論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
入公門鞠躬如也如不容立不中門行不履閾過位色勃如也足躩如也其言似不足者攝齊升堂鞠躬如也屛氣似不息者出降一等逞顔色怡怡如也没階趨進翼如也復其位踧踖如也
- 「没」字:〔氵巳乂〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
入公門鞠躬如也如不容/立不中門行不履閾/過位色勃如也足躩如也/其言似不足者攝齊升堂鞠躬如也屛氣似不息者/出降一等逞顔色怡怡如也/没階趨進翼如也/復其位踧踖如也
慶大蔵論語疏
入公門鞠躬如也如不容/立不中門/不履閾1/過位1(位)2色勃如〔口乙〕3躩如也/其言似不〔口乙〕3者4/攝〔齊𧘇〕5升堂鞠躬如6也/屛氣似不息者4/出降一等呈〔立儿頁〕7色怡怡如也/沒階趍8進翼如也/復其位𨁕9踖如也
- 崩し字。
- 傍記。
- 「足」の異体字。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。
- 新字体と同じ。原字。
- 「齊」の派生字。「魏凝禪寺三級浮圖頌」(東魏)刻。
- 虫食い。
- 「顏」の異体字。「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。
- 「趨」の異体字。「李翕西狹頌」(後漢)刻。
- 「踧」の異体字。『龍龕手鑑』(遼)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[攝齊升堂],鞠躬□243……[□]顏色a,怠若也b。歿階趨c,□若d也。複其位,□□若d也。244
- 顏、其上一字今本作”逞”、而簡文残字不似”逞”。
- 怠若也、今本作”怡怡如也”。怠與怡均従心従台、怠一音読怡。若同如。
- 歿階趨、阮本作”沒階趨進”。『釋文』云、”’沒階趨’、一本作’沒階趨進’、誤也”。又云、”案鄭注『聘礼』引’沒階趨進、翼如也’、則漢世古本有’進’字”。然此西漢古本證明無”進”字。歿、通沒。
- 若、今本作”如”。
標点文
入公門、鞠躬如也、如不容。立不中門、不履閾。過位、色勃如足躩如也。其言、似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也、屛氣似不息者。出降一等、呈顏色怠若也。歿階趨、翼若也。復其位、踧踖若也。
復元白文(論語時代での表記)
鞠躬 閾 躩 攝 鞠躬 等 歿 踧踖
※容→甬・勃→孛・屛→甹・呈→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
公の門に入るに、鞠躬むが如き也、容れられ不るが如し。立つに門に中らせ不、閾を履ま不。位を過ぐれば、色勃つが如く足躩るが如き也。其の言ふは、足ら不る者に似たり。齊を攝めて堂に升らば、鞠躬むが如き也、氣を屛めて息せ不る者に似たり。出て一等を降れば、顏色を呈して怠むが若き也。階を沒して趨らば、翼の若き也。其の位に復るに、踧踖るるが若き也。
現代中国での解釈例
進入朝廷大門時,走路象鞠躬一樣,如同無處容身。不在門中間站立,腳不踩門坎。從君主的座位前經過,表情莊嚴,腳步輕快,說話好像氣不足。提著衣邊上堂,象鞠躬,憋著氣象沒有呼息一樣。出來時,每下一個臺階,神態舒展,心情舒暢。下完臺階,步伐加快,如同長了翅膀。回到自己的位置,又顯得恭敬謹慎。
朝廷の正門を入るときには、縮こまるように歩き、身の置き所が無いかのようだった。門の中間には立たず、敷居を踏まなかった。君主の座の前を通り過ぎるときに、表情を荘厳にし、歩みは軽快で、息が詰まるように話した。衣類の裾を掲げて宮殿に入り、縮こまるようにし、空気が足りないときと同じ様子だった。宮殿から出るときには、一段ずつ階段を降り、表情と態度は緊張を解き、心は伸びやかだった。階段を下り切ると、足並みを早め、翼を伸ばすようだった。自分の定位置に戻ると、また敬意をあらわにして慎んだ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
朝廷の門を入る時は、背をかがめて中に入れないような姿勢だった。
門の真正面に立たず、敷居を踏まない。
殿様が出迎える定位置を過ぎた時は、顔色は生き生きとし、足は勇み立った。
ものを言う時は、(殿さまにものを言う身分が)足りないように言った。
衣の裾をつまんで広間に入る時は、背をかがめて慎み深く、息をおさえて呼吸しないように見えた。
広間を出て階段を一段下れば、表情をはっきりと出してにこやかだった。
階段を下り切って小走りに進む時は、両肘を張り出した。
自分の定位置に戻った時は、居住まいを正した。
意訳
同上
従来訳
宮廷の門をおはいりになる時には、小腰をかがめ、身をちぢめて、恰も狭くて通れないところを通りぬけるかのような様子になられる。門の中央に立ちどまったり、敷居を踏んだりは決してなされない。門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。そして堂にいたるまでは、みだりに物をいわれない。堂に上る時には、両手をもって衣の裾をかかげ、小腰をかがめ、息を殺していられるかのように見える。君前を退いて階段を一段下ると、ほっとしたように顔色をやわらげて、にこやかになられる。階段をおりきって小走りなさる時には両袖を翼のようにお張りになる。そしてご自分の席におもどりになると、うやうやしくひかえて居られる。
下村湖人『現代訳論語』
論語:語釈
入 公 門、鞠 躬 如 也、如 不 容。立 不 中 門、(行) 不 履 閾。過 位、色 勃 如 (也)、足 躩 如 也、其 言 似 不 足 者。攝 齊 升 堂、 鞠 躬 如 也、屛 氣 似 不 息 者。出、降 一 等 、呈(逞) 顏 色、怡(怠) 怡 如( 若 ) 也。沒(歿) 階 趨 進、翼 如 也。復 其 位、踧 踖 如 也。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
公門(コウボン)
論語の本章では”国公宮殿の門”。「門」を「モン」と読むのは呉音。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
(甲骨文)
「門」の初出は甲骨文。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
鞠*(キク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”身をかがめる”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「革」”なめしたかわ”+「匊」で、「匊」は春秋末期まででは西周の金文で人名の一部になっている一例のみ。「勹」は例えば「軍」字の金文に「冖」として用いられ、”覆う”・”包む”の意。「匊」は穀物倉庫の意か。全体で”革で粒状の中身を包んだまり”の意。上古音での同音多数。甲金文・簡帛書には出土例が無い。文献上の初出は論語の本章。ほか戦国末期の『韓非子』や『呂氏春秋』にも見える。詳細は論語語釈「鞠」を参照。
躬(キュウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”身をかがめる”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。この語義では、論語時代の置換候補は無い。字形は「身」+「呂」”背骨”で、原義は”からだ”。現行字形は「身」+「弓」で、体を弓のようにかがめること。英語のbowと同様。詳細は論語語釈「躬」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
容(ヨウ)
「容」(金文)
論語の本章では”入る”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。”いれる”の意で「甬」が、”すがた・かたち”の意で「象」「頌」が置換候補になりうる。字形は「亼」”ふた”+〔八〕”液体”+「𠙵」”容れ物”で、ものを容れ物におさめて蓋をしたさま。原義は容積の単位。戦国の金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「容」を参照。
立(リュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”立つ”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。
中(チュウ)
「中」(甲骨文)
論語の本章では”真ん中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
門や通路の中央は、君主だけが通ってよいとされた。これは清朝まで引き継がれ、紫禁城の中央通路は皇帝専用で、それを示す龍が彫りつけてあり、今でも「立ち入り禁止」の札が掛けられている。
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行(コウ)
論語の本章では”進む”。論語の本章は、現存最古の論語版本である定州竹簡論語にこの前後を含めた部分を欠き、次いで古い慶大蔵論語疏では「行」字を欠く。現伝論語の祖本である唐石経は記し、慶大本に次いで古い古注である宮内庁蔵清家本も記す。時系列的に最も古い慶大本に従い校訂した。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
字の初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
履(リ)
(甲骨文)
論語の本章では”踏む”。初出は甲骨文。字形は目が大きく、頭に飾りを付けた人が、特定の地面を踏むさま。甲骨文に「我弗令史履」とあり、おそらく”見に行かせる”の意。西周の用例では人名が多い。詳細は論語語釈「履」を参照。
閾*(ヨク)
(篆書)
論語の本章では”敷居”。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。論語では本章のみに登場。字形は「門」+「或」”区切る”。漢音には「キョク」もある。「イキ/コク」は呉音。文献上の初出は論語の本章。『春秋左氏伝』にも見られる。詳細は論語語釈「閾」を参照。
慶大蔵論語疏はもんがまえの中「或」部をくずして記す。この部分は上掲王羲之の筆跡に似る。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”通り過ぎる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
位(イ)
(金文)
論語の本章では”所定の立ち位置”。初出は甲骨文。字形は楚系戦国文字になるまで「立」と同じで、「大」”人の正面形”+「一」大地。原義は”立場”。春秋までの金文で”地位”の意に用いた。詳細は論語語釈「位」を参照。
従来訳が「門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。」と「位」を”君主不在時の玉座”と解するのは、古注の包咸による注がもとで、何か根拠があるわけではない。甲金文、簡帛文、先秦両漢の文献で「過位」は、下の一例を除き論語の本章以外に見られない。
帝曰:遷正不前,以通其要,願聞不退,欲折其餘,無令過失,可得明乎?歧伯曰:氣過有餘,復作布正,是名不過位也。
黄帝「気の巡りが正しいのに進まない場合、そのツボを通す法について。遠慮せずに教えて貰いたい。気の余りを抑え、体調を悪くしない方法は、はっきりしているのか?」
歧伯「気の巡りが激しするる場合、再び施術して巡りを調整するのを、本来あるべき状態に戻す、というのです。」(『黄帝内経』刺法論5)
ここでも、”君主不在時の玉座”の意味ではない。
色(ソク)
(金文)
論語の本章では”表情”。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。
勃(ホツ)
(篆書)
論語の本章では”勢いがついたように”。初出は後漢の篆書。字形は「孛」”子供にふさふさと毛が生える”+「力」。力強く立ち上がるさま。「孛」は「丰」”芽吹いた芽”+「子」。同音に「孛」とそれを部品とした「悖」、「浡」”起こる”、「誖」”乱す”、それに「艴」”気色ばむ”。「ボツ」は慣用音。呉音は「ボチ」。文献上の初出は論語の本章。『孟子』『荀子』にも見える。論語時代の置換候補は「孛」で、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「勃」を参照。
足(ショク)
「疋」(甲骨文)
論語の本章、「足躩如也」では”あし”。「似不足者」では”足りる”。初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では漢音で「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔口乙〕」と記す。上掲「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。
色勃如也→色勃如
定州竹簡論語ではこの部分を欠き、慶大蔵論語疏では「也」を欠く。京大蔵唐石経、宮内庁蔵清家本では「也」を記す。時系列的に最も古い慶大本に従い「也」を欠いて校訂した。
躩(キャク)
(篆書)
論語の本章では”おどるようにし”。足が踊るように浮き足立つこと。論語では郷党篇のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷」+「矍」”鳥を手で捕らえる”。飛び立とうともがく鳥の足のように、足が浮き足立つこと。同音に「矍」”驚き見る・逸る”とそれを部品とした「玃」”おおざる・手で打つ”、「攫」”つかむ・うつ”(”さらう”は国義)。文献上の初出は論語の本章。戦国時代の『荘子』にも見える。詳細は論語語釈「躩」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言葉”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
似(シ)
(金文)
論語の本章では”似ている”。初出は西周中期の金文。字形は〔㠯〕”農具のスキ”+「司」から「𠙵」”くち”を欠いた形。スキに手をかざすさま。「ジ」は呉音。春秋末期までに、”似せる”の意に用いた。詳細は論語語釈「似」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。もと正字。旧字の出典は「華山廟碑」(後漢)。
攝(ショウ)
(隷書)
論語の本章では”手に取る”。新字体は「摂」。「セツ」は慣用音。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「葉」があり、『大漢和辞典』は”おさえる・あつめる”の語釈を載せる。ただし物証として漢代の帛書以前にその語義は確認できない。字形は「扌」+「聶」”とる”で、物事を手に取るさま。原義は”とる”。部品の「聶」の初出は楚系戦国文字。詳細は論語語釈「摂」を参照。
齊(シ)
(甲骨文)
論語の本章では装束の”裾”。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「シ」は”ころものすそ”の意での漢音・呉音。それ以外の意味での漢音は「セイ」、呉音は「ザイ」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
慶大蔵論語疏では派生字「〔齊𧘇〕」と記す。「𧘇」は「衣」の略体。多義語の「齊」のうち、”すそ”であることを明らかにするための派生字と思われる。「魏凝禪寺三級浮圖頌」(東魏)刻。
升(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では宮殿の表座敷に”上る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「斗」”ひしゃく”+「氵」”液体”で、ひしゃくで一杯すくうさま。原義は”ひしゃく一杯分の量”。甲骨文では原義で、金文では加えて神霊に”酒を捧げる”、”のぼせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「升」を参照。
堂(トウ)
(金文)
論語の本章では、”表座敷”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𣥺」。現行字体の初出は戦国中期の金文。「ドウ」は呉音。同音に「唐」とそれを部品とする漢字群、「湯」を部品とする漢字群など、「宕」”岩屋”。字形は〔八〕”屋根”+「冂」”たかどの”+「土」で、土盛りをした上に建てられた比較的大きな建物のさま。原義は”大きな建物”。戦国の金文では原義、”見なす”の意に用い、戦国の竹簡では”…に対して”の意に用いられた。詳細は論語語釈「堂」を参照。
屛*(ヘイ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”息を止める”。新字体は「屏」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「尸」”ひさし”+「人」二つ+「二」出入りを差し止める横棒。敷地への人の出入りを阻止する構造物のさま。同音に語義を共有する漢字は無い。中国と台湾では、「屏」が正字として扱われている。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『荀子』『韓非子』にも見える。西周早期の金文に「甹」があり、「屏」”さえぎる”と釈文されており、論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「屛」を参照。
氣(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”息”。初出は甲骨文。その字形は「气」。雲が垂れ下がって消えていくさま。原義は”終わる”。初文は「氣」ではなく「气」で、「氣」は「餼」の初文。論語語釈「餼」を参照。甲金文では「气」と「乞」の書き分けは明瞭でない。甲骨文では”終わる”または”気配”、また「乞」”求める”と解せる。金文では語義が明確でない。あるいは”生きる”を意味するか。また”終わる”・”求める”と解せる例がある。
息*(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”呼吸する”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は鼻を空気が出入りするさま。現行字形「自」”はな”+「心」は、戦国時代以降の字形。「ソク」は呉音。殷代の用例は、欠損がひどく文として判読できないか、族徽(家紋)の一部として見られる。春秋末期までに、地名・人名のほか”休む”の意に用いた。詳細は論語語釈「息」を参照。
出(シュツ)
(甲骨文)
論語の本章では”出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
降*(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、階段を”下りる”。初出は甲骨文。字形は「阝」”はしご”+下向きの「夂」”あし”二つ。はしごや階段を降りるさま。同音は論語語釈「救」を参照。春秋末期までに、”下る”・(建物から)”出る”の意に用いた。詳細は論語語釈「降」を参照。
一(イツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”ひとつ”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
等*(トウ/タイ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では階段の”一段”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「竹」”竹簡”+「寺」”持つ”。原義未詳。戦国中末期の楚系戦国文字では、「志」”考え”の意に用いた。”等級・段階”の意を持ったのは戦国最末期の秦系戦国文字から。詳細は論語語釈「等」を参照。
逞*(テイ)→呈*(テイ)
唐石経を祖本とする現伝論語では、「逞」と記して”たくましい”。それに先行する慶大蔵論語疏では「呈」(呈)と記して”表に表す”。論語の本章では定州竹簡論語でこの部分が判読不能字になっており、次いで古い慶大本に従って「呈」と校訂した。定州竹簡論語の注釈に「簡文残字不似”逞”」”判読不能ではあるが、「逞」の字には見えない”とあり、前漢中期までは別の字だったと思われる。
(金文)
「逞」は論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の金文。字形は「人」二つ+「𠙵」”くち”+「土」+「止」。字形の由来と原義は不明。〔辶〕「呈」それぞれの原字とはまるで字形が違う。春秋末期までには、人名の一例があるのみ。戦国時代を含めても、「𦀚」を「逞」と釈文した例が一例あるのみ。詳細は論語語釈「逞」を参照。
武内義雄『論語之研究』によると、「逞」は『方言』(前漢の楊雄(揚雄)が各地から派遣されてくる人々に取材してまとめた方言集)に「快也」(機嫌のよい顔つきになった)とあり(p.92)、斉の方言であり、この論語郷党篇が冒頭の学而篇と並び、斉で成立した事を示すという。
合37447
「呈」〔口𡈼〕の初出は甲骨文。その後金文の発掘がなく、再出は戦国文字。殷周革命で一旦滅んだ漢語である可能性がある。新字体は「呈」〔口王〕。字形は「𠙵」”くち”+「大」”人の正面形”。原義は貴人が発言する様か。同音に「程」、「酲」”宿酔”、「珵」”玉の名”、「裎」”はだか”(以上平)、「鄭」(去)。甲骨文では地名に用いた。西周春秋の金文、戦国文字の多くも部品として記され、戦国中末期「郭店楚簡」では「𦀚」と記して「逞」と語釈されている。文献時代では『列子』『管子』に用例があるがいつ記されたかわからず、戦国まで他学派の文献に見えず、儒家では前漢中期の『春秋繁露』が初出となる。詳細は論語語釈「呈」を参照。
顏(ガン)
(金文)
論語の本章では”かお”。新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔立儿頁〕」と記す。上掲「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。
怡*怡如(イイジョ)→怠*若(タイジャク)
「怡怡如」は”にこやかなさま”。
「〔辛㠯心〕」(金文)
「怡」の初出は春秋中期の金文に部品として見える。独立した用例は春秋末期にあるが、字形が確認できない。字形は〔忄〕”こころ”+〔㠯〕”農具のスキ”。字形の由来と原義は明らかでない。同音は「飴」、「貽」”おくる”、「詒」”あざむく・おくる”、「台」、「佁」”おろか・とどおおる・いたる”。春秋末期までに、人名に用いた。「台」に”よろこぶ”の語釈があり、初出は殷代末期の金文。ただし”よろこぶ”の用例は春秋末期までに確認出来ない。詳細は論語語釈「怡」を参照。
定州竹簡論語では「怠若」と記す。「怠」は「怡」と部品の配置が違うだけで、事実上の異体字として用いているが、かなりひねった表現で、学をてらう儒者の独りよがりに過ぎない。「怠若」でやはり”にこやかなさま”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』で確認できるのも両漢時代に偽作された『易経』からになる。
(金文)
「怠」の初出は西周末期の金文。ただし字形は「台」につくりとして「司」から「𠙵」(口)を欠いた形。初出の字形は「台」=〔㠯〕”農具のスキ”+「𠙵」に「司」-「𠙵」で、「又」や「屮」が実際に作業するさまを示すのに対し、「司」-「𠙵」は”そのふりをする”の意であるらしい。農具を手に取るふりだけし、口先で誤魔化すさま。「似」とも釈文される。論語語釈「似」を参照。同音に「臺」、「台」を部品とする漢字群多数。論語語釈「殆」を参照。春秋末期までに、”おこたる”または”ニセモノであざむく”の意に用いた。詳細は論語語釈「怠」を参照。
(甲骨文)
「若」の初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。
沒(ボツ)→歿(ボツ)
論語の本章では階段を下り”終える”。
(秦系戦国文字)
「沒」の新字体は「没」。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。部品の「𠬛」には”くぐる・しずむ”の語釈が『大漢和辞典』にあるが、初出は後漢の『説文解字』。”無い”の意では近音の「勿」が甲骨文より存在するが、”…し終える”の意では置換候補が無い。詳細は論語語釈「没」を参照。
(後漢隷書)
定州竹簡論語は「歿」と記す。初出は後漢の説文解字。ただし字形は「歾」。現行字形の初出は同じく後漢の隷書。字形は「歹」”骸骨”+「𠬛」”しずむ”。生命が終わって世を去ること。同音に「沒」、「𤣻」”たま”、「𠬛」”くぐる・しずむ”。「𠬛」の初出は後漢の説文解字。論語時代の置換候補の事情は「沒」と同じ。詳細は論語語釈「歿」を参照。
階*(カイ)
(甲骨文)
論語の本章では”階段”。初出は甲骨文。初出の字形は「阝」”はしご”+「羊」+「几」”三方”。天や祖先に通じるはしごの前に、生け贄を載せた三方を据えて捧げるさま。戦国早期まではこの字形で、前漢からつくりが「皆」”大勢で申し上げる”になった。甲骨文の用例は破損がひどくて文として読めないが、戦国時代から”きざはし”の意に用いた。詳細は論語語釈「階」を参照。
趨(シュ)
(金文)
論語の本章では”小走りする”。初出は西周早期の金文。字形の左と上は「大」”ひと”+「止」”あし”=「走」で、中間の「十」二つの意味するところは不明だが、おそらく右端の傾いた「𠙵」”くち”から出た”命令”を示し、全体で命じられて使いに走るさま。「スウ」は慣用音。呉音はス(平)、ソク(入)。春秋末期までの用例は人名のみが確認出来、明確に”はしる”と解せる用例は戦国時代まで時代が下る上に、字形が「趣」で全く異なる。詳細は論語語釈「趨」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「趍」と記す。「李翕西狹頌」(後漢)刻。
翼如(ヨクジョ)→翼若(ヨクジャク)
「翼」(金文)
論語の本章では”翼のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は通説では甲骨文とされるが、「习」(羽の半分)の字形で賛成できない。殷と周でまるで字形が違う例の一つで、事実上の初出は春秋早期の金文。その字形は頭に羽根飾りを付けた「異」”頭の大きな人や化け物”。「異」の詳細は論語語釈「異」を参照。春秋末期までに、”受け取る”の意に用いた。詳細は論語語釈「翼」を参照。
定州竹簡論語が「翼若」と書くのは、「如」をいちいち「若」と書き改めている他の例と同じ。
復(フク)
(甲骨文)
論語の本章では”戻る”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
踧踖(シュクセキ)
論語の本章では、”慎み深い小刻みな足取り”。「踧」も「踖」も、論語ではこの郷党篇の二ヶ章で用例があるのみ。定州竹簡論語が「踧踖如」を「踧踖若」と書くのは、「如」をいちいち「若」と書き改めている他の例と同じ。
(篆書)
「踧」の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷]+音符「叔」。「叔」に”年少者(らしいつつしみ)”の意がある。同音多数。”平らな”の意での漢音は「テキ」。文献上の初出は論語の本章。前漢中期の『塩鉄論』にも見られる。詳細は論語語釈「踧」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「𨁕」と記す。刻石は見つからなかった。『龍龕手鑑』(遼)所収。『大漢和辞典』によると「𠦑」は「叔」の俗字。
(篆書)
「踖」の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𧾷」+「昔」。「昔」の字形は水平線に沈んだ太陽のさま。全体で沈み行くような小刻みな足取りのさま。同音に「借」「跡」。文献上の初出は論語の本章。前漢中期『塩鉄論』にも見える。詳細は論語語釈「踖」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれている。それよりやや先行する『史記』孔子世家に「入公門,鞠躬如也;趨進,翼如也。」とある。「立不中門」は両漢時代に偽作された『小載礼記』に見える。「行不履閾」は後漢の『説文解字』が論語を引用した以外に、先秦両漢に見えない。「色勃如也、足躩如也。」は論語郷党篇3同様、文献時代での初出は、前漢でいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒による『春秋繁露』で、そのほか両漢時代に偽作された『小載礼記』『周礼』『儀礼』に載る。「攝齊升堂」は後漢の『蔡中郎集』、『前漢紀』に見える。「踧踖如」が漢代以降の漢語である事情は、論語郷党篇2と同じ。
以上、本章の史実性が存在する可能性は皆無に近く、前漢儒による偽作と断じてよい。この郷党篇の多くの章と同様、周代の礼儀作法なるものをでっち上げるため、前後の漢帝国交代期に偽作されたと断じてよい。
解説
論語のとりわけ郷党篇を読むに当たって、気を確かに持たねばならないのは、周の礼法なるものがあり、それに従って論語郷党篇が書かれているのではなく、漢儒が周の礼法をでっち上げるために、あとから論語郷党篇が論拠としてこしらえられたことだ。
現伝の大小『礼記』、『儀礼』『周礼』いずれも、文字史上から漢以降の偽作は明らかで、周に礼儀作法が無いわけがないが、現伝の儒教経典の通りではなく、一旦すっかり滅びたと断じてよい。だからこそ司馬遷は、『史記』礼書に次のように書いたのだ。
仲尼沒後,受業之徒沈湮而不舉,或適齊、楚,或入河海,豈不痛哉!
至秦有天下,悉內六國禮儀,采擇其善,雖不合聖制,其尊君抑臣,朝廷濟濟,依古以來。
至于高祖,光有四海,叔孫通頗有所增益減損,大抵皆襲秦故。自天子稱號下至佐僚及宮室官名,少所變改。
孝文即位,有司議欲定儀禮,孝文好道家之學,以為繁禮飾貌,無益於治,躬化謂何耳,故罷去之。
孝景時,御史大夫晁錯明於世務刑名,數干諫孝景曰:「諸侯藩輔,臣子一例,古今之制也。今大國專治異政,不稟京師,恐不可傳後。」
孝景用其計,而六國畔逆,以錯首名,天子誅錯以解難。事在袁盎語中。是後官者養交安祿而已,莫敢復議。
今上即位,招致儒術之士,令共定儀,十餘年不就。或言古者太平,萬民和喜,瑞應辨至,乃采風俗,定制作。
上聞之,制詔御史曰:「蓋受命而王,各有所由興,殊路而同歸,謂因民而作,追俗為制也。議者咸稱太古,百姓何望?
漢亦一家之事,典法不傳,謂子孫何?化隆者閎博,治淺者褊狹,可不勉與!」乃以太初之元改正朔,易服色,封太山,定宗廟百官之儀,以為典常,垂之於後云。
孔子が没したあと、その教えを受け継いだ者は不遇のまま出世出来ず、ある者は斉へ、楚へと流れ、海を渡って海外に出てしまった者もいた。何と痛ましいことだろう。
秦が天下を統一し、併合した六国の礼儀作法のうち、よいものを選んで採用した。聖王の教えとは合わないが、主君を貴び家臣に分をわきまえさせ、朝廷の雰囲気が整ったのは、昔通りに保たれた。
漢の高祖が国を興し、中華全土を従えると、叔孫通が秦の礼儀作法の細部は大幅に変更したが、おおまかにはそのまま踏襲した。天子から文武百官の称号、宮殿の名や官名については、わずかにしか変更しなかった。
文帝の時になって、所轄の役人が礼儀作法を定めたいと奏上した。しかし文帝は道家の教えを好んでいたから、ややこしい作法や飾りは、政治に無益だと思い、その前に役人が自分で世間の模範となるようにすべきだと言い切り、意見を採り上げなかった。
景帝の時、監察総監の晁錯が、行政手腕や司法の正確さで名を挙げ、それを背景にたびたび景帝に意見した。「諸侯や旗本は、ただ臣下であり天子の子分に過ぎないこと、古来明らかです。ところが今は大諸侯が好き勝手に領地を治め、帝都に税も届けません。これをそのまま放置してはいけません。」
景帝はこの意見を採り上げ、呉楚七国の乱が起きたが、どの諸侯も「悪党の晁錯を取り除く」のを挙兵の口実としたので、景帝は恐れて晁錯を殺してしまった。それでも乱は収まらず、袁盎を派遣してなだめたが止まなかった。それからというもの、役人は事なかれ主義で自分の縁故や俸禄だけを気にかけたので、大諸侯の横暴を言う者はいなくなった。
今上陛下(武帝)が即位し、儒者を集めて礼儀作法を作ろうとしたが、どの儒者も勝手なことを言い張り、十年過ぎても決まらなかった。そこである者が武帝に奏上した。「昔は天下太平で、万民は生活を楽しみ、めでたいしるしがはっきりと現れましたので、その普段の習慣をまとめて、礼法として定めました。」
武帝はこれを聞いて、監察院に命じた。「いにしえの王が天の命を受けて天下の王となったからには、それぞれに理由があるはずだ。だがそのやり方は違っても、同じように太平の世を実現させたからには、民の生活に基づいて礼法を定め、習慣に基づいて制度を定めたという。いま礼法制度を審議させていると、どいつも昔がよかったという。これでは今ある民は置いてけ堀ではないか。
それに我が漢帝室にはまだ定まった礼法制度が無い。これでは子孫に言い訳が立たない。礼儀作法のウンチクがくどすぎる者は、あまりにくどくてついて行けないし、大して勉強して居ない者は、ナントカの一つ覚えばかり言い張っている。どうにかせねばいけないぞ。」
こうして太初元年に暦を改め、官服の色を変え、泰山で祭を行い、祖先祭殿や文武百官の制度を定め、これを漢帝国の礼法制度と決め、後世に残すことにした。(『史記』礼書)
事は恐らくこの通りで、周の礼法など全く伝わらなかったのだ。従って現伝の礼法は、どうやりくりしても前漢武帝より前には遡らない。確かに『史記』を全面的に信用は出来ないが、『史記』以上に礼法の定まった経緯を示す史料は、おそらく人類滅亡まで見つかるまい。
論語の本章、新旧の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
入公門鞠躬如也如不容註孔安國曰斂身也立不中門行不履閾註孔安國曰閾門限也過位色勃如也足躩如也註苞氏曰過君之空位也其言似不足者攝齊升堂鞠躬如也屏氣似不息者註孔安國曰皆重慎也衣下曰齊攝齊者摳衣也出降一等逞顔色怡怡如也註孔安國曰先屏氣下階舒氣故怡怡如也没階趨進翼如也註孔安國曰沒盡也下盡階也復其位踧踖如也孔安國曰來時所過位也
本文「入公門鞠躬如也如不容」。
注釈。孔安国「体を引き締めることを言う。」
本文「立不中門行不履閾」。
注釈。孔安国「閾は門の区切りである。」
本文「過位色勃如也足躩如也」。
注釈。包咸「主君の御座所が不在の場合を言ったのである。」
本文「其言似不足者攝齊升堂鞠躬如也屏氣似不息者」。
注釈。孔安国「全て慎重に謹んださまを言う。衣裳をぶら下げるのを斉摂という。衣裳をつまみ上げた様である。」
本文「出降一等逞顔色怡怡如也」。
注釈。孔安国「まず息を潜め、階段を下りてから息をしたのである。その結果顔色がにこやかになるのである。
本文「没階趨進翼如也」。
注釈。孔安国「没とはしつくすことである。階段を下り切ったことをいう。
本文「復其位踧踖如也」。
孔安国「宮殿に参上したときに、不在の御座所を通り過ぎるのである。」
新注『論語集注』
入公門,鞠躬如也,如不容。鞠躬,曲身也。公門高大而若不容,敬之至也。立不中門,行不履閾。閾,于逼反。中門,中於門也。謂當棖闑之間,君出入處也。閾,門限也。禮:士大夫出入君門,由闑右,不踐閾。謝氏曰:「立中門則當尊,行履閾則不恪。」過位,色勃如也,足躩如也,其言似不足者。位,君之虛位。謂門屏之間,人君宁立之處,所謂宁也。君雖不在,過之必敬,不敢以虛位而慢之也。言似不足,不敢肆也。攝齊升堂,鞠躬如也,屏氣似不息者。齊,音咨。攝,摳也。齊,衣下縫也。禮:將升堂,兩手摳衣,使去地尺,恐躡之而傾跌失容也。屏,藏也。息,鼻息出入者也。近至尊,氣容肅也。出,降一等,逞顏色,怡怡如也。沒階趨,翼如也。復其位,踧踖如也。陸氏曰:「趨下本無進字,俗本有之,誤也。」等,階之級也。逞,放也。漸遠所尊,舒氣解顏。怡怡,和悅也。沒階,下盡階也。趨,走就位也。復位踧踖,敬之餘也。此一節,記孔子在朝之容。
本文「入公門,鞠躬如也,如不容。」
鞠躬とは身をかがめることである。国公の宮殿の門は高く大きく、それなのに入れて貰えないようなふりをするのは、敬意を表し尽くしたのである。
本文「立不中門,行不履閾。」
閾は、于-逼の反切で読む。中門とは、門の左右中央を言う。いわゆる「棖闑之間」(棖は門の両側の柱、闑は門を閉じた際、扉が開かぬように真ん中に立てる柱)に相当する空間は、主君が出入りする場所である。閾は、門の区切りである。『礼記』の規定では、士大夫が主君の門を出入りするには、闑の右側を通り、しきいを踏まない。
謝良佐「門の真ん中に立つのは貴人のあかしで、通るときに敷居を踏むのは無作法である。」
本文「過位,色勃如也,足躩如也,其言似不足者。」
位とは、不在中の主君の御座所を言う。いわゆる正門と中門の間で、主君が立って家臣の言上を聞くべき位置だから、「宁」という。たとえ主君がその場にいなくても、通り過ぎるときには必ず敬礼する。主君がいないからと言っておごってはならないのである。言似不足とは、これ聞こえよがしに好き勝手にものを言わないことである。
本文「攝齊升堂,鞠躬如也,屏氣似不息者。」
斉の音は咨である。摂とはつまみ上げることである。斉とは、衣裳の縦の縫い目を言う。『礼記』の規定では、昇殿の際はまず両手で衣裳をつまみ上げ、一尺ほど地面から持ち上げる。裾を踏んづけて転ぶ失態をしでかさないためである。屏とは潜めることである。息は、鼻息の出入りである。至尊の主君に近づくには、息や顔色を謹むのである。
本文「出,降一等,逞顏色,怡怡如也。沒階趨,翼如也。復其位,踧踖如也。
陸元朗「趨の字の下にはもとは進の字が無かった。俗な本には書いてあるが、間違いである。」
等とは階段の一段を言う。逞とは放つことである。主君から段々遠ざかって、やっと気を緩め顔つきを緩めるのである。怡怡とは、やわらぎなごむことである。没階とは、階段を下り切ることである。趨とは、小走りして所定の位置に付くことである。自分の位置に戻るにも、なお謹んだ足取りで進むのは、敬意の余韻を残すためである。この一節は、孔子の朝廷での様子を記す。
余話
ガキの君主とオトナの家臣
それにしても、帝政期に入った途端、皇帝も家臣もこんな馬鹿馬鹿しい作法を欲しがったのはなぜだろう。作法を喜ぶのは敬意を示される君主ばかりではなく、子供が親の真似をして神妙に神仏を拝むのと同じで、敬意を示すことを喜ぶ心理が人間にはある。
だがそれは、自分で判断できない子供の心理であることに留意すべきだ。もちろん、人さまの前で無作法を仕出かすのは、まともな大人に許されないし、いい年してあえて無作法をやらかす者は、ガキのようなことをしても許されるオレ様だぞ、と言いたがる幼稚なガキだ。
- 論語述而篇24余話「嫌われてるとも知らないで」
帝国の官僚は、春秋の君子よりもよほど子供に見える。春秋時代の論語における「礼」が、明記した規範が無い場で妥当を選び取る果敢な精神だったのに対し、帝政儒教の礼儀作法は「礼儀三百、威儀三千」と呼ばれる細部にわたるめんどうくさい仕草や意匠の規定だった。
これは社会が違うからで、周王は殷王と違って天子を自称したが(論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」)、それでも自分を神だとは言わせなかった。春秋戦国の諸侯も同様だったが、始皇帝が自らを皇帝=光り輝く宇宙の主宰者と呼ばせてから事情が変わった。
もちろん当人も家臣どもも、始皇帝が宇宙の主宰者だとは思っていなかったが、始皇帝が思わせたがったのについて、その心理不安を思うべきである。『史記』がほのめかしているように始皇帝は秦王の子でも孫でも曽孫でもなく呂不韋の子で、幼少期は悲惨な人質生活を送った。
「宇宙の王者」を名乗れば、誰も逆らわないかな、と思ったわけだが、慶應の塾歌に「立てんかな」と意志を歌うのとは違い、「かな」は勝手な期待だから裏切られると当人も知っていた。だからより一層強い統制をビシバシやったが、𠂊ス刂と同じですぐに効かなくなる。
だからより一層、と同様のルートをたどって、始皇帝晩年には人前に出るのもいやがった。
盧生說始皇曰:「…願上所居宮毋令人知,然後不死之藥殆可得也。」。於是始皇曰:「吾慕真人,自謂『真人』,不稱『朕』。」乃令咸陽之旁二百里內宮觀二百七十復道甬道相連,帷帳鐘鼓美人充之,各案署不移徙。行所幸,有言其處者,罪死。
帝大理学教授の盧という男が始皇帝に言上した。
「陛下がどこにおわすか人に知られないようにしないと、仙人は来たがらず不死の薬を差し上げもしないでしょう。」
真に受けた始皇帝「あああああああ、仙人さまっ! それなら今後ワシは真人(仙人が来たがる純真な人間)と名乗り、自分を偉そうに朕と言うのをやめよう。」
というわけで帝都咸陽の宮殿から50km以内の建物270棟には全て、互いを行き来する屋根付きの道を作り、カーテンで仕切って鐘や太鼓を備え、美女を待機させた。美女とお付きは移動を禁止された。始皇帝の行く先を口に出した者は、首を刎ねられた。(『史記』秦始皇本紀)
裸一貫で叩き上げた世の成功者が、書画骨董に凝るなどたいていは詐欺師の餌食になるように、幼少期の恐怖体験は生涯剝がれるものではなく、成功したからこそ不安の拠って来る所を考えようとはしない。成功によってゴマすりばかりがまわりにいるからで、つまり腑抜ける。
始皇帝もその一例に過ぎず、アホな家臣よりはまともだったがさて名君と言えるかどうか。前漢武帝がおそらく常人未満の知能しかなく、自分以下と見なした者しか使えなかったのに対し(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)、始皇帝はたまたま家臣に恵まれたに過ぎない。
司馬遷は漢帝室に正統性を持たせるため、あえて始皇帝を名君として描き、漢は秦を引き継ぐ天命の帝国であるかのような演出をした。その分家臣は割を食って、アホウと悪党と乱暴者しかいなかったような書き方をされている。だがそれでは他の六国を滅ぼすことなど不可能だ。
例えば始皇帝の曾祖父、昭襄王から秦王時代の始皇帝に仕えた蔡沢は、若い頃素寒貧の浪人に過ぎなかったが、当時秦で権勢を誇っていた宰相の范雎に、「さっさと辞めないと命が危ないよ」と言って脅し、「きれいに辞められるように手伝って上げましょう」と恩を売った。
蔡沢の計略はみごとに当たって、范雎は天寿を全うし*、蔡沢は代わりに宰相になった。だが数ヶ月で辞め、その後は政界に隠然たる勢力を保ちながら悪だくみを続けたらしい。ここまでのオトナになれば、ガキから成長しない始皇帝をあやしながら仕えるのは簡単だったろう。
だが秦末を最後に、こうしたオトナの家臣は絶えた。帝政開始が画期であるゆえんである。
*范雎が「王稽に連座して処刑されたと推測される」とwikiはいう。だが元データの「睡虎地秦簡」編年紀52壹には「【五十二年】,王稽、張祿死。」としか書いていない。王稽が死罪になったのは『史記』にも見えるが、同年に死んだのを連座とまで言えるかどうか。
廿三年,興,攻荊,□□守陽□死。四月,昌文君死。(『睡虎地秦簡』編年紀30貳)
孝文王元年,立即死。(編年紀4貳)
莊王三年,莊王死。(編年紀7貳)
昌文君や孝文王や荘襄王が刑死したとでも? 漢文業者の話は、真に受けない方がいい。
なお中華皇帝は南北朝あたりから、お付きの女官や宦官に、大きなウチワを持たせて扇がせる画像で描かれる。貴人をウチワでお付きが扇ぐのは、中村元『ブッダ真理のことば・感興のことば』にも見えるが、暑いインドなら扇ぐに十分な理由がある。虫除けにもなる。
だが中国ではどうだろう。古代文明が崩壊し技術が失われ、玉座周辺といえども不潔になったのかも知れないが、様子が史実ならむしろ威儀のためだっただろう。だが訳者には、「皇帝なんぞしょせん家臣に煽られているだけだ」とせせら笑っているように見えて仕方が無い。
コメント
はじめまして。渋沢栄一先生の『論語と算盤』の『処世と信条』の章でこの「入公門、鞠躬如也、如不容。立不中門、行不履閾。過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也、屛氣似不息者。出降一等、逞顏色怡怡如也。沒階趨進、翼如也。復其位、踧踖如也。」が引用されており、その意味を知るために検索していて辿り着きました。とても分かりやすい解説です。感銘を受けております。ぜひ、本ブログを当方のnoteブログにて引用させて頂ければと存じます。ご了承をお願い申し上げます。
引用して頂けるとは名誉です。宜しくお願い致します。