ちとけた態度になられる。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

拿著圭時,象鞠躬,如同拿不動。向上舉好像作揖,放下來好像交給別人。臉色凝重,戰戰兢兢,腳步細碎,象沿著一條線走路。獻禮時,和顏悅色。便訪時,輕鬆愉快。

中国哲学書電子化計画

玉の笏を手に取るときは、身をかがめるようにし、手に取ったまま動かぬようだった。上に上げるときにはお辞儀のようにし、下に下げるときは人に渡すようだった。顔をこわばらせ、恐れるようにし、小刻みに歩み、一本の線上を歩くようにした。献上を行うとき、和やかに微笑み、略式の訪問では、軽やかに緊張を解いて愉快そうだった。

論語:語釈

執(ショウ)

執 甲骨文 執 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に取る”この語義は春秋時代では確認できない。。初出は甲骨文。「シツ」は慣用音。字形は手かせをはめられ、ひざまずいた人の形。原義は”捕らえる”。甲骨文では原義で、また氏族名・人名に用いた。金文では原義で、また”管制する”の意に用いた。詳細は論語語釈「執」を参照。

圭*(ケイ)

圭 甲骨文 圭 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”玉で作った笏(しゃく)”。論語ではこの郷党篇と、次章の先進篇のみに登場。初出は甲骨文。字形は玉の笏の象形。春秋末期までに、”玉の笏”の意に用いた。詳細は論語語釈「圭」を参照。

三才図会 圭
『三才圖會』所収「圭」。東京大学東洋文化研究所蔵

鞠(キク)

鞠 秦系戦国文字 鞠 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”身をかがめる”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「革」”なめしたかわ”+「匊」で、「匊」は春秋末期まででは西周の金文で人名の一部になっている一例のみ。「ホウ」は例えば「軍」字の金文に「冖」として用いられ、”覆う”・”包む”の意。「匊」は穀物倉庫の意か。全体で”革で粒状の中身を包んだまり”の意。上古音での同音多数。甲金文・簡帛書には出土例が無い。文献上の初出は論語の本章。ほか戦国末期の『韓非子』や『呂氏春秋』にも見える。詳細は論語語釈「鞠」を参照。

躬(キュウ)

躬 楚系戦国文字 躬 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”身をかがめる”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。この語義では、論語時代の置換候補は無い。字形は「身」+「呂」”背骨”で、原義は”からだ”。現行字形は「身」+「弓」で、体を弓のようにかがめること。英語のbowと同様。詳細は論語語釈「躬」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

勝(ショウ)

勝 晋系戦国文字 勝 字解
(晋系戦国文字)

論語の本章では”持ち上げる”。初出は晋系戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音は存在しない。字形は「甘」”重荷”二つ+「力」で、負担に耐えるさま。原義は”耐える”。論語時代の置換候補は、”あげる”の語義なら「偁」。詳細は論語語釈「勝」を参照。

論語の本章では目的語や補語に当たる語が同じ句にないので、「圭」をそれらとする動詞と解さねば読めない。幸いにも(?)本章は後世の偽作が確定するので、春秋時代の漢語の語義に限定する必要がない。ここで『大漢和辞典』を引くと、『国語』の注を引いて”あげる”の語釈を載せる。

〔國語、周語下〕不下一人之所勝。〔注〕勝、𢸁也。

漢文で「勝計ナニガシ」とあれば、「あげて…とかぞう」と読めばいい。

上(ショウ)

上 甲骨文 上 字解
(甲骨文)

論語の本章では”上級の”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。

揖(ユウ)

揖 金文大篆 揖 拝礼
(金文大篆)

論語では、両手を組み合わせて胸の前に持ち上げ、腰をかがめて礼をすること。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に邑とそれを部品とする漢字群。語義は挹が共有するが、初出は後漢の『説文解字』。『大漢和辞典』で”えしゃく”を引くと「揖」とともに「撎」(エイ・イ)が出てくるが、こちらも初出は『説文解字』。詳細は論語語釈「揖」を参照。

揖 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔扌口𠃊日〕」と記す。「北魏孝文弔比干墓文」刻。

下(カ)

下 甲骨文 下 字解
(甲骨文)

論語の本章では”下級の”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。

授*(シュウ)

受 授 甲骨文 授 字解
「受」(甲骨文)

論語の本章では”授ける”。初出は甲骨文。ただし戦国文字まで「受」と未分離。論語語釈「受」を参照。現行字体の初出は前漢の隷書。字形は二つの「又」”手”の間でものを受け渡すさまに、”うける”と区別するためにてへんが付いた形。当然ながら「受」と同音。「ジュ」は呉音。春秋末期までに、”授ける”・”受け取る”の意に用いた。詳細は論語語釈「授」を参照。

勃(ホツ)

勃 篆書 勃 字解
(篆書)

論語の本章では”毛が逆立つ”。初出は後漢の篆書。字形は「孛」”子供にふさふさと毛が生える”+「力」。力強く立ち上がるさま。「孛」は「丰」”芽吹いた芽”+「子」。同音に「孛」とそれを部品とした「悖」、「浡」”起こる”、「誖」”乱す”、それに「艴」”気色ばむ”。「ボツ」は慣用音。呉音は「ボチ」。文献上の初出は論語の本章。『孟子』『荀子』にも見える。論語時代の置換候補は「孛」で、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「勃」を参照。

勃 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔学力〕」と記す。「北魏刁遵墓誌」刻。

戰(セン)

戦 金文 戦 字解
「戰」(戦国金文)

論語の本章では”おののく”→”恐れ慎む”。新字体は「戦」。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音も存在しない。論語時代の置換候補はない。字形は「單」”さすまた状の武器”+「戈」”カマ状の武器”。原義は”戦争”。部品の單(単)は甲骨文から存在し、同音は丹や旦、亶などのほか、単を部品とする漢字群。いずれも”たたかう”の語義はない。

嘼 金文
「嘼」交鼎・殷代末期

また戦国の竹簡では「𡃣」「嘼」を「戰」と釈文する例があり、「嘼」字の初出は殷代末期の金文、春秋末期までに”戦う”と解せなくもない用例があるが、”おののく”の用例は無い。詳細は論語語釈「戦」を参照。

”たたかう”意では、甲骨文から鬥(=闘)が存在し、長柄武器を持った二人の武人が向き合う様。合、格にも”たたかう”意がある。闘トウ→単タン→戦セン、という連想ゲームは出来るが、ゲームに過ぎず、「セン」系統の”たたかう”言葉は、戦国時代の楚の方言といってよい。

色(ソク)

色 金文 色 字解
(金文)

論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。

足(ショク)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”あし”。初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

慶大蔵論語疏では異体字「〔口乙〕」と記す。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。

蹜*(シュク)

蹜 楷書 蹜 字解
(楷書)

論語の本章では”足がすくむ”。縮こまってその場に立ち尽くすようなさまをいう。論語では本章のみに登場。初出は不明。後漢の説文解字でも確認できない。訳者の知る限りでは、唐開成二年(837)完成の石経。字形は「足」+音符「宿」。「縮」のいとへんを足に換えた字。上古音は「縮」と同じ。文献上の初出は論語の本章。先秦両漢での例は、論語のほか両漢時代に偽作された『小載礼記』のみ。晋以降の成立とされる『西京雑記』にも用例がある。詳細は論語語釈「蹜」を参照。

慶大蔵論語疏は「〔𧾷八尸一日〕」と記す。「蹜」の異体字と思われるが未詳。『大漢和辞典』にも所収がない。

〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期

慶大蔵論語疏・東洋文庫蔵清家本は重文「蹜蹜」「愉愉」の二文字目を「〻」で記す。重文号(繰り返し記号)は金文の時代では小さく「二」を記し、慶大本もそう記している箇所がある。現行では「〻」と記す。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”持つ”の派生義として”そのような様子を見せる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

循(シュン)

徳 甲骨文 循 字解
(甲骨文)

論語の本章では”おとなしく従う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。初出の字形は「徳」と全く同じで、「行」”四つ角”+「目」+軌跡で、見回るさま。現行字形には「广」”屋根”が付く。”したがう”の意だが、字形からの解釈は困難。「ジュン」は呉音。甲骨文から”見回る”・”従う”の両義を持った。詳細は論語語釈「循」を参照。

「如有循也」とは、「循」=上長におとなしく従うさまを、「有」=態度に表す、「如…也」=ようであった、の意。

足蹜蹜如有循→足蹜蹜如有循也

唐石経を祖本とする現伝論語では「有循」と記し、慶大蔵論語疏は「有循也」と「也」を加える。論語の本章は最古の論語の版本である定州竹簡論語に全文を欠き、次いで古いのは慶大本になる。これに従い校訂した。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

「足蹜蹜如有循也」は、下掲古注新注ともに、踏み出した足が縮んで、後ろ足を引きずってついて行くような様と解するが、ここは「圭」”笏”の上げ下げの話をしているので、歩く話ではない。

笏の話
執圭、鞠躬如也、如不勝。上如揖、下如授。勃如戰色、足蹜蹜如有循也。
応対の話
享禮、有容色。私覿、愉愉如也。

享*(キョウ)

享 甲骨文 享 字解
(甲骨文)

論語の本章では”受ける”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は盛り土の上に建てたたかどのの象形。「京」と同形の語で、「京」が木組みの上に建てたたかどのであるのと対をなす。論語語釈「京」を参照。春秋末期までに、”祭殿”・”供え物をする”・”もてなす”(同音の「饗」に同じ)、”得る”の意に用いた。詳細は論語語釈「享」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”挨拶”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

禮 礼 異体字
慶大蔵論語疏は新字体と近く「〔禾乚〕」と記す。「魏定州剌史元湛墓誌」(東魏)刻。

孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。

容(ヨウ)

容 金文 容 字解
「容」(金文)

論語の本章では”顔つき”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。”いれる”の意で「甬」が、”すがた・かたち”の意で「象」「頌」が置換候補になりうる。字形は「亼」”ふた”+〔八〕”液体”+「𠙵」”容れ物”で、ものを容れ物におさめて蓋をしたさま。原義は容積の単位。戦国の金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「容」を参照。

私(シ)

私 金文 戦国末期 私 字解
(金文)

論語の本章では”私的な”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。部品で同訓の「厶」の初出は春秋中期だが、「以」”用いる”の意で使われており、「厶」が”わたし”の語義を獲得するのは、燕系戦国文字からになる。詳細は論語語釈「私」を参照。

覿(テキ)

覿 篆書 覿 字解
(篆書)

論語の本章では”会う”。確実な初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は音符「𧶠イク」+「見」。「𧶠」は「売」の旧字とは別字。同音多数。戦国の竹簡では、”見る”・”会う”の意に用いた。詳細は論語語釈「覿」を参照。

愉(ユ)

論語 愉 金文 愉 字解
(金文)

論語の本章では”楽しげな”。初出は春秋早期の金文。字形は「忄」(心)+「兪」”病根を取り去る”。病が癒えて楽になったさま。春秋末期までには人名の例が一件あるのみ。戦国の竹簡では、”楽しい”の意に用いた。詳細は論語語釈「愉」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれない。語句の引用状況は以下の通り。

本章 本章以外の初出 その他
執圭 『墨子』号令 皆以執圭。 小載礼記、白虎通義
鞠躬如也 『史記』孔子世家 入公門、鞠躬如也。
如不勝 『韓非子』外儲説 武立如不勝衣。 小載礼記、孔叢子
上如揖、下如授
勃如戰色
足蹜蹜,如有循
なし
享禮 『白虎通義』王者不臣 享禮而後歸 孔子家語
有容色 『論衡』変虚 面有容色
私覿 『荀子』大略 私覿、私見也。 大小礼記
愉愉如也 『説文解字』愉条 論語曰、私覿、愉愉如也。

後漢も中頃になった『説文解字』まで、先秦両漢の誰一人引用しなかったことになる。

後漢年表

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文字史的には「蹜」のように後漢でも確認できない字があるから、本章は後漢滅亡後に魏晋南北朝の儒者によって創作されたと考えるのが筋が通る。ただ上記の通り『説文解字』に一部が「論語曰」として引用されていること、古注で新代の包咸と後漢の鄭玄が注を付けていることから、原形は漢末にはあったが、現伝の形に整うのはやはり、後漢滅亡後と考えてよい。

加えて『説文解字』は後世にいじり倒された可能性が高く、必ずしも史実を証さない。油断ならん例は論語郷党篇2余話に記した。古注も同様にいじり倒された。主な注釈人である孔安国は前漢武帝期の人物とされるが、高祖劉邦を避諱しないなど架空の人物である可能性が高い。

同じく注釈人の鄭玄と馬融はほとんどデタラメしか書いておらず、論語の章句の、後漢に於ける存在理由にはなっても、その書き込み内容は真に受けられない(後漢というふざけた帝国)。包咸は本物のまじめ人間だったらしいが、やはり論拠は書いていない。

解説

通説では「享禮」を「殿様より預かった土産物の授受式」とするが、孔子が使者として他国に出かけた記録は、論語にも史書にもない。使者としてでなければ、斉の景公、衛の霊公、楚の昭王など、君主格に会見したことは何度もある。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

執圭鞠躬如也如不勝註苞氏曰為君使以聘問鄰國執持君之圭鞠躬者敬慎之至也上如揖下如授勃如戰色足蹜蹜如有循註鄭𤣥曰上如揖授玉宜敬也下如授不敢忘禮也戰色敬也足蹜蹜如有循舉前曳踵行也享禮有容色註鄭𤣥曰享獻也聘禮既聘而享享用圭璧有庭實也私覿愉愉如也註鄭𤣥曰覿見也既享乃以私禮見愉愉顔色和也


本文「執圭鞠躬如也如不勝」。
注釈。包咸「主君のために隣国へ使いに出て、主君の象徴である玉の笏を携える。かがみ込むような仕草は、最高の敬い慎みを示す。」

本文「上如揖下如授勃如戰色足蹜蹜如有循」。
注釈。鄭玄「上げるのに両手を拱くようにし、玉を授けるようにするのは、敬意を示すのにかなっている。下げるのに授けるようにするのは、礼儀作法をわざわざ外れるようなことをしなかったことを言う。戰色とは敬いの表情である。足蹜蹜とは、前足を上げ後ろ足は引きずるようにその後ろを付いていくさまである。」

本文「享禮有容色」。
注釈。鄭玄「享とは献上のことである。本文の作法は、すでに訪問してから礼物を渡す。礼物には四角や円盤状の玉を用いる。宮廷の威儀具として用いる。」

本文「私覿愉愉如也」。
注釈。鄭玄「覿とは会見することである。礼物の受け渡し式を終えたら、自分に関わる作法だけを気にすればよい。会見して、楽しげな顔つきで場を和ませたのである。」

新注『論語集注』

執圭,鞠躬如也,如不勝。上如揖,下如授。勃如戰色,足縮縮,如有循。勝,平聲。縮,色六反。圭,諸侯命圭。聘問鄰國,則使大夫執以通信。如不勝,執主器,執輕如不克,敬謹之至也。上如揖,下如授,謂執圭平衡,手與心齊,高不過揖,卑不過授也。戰色,戰而色懼也。蹜蹜,舉足促狹也。如有循,記所謂舉前曳踵。言行不離地,如緣物也。享禮,有容色。享,獻也。既聘而享,用圭璧,有庭實。有容色,和也。儀禮曰:「發氣滿容。」私覿,愉愉如也。私覿,以私禮見也。愉愉,則又和矣。此一節,記孔子為君聘於鄰國之禮也。晁氏曰:「孔子,定公九年仕魯,至十三年適齊,其間絕無朝聘往來之事。疑使擯執圭兩條,但孔子嘗言其禮當如此爾。」


本文「執圭,鞠躬如也,如不勝。上如揖,下如授。勃如戰色,足縮縮,如有循。」
勝の字は、平らな調子で読む。縮は、色-六の反切で読む。圭とは、諸侯が使者に任じた証しに持たせる四角い玉である。隣国を訪れるのには、必ず家老級の者にこの玉を持たせて交渉させた。如不勝とは、主君の象徴である玉を手に取るのに、軽く持って恐れるようにするのだが、最高の敬いと謹みである。上如揖、下如授とは、玉を横様に持ち、手と心を整えた後、高さは両手を拱く作法より高くせず、下げるにも授けるような仕草より下げないのをいう。戰色とは、恐れおののいて顔色が恐れたようであるのをいう。蹜蹜とは、歩みの巾が小さいことを言う。如有循とは、前足に引きずられるように後ろ足の踵を上げないで歩むことを言う。つまり地面を離れないように歩み、何かに頼って歩くようなさまをいう。

本文「享禮,有容色。」
享とは献上のことである。すでに訪問の礼を終えてから献上の礼を行う。礼物には四角や円盤状の玉を用いる。宮廷の威儀具とする。有容色とは、和んださまをいう。

儀禮「気配をあからさまにして表情を満たす。」

本文「私覿,愉愉如也。」
私覿とは、自分に関わる作法だけに従って会見することである。愉愉は、とりもなおさずさらに和んでみせたに違いない。この一節は、孔子が主君のために隣国へ使いに出た際の礼儀作法を記す。

晁説之「孔子は定公九年に魯に仕え、十三年になって斉に行き、その間に隣国へ使いに出、また使者を応接することが無かった。おそらく、論語郷党篇3と本章は、孔子が訪問の際の礼法を語っただけに過ぎない。」

余話

間違っているとも知らないで

Uボート

ブーフハイム『Uボート』に、帰路で客船を停め、あやうく撃沈しかけた話がある。原因は副長のうっかりで、それ以上に双方のコミュ障、つまり客船を米国船と思い込み、英語で停止通告したのがまずかった。実はスペイン船で、客船もドイツUボートを英国潜水艦と間違えた。

「知らない外国語を振り回すと、こういうことになる」と艦長がしめくくったのだが、論語の本章で訳者は、うっかりこれをやらかした。「躬」の現行字形は部品通り身を弓のようにかがめることで、音はキュウ、英語のbowが弓とお辞儀を共に意味するのと同じ。

ここで先年の𠂊刂三了の騒動で有名になったパ𠂊囗冫ス力ヤ氏を思い出した。語根のпоклонパクローンはお辞儀の意だが、確か弓の意もあったなあ、と。そこで一旦、語釈に「ロシア語のпоклонと同じ」と書いてしまった。しまった直後で確認のため、辞書のたぐいを引き直すと。

確かにgoogle翻訳では訳語に「弓」と出てくる。だが漢文の『大漢和辞典』に相当する『研究社露和辞典』を引くと、全くその語釈が無い。つまりgoogle翻訳の基本は英語版で、英語のbowの原義は弓だから、日本語で引いても弓と出てきてしまったと思われる。

世界に於ける日本語の価値というのは、所詮その程度でしかないということだが、もっといかんのは、知らない外国語を振り回すことだ(論語雍也篇17余話「半可な英語をペラペラと」)。これでは儒者や漢学教授のデタラメを、デタラメと断言する資格がない。

間違っているとも知らないで。用心せずばなるまい。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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