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論語詳解248郷党篇第十(14)君食を賜はば*

論語郷党篇(14)要約:後世の創作。殿様から下賜品があった場合、穀物のご飯、生肉、生きた家畜それぞれで扱いを変えました。殿様と陪食する際は、殿様がお供えするまで待ちました、などの礼儀作法。通説の訓読には疑問があります。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

君賜食必正席先甞之君賜腥必孰而薦之君賜生必畜之侍食於君君祭先飯疾君視之東首加朝服扡紳君命召不俟駕行矣

校訂

東洋文庫蔵清家本

君賜食必正席先甞之/君賜腥必熟而薦之/君賜生必畜之侍食扵君〻祭先飯/疾君視之東首加朝服拖紳/君命召不俟駕行矣

※武内本は「甞之」を「甞」とする。参照したのが京大本と思われる。

慶大蔵論語疏

君賜食必正席先甞1之/君賜腥必熟而〔广卌彐〕2之。君賜生必畜之/侍食扵3君/君祭先飯/4/東首/加朝服地5(拖)6紳/君命𠮦7/不俟駕行〔厶土八〕8

  1. 「嘗」の異体字。『広韻』(北宋)所収。
  2. 「薦」の略字。
  3. 「於」の異体字。「唐王段墓誌銘」刻。
  4. 現伝経「疾君視之」を書き漏らし。疏は記す。
  5. 疏も「地」と記す。
  6. 傍記。
  7. 「召」の異体字。「元顯墓誌銘」(北魏)・「東魏居士廉富義道俗造天宮壇廟記」刻。『干禄字書』(唐)所収。
  8. 「矣」の異体字。「帝堯碑」(後漢)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[畜之]。待食於君,君祭,先飯。[疾,君視之,東首,加朝服,拖申a]。255命召,不俟駕行矣。256

  1. 拖申、今本作”拖紳”。『釋文』云”扡、本或作拖、唐石経作’扡’、皇、邢、正平皆作’拖’”。申與紳、申仮為紳。此章有的今本為両章。

標点文

君賜食、必正席先嘗之。君賜腥、必熟而薦之。君賜生、必畜之。侍食於君、君祭先飯。疾、君視之、東首加朝服、拖申。君命召、不俟駕行矣。

復元白文(論語時代での表記)

君 金文賜 金文食 金文 必 金文正 金文席 金文先 金文嘗 金文之 金文 君 金文賜 金文 必 金文孰 金文而 金文薦 金文之 金文 君 金文賜 金文生 金文 必 金文畜 金文之 金文 侍 金文食 金文於 金文君 金文 君 金文祭 金文先 金文飯 金文 疾 金文 君 金文視 金文之 金文 東 金文首 金文 加 金文朝 金文 服 金文拕 甲骨文申 金文 君 金文命 金文召 金文 不 金文駕 玉石文行 金文矣 金文

※拖→(甲骨文)。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「席」「薦」「加」「服」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

きみじきたまはば、かならむしろただすがこれそなふるにさきだつ。きみなまぐさたまはば、かならこれすすむ。きみいけるをたまはば、かならこれふ。きみはべりてくらはば、きみまつるがくらふにさきだつ。やまひあるに、きみこれば、くびひがししておほやけころもくはへ、おびく。きみめしおきてば、くるましてなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

漢儒
殿様が穀物めしを下さった時は、(自宅で)必ず(祭壇前の)座席を整えるのを先にし、(そこに座って)供える。殿様が生肉を下さった時は、必ずよく煮て(祖先の霊に)供える。殿様が生きた家畜を下さった時は、必ず飼い育てた。殿様に陪席して食べる時は、殿様が供えるのを先にし、(終わってから)食べる。病気になった際、殿様(の使者)が見舞う時は、頭を東に向けて官服を(布団の上に)載せ、帯を引き伸ばして置く。殿様が呼び出しを命じた時は、馬車の用意を待たずに出向いてしまった。

意訳

論語 弟子 孔子 人形

弟子「先生! 殿様から食べ物のお届けです。」
孔子「すぐに座席を整えなさい。ご先祖さまにお供えしよう。」
弟子「先生! 殿様から生肉のお届けです。」
孔子「すぐに煮て、ご先祖さまにお供えしよう。」
弟子「先生! あのう…殿様から…」ヒツジ「メェェェ。」
孔子「…大事に飼おう。」

殿様の宴会。
殿「祖先天地の神にお供え申す。かしこみかしこみ…。」
孔子(じっと待つ)
殿「まほ~すぅ~。」
孔子「では、いただきます。」

孔子、病気中。
弟子「先生、殿様がお見舞いに…。」
孔子「ゴホゴホ。枕を東にしてくれ。それと布団の上に礼服を掛けよ。帯もちゃんと伸ばして添えなさい。」

自宅にて。
弟子「先生! 殿様がお呼びです。」
孔子「あいわかった。いそいそ」
弟子「先生! 車が…まだ用意が…。」
孔子「後から追いついてこい。」

従来訳

下村湖人

君公から料理を賜わると、必ず席を正し、先ず自らそれをいただかれ、あとを家人にわけられる。君公から生肉を賜わると、それを調理して、先ず先祖の霊に供えられる。君公から生きた動物を賜わると、必ずそれを飼っておかれる。君公に陪食を仰せつかると、君公が食前の祭をされている間に、必ず毒味をされる。病気の時、君公の見舞をうけると、東を枕にし、寝具に礼服をかけ、その上に束帯をおかれる。君公のお召しがあると、車馬の用意をまたないでお出かけになる。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

君主賜的食物,孔子一定要擺正先嘗;君主賜的鮮肉,一定要煮熟供奉祖先;君主賜的活物,一定要養起來。陪君主吃飯,君主祭祀時,自己先嘗。孔子生病,君主來探問,孔子面朝東迎接,蓋著朝服,拖著帶子。君主召見時,不等車備好,自己就步行而去。

中国哲学書電子化計画

君主が賜った食べ物は、孔子は何があっても必ず正しく並べてから先に口にした。君主が賜った生肉は、何があっても必ずよく煮て祖先に具えた。君主が賜った生き物は、何があっても必ず飼い育てた。君主のお供で食事するときは、君主が供え物をしている閒に、自分が先に口にした。孔子が病気になり、君主が見舞いに来ると、孔子は東向きになって出迎え、正装を上に懸け、帯を伸ばした。君主が呼んだ時、車の準備を待たず、すぐに自分で歩いて向かった。

論語:語釈

君(クン)

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

論語の本章では”主君”。春秋諸侯国の国公。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

賜(シ)

賜 金文 賜 字解
「賜」(金文)

論語の本章では”下賜する”。君主が臣下にものを与えること。現行字体の初出は西周末期の金文。字形は「貝」+「鳥」で、「貝」は宝物、「鳥」は「易」の変形。「易」は甲骨文から、”あたえる”を意味した。戦国早期の金文では人名に用い、越王家の姓氏名だったという。詳細は論語語釈「易」を参照。

食(ショク)

食 甲骨文 食 字解
(甲骨文)

論語の本章では”食事”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「シュウ」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。

必(ヒツ)

必 甲骨文 必 字解
(甲骨文)

論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。

正(セイ)

正 甲骨文 正 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正す”。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。

席(セキ)

席 金文 席 字解
(金文)

論語の本章では”座席”この語義は明瞭には、春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。一説に甲骨文とするが、字形が「因」で”しきもの”の意。初出の字形は「厂」”屋根”+「巾」布の敷物”。座布団の意。「廿」が加わったのは戦国文字からで、「廿」”にじゅう”ではなく「𠙵」”くち→ひと”の意。座布団に人が座ったさま。春秋時代以前では、身の回りのしつらえであろうと想像できるのが一例あるのみで、実は”座布団”・”座席”だったかどうか定かでない。詳細は論語語釈「席」を参照。

先(セン)

先 甲骨文 先 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”先に行う”。初出は甲骨文。字形は「止」”ゆく”+「人」で、人が進む先。甲骨文では「後」と対を為して”過去”を意味し、また国名に用いた。春秋時代までの金文では、加えて”先行する”を意味した。詳細は論語語釈「先」を参照。

嘗(ショウ)

嘗 金文 嘗 字解
(金文)

論語の本章では”食べる”。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「甞」と記す。『広韻』(北宋)所収。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

必正席先嘗之

論語の本章では、”必ず座席を整頓してから、下賜品のめしを神棚に捧げた”。

「嘗」の動詞としての語釈は、”食べる”と”神霊精霊に供える”。後者は秋のいわゆる新嘗祭に限定されると解するのが通説だが、下掲古注は”供える”と解している。論語の本章が前後の漢帝国で創作され加筆された事情を考えると、この語釈に従うのが適切と判断する。

「先」は”先立つ”という動詞。「正席」が「嘗之」に「先だつ」というSVO。

「必ず席を正してず之をくらう」と訓読するのが通説だが、”必ず座席を整頓して、先に下賜品のめしを食う”としか訳せないが、一体何を言っているのか分からない。デタラメな訓み下しと言うべきだ。

あるいは本章の「必孰而薦之」と比較してもよい。「必孰」は「而」という”…を伴って”の語で「薦之」と繋がるから、「必ずこれを薦む」と読める。「先」でつながれた場合は、”…に先立つ”と解するべきだろう。

腥(セイ)

腥 篆書 腥 字解
(篆書)

論語の本章では”生肉”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。それ以前、戦国最末期の竹簡で「星」を「腥」と釈文した例はある。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「月」”にく”+音符「星」。「星」の近音に「生」があり、全体で”なまにく”の意。同音は「星」「醒」「猩」。文献上の初出は論語の本章。『列子』『荀子』『韓非子』にも用例がある。詳細は論語語釈「腥」を参照。

熟*(シュク)→孰(シュク)

熟 隷書 熟 字解
(後漢隷書)

論語の本章では”煮る”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の隷書。字形は「孰」”煮る”+「灬」”火”。鍋を火に掛けて煮るさま。同音に「孰」。「ジュク」は呉音。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『荘子』『韓非子』にも用例がある。論語時代の置換候補は部品で同音の「孰」。詳細は論語語釈「熟」を参照。

孰 金文 孰 字解
(金文)

定州竹簡論語では「孰」と記す。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

薦*(セン)

薦 金文 不明 字解
(金文)

論語の本章では”お供えする”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。字形は「廌」”けもの”+「茻」”草むら”。原義は明瞭でない。春秋末期の字形は「廌」を盛る器の形だが、西周の字形とも現行の字形とも全く違う。春秋末期には、西周と同じ字形が石鼓文に見える。ただし断片で語義は分からない。戦国文字は「茻」→「艹」のほかは、西周の字形を引き継いでいる。同音は無い。春秋末期までの用例は全て青銅器の種類で、語義は明らかでない。戦国の竹簡から、”食べるよう促す”と解せる。詳細は論語語釈「薦」を参照。

慶大蔵論語疏は略字「〔广卌彐〕」と記す。未詳。

生(セイ)

生 甲骨文 生 字解
(甲骨文)

論語の本章では”生きた家畜”。初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

畜*(チク)

畜 甲骨文 畜 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飼い養う”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は家畜の首から提げ、所有者を示す札の象形。野獣ではない家畜の意。春秋末期までに、”飼う”・”孝行者”・”人材を集める”の意に用いた。詳細は論語語釈「畜」を参照。

侍(シ)

論語 侍 金文 侍 字解
(金文)

論語の本章では(貴人の)”近くに待機する”。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𢓊」。現行字形の初出は秦系戦国文字。原義は”はべる”。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。春秋末期までに、”はべる”・”列席する”の意に用いた。詳細は論語語釈「侍」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。「唐王段墓誌銘」刻。

祭(セイ)

祭 金文 祭 字解
(金文)

論語の本章では神霊精霊に”供え物をする”。漢文では宗教行為としての”祭祀”の意で、「チンチンドコドン」の”お祭り”ではない。祈願にせよ定期的な供養にせよ、中国の霊魂は供え物という具体的なブツがないと言うことを聞かないと思われていたし、不足を感じれば祟ったりした。字形は〔示〕”祭壇”の上に〔月〕”供え物の肉”を〔又〕”手”で載せるさま。「サイ」は呉音。甲骨文から春秋末期の金文まで、一貫して”祖先の祭祀”の意に用いた。中国では祖先へのお供え物として生肉などが好まれた。そのような祖先への供物を「血食」という。詳細は論語語釈「祭」を参照。

飯(ハン)

飯 金文 飯 字解
(金文)

論語の本章では”十分なめし”→”十分に食う”。初出は春秋末期の金文。字形は「食」+「反」。「反」は字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。ここでは音符で、同音に「蕃」、近音に「繁」があるように、”さかんな”・”たっぷりとした”の語意があるらしい。全体として、”十分な食事”。春秋末期の金文に、”十分なめしを捧げる”の用例がある。詳細は論語語釈「飯」を参照。

君祭先飯

論語の本章では、”主君の祭祀が終わってから食べた”。「必正席先嘗之」と同様、「先」は”先立つ”という動詞で、主語は「君祭」。通説のように「君祭ればず飯う」と読み下すと、本文に書いていない”主君が食べる前に”を補わねばならず、”毒味のためである”という余計な解釈をつけ加えるはめになる。主君がお供えの所作をしている間は、じっと食べるのを待つ、と解せば理屈が単純になる。

疾(シツ)

疾 甲骨文 論語 疾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”病気になる”。疫病のたぐい。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。

視(シ)

視 甲骨文 視 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”見舞う”。新字体は「視」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は大きく目を見開いた人で、原義は”よく見る”。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文では”視察する”の意に、金文では”見る”の意に用いられた(𣄰尊・西周早期)。また地名や人名にも用いられた。詳細は論語語釈「視」を参照。

東*(トウ)

東 甲骨文 東 字解
(甲骨文)

論語の本章では方角の”ひがし”。初出は甲骨文。字形は「木」+「日」。太陽が木の幹の高さまで昇ったさま。甲骨文から春秋時代に至るまで、”ひがし”の意に用いた。詳細は論語語釈「東」を参照。

首*(シュウ)

首 甲骨文 首 字解
(甲骨文)

論語の本章では”頭を向ける”。初出は甲骨文。字形は動物の頭+つの、または毛髪。くびの象形。「シュ」は呉音。甲骨文から春秋に至るまで、”あたま”の意に用いた。詳細は論語語釈「首」を参照。

加(カ)

加 金文 加 字解
(金文)

論語の本章では”付け加える”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。

朝(チョウ)

朝 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”朝廷の”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。

服(フク)

服 甲骨文 敏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”衣類”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。

拖*(タ)

拕 甲骨文 拖 字解
(甲骨文)

論語の本章では”引き伸ばして置く”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「又」”手”+「它」”へび”。へびのように長く引き延ばすさまか。西周~戦国文字の用例が無く、一旦滅びた漢語である可能性がある。再出は前漢の隷書で、へんが「扌」になり現行字形と同じ。文献上の初出は論語の本章で、異体字「扡」が『墨子』に見える。詳細は論語語釈「拖」を参照。

地 玉石文 地 字解
(玉石文)

慶大蔵論語疏は「地」と記す。疏も同様なので誤字の可能性は低い。”敷く”の意と思われるが『大漢和辞典』にもその語釈は無い。定州竹簡論語は「拖」としているので校訂しなかった。

字の確実な初出は春秋末期の玉石文。ただし字形は「䧘」。春秋末期までの字形は「阝」”はしご”+「彖」”虫”で、虫が這い上がってくる地面を指すか。詳細は論語語釈「地」を参照。

紳*(シン)→申(シン)

紳 楚系戦国文字 紳 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”おび。事実上の初出は楚系戦国文字。字形は「糸」+「𠙵」”くち”x2+「乙」”糸”+「又」”手”。つくりはのちに「申」”いなずま”へと収斂進化するが、いなずまとは関係が無く、人手をかけて織り上げること。戦国文字で”おび”の意に用いた。論語時代の置換候補は同音同調の「呻」。詳細は論語語釈「紳」を参照。

申 甲骨文 論語 申
「申」(甲骨文)

定州竹簡論語では部品の申と記す。初出は甲骨文。金文までは「神」と書き分けられていない。字形は稲妻の象形。甲骨文では十二支の八番目に用いられ、金文では加えて”神”、”亡霊”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「申」を参照。

命(メイ)

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

論語の本章では”命令する”。論語の時代、「命」は「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。詳細は論語語釈「命」を参照。

召(ショウ)

召 甲骨文 召 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(目下の者の)呼び出し”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”容器”+「刀」。甲骨文の字形には、刀が三本、下に受け皿があるものが見える。缶切りのように、刃物で食品や酒などの密閉容器を開けるさま。原義は”開けて口にする”。容器から取り出した食品や飲料を口に”召す”こと。春秋末期までに、地名または氏族名に、”呼ぶ”・”あきらか”・”みことのり”の意に用いた。詳細は論語語釈「召」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「𠮦」と記す。「東魏居士廉富義道俗造天宮壇廟記」刻。『干禄字書』(唐)所収。

徴兵は神聖不可侵の天皇が目下の臣民を呼び出して兵隊にする制度だったから、呼び出しを「召集」という。現在の日本国会は主権を持つ国民の代表を招き申して国政を議論して頂く場だから、「招集」という。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

俟*(シ)

俟 隷書 俟 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”待つ”。初出は戦国の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「亻」+「矣」”去る”。立ち去る者に人が付き従うさま。同音に「士」「仕」「戺」”戸軸を持つ木”、「涘」”水際”、「事」。文献上の初出は論語の本章。『墨子』『孟子』『列子』にも用例がある。戦国の竹簡では、”へつらう”の意に用いた。詳細は論語語釈「俟」を参照。

駕*(カ)

駕 玉石文 駕 字解
(玉石文)

論語の本章では”馬車”。論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の玉石文または石鼓文。字形は「馬」+「又」”手”+「𠙵」”くち→人”。人が馬を操るさま。「ガ」は慣用音。呉音は「ケ」。玉石文・石鼓文は断片で文字列が不明。戦国の竹簡では”馬車”の意に用いた。詳細は論語語釈「駕」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…してしまう”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

矣 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔厶土八〕」と記す。「帝堯碑」(後漢)刻。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれるが、先秦両漢の引用がはなはだ少ない。全てを検索しきれないが、前後の漢帝国で偽作され成立時期が不詳の礼書類を除けば、後漢初期の王充『論衡』に「侍食於君,君使之祭,然後飲食之。」とあり、やはり後漢初期の『漢書』龔勝伝に「東首加朝服癴紳。」とある。「君命召,不俟駕。」は『孟子』公孫丑下に見える。

つまり論語の本章は伝承や創作のつぎはぎで、文字史から見ても漢儒による創作と考えてよい。

解説

論語の本章は主語が無い。これは郷党篇6の「君子」をずっと引きずっていると見るべきで、郷党篇12「康子薬をおくる」郷党篇13「うまや焼けたり」が後代になってから挿入されたことを物語る。次章の「太廟に入らば」も、八佾篇と違い主語が記されていない。

次々章の「朋友死して」は孔子が主語でないと話が通じないが、そのさらに次章の「寝るにしせず」からは、再度「君子」の主語を引きずっていると解せる。その次の章「車にのぼらば」もそうで、最終章の「色見て」は明らかに後世の付け足し。

要するにこの論語郷党篇は、前漢から後漢にかけ、雑な切り貼りで作られたのだ。

郷党篇 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19
主語

論語の本章、新古の注は次の通り。古注は本章を三分割している。

古注『論語集解義疏』

君賜食必正席先嘗之註孔安國曰敬君惠也既嘗之乃以班賜也君賜腥必熟而薦之註孔安國曰薦薦其先祖也君賜生必畜之侍食於君君祭先飯註鄭𤣥曰於君祭則先飯矣若為先嘗食然也

疾君視之東首加朝服拖紳註苞氏曰夫子疾也處南牖之下東首加其朝服拖紳紳大帶也不敢不衣朝服見君也

君命召不俟駕行矣註鄭𤣥曰急趨君命也出行而車既駕隨之


本文「君賜食必正席先嘗之」。
注釈。孔安国「主君のお恵みを貴んだのである。お供えが終わったら、家臣に分配したのである。」

本文「君賜腥必熟而薦之」。
注釈。孔安国「薦とは祖先の霊に勧めることである。」

本文「君賜生必畜之侍食於君君祭先飯」。
注釈。鄭玄「主君の執り行う祭祀では先に食事に手を付けたのである。先に手を付けたなら、その食事がおかしくないと分かるのである。」

本文「疾君視之東首加朝服拖紳」。
注釈。包咸「先生は病気になると南向きの窓の側で横になり、東に頭を向け、布団の上に官服とおびを載せた。紳とは正装用の大帯である。わざわざ官服を身につけないで主君(の使者)の見舞いを受けるようなことはしなかったのである。

本文「君命召不俟駕行矣」。
注釈。鄭玄「主君の呼び出しには駆け出すように急いだのである。先に徒歩で向かい、その間に車に馬をつないであとから追ったのである。

「嘗」は動詞としては”食べる”・”供え物をする”の語釈があるが、古注では後者と解さないと解釈出来ない。

新注『論語集注』

君賜食,必正席先嘗之;君賜腥,必熟而薦之;君賜生,必畜之。食恐或餕餘,故不以薦。正席先嘗,如對君也。言先嘗,則餘當以頒賜矣。腥,生肉。熟而薦之祖考,榮君賜也。畜之者,仁君之惠,無故不敢殺也。侍食於君,君祭,先飯。飯,扶晚反。周禮,「王日一舉,膳夫授祭,品嘗食,王乃食」。故侍食者,君祭,則己不祭而先飯。若為君嘗食然,不敢當客禮也。疾,君視之,東首,加朝服,拖紳。首,去聲。拖,徒我反。東首,以受生氣也。病臥不能著衣束帶,又不可以褻服見君,故加朝服於身,又引大帶於上也。君命召,不俟駕行矣。急趨君命,行出而駕車隨之。此一節,記孔子事君之禮。


本文「君賜食,必正席先嘗之;君賜腥,必熟而薦之;君賜生,必畜之。」
ここでの食とはおそらく主君の食べ余りであり、だから供え物にはしなかった。自宅で供える前に座席を直すのは、主君に向かい合うのと同じにするためである。「先嘗」”先に供える”とは、つまり主君が供えたものは、そのお下がりを臣下に分け与えたからである。腥とは生肉である。よく煮て先祖の霊にすすめるのは、主君から頂いた栄誉を分かち合うためである。畜之とは、情け深い主君の授けもので、理由が無いのにわざわざ殺すようなことはしない。

本文「侍食於君,君祭,先飯。」
飯は扶-晚の反切で読む。『周礼』にいう。「王は一日一度祭祀を行う。台所役がお供えをするよう命じられ、備え終わったら王は食事を始める」と。だから主君の食事に陪席する者は、主君が供え終えたら、自分は供えずさきに食べる。主君のために食事がおかしくないか毒味するようなもので、客の礼儀作法には従わない。

本文「疾,君視之,東首,加朝服,拖紳。」
首は尻下がりに読む。拖は徒-我の反切で読む。東首とは、それによって日の出の生気を浴びるためである。病中は正装できないが、雑な衣裳で主君(の使者)に会うことも不敬で、だから布団の上に官服を置き、大帯もその上に添えるのである。

本文「君命召,不俟駕行矣。」
主君の呼び出しには急いで走り出したのである。そのうしろを馬をつないだ車が追いついた。この一節は、孔子が主君に仕える作法を記す。

余話

かえってやる気をなくす

象徴に実質が伴うなら大いに象徴してよい。問題は両者の乖離にある。

友よ…。

『史記』孔子世家は、孔子に亡命を決意させた理由を、国公の祭祀のお下がりが分与されなかったことにあるとする。これが史実で、かつ論語の本章に付けられた注釈が言うように、分与が官吏にとって慣例だったとするなら、孔子は官吏の象徴を失ったことになる。

お下がりが食えなかった、という食い意地の話ではなくなる。国旗はただの布に過ぎないが、国旗を侮辱するのはその国民を侮辱したと見なされるのと同様の話で、象徴と、それが象徴するものとの間に、人間は深い関係を見出して、失えば亡命さえ決意するのを孔子の例に見る。

同様に栄誉を象徴するのが勲章だが、日本語では同じ「勲章」でも、英語ではmedalとorderは厳密に区別される。medalが出来事の記念章であるのに対して、orderは騎士団のorder”序列”に加わったことを示す標識で、貴族の一員と見なされる。他にdecorationとCrossがある。

decorationは”功労章”、Crossはmedalの上位とwikiはいう。いずれにせよ共和制のアメリカにはorderがない。同じ理由でソ連にも無かったが、人民の平等をうたう社会主義国にも関わらず、ソ連にはやたらと多数の勲章があって、ベタベタと胸に貼り付て嬉しがる人がいた。

©Mil.ru

働いても働かなくても平等なら、誰も働かない理屈で、それでは政府が困るから、個人顕彰は共産圏こそ大流行りだった。ものや施設に個人名をかぶせたりした。戦後の世界で猛威を振るったAK自動小銃は、開発者の名を取った”カラシニコフ突撃銃”の略称である。

日本でも村田銃や有坂銃と呼んだが通称で、公称は年式で呼ぶし、南部式拳銃は将校が自費で買う市販品だった。ともあれソ連で個人顕彰が流行すると、象徴と実質との乖離が起こった。それは最高勲章とされた金星勲章でさえ例外でない。むしろ「だからこそ」と言うべきか。

左:金星勲章/右:槌鎌勲章

金星勲章はmedalと英訳されるし、原語でもメダーリ・ザラターヤ”金の”・スウェズダ”星”だからメダルの一種だが、性格的にorderに近く、ソ連邦英雄に列した者の記章だった。その価値がどれほどかと言えば、ガガーリンですら1個しか貰っていないことで推測できる。

スターリンも1個しか受け取らなかったが、これは出す側だからインフレさせるわけにいかなかったのだろう。二次大戦中にソ連軍を勝利まで率いたジューコフ元帥は、4個貰っているが当然かも知れない*。金星勲章は戦功や、それに類似の献身的功績を讃える記章だった。

同格の称号に経済や文化の功績を讃える社会主義労働英雄があり、金星勲章に似た槌鎌勲章が与えられた。戦後のソ連指導者の胸に、金星勲章がいくつも並んで見える例があるが、金星勲章はたいてい1個だけで、あとは槌鎌勲章である。死んでもスターリンが怖かったからかも。

ところが金星勲章を、戦時中に当局をだまくらかして受賞した者がいたし、共産党の権力ずくで、戦功も無いのに取る者がいた。フルシチョフは戦争中、上級の政治将校のようなものとして口車を回しただけだったが貰い、ブレジネフも政治将校あがりに過ぎないのに貰った。

ついでにソ連邦元帥の階級まで得ている。これは激しい戦場を末端で戦った兵士や、ジューコフ元帥はじめ前線で指揮した軍人にとっては、面白くなかっただろう。結果、差別なき社会で個人の努力を促すはずのメダルが、逆に人民のやる気を失わせる象徴に落ちてしまった。

ブレジネフが心臓外科に入院した。「奴もとうとう心臓がくたばったか。」「いえ、もっと勲章を付けるために胸を広げるのです。」

ブレジネフが勲章を飾り付けて帰省した。母親が言う。
「レーニャ(ブレジネフの愛称)、出世して何よりだよ。でもそんなのぶら下げて、ボリシェビキの連中に見つかったらどうするんだい。」(ソ連の政治小話)

革命当初、人民の平等をうたう共産党は、いわゆる赤軍から階級を廃止した。ロシア式の大仰な肩章とともに、勲章の類が廃止されたのはもちろんである。内戦中は目立つ者を片端から捕らえては処刑した。ブレジネフの母親の恐れには、十分な根拠が伴っていた。

そのソ連邦が崩壊した理由はさまざまあるが、全ては権力ずくのすさまじい差別に行きつく。例えば最高の学歴はモスクワ大学卒だったが、ソ連の末年には党幹部の縁故が無いと入れなかったともいう。日本でも大学院になるとコネやワイロがあるが、学部入試ではそうでもない。

日本の学歴も名前と中身の差が明らかになって、役立たずと見なされつつあるのは結構なことだが、だからといって入試が公平でなくていい理由にはならない。かつて貿易摩擦でアメリカは、日本社会をアンフェアだと非難した。その通りで、不正が隠されていただけだった。

それから数十年、日本社会のコネ化は、ますます進んでいるように感じる。その程度は「感じる」とのんきな評論で済まされないほどで、ITのおかげで何でも暴露されるように見えて、実は特権の隠し方が巧妙になっただけだったりする。今や誰が特権階級かも分からない。

日本でも象徴に実質が伴うなら大いに象徴してよい。問題は両者の乖離にある。

人界は不正に出来ている。それを歎かず目もつぶらず、生きるしかない。何事もステルスの時代になった。孔子がorder=貴族の象徴を失ったことで亡命し、同時代に火災から命がけで国章を守った人々(論語郷党篇13余話「華であるわけがない」)を理解するには想像力が要る。

想像力に裏付けを取るのはよい暇つぶしにもなる。古典を読む余慶というものだ。


*ジューコフは安全な場所で指揮を執ったわけではない。帝政時代に騎兵として従軍し、機関銃弾が飛び交う中を突撃した経験があったから、前線に出て指揮したらしい。ソ連・ロシアの将官は日露戦争の頃から戦死する例が珍しくなく、旅順でのカンダラーチェンカ(コンドラチェンコ)少将が日本では知られる。独ソ戦ではソ連の暴政を嫌ってドイツ側に立つ人々も少なからずおり、前線司令官には後ろから飛んでくる弾もあった。キエフを解放しドイツ軍を包囲殲滅したワツーチン上級大将は、反ソパルチザンに狙撃されて戦死している。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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