論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
君子不以紺緅飾紅紫不以爲褻服當暑袗絺綌必表而出之緇衣羔裘素衣麑裘黃衣狐裘褻裘長短右袂必有寢衣長一身有半狐貉之厚以居去喪無所不佩非帷裳必殺之羔裘玄冠不以弔吉月必朝服而朝
校訂
諸本
- 武内本:吉月は告月の誤り。
- 京大蔵清家本:「帷」字→「惟」字。
- 宮内庁蔵清家本:「帷」字ママ。
東洋文庫蔵清家本
君子不以紺緅飾/紅紫不以爲褻服/當暑縝絺綌必表而出/緇衣羔裘素衣麑裘黃衣狐裘褻裘長短右袂/必有𥨊衣長一身有半/狐狢之厚以居/去䘮無所不佩/非帷裳必殺之/羔裘玄冠不以弔/吉月必朝服而朝
慶大蔵論語疏
君子不以紺1〔糸豕〕1・2/紅〔ツ丶一糸〕3不以為4褻服/當暑〔糸真〕1・5〔糸市〕1・6絡、必表而出之/〔糸冂丨一日〕1・7衣羔裘/素衣麑裘/黃衣抓8裘/褻裘長短右〔丨支〕9(袂)10/必有𥨊11衣長一身有半/狐狢〔广丨丨二子〕12以居/去喪无13〔丨可丁〕14不佩/非惟裳必〔刍一攵〕15之/羔裘玄〔冖礻寸〕16不以〔𠂊𠄐〕17/吉月必朝服而朝
- 「糸」の下半分「小」を「一」と崩し書き。
- おそらく「緅」の異体字。『龍龕手鑑』(遼)所収字近似。
- 「紫」の異体字。『敦煌俗字譜』所収字近似。
- 「爲」の異体字。新字体と同じ。「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
- 「縝」の異体字。「唐韋端玄堂誌」刻。
- おそらく「絺」の異体字。未詳。
- 「緇」の異体字。隋韓祐墓誌刻。
- おそらく「狐」の誤字。
- 未詳。
- 傍記。
- 「寢」の異体字。『干禄字書』(唐)所収。
- 「厚」の異体字。「太妃馮令華墓誌銘」(東魏)刻。
- 「無」の異体字。原字。初出「睡虎地秦簡」。
- 「所」の異体字。「佛頂尊勝陀羅尼経幢(一)」(唐?)刻字近似。
- 「殺」の異体字。「唐皇甫誕碑」刻。
- 「冠」の異体字。「魏司馬紹墓誌」(北魏)刻。
- 「弔」の異体字。「唐濮陽吳府君墓志銘」刻字近似。
定州竹簡論語
……衣,美裘a245……必有寢衣,長一身246……[佩]。非帷常b,必殺之。247……
- 美裘、今本作”羔裘”。
- 常、今本作”裳”。『説文』”常、下帬也。従巾、尚声、常或従衣”。段注”今字裳行而常廃矣”、常為古文。
標点文
君子不以紺緅、紅紫不以爲褻服。當暑、縝絺絡必表而出。緇衣美裘、素衣麑裘、黃衣狐裘。褻裘長、短右袂。必有寢衣、長一身有半。狐狢厚以居。去喪無所不佩。非帷常必殺之。羔裘玄冠不以弔。吉月必朝服而朝。
復元白文(論語時代での表記)
紺緅 紅 暑 縝絺絡表 緇 短袂
※麑・狐→(甲骨文)。帷→幃。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「服」「必」「寢」「去」「殺」「弔」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
君子は紺緅きを以ゐ不、紅紫は以ゐて褻の服を爲ら不。暑に當りては、縝に絺なる絡もて必ず表し而出づ。緇き衣には美の裘、素き衣には麑の裘、黃の衣には狐の裘。褻の裘は長べ、右の袂を短む。必ず寢衣有り、長は一身に半有り。狐貉の厚きを以ゐて居る。喪を去いて佩び不る所無し。帷常に非ざらば必ず之殺ぐ。羔の裘、玄き冠は以ゐて弔は不。吉月には必ず朝の服而朝る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
身分ある者は濃淡いずれも青い衣類は晴れ着にしない。紅と紫の衣類は、普段着にしない。
暑い季節には、織り目がつまり糸の細い紬を、必ず上に羽織って外出する。
(寒い季節には、)黒い衣類には羊の皮の、白い衣類には子鹿の皮の、黄染めの衣類には狐の皮衣を上半身に羽織る。普段着の皮衣は長めに作り、右のそでを短くする。
寝る時は必ず寝間着を着る。長さは身長の一・五倍。座る時は狐やむじなの厚手の座布団を敷く。
喪中以外は、何か装身具を付けないことがない。カーテンとスカート以外は、必ず寸法を切り詰めてしまう。
羊の皮衣や黒い冠では、弔問に行かない。毎月の朔日には、必ず礼服を着て朝廷の参賀に出かける。
意訳
同上
従来訳
先生は衣服にもこまかな注意を払われる。紺色や淡紅色は喪服の飾りだから、それを他の場合の襟の飾りには用いられないし、また平常服に赤や紫のようなはでな色を用いられることもない。暑い時には単衣のかたびらを着られるが、下着なしに着られることはない。黒衣の下には黒羊の皮衣、白服の下には白鹿の皮衣、黄衣の下には狐の皮衣を用いられる。平常服の皮衣は温かいように長目に仕立てられるが、働きよいように右袂を短くされる。寝衣は必ず別にされ、長さは身長の一倍半である。家居には、狐や貉(むじな)の毛皮を用いて暖かにされる。喪の時以外は玉その他の装身具をきちんと身につけていられる。官服・祭服のほかは簡略にして布地を節約される。黒羊の皮衣や黒の冠で弔問されることはない。退官後も、毎月朔日ついたちには礼服を着て参賀される。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
君子不用深紅色做衣邊,紅色紫色不可做內衣。夏天,穿單衣,外出必套外套。黑色內衣,配黑色的外套;白色的內衣,配黃色外套;黃色的內衣,配黃色外套。內衣較長,右袖較短。一定要有睡衣,長一身半。坐墊要厚。喪事結束後,無所不佩。不是正式場合的衣服,一定要裁邊。吊喪時不穿黑衣、不戴黑帽。每月初一,必穿朝服去朝見。
君子は深い紅色で衣類の端を飾らない。紅色と紫色は中着に用いることができない。夏にはひとえを着るが、外出には必ず上着を着る。黒の中着には、黒をあしらった上着を着る。白の中着には、黄色の上着を着る。黄色の中着には、黄色の上着を着る。中着は長めに作るが、右袖を若干短くする。必ず寝間着を用い、長さは身の丈の一倍半。座布団は厚くする。弔いが終わった後なら、つねに帯にアクセサリーを下げる。特に定めのある衣服を除き、必ず反物を裁断して作る。弔いには黒い衣類は着ない。黒い帽子をかぶらない。毎月初めには、必ず束帯姿で朝廷に上がる。
論語:語釈
君 子 不 以 紺 緅 飾 、 紅 紫 不 以 爲 褻 服。 當 暑 縝(紾 袗)、 絺 絡(綌) 必 表 而 出 之。 緇 衣 美(羔) 裘、素 衣 麑 裘、 黃 衣 狐 裘。 褻 裘 長、短 右 袂。必 有 寢 衣、長 一 身 有 半 。 狐 狢(貉) 之 厚 以 居。去 喪、無 所 不 佩。非 帷(惟) 常(裳)、必 殺 之。 羔 裘 玄 冠 、不 以 弔。 吉(告) 月、必 朝 服 而 朝。
君子(クンシ)
論語の本章では”身分ある教養人”。本章は後世の偽作が確実なので、孔子生前の意味ではない語義で解釈してかまわない。
孔子生前までは単に”貴族”を意味し、そこには普段は商工民として働き、戦時に従軍する都市住民も含まれる。論語の本章のような意味が出来たのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。詳細は論語語釈「君子」を参照。
通説で”孔子”の意とされるのは、新注『論語集注』に「君子,謂孔子。」とあるからで、古注『論語集解義疏』では疏(付け足し)に「君子者自士以工士以上衣服有法不可雜色也」とあって、”身分ある者”としか解していない。つまり朱子が孔子だと思いたかったからそうなっているので、現代の論語読者が従う必要は無いだろう。
春秋左氏伝の「君子曰」も、”孔子”と解する座敷わらしだが、前漢の董仲舒『春秋繁露』にはそのような解釈が無く、西晋の杜預による注釈『春秋経伝集解』では孔子の意だとしておらず、誰が言い出した座敷わらしなのか、今現在は調べがつかない。岩波文庫版では「君子曰」を”君子の評”と訳している。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
紺*(カン)
(前漢隷書)
論語の本章では”紺色”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+音符「甘」。近音の「含」の類語。「コン」は呉音。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『墨子』『荘子』にも用例がある。詳細は論語語釈「紺」を参照。
現代人が目にするような鮮やかな服飾は、19世紀のドイツ化学工業の精華で、それ以前は人類が染め得る色の数が少なく、染料は高価で、さらに原色や水色のような透明感のある色はほとんど出せなかった。青に染める「藍」の初出も楚系戦国文字から。「出藍の誉れ」の出典となった荀子は、戦国時代の人物である。
緅*(スウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では、”濃い青色”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「取」だが、由来は不明。同音に「陬」”すみ”、「掫」”まもる・たきぎ”、「走」。また「諏」”はかる”、「娵」”星宿の名”、「陬」、「掫」。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『墨子』にも用例がある。戦国の「包山楚簡」に「一緅縬之〔糸九口〕(櫜)。」とあり、「櫜」が”ふくろ”の意であることから、布地に関する何らかの形容だろうが、語義は分からない。詳細は論語語釈「緅」を参照。
慶大蔵論語疏は「〔糸豕〕」と記す。おそらく「緅」の異体字で、『龍龕手鑑』(遼)所収字に近似。
現伝の文献上最も古い語釈は、三国魏『広雅』巻八に「緅緫蒼青也」とあることで、「緫」(総)にも”青い布”の語釈が『大漢和辞典』にある。「蒼」の初出は戦国の金文。くさかんむりからわかるように、もとは草色の青さの意。
古注『論語集解義疏』の疏”付け足し”に「緅是淺絳色也」”緅は薄い絳(紅色)である”といい、新注『論語集注』もこれに近く「緅,絳色。」と言う。論語の本章が創作されたのは前後の漢帝国時代だが、後漢が滅亡し南北朝になると、もう意味がわからなくなったことになる。
飾*(ショク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”かざる”→”晴れ着にする”。初出は秦系戦国文字。それに先行して、楚系戦国文字で「釴」「〔王弋〕」「杙」「〔衤弋〕」が「飾」と釈文されている。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「食」+「戈」”カマ状のほこ”+「巾」。つくりはほこに下げた飾りの房だろうが、「食」へんは音符と解するしかない。同音は「識」、「式」、「拭」、「軾」。「識」に”しるし・めじるし”の意があり、西周早期の金文に存在するが、”かざる”と同義かと言えば微妙。文献上の初出は論語の本章。孔子没後一世紀の『孟子』には見られないが、孔子とすれ違うように生きた『墨子』にはあり、『荀子』『荘子』には共に用例がある。戦国中期に現れた言葉と考えてよい。詳細は論語語釈「飾」を参照。
唐石経を祖本とする現伝論語はこの字を記すが、慶大蔵論語疏ではこの字を欠く。現存最古の論語版本である定州竹簡論語は前後を含めたこの部分が欠損している。次いで古い慶大本に従い校訂して欠いた。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
紅*(コウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”べに色”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文ともされるが、果たしてこの字形を「紅」と読んでよいか判断できない。西周から春秋まではすっかり用例がない。確実な初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。甲骨文に比定される字形は「㔾」”跪く人”+「工」”工具”で、身体に何らかの処置を加え、血が流れ出る意か。戦国文字の字形は「糸」+「工」で、糸を加工して染める様。同音は「洪」、「訌」”ついえる・みだれる”、「虹」、「鴻」、「鬨」”たたかう・かちどき”。戦国時代まで、「工」”あえて…する”・”工作”や「功」”いさおし”と読める例はあるが、”べに色”を明示する用例は無い。詳細は論語語釈「紅」を参照。
紫*(シ)
(金文)
論語の本章では”むらさき色”。初出は春秋末期の金文。戦国文字までは「紪」と記し、字形は「糸」+「此」。「此」は「止」+「人」。後世「跐」が”二つそろう”の意を示したように、二つの染料を混ぜること。前漢より現在の字形になった。春秋末期の金文に「紫維」とあり、二色を混ぜて縄を染めたのだろうが、”むらさき色”とは断定できない。詳細は論語語釈「紫」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔ツ丶一糸〕」と記す。上掲『敦煌俗字譜』所収字近似。
古代では概してどの文化圏でも、原色に染め出すのは極めて難しく、人や町の風景はくすんで見えた。紅はベニバナかベンガラ、紫は虫の一種から染料が取れるが、いずれも貴重だった。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”作る”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
慶大蔵論語疏は草書で記す。「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
褻*(セツ)
(金文)
論語の本章では”普段着”。初出は西周末期の金文。字形は「衣」の間に「埶」”身近に仕える”。普段着の意。西周末期の金文では、”身の回りの”の意に用いた。春秋時代には用例が無く、再出は戦国時代。詳細は論語語釈「褻」を参照。
服(フク)
(甲骨文)
論語の本章では”衣類”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。
「褻」にそもそも”普段着”の意があるのに、「服」の字を足したのは、原則として熟語が無い春秋時代の漢語ではないと言える。
當*(トウ)
(金文)
論語の本章では”…の時には”。初出は西周中期の金文。ただし字形は「尙」(尚)と未分離。分離後の初出は春秋末期の金文。春秋末期の字形は「尙」”たかどの”+「戈」”カマ状のほこ”。城塞都市に立ち向かっていく様。戦国時代から現伝の字形になった。新字体は「当」。同音は「黨」(党)のみ。西周中期に「尙」を「まさに」”必ず…する”の意に用い、春秋末期に”あたる”の意に用いた。詳細は論語語釈「当」を参照。
暑*(ショ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”暑い季節”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「日」+音符「者」(者)。「者」ȶi̯ɔ(上)の同音に「赭」”真っ赤になる”があり、太陽が真っ赤に燃えさかって暑いさま。新字体は「暑」(者→者で、点が一画足りない)。戦国文字で”暑い”の意に用いた。詳細は論語語釈「暑」を参照。
袗*(シン)→紾*(シン)→縝*(シン)
論語の本章では”単衣”。裏打ちを縫い付けない涼しい服。宋以降の現伝論語では「袗」カールグレン上古音ȶi̯ən(上)と記し、唐石経では「紾」ȶi̯ən(上)と記し、隋代までに日本に輸入された慶大蔵論語疏では「縝」ȶi̯ĕn(平)と異体字で記す。時系列で最も古い慶大本に従い校訂した。いずれも春秋時代の漢語に遡ることが出来ない。
隋以前 | 慶大蔵論語疏 | 當暑縝絺絡 |
晩唐初期 | 京大蔵唐石経 | 當暑紾絺綌 |
南宋 | 宮内庁蔵宋版論語注疏 | 當暑袗絺綌 |
(秦系戦国文字)
「袗」は論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「衤」”ころも”+「㐱」”織り目の詰まった”。織り目の細かい布で作った衣類の意。同音に㐱”豊かな髪”とそれを部品とする漢字群多数。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『孟子』にも用例がある。詳細は論語語釈「袗」を参照。
(篆書)
「紾」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「㐱」”織り目の詰まった”。織り目の詰まった布の意。漢音「シン」で”織り目の詰まった”、同音は「㐱」とそれを部品とする漢字群、「震」など「辰」を部品とした漢字群。漢音「テン」で”つねる”、同音は「氈」など「亶」を部品とした漢字群、「戰」など「單」を部品とした漢字群。文献上の初出は音「テン」で戦国時代の『孟子』。論語の本章の唐石経にも見られる。詳細は論語語釈「紾」を参照。
(古文)
「縝」の初出は戦国中末期の楚系戦国文字。ただし字形が確認できない。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。現伝の字形は「糸」+「眞」(真)”満ちた”。織り目の詰まった布の意。北宋の『広韻』から「紾」と同義と見なされ、”単衣”の意。同音は「眞」とそれを部品にした漢字群、「挋」”足す・束ねる”。戦国中末期に、何らかの織物と推察できる用例がある。『大漢和辞典』に”単衣”の語釈がある。詳細は論語語釈「縝」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔糸真〕」と記し、「糸」の下半分「小」を「一」と崩す。「唐韋端玄堂誌」刻。
絺*(チ)
(前漢隷書)
論語の本章では”糸が細い薄手の布”。浴衣のたぐいの涼しい上着に用いる。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。ただし字形が確認できない。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「希」”細い”。細い葛糸で織った薄布の意。戦国竹簡の用例は、何らかの布であろうと推測できる。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『墨子』『荘子』にも用例がある。詳細は論語語釈「絺」を参照。
慶大蔵論語疏は「〔糸市〕」と記し、「糸」の下半分「小」を「一」と崩す。未詳だが、おそらく「絺」の略体。
綌*(ケキ)→絡*(ラク)
唐石経を祖本とする現伝論語では「綌」”目の粗い布”と記し、慶大蔵論語疏では「絡」”つむぎの着物”と記す。時系列上より古い慶大本に従い校訂した。
(前漢隷書)
「綌」は「絺」が糸を細くすることによって空気を通して涼しくするのに対し、織り目を粗くして涼しくした布地。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。ただし字形が確認できない。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「谷」”すきま”。織り目の粗い布の意。同音に「隙」、「郤」”邑の名・ひま”。「ゲキ」は慣用音。戦国竹簡の用例は、何らかの布であろうと推測できる。戦国時代では他にもにも用例が2件あるが、占いの書であるため、何を言っているのかよく分からない。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『墨子』にも用例がある。詳細は論語語釈「綌」を参照。
(楚系戦国文字)
「絡」の初出は戦国中期の金文。ただし画像が公開されていない。確実な初出は戦国中期の楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+音符「各」。「各」の原義は「来る」だが、「絡」の語義とは関係が無い。同音に「落」「烙」「洛」「珞」”小石”「酪」「駱」「雒」”みみずく”(すべて入)。戦国時代では、”紐で縛る”の意に、また衣類の一種の意に用いた。前漢後期の作と言われる『急就篇』では”つむぎ”の意に用いた。詳細は論語語釈「絡」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
表*(ヒョウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”羽織る”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「衣」の間に「毛」を挟んだ形。衣服の表の毛羽立ちの意。同音は「標」「猋」”犬の走るさま”「熛」”火が飛ぶ”「驫」”多くの馬”「髟」”髪が長く垂れ下がるさま”「鑣」”くつわ”「儦」”行くさま”「瀌」”雪が盛んに降るさま”。戦国の竹簡で”模範”・”顔つき”・”おもて”の意に用いた。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『孟子』には見られないが、『墨子』『荘子』『荀子』には見られる。また儒教文献では漢代にまとめられた『小載礼記』にあるが、戦国の竹簡と文が一致する。詳細は論語語釈「表」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”出かける”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
緇*(シ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”黒い”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は「糸」+「才」”明瞭に染める”。「才」の原義は存在を主張する立て杭。現行字形は「糸」+音符「甾」”ざる・ほとぎ”。同音は「甾」とそれを部品とする漢字群など。戦国の竹簡での語義は、衣類に関するなにがしかと推測できる。文献上の初出は論語の本章。大小『礼記』の古い部分、戦国時代の『荘子』『韓非子』に用例がある。詳細は論語語釈「緇」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔糸冂丨一日〕」と記す。「隋韓祐墓誌」刻。
衣(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”上着”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。
羔*(コウ)→美(ビ)
(金文)
論語の本章では”子ヒツジ”。初出は西周早期の金文。字形は西周中期より「羊」+「火」。羊の焼肉の意。西周早期の用例は3件あるが、解読不能字が多く語義不明。”こひつじ”の語義は後漢の『説文解字』から。おそらく論語の本章で対句となる「麑」”子ジカ”に合わせたのが理由。前漢で「羊」と区別がつかなくなり、前漢末期の劉向が『説苑』で「羔者,羊也」と説教しなくてはならなくなったが、どのような羊なのかは書いていない。詳細は論語語釈「羔」を参照。
定州竹簡論語では「美」と記す。「羔裘」”羊のかわごろも”の語は西周中期から漢語にあり、「美裘」では「麑裘」と対句にならないから、おそらく釈文の間違いか、筆者による誤字か、奇をてらった飾り文字。
(甲骨文)
「美」の初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。
裘(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”かわごろも”。初出は甲骨文。「求」と同音。甲骨文の字形はかわごろもの襟元で、原義は”毛皮の服”。「求」は後に音を表すため付けられたと見える。甲骨文では地名に用い、金文では氏族名、また原義で用いた。詳細は論語語釈「裘」を参照。
素(ソ)
(金文)
論語の本章では、”白い”。確実な初出は西周末期の金文。「ス」は呉音。字形は両手で絹糸を紡ぐさま。原義は”白い”。詳細は論語語釈「素」を参照。
麑*(ゲイ)
(甲骨文)
論語の本章では”子ジカ”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形がほぼ周以降とまるで違い、別の言葉を示す字と見てよい。甲骨文の字形は、まだ角が生えない子鹿の象形。金文では西周早期に部品として同形が見られ、春秋・戦国の用例が無い。現行字形は後漢の『説文解字』からで、「鹿」+「兒」(児)。甲骨文から”子ジカ”の意に用いた。詳細は論語語釈「麑」を参照。
黃*(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”黄色”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。新字体は「黄」。字形は腹の大きな人の象形。原義は不明。「オウ」は呉音。甲骨文に「黃尹」の例が多数あり、殷の名臣「伊尹」では、と中国の漢学教授が言っているが、さてどうだろうか。春秋末期までに、”白髪”・”かんざし”・”黄色”または”金色”の意に用いた。詳細は論語語釈「黄」を参照。
狐(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”キツネ”。初出は甲骨文。初出の字形は「亾」(亡)”逃げる”+「犭」”けもの”。悪賢く素早く逃げ去るキツネのさま。甲骨文のあとは戦国の金文まで時代が空いており、現行字形が「犭」+「瓜」になったのは、殷周革命で言語が変わったとしか思えない。詳細は論語語釈「狐」を参照。
慶大蔵論語疏は「抓」”かく・つまむ・つねる”と記す。おそらく誤字。疏では「𤜶」と記し、宋儒は『集韻』で「㺐」”東南の異族”の異体字と決めたが、「張子平碑」(東晋?)に「狐」の異体字として刻む。
論語の時代に斉の名宰相として名高かった晏嬰は、貴族の必需品として狐裘を持っていたが、大事に扱って三十年も着たので、「晏嬰の一狐裘」という言葉が出来た。質素な生活をたとえるのに用いる。
長(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”長く作る”。初出は甲骨文。字形は冠をかぶり、杖を突いた長老の姿で、原義は”長老”。甲骨文では地名・人名に、金文では”長い”の意に用いられた。詳細は論語語釈「長」を参照。
短(タン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”短い”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「耑」とそれを部品とする漢字群、「鍛」・「斷」(断)など。字形は「矢」+「豆」で、「豆」に”まめ”の意は文献時代にならないと見られない。原義は”みじかい”・”小さい”と思われるが、字形から語義を導くのは困難。詳細は論語語釈「短」を参照。
右(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”みぎ”。初出は甲骨文。字形は右手の象徴。原義は”右”。「ウ」は呉音。甲骨文では原義のほか、”補佐する”の意に、また春秋末期までに地名人名に用いた。詳細は論語語釈「右」を参照。
袂*(ベイ)
(前漢隷書)
論語の本章では衣類の”そで”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。ただし字形は部品の「夬」。現行字形の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「衤」”ころも”+「夬」kwad(去)”裁断する”。両腕のために切れ込みを入れた貫頭衣やチョッキのたぐい。のちそこに袖を縫い付け、”たもと”を意味するようになった。『説文解字』に「袂:袖也。从衣夬聲。」というが、再建上古音とはまるで違うので、どちらかが間違っている。戦国中末期の竹簡では”陣羽織”を意味し、戦国最末期の『呂氏春秋』でも同様だから、仮に春秋時代の漢語としても、”そで”・”たもと”の意味ではない。詳細は論語語釈「袂」を参照。
慶大蔵論語疏は未詳字「〔丨支〕」と記し、「袂」と傍記する。
黃衣狐裘褻裘長短右袂
慶大蔵論語疏ではこの部分に対する経と注と疏を、「黃衣狐裘」と「褻裘長短右袂」で分けて記すが、宮内庁蔵清家本以降の古注では合体させて記す。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”持つ”の派生義として”そのような様子を見せる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
寢(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”寝る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「寝」。字形は「宀」”屋根”+「帚」”ほうき”で、すまいのさま。原義は”住まい”。甲骨文では原義で用い、金文では原義、”祖先廟”、官職名を意味した。詳細は論語語釈「寝」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔穴彳𠬶〕」と記す。『干禄字書』(唐)所収。
一(イツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”ひとつ分”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
身(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”全身長”。初出は甲骨文。甲骨文では”お腹”を意味し、春秋時代には”からだ”の派生義が生まれた。詳細は論語語釈「身」を参照。
武内本には、「一身とは胴体の長さをいう。一身有半にて膝までの長なり」とある。論拠は書いていない。
半(ハン)
(金文)
論語の本章では”半分”。論語では本章のみに登場。初出は春秋中期の金文。部品としては甲骨文に「絆」の字形があるが、単独での出土例が無い。字形は〔八〕”切り分ける”+「牛」で、牛肉を切り分けるさま。部品甲骨文の字形は「牛」+「䇂」”刃物”。初出の金文から”半分”の意に用いた。詳細は論語語釈「半」を参照。
必有寢衣、長一身有半
前漢中期の定州竹簡論語から、この句はちゃんとここに収まっているのだが、宋儒の程頤が勝手な想像で「この部分は論語次章の錯簡(一行ずつ書いた木札・竹札の文字列が紛れ込むこと)だ」と言い出し、新注『論語集注』では疑い半分でそれを記し、以降の日中漢文業者の多くは、ざっと千年、宋儒のでたらめを猿真似してきた。間抜けと言うほかない。
宋儒のたちの悪さについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
貉(カク)→狢(カク)
(金文)
論語の本章では、アナグマやタヌキのような中型の狩猟対象となるけもの。おそらくはむじなへん「貉」ではなくけものへん「狢」と記され、アナグマの意。日本語での訓読「むじな」同様、文献上でアナグマを指すのか、タヌキを指すのか、似たような別のけものを指すのかは、極めて判断しがたい。
古注『論語集解義疏』がけものへんで、それより後世の唐石経がむじなへんである事情は、論語子罕篇27と同じ。
むじなへん「貉」の初出は西周早期の金文。字形は「豸」頭の大きなけもの+「各」。「各」は音符でなければ、「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、やってくること。「貊」の異体字とされる。「貊」の初出は西周早期の金文。日本名「むじな」のユーラシアでの汎用種「アナグマ」は、畑の作物を荒らす害獣でもあるらしく、呼ばないのにやってくるけものを指すか。春秋末期までの用例はほとんどが人名または地名だが、一例のみトラ・シカ・オオカミでない狩猟対象となるけものの意に用いた例がある。詳細は論語語釈「貉」を参照。
厚(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”厚みのある”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「厂」”がけ”+”酒壺”で、崖の洞穴で酒を醸し、味が濃厚になることだと言うが、その他諸説あって原義は不明。金文の段階で”多い”・”大きい”を意味した。詳細は論語語釈「厚」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔广丨丨二子〕」と記す。上掲「太妃馮令華墓誌銘」(東魏)刻。
居(キョ)
(金文)
論語の本章では”座る”。座布団にすること。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。
去(キョ)
(甲骨文)
論語の本章では”除く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「大」”ひと”+「𠙵」”くち”で、甲骨文での「大」はとりわけ上長者を指す。原義はおそらく”去れ”という命令。甲骨文・春秋までの金文では”去る”の意に、戦国の金文では”除く”の意に用いた。詳細は論語語釈「去」を参照。
喪(ソウ)
(甲骨文)
論語の本章では”葬儀”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
庚兒鼎・春秋中期/睡虎地簡54.43
慶大蔵論語疏では「无」と記す。初出は春秋中期の金文。ただし字形は「𣞤」で「無」の古形。現行字形の初出は秦系戦国文字。初出の字形は両端に飾りを下げた竿を担ぐ人の姿で、「無」の原義と同じく”舞う”姿。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。春秋の金文では”ない”の意に、戦国最末期の秦系戦国文字に「先冬」とあり、「先」は「无」と釈文されている。詳細は論語語釈「无」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”場合”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔丨可丁〕」と記す。上掲「佛頂尊勝陀羅尼経幢(一)」(唐?)刻字近似。
佩*(ハイ)
(金文)
論語の本章では”腰に下げる”。論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。字形は「亻」+「凡」”器物”+「巾」”ぶら下げる”。人工物を身につけてぶら下げるさま。西周早期から、”装飾品”・”馬印”・”帯びる”の意に用いた。詳細は論語語釈「佩」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
惟(イ)→帷*(イ)
論語の本章では”とばり”。室内で用いるカーテンのたぐい。
現伝論語や現存最古の古注本である慶大蔵論語疏は「惟」と記すが、古注の王粛注「衣必有殺縫唯帷裳無殺也」と合わないし、熟語が基本となった漢代の漢語にもそぐわない。現存最古の論語の版本である定州竹簡論語では「帷」と記す。これに従い校訂した。
(金文)
「惟」の初出は殷代末期の金文。ただし字形は部品の「隹」のみで、現行字体の初出は楚系戦国文字。「ユイ」は呉音。金文では「唯」とほぼ同様に、”はい”を意味する肯定の語に用いられた。春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の意がある。詳細は論語語釈「惟」を参照。
(前漢隷書)
「帷」は論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。字形は「巾」”垂れぬの”+音符「隹」。同音に「隹」を部品とする漢字群。文献上の初出は論語の本章で、戦国時代の『墨子』『荘子』『韓非子』にも用例がある。論語時代の置換候補は日本語音で同音同訓の「幃」。皮革で作ったカーテンの立て竿の先に、成金趣味な動物の頭が付いたもの。詳細は論語語釈「帷」を参照。
裳(ショウ)→常*(ショウ)
論語の本章では”もすそ”。下半身を覆うスカートのたぐい。中国では清末まで身分ある者は男女にかかわらずスカートを履いた。
(金文)
「裳」の初出は春秋中期の金文。ただし春秋末期まで「常」と未分離で、現行字体の初出は楚系戦国文字。「ジョウ」は呉音。春秋中期の金文に「衣常」とあり、「常」は「裳」と釈文されている。詳細は論語語釈「裳」を参照。
(金文)
定州竹簡論語では「常」と記す。初出は春秋中期の金文。ただし上掲の西周中期の金文は、部品の「尙」(尚)を「常」と釈文する。字形は「尙」+「巾」”垂れ布”。「尙」は音符で、春秋時代以前は”たかどの”を指したが、上半身の象形的に用いている。戦国中期までは主に”もすそ”を意味し、現行字形で”つね”を意味したのは、戦国最末期の「睡虎地秦簡」から。詳細は論語語釈「常」を参照。
前漢中期の定州竹簡論語が「常」と記したのは、300年ほど前の古語を気取って書いたことになる。
殺*(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”裁ち落とす”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「殺」。一説に初出は甲骨文。その字形は「戈」”カマ状のほこ”+斬首した髪。西周中期まではこの字形で、西周末期より髪に「人」形を加えた「𣏂」の形に、「殳」”撃つ”を加えた形に記された。漢音では”ころす”の意では「サツ」と読み、”削ぐ”の意では「サイ」と読む。甲骨文から”ころす”の意に用いたが、”削ぐ”の意は戦国末期まで確認できない。詳細は論語語釈「殺」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔刍一攵〕」と記す。「唐皇甫誕碑」刻。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では直前が動詞であることを示す記号で、意味内容は無い。強いて訳すなら”きっと…してしまう”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
玄*(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”黒い”。初出は甲骨文。字形は糸を絞って黒く染めたさま。「糸」と近い形だが、上下の結びがなく、また二つ絞りで三つ絞りの例が無い。「ゲン」は呉音。甲骨文から”黒い”の意に用いた。詳細は論語語釈「玄」を参照。
冠*(カン)
(甲骨文)/(金文)
論語の本章ではかんむり”。初出は甲骨文。その字形はA形を「𠙵」”くち→あたま”の大きな人がかぶっている姿。甲骨文の用例は「令」と釈文する場合もあるが、「令」がA形の下に「㔾」”跪いた人”を描くのに対し、「冠」は頭を大きく描くことで貴人または神官だと示しており、「令」とは異なる。甲骨文の後は春秋中期まで用例が絶えるが、殷周革命によって漢語が大変動したのは語順からも明らかで、一旦絶えた字形=漢語は少なくない。春秋の字形はA形の下に「巾」”垂れ布”+「丨」”ぶら下がるもの”で、単純な頭巾のような殷の冠と異なり、ぞろぞろとぶら下げ物が付いた形。甲骨文の用例は欠損が多くて語義を求めがたいが、春秋の金文では”かんむり”と解せる。詳細は論語語釈「冠」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔冖礻寸〕」と記す。「魏司馬紹墓誌」(北魏)刻。
弔*(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”とむらう”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「人」にヘビが巻き付いた形。同音は「貂」「釣」。甲骨文の事例は意味がよく分からないが、”ヘビが巻き付く”と解せるのがある。殷代末期の金文では、族徽(家紋)や人名に用いた。西周の金文も人名に用いるが、「叔」”年少者”と釈文する場合が多い。また「淑」”つつしむ”にも用いた。”とむらう”・”あわれむ”の意になったのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の所説から。何でそうなったかはまるでわからない。詳細は論語語釈「弔」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔𠂊𠄐〕」と記す。「唐濮陽吳府君墓志銘」刻字近似。
吉*月(キツゲツ)
論語の本章では、”毎月の始まり”、または”それを祝う儀式”。春秋時代の語義では前者が有力だが、本章は漢儒による創作だから後者の意に解してもかまわない。
武内本は吉→告の誤りとし、「古、閏月には朔を告げず、他の月は朔を告げて廟に朝す、これを告月(=告朔)という」という。だが「告」に変えなくても意味は同じままで通る。「告朔」については論語八佾篇17の語釈も参照。
(甲骨文)
「吉」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は上向けの矢印”天界”または”笏”、あるいは「士」”貴人”に、+「𠙵」”くち”。神や貴人に申し上げるさま。神も貴人も、不吉なことを聞くと怒るに決まっており、ゆえに「吉」が”めでたい”の意であり得る。「キチ」は呉音。甲骨文から”めでたい”の意に用い、西周の金文から「初吉」と記し”上旬”≒”新月”と解する。詳細は論語語釈「吉」を参照。
「月」
「月」の初出は甲骨文。「ガツ」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「ゴチ」。字形は月を描いた象形。「日」と異なり、甲骨文で囲み線の中に点などを記さないものがあり、「夕」と字形はまったく同じ。分化するのは戦国文字から。甲骨文では原義のほか、こよみの”○月”を意味した。詳細は論語語釈「月」を参照。
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”朝廷の・朝廷に出る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
論語:付記
検証
本章 | 本章以外の初出 | その他 | |
紺緅 | 墨子 | ||
褻服 | 列女伝 | ||
當暑 | 韓詩外伝 | ||
絺綌 | 墨子 | ||
短右袂 | 説文解字 | ||
長一身有半 | 説文解字 | ||
無所不佩 | 白虎通義 | 論語曰… | 小載礼記 |
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあり、語の用例から後漢初期までに書き足されたと判断できる。文字史から春秋時代の文章とは言えないが、何かしら孔子の生活を伝えているかも知れない。たとえば「必有寢衣」以下は文字史的には春秋時代まで遡れる。
しかし「弔」の用法など怪しい部分があり、やはり後世の創作と見た方がいい。
解説
論語の本章に関しては、「子」「孔子」になっておらず「君子」になっているのは、前漢帝国で儒教的礼儀作法を設定するために本章が創作されたことを物語り、「君子とはこうするものですぞ」という説教になっている。
「暑い季節には…必ず上に何か羽織って外出する」というのは、織り目が粗くても詰まっていても、涼しい麻の衣類は透けて見えるからで、そんなみっともない格好で出掛けるな、の意。
肌寒い季節の色合わせは、紺のコートに白い羊のチョッキ、白いコートにかのこ模様の子ジカのチョッキ、黄色いコートに黄色い狐のチョッキと言っている。チョキとは限らずジャケットのたぐいでもありうる。
うちで着る毛皮のコートの、右そでだけ短くするのは、筆を持つのが本業の帝国儒者らしい発想だが、孔子も文筆家であり、そでがぞろぞろしていてはとっさに抜剣できないから、本質が武人である春秋の君子にも当てはまる。
必ず寝間着を着るのは上流階級らしいと言えるが、長さが身の丈の1.5倍なのは、シーツを使わないからだろうか。”シーツ”の意での「絪」”しとね”は、部品の「因」の字形で戦国早期から見える。
「必殺之」は上記の通り、「之」が示す内容が以前に無いことから、意味内容を持っていない。また「殺」を”裁断する”の意に用いる用例も戦国末まで無いから、漢代の中国人にとってはちょっとドキッとする表現だった。内容的に前句の「必ずアクセサリーを身につける」と繋がらず、後句の「羊のコートや黒い冠では弔問に行かない」とも繋がらない。従って前後の句と対等の、独立した句と見なすべき。本章が礼儀作法の「べからず集」であるからには、箇条書きになるのも無理は無い。
論語の本章は、新古の注は次の通り。古注は次章の頭「齊必有明衣布註孔安國曰以布為沐浴衣也」を含むが、本章部分のみ示す。
古注『論語集解義疏』
君子不以紺緅飾註孔安國曰一入(人?)曰緅飾者不以為領袖緣也紺者齋服盛色以為飾似衣齋服也緅者三年練以緅飾衣為其似衣喪服故皆不以飾衣也紅紫不以為䙝服註王肅曰䙝服私居非公㑹之服者也皆不正䙝尚不衣正服無所施當暑縝絺綌必表而出註孔安國曰暑則單服絺綌葛也必表而出加上衣也緇衣羔裘素衣麑裘黃衣狐裘註孔安國曰服皆中外之色相稱也䙝裘長短右袂註孔安國曰私家裘長主溫也短右袂便作事也必有寢衣長一身有半註孔安國曰今被也狐貉之厚以居註鄭𤣥曰在家以接賓客也去喪無所不佩註孔安國曰去除也非喪則備佩所宜佩也非帷裳必殺之註王肅曰衣必有殺縫唯帷裳無殺也羔裘𤣥冠不以弔註孔安國曰喪主素吉主𤣥吉凶異服故不相弔也吉月必朝服而朝註孔安國曰吉月月朔也朝服皮弁服也
本文「君子不以紺緅飾」。
注釈。孔安国「ある人によると、緅の縫い取りは襟の縁取りにしない。紺色は喪服に用いると彩りを添えることになり、余計な飾りだから、君子は喪服のような地味な衣服を着る。緅は三年間の服喪の間、それで衣類を飾るので、君子はその色の服は喪服を着るのと同じと見なす。だからどちらも着飾るのには用いないのである。」
本文「紅紫不以為䙝服」。
注釈。王粛「䙝服とは部屋着のことで外出着にはならない。紺色の服と同じように礼法に合わない。普段着には礼服を着ないのが常識で、飾りを付けないのである。」
本文「當暑縝絺綌必表而出」。
注釈。孔安国「暑ければ単衣を着るものだ。絺綌とは葛布のことである。必表而出とは、上に一枚羽織ることである。」
本文「緇衣羔裘素衣麑裘黃衣狐裘」。
注釈。孔安国「着重ねには全てふさわしい色合わせがある。部屋着のかわごろもを長く作るのは、保温のためである。右のそでを詰めるのは、仕事をしやすくするためである。」
本文「必有寢衣長一身有半」。
注釈。孔安国「現在の掻い巻きのことである。」
本文「狐貉之厚以居」。
注釈。鄭玄「自宅でお客に勧める座布団である。」
本文「去喪無所不佩」。
注釈。孔安国「去とは取り去ることである。葬礼でない場合は必ず腰に下げる装飾品を備え、身につけるべきだというのである。」
本文「非帷裳必殺之」。
注釈。王粛「衣類というものは必ず裁断して縫製したもので、カーテンとスカートだけは裁断しないのである。」
本文「羔裘𤣥冠不以弔」。
注釈。孔安国「喪には白色を基本とし、祝には黒色を基本とする。吉凶で服を替えるのだから、黒い冠は似合わないというのである。」
本文「吉月必朝服而朝」。
注釈。孔安国「吉月とは月齢の朔日である。朝服には皮を用いたかぶりものと服を着る。」
「一入」を「ひとしお」と読むのは日本語だけ。論語の本章で古注の「註」が確認できる現存最古の慶大本でも明らかに「入」になっているが(巻第五第十六帖なかほど)、『大漢和辞典』でも「一入」に漢語では”一度入る”・一度染める”の語釈しか立てていない。「一入曰」は説文解字に一例見られるだけで、その四部叢刊初編本でも「入」になっているが、これでは読めない。ゆえに「人」の誤字と判断した。
どうしても「入」でないとダメだというなら、「一えに入りて」”ひたすら押し込んで”とでも読ませるのだろうか。どうにも無理がある気がする。「入」の『大漢和辞典』”つらぬく・とおる”の語釈は、その筋には有名な赫連勃勃伝を『晋書』から引いている。
新注『論語集注』
君子不以紺緅飾。紺,古暗反。緅,側由反。君子,謂孔子。紺,深青揚赤色,齊服也。緅,絳色。三年之喪,以飾練服也。飾,領緣也。紅紫不以為褻服。紅紫,間色不正,且近於婦人女子之服也。褻服,私居服也。言此則不以為朝祭之服可知。當暑,袗絺綌,必表而出之。袗,單也。葛之精者曰絺,麤者曰綌。表而出之,謂先著裏衣,表絺綌而出之於外,欲其不見體也。詩所謂「蒙彼縐絺」是也。緇衣羔裘,素衣麑裘,黃衣狐裘。麑,研奚反。緇,黑色。羔裘,用黑羊皮。麑,鹿子,色白。狐,色黃。衣以裼裘,欲其相稱。褻裘長。短右袂。長,欲其溫。短右袂,所以便作事。必有寢衣,長一身有半。長,去聲。齊主於敬,不可解衣而寢,又不可著明衣而寢,故別有寢衣,其半蓋以覆足。程子曰:「此錯簡,當在齊必有明衣布之下。」愚謂如此,則此條與明衣變食,既得以類相從;而褻裘狐貉,亦得以類相從矣。狐貉之厚以居。狐貉,毛深溫厚,私居取其適體。去喪,無所不佩。去,上聲。君子無故,玉不去身。觿礪之屬,亦皆佩也。非帷裳,必殺之。殺,去聲。朝祭之服,裳用正幅如帷,要有襞積,而旁無殺縫。其餘若深衣,要半下,齊倍要,則無襞積而有殺縫矣。羔裘玄冠不以弔。喪主素,吉主玄。弔必變服,所以哀死。吉月,必朝服而朝。吉月,月朔也。孔子在魯致仕時如此。此一節,記孔子衣服之制。蘇氏曰:「此孔氏遺書,雜記曲禮,非特孔子事也。」
本文「君子不以紺緅飾。」
紺は古-暗の反切で読む。緅は側-由の反切で読む。君子とは孔子の意である。紺とは深い青の赤みがかった色をいう。喪服に用いる。緅は紅色のことである。親が亡くなった三年の喪では、その色で喪服の襟を染める。飾とは襟の縁取りの意である。
本文「紅紫不以為褻服。」
紅や紫は、中間色で筋目正しい色ではない(論語陽貨篇18)。また派手派手しくて女性に言い寄るためのいかがわしい色でもある。褻服とは、部屋着のことである。このような服は絶対に祭礼や朝廷で着てはいけないと書いてあるのがわかる。
本文「當暑,袗絺綌,必表而出之。」
袗とは単衣のことである。葛布の織り目が詰まったのを絺といい、粗いのを綌という。表而出之というのは、まず内着を着てから葛布の羽織を羽織って表を覆い、体が透けて見えないようにすることである。詩経に言う「蒙彼縐絺」とはこのことだ。
本文「緇衣羔裘,素衣麑裘,黃衣狐裘。」
麑は研-奚の反切で読む。緇とは黒色のことである。羔裘は、黒い羊の皮で作る。麑は子ジカである。色は白い。狐の色は黄色い。布の服を着た上に単衣のかわごろもを着るには、色合わせをする。
本文「褻裘長。短右袂。」
長くするのは保温のためである。右そでを詰めるのは仕事をしやすくするためである。
本文「必有寢衣,長一身有半。」
長は尻下がりに読む。物忌みでは慎ましさを貴ぶ。服を脱いで寝てはいけないし、派手なものを着て寝てはいけない。だから専用に寝間着がある。半分長いのは足を覆うためである。
程頤「この部分は簡の綴り間違いだ。次章の、”齊必有明衣布”の下でなくてはならない。」
愚か者であるわたし朱子が思うに、この部分は次章の”明衣變食”の話と組み合わせると、意味がよく揃う。しかし本章の”而褻裘狐貉”と組み合わせても、やはり揃う。
本文「狐貉之厚以居。」
狐貉は毛深くて温かく厚みがあり、私生活で用いると体によい。
本文「去喪,無所不佩。」
去は上がり調子に読む。君子は理由なく玉の装飾品を外さない。べっ甲や堅い石のたぐいでも、装飾品に用いて腰から下げる。
本文「非帷裳,必殺之。」
殺は尻下がりに読む。礼服について、スカートはカーテン同様布の織り巾で用いてよいが、ひだを重ねる必要がある。だから普通は裁断して縫う。そうでないと引きずる衣類のようで腰から下を覆い尽くし、無作法を仕出かさないよう倍も気を付けなければならないから、ひだをなくすために裁断して縫うのである。
本文「羔裘玄冠不以弔。」
喪には白色を貴ぶ。祝には黒色を尊ぶ。葬礼では必ず服を着替え、なき者への哀悼を示す。
本文「吉月,必朝服而朝。」
吉月とは月齢の朔日である。孔子が魯で出仕したありさまはこの通りだった。この一節は、孔子の衣服の作法を記す。
蘇軾「これは孔子家が伝えた書きものであり、『礼記』雑記篇や曲礼篇では、孔子の話だとは特定していない。」
余話
みんなで渡れば怖くない
漢字には論語の本章の「麑」のように、殷と周以降でまるで字形の違うものがある。殷周革命のすさまじさを思うべきだが、漢字は現実界の何かを示す記号だから、字形が消えても概念は存在する。だから後世になって別の字形が当てられたりする。
ただ漢字は漢語を表す文字でもあるから、字形が変われば漢語の発音は変わったとみるべきで、両者を同じく漢語とみなしてよいか難しい。中国人は最終的に、古さしか自国史に自信が持てないから、当然殷は中華民族の祖先だと言い張り、日本の漢文業者もそれを担ぐ。
殷の前に夏王朝もあった、と今の中共政府は御用学者を集めて「論証」したが、さすがにそれより前に堯舜の世があったとまでは言っていない。ナショナリズムもコミュニズムも木の芽時の夢想に過ぎないが、いくら中国人でもそこまで図々しくはなれないらしい。
カメラや望遠鏡など、光学の世界では物界と像界を区別する。物界は「ものが存在する世界」で、像界はレンズなどを通して見た物界の「姿が見える世界」になる。だが物理的にものと光はどちらもエネルギーのふるまいだから、像界に見えるものは実在する。
これに対して史学など人文の世界では、存在の証明は人の多数決による。だから文学部で教えているようなことはこの意味でおとぎ話や宗教と変わらず、聖王がいたり太陽が地球を回り出しもする。中華文明の基本はこの人文で、信じる人が減ったから堯舜を言わなくなった。
詐欺師が効かない詐欺を言わないように、中華文明も人々をたぶらかす効果が無いと知れば、長年担ぎ回ってきたことも無かったことにする。人は結局人の世で生きるしか無いと覚悟しており、仙人ですらお山から下りたがる中華世界では、どうやって人を欺すかが課題だった。
だから21世紀の今も、中華文明が人類の生存の知恵でありうるわけだ。
参考記事
- 論語学而篇4余話「中華文明とは何か」
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