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論語詳解245郷党篇第十(10)郷人の飲酒には*

論語郷党篇(10)要約:後世の創作。ふるさとに帰った孔子先生は、時々の祭礼にも参加します。祭礼では老人が村人から長寿を祝われますが、聖人の孔子先生は身分が高くても威張らずに、順番を年長者に譲りました、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

郷人飲酒杖者出斯出矣郷人儺朝服而立於阼階

校訂

東洋文庫蔵清家本

郷人飲酒杖者出斯出矣/郷人儺朝服而立於阼階

慶大蔵論語疏

〔歹即〕1人〔食攵〕2〔氵一丷目〕3杖者出斯出斯(〻)4出(〻)4矣/〔歹即〕1人儺/朝服而立扵5〔阝𠂉卜一〕6

  1. 「鄕」の異体字。「北魏元欽墓誌銘」刻字近似。
  2. おそらく「飮」の異体字。未詳。
  3. 「酒」の異体字。「唐霍漢墓誌銘」刻。
  4. 傍記。
  5. 「於」の異体字。「唐王段墓誌銘」刻。
  6. 「阼」の異体字。〔𠂉卜一〕部は「唐申恭墓誌」刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……坐。鄉人飲酒,杖者253……

標点文

郷人飮酒、杖者出斯出斯出矣。郷人儺、朝服而立於阼階。

復元白文(論語時代での表記)

郷 金文人 金文飲 金文 酒 金文 者 金文出 金文 斯 金文出 金文斯 金文出 金文矣 金文 郷 金文人 金文朝 金文 服 金文而 金文立 金文於 金文階 金文

※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

郷人さとびと飮酒さかもりに、つえものでてここでなば、ここづるなり郷人さとびとおにやらいすれば、おほやけころもききざはしふみつ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

漢儒
ふるさとの村人の酒盛りに、杖をついた者が(長寿の祝賀を受けるために)現れ、その(宴席の)場から退いたら、(自分も)その(宴席の)場を退いた。村人が鬼やらいをする時は、正装して玄関前の階段の途中に立って見守った。

意訳

同上

従来訳

下村湖人

村人と酒宴をされる時でも、老人が退席してからでないと退席されない。村人が鬼やらいに来ると、礼服をつけ、玄関に立ってそれをむかえられる。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

鄉親們的飲酒儀式結束時,要等老人出去後,才能出去。鄉親們舉行驅鬼儀式時,要穿朝服站在東邊的臺階上。

中国哲学書電子化計画

故郷の村の衆と酒宴の儀礼を執り行うとき、老人が席を立って宴会場を出てから、やっと自分も宴会場を出ることができた。村の衆が鬼遣らいを行うときには、必ず正装して東の階段に立った。

論語:語釈

鄕(キョウ)

卿 甲骨文 郷 字解
(甲骨文)

論語の本章では”故郷”。初出は甲骨文。新字体は「郷」、「鄕」は異体字。周初は「卿」と書き分けられなかった。中国・台湾・香港では、新字体に一画多い「鄉」がコード上の正字とされる。定州竹簡論語も「鄉」と釈文している。唐石経・清家本は新字体と同じく「郷」と記す。「ゴウ」は慣用音、「コウ」は呉音。字形は山盛りの食事を盛った器に相対する人で、原義は”宴会”。甲骨文では”宴会”・”方角”を意味し、金文では”宴会”(曾伯陭壺・春秋早期)、”方角”(善夫山鼎・西周末期)に用い、また郷里・貴族の地位の一つ・城壁都市を意味した。詳細は論語語釈「郷」を参照。

鄕 郷 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔歹即〕」と記す。「北魏元欽墓誌銘」刻字近似。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

飮(イン)

飲 甲骨文 飲 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飲む”。初出は甲骨文。新字体は「飲」。初出は甲骨文。字形は「酉」”さかがめ”+「人」で、人が酒を飲むさま。原義は”飲む”。甲骨文から戦国の竹簡に至るまで、原義で用いられた。詳細は論語語釈「飲」を参照。

慶大蔵論語疏はおそらく異体字「〔食攵〕」と記す。未詳。

酒(シュウ)

酒 甲骨文 酒 字解
(甲骨文)

論語の本章では”酒”。春秋時代では甘くて色の濁った濁り酒「レイ」に対し、それを布袋で”チュウ”と絞り、漉して作った清酒を指す。「シュ」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、現行字体と同じ「水」+「酉」”酒壺”のものと、人が「酉」を間に向かい合っているものがある(上掲)。原義は”さけ”。甲骨文では原義のほか、地名に用いた。金文では原義のほか、十二支の十番目に用いられた。さらに氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「酒」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「〔氵一丷目〕」と記す。「唐霍漢墓誌銘」刻。

鄕人飲酒

『学研漢和大字典』によると、周代、郷校(村の学校)で三年間学んだ者から優秀な者を選び、中央政府に推薦するとき、郷大夫(キョウタイフ)(村長)が主人となって開く送別の宴会をいう。郷飲酒礼。

ただし郷校の存在は確認されておらず、村の寄り合い所としての「校」が『左伝』で確認出来るだけで、漢代のでっち上げ。そのもったいぶった細かな作法が、『礼記』郷飲酒儀に載っている。

杖*(チョウ)

杖 楚系戦国文字 杖 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”つえ”。初出は戦国中末期の楚系戦国文字。ただし「丈」と未分離。現行字形の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は「十」”道具”+「又」”手”で、道具を手にしたさま。おそらく杖を突くさまだが、「十」は物差しでもありえ、「丈」に”長さ”の語義が加わると、「木」を加えて分化した。「ジョウ」は呉音。戦国の竹簡から、”つえ”の意に用いた。詳細は論語語釈「杖」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

出(シュツ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(上座に)出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

通説では”宴会から退席する”と解するが、論語の本章を偽作したのと同じ漢代の古注を読むと、”祝いの言葉を受けるために前に出る”と解せる。詳細は下掲解説にて。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では「ここ」と読み、”そういう場面になったら”の意。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…してしまう”→”やっと…し終える”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

儺*(ダ)

儺 篆書 儺 字解

論語の本章では”鬼やらい”。現代日本では節分の豆まきにその名残を留める。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「亻」+「難」”生け贄を火あぶりにする”。疫病神の人形を焼いて鬼やらいするさま。同音は「那」”多い・美しい”、「臡」”肉の叩き”。「ナ」は呉音。文献上の初出は論語の本章で、戦国最末期の『呂氏春秋』、前漢中期の『淮南子』にも見えるが、『詩経』の用例はいつ作られたかわからない。詳細は論語語釈「儺」を参照。

また『論語之研究』によると、「儺」は斉の方言で、鄭玄の注によると魯論語では「獻」(献)と書き、孔子宅から発掘された古論語では「獻」と書いてあったのだろうと推測している(p.92)。ただし斉論語・古論語・魯論語そのものが、後漢初期の『論衡』が言い出した根拠の無い話で、信じるに値しない。

朝(チョウ)

朝 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”朝廷の”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。

服(フク)

服 甲骨文 敏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”衣類”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「凡」”たらい”+「卩」”跪いた人”+「又」”手”で、捕虜を斬首するさま。原義は”屈服させる”。甲骨文では地名に用い、金文では”飲む”・”従う”・”職務”の用例がある。詳細は論語語釈「服」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”立つ”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。「唐王段墓誌銘」刻。

阼*(ソ)

阼 金文 阼 字解
(戦国金文)

論語の本章では”主だった階段”。論語では本章のみに登場。初出は戦国中期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は「阝」”はしご”+「乍」”切って作る”+「土」。字面から上向けに立てかけたはしごの意。「土」が取れた現行字形は前漢の隷書から。同音は「祚」”さいわい”、「胙」”ひもろぎ”。初出は人名の一部。事実上の初出は論語の本章。戦国最末期の『呂氏春秋』にも見える。詳細は論語語釈「阼」を参照。

乍 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔阝𠂉卜一〕」と記す。〔𠂉卜一〕部は上掲「唐申恭墓誌」刻。

『学研漢和大字典』阼条に語釈の一つとして「玉座にのぼる階段。転じて、天子の位。《同義語》⇒祚」とあり、『字通』に「主人が堂に升るときの東の階段。賓は西の階段より升る。天子即位のとき、この阼階より升るので、践阼という」とある。ゆえに「践祚」が”帝位に就く”の意なのだが、このもったいのついた語義は戦国最末期にならないと現れず、それより前に確認できるのは”階段”の意のみ。

世之為丘壟也,其高大若山,其樹之若林,其設闕庭、為宮室、造賓也若都邑,以此觀世示富則可矣,以此為死則不可也。夫死,其視萬歲猶一瞚也。人之壽,久之不過百,中壽不過六十。以百與六十為無窮者之慮,其情必不相當矣。以無窮為死者之慮則得之矣。


世の成金は、庭に築山を作ると山のようなのを作り、木を植えると林のように作る。庭園を造り、屋敷座敷を作り、客を迎える階段やあるじの階段を作るさまは、まるで都市を一つ造るようである。そうやって世間に金を見せびらかしているのだが、どうやっても死は免れない。どうせ死んでしまうことを思えば、万年生きようと一瞬と変わらない。人間の寿命は、長くて百歳、そこそこ長生きしても六十を超えない。その差の四十年を生き延びようとジタバタするが、そんな事をしても何の効き目もない。死ぬのだと悟ることだけが、この世の正解というものだ。(『呂氏春秋』安死)

こう書いた『呂氏春秋』ですら、ただ”客を迎えた家のあるじの通る階段”の意で用いており、帝位うんぬんは書いていない。のちの始皇帝相手に、「ジタバタする」などと書けばどんな目に遭っただろうか。君主の話ではないから秦王も見逃したのである。

また主人が東、客が西の階段と言い出したのは、いつできたやら分からない『儀礼』の、それも後世になってからの注釈が最初で、本章を偽作した漢儒の心象風景としては、東西の区別を付けていたかもしれないが、『儀礼』注の出自が怪しいので、従わなかった。

階(カイ)

階 甲骨文 階 字解
(甲骨文)

論語の本章では”階段の一段”。初出は甲骨文。初出の字形は「阝」”はしご”+「羊」+「几」”三方”。天や祖先に通じるはしごの前に、生け贄を載せた三方を据えて捧げるさま。戦国早期まではこの字形で、前漢からつくりが「皆」”大勢で申し上げる”になった。甲骨文の用例は破損がひどくて文として読めないが、戦国時代から”きざはし”の意に用いた。詳細は論語語釈「階」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に見え、文字史からも前漢儒による創作は確実。論語の本章に見える「郷飲酒礼」が一々堅苦しいお作法で縛られるようになったのは、戦国末期の荀子に始まる。また追儺の記録は、戦国末期の『呂氏春秋』にならないと現れない。

是月也,乃合纍牛騰馬游牝于牧,犧牲駒犢,舉書其數。國人儺,九門磔禳,以畢春氣。(『呂氏春秋』三月紀)

この三月、牛や馬は盛りが付くので、メスのいる牧場へ放つ。子馬と子牛を犠牲に捧げ、その合計を記録する。都市住民は追儺を行い、都城周囲の九つの門に、悪魔を取り憑かせた犬を磔にして、それで春の気を払う。

何だか『狼と香辛料』を思わせる記述だが、これもまた、悪魔払いの儀式は太古の昔からあったと見るべきだろう。だが意外にも、儒者で追儺を論じたのは後漢の『独断』になってからで、前漢では礼法をでっち上げた以外は時に議論はしなかった。

史書でも追儺を扱ったのは『後漢書』が最初で、あまり儒家のかかわる儀礼ではなかったことが分かる。

解説

論語の本章、新古の注は次の通り。古注は前章と一体化しているが、本章部分のみ記す。

古注『論語集解義疏』

鄉人飲酒杖者出斯出矣註孔安國曰杖者老人也鄉人飲酒之禮主於老者老者禮畢出孔子從而後出也


本文「鄉人飲酒杖者出斯出矣」。
注釈。孔安国「杖者とは老人である。村人が酒を飲む祭礼では、老人の長寿を祝うのを目的とする。老人が祝いの言葉を受け終えてから、孔子はその後ろに続いて祝いを受けた。」

訓読にいくつかのやりようがあるのは承知しているが(漢文が読めるようになる方法2022)、訳者の訓では、孔子は老人の退席に続いて退席したのではなく、老人が「おめでとうございます」と村人に長寿を祝って貰ったあとで、孔子も同様に祝われた、と解する。

漢儒の頭の中で孔子は、長いあごひげを垂らした老人だったろうから、孔子もまた長寿を祝われるに値する人物で、しかも世間を絶した聖人でもある。その聖人が、世間的地位を後回しにして、まず年齢に従って礼を受けた、と解釈出来ることになる。

古注の儒者がニセ文書を作ってはバラ撒くとんでもない連中だというのはわかっているが(後漢というふざけた帝国)、論語の本章が漢儒の偽作と判明した以上、漢儒の心象風景を想像して解釈するのが理に叶っている。

新注『論語集注』鄉人飲酒,杖者出,斯出矣。杖者,老人也。六十杖於鄉,未出不敢先,既出不敢後。鄉人儺,朝服而立於阼階。儺,乃多反。儺,所以逐疫,周禮方相氏掌之。阼階,東階也。儺雖古禮而近於戲,亦必朝服而臨之者,無所不用其誠敬也。或曰:「恐其驚先祖五祀之神,欲其依己而安也。」此一節,記孔子居鄉之事。


本文「鄉人飲酒,杖者出,斯出矣。」
杖者とは老人である。孔子は六十歳の老人になっても、田舎の礼儀作法ではまだ若造で、順番を並ぶにもしゃしゃり出たりしない。より年長者が事を終えてから出たが、順番を譲りもしない。

本文「鄉人儺,朝服而立於阼階。」
儺は乃-多の反切で読む。儺とは、疫病神を追い払う儀式である。周の規定では、方相氏が司会を務めた。阼階とは東の階段である。儺は古くからの習わしだが、遊びに近いものに過ぎないが、それでも孔子が官服を着たのは、何事にも敬意を尽くすためである。

ある人「祖先や五種類の祭神の機嫌を損ねることを恐れ、正装していることで機嫌を損ねないように気遣ったのである。」

この一節は、孔子の郷里に於けるもようを記す。

「五祀之神」は「五穀」などと同様、儒者がそれぞれに勝手なことを言っているので、何の神か分からない。論語郷党篇7余話「何で織った」を参照。

余話

しまりがない

論語の本章で孔子は長幼の序という物理的な順序に従って祝辞を受けた。ものの話は物理的な順序で語ると分かりやすい。たとえば望遠鏡は電波望遠鏡と光学望遠鏡にまず分かれる。前者は可視光以外の電磁波を、後者は可視光を集めて人間に分かりやすいように増幅する。

光学望遠鏡は反射望遠鏡と屈折望遠鏡に分かれる。前者は凹面鏡を使って光を集め、後者は凸レンズを使って光を集める。屈折望遠鏡はガリレオ式とケプラー式に分かれる。前者は凸-凹レンズの組み合わせで正立像を得る。後者は凸-凸レンズの組み合わせで倒立像を得る。

ケプラー式は…とこの後も詳細を続けられはする*。記述の順序は逆の小→大でもかまわない。話を論語に戻せば、本章の「阼階」は共に階段に関わる漢語であり、こざとへんを部首として持つ。ただし日本では「阝」を「こざとへん」「おおざと」と二つの呼び名で呼ぶ。

阝 甲骨文 邑 甲骨文
「阝」甲骨文/「邑」甲骨文

両者は成り立ちが異なっている。へんとしての「」は、もともと”はしご・かいだん”の象形だった。「阼階」は共にこの例になる。対してつくりとしての「阝」は、金文以前では上下に「」”集落を囲む城郭”+「セツ」”跪いた人”と書く。伝統中国の集落には城郭があった。

つまり「ユウ」”むら・まち”の略体で、城郭と住民の組み合わせ。「都」「郡」はこの系統に属する。だからつくりの場合を原義と日本人は考え「おおざと」と呼び、”さと”の意味はもたないが、形が同じへんを「こざとへん」と呼んだ。漢語の「大麦」「小麦」と同様である。

wikiが次のように言うのは、漢文を読める人の言い分とは思えない。

「大」は、小麦(コムギ)に対する穀粒や草姿の大小ではなく、大=本物・品質の良いもの・用途の範囲の広いもの、小=代用品・品格の劣るものという意味の接辞によるものである。大豆(ダイズ)、小豆(アズキ、ショウズ)、大麻(タイマ)の大・小も同様である。伝来当時の漢字圏では、比較的容易に殻・フスマ層(種皮、胚芽など)を除去し粒のまま飯・粥として食べることができたオオムギを上質と考えたことを反映している。(オオムギ条)

「麦」の旧字は「麥」。中国ではまずオオムギが、ついで孔子の生きた春秋時代後半、コムギが栽培された。しかし甲骨文・金文・戦国文字を通じて、「大麥・小麥」の文字列は無い。「大麥」が見えるのは戦国最末期の『呂氏春秋』からで、「小麥」とセットで出てこない。

先秦両漢の文献でも、オオムギがよくてコムギがよくないという話は出てこない。訳者は比較的大きなオオムギ種子と、コムギのそれしか見たことがないので、大きさの大小による呼称とは思えない。ゆえに「大麥・小麥」の区別は、どちらがより伝統的かの違いと解しうる。

wikiオオムギ条を、中英露版でざっと読んだが、上掲の記述は見当たらない。「大・小」「大麦・小麦」を『大漢和辞典』『学研漢和大字典』『字通』『漢字源』『新漢語林』『新字源』『中日大字典』で引いたがやはり見えない。いったい誰が言い出したデタラメだろう**。

話を「阝」に戻す。つくりとしての正体とされる「阜」部は、後漢の『説文解字』ではさらに古体の「𨸏」と記し、部首とする。明末の『字彙』でも「さとの意である」とは言わず、清代の『康煕字典』もそれを踏襲している。「邑」とはキッチリ分けている。

大陸,山無石者。象形。凡𨸏之屬皆从𨸏。


陸の盛り上がったおかで、山だが岩山でないものをいう。象形文字。おかのたぐいは全部𨸏の字を部品に含む。(『説文解字』巻十五・𨸏部)

「じゃ丘や岡の字はどうなるんだ」と言いたくなるが、後漢儒の書き物にいちいち目鯨を立てていると漢文が読めない。「頭につじつまの無い人たちなんだ」と諒解する覚悟が必要になる。あるいは𨸏(阜)と丘と岡は、後漢儒にとって別物なんだと理解してやればよろしい。

現代中国や台湾の漢学教授も、日本の同業同様、まともにものを考えないのだが、後漢儒同様に「脳にしまりが無い人たちなんだ」と思いやってやるべきである。日中の漢学業者は甲金文の「阝」と「阜」を一緒くたにしたまま、おかしいとも思わない。食うに困らないからだ。

あたまもおしりも体の先という分別では同類だが、おしりの方にしまりがないとそれだけで地主として世間の同情を買う。対してあたまにしまりがないのを拝んでしまうのは、しまりがないゆえではなく、地位を拝んでいるのだと諒解できる。人格や識見を讃えるわけではない。

阜 甲骨文 丘 甲骨文
「𨸏」(阜)甲骨文/「丘」甲骨文

甲骨文で「阜山」とあり、明確に”おか”と解せる字形は、”かいだん”のそれと似ているが違う。対して「丘」は孔子のいみ名(本名)として、漢文読みとして重大な字だが、初出は甲骨文で「𨸏」を横に倒したような字形をしている。というより、甲骨文は向きが一定しない。

今のようなテキストデータがあるわけでなく、方眼紙も罫線紙もなく、竹簡木簡はあったろうが腐って残っていない。紙やふだに比べれば、きわめてゴツゴツした甲骨の、書ける部分に字を刻むしか無かった。ゆえにその時の都合に応じて、縦横も表裏も自由に書いた。

象 甲骨文 馬 甲骨文
「象」甲骨文/「馬」甲骨文

ケプラー式同様、正立像とは限らない。これは「象」や「馬」の字で理解して貰えるだろう。


*光学での倒立像とは、180°回転した像をいう。上下左右の線対称ではない。全くいらん話を続けると、ケプラー式で正立像を得る法はレンズ式とプリズム式に分かれる。ほかに鏡で正立像を得る法は、光の損失が多いので廉価の必要がある場合にのみ使われる。前者は凸レンズを1枚追加して正立像を作る。後者はプリズムの反射で正立像を得る。プリズム式はポロ式とダハ式に分かれる。ほかにダイアナゴル式(ペンタプリズム)があるが望遠鏡にはまれにしか使われない。前者は平面反射する三角柱プリズム2個を組み合わせて正立像を得る。後者はダハ”屋根”形反射面で正立像を得る。ダハ式はほぼ、アミチ式、シュミット=ペシャン式、アッベ=ケーニヒ式に分かれる。ア式は三角柱の底面がダハになっている。シ式はダハプリズム1つと平面反射プリズム1つを組み合わせている。ア式はダハプリズム1つと平面反射プリズム2つを組み合わせている。

**なおwikiコムギ条に、K教授の著作を引用して「中国大陸への小麦の伝来は四千年前頃(紀元前二千年ころ)で、粉食用として広く栽培される様に成ったのは三千年前頃(紀元前千年ころ)である。これは小麦が冬作物で、粟は稲(米)の端境期に収穫されたためで、七千年前から栽培が行われていた大麦とは対照的である」とある。仮にコムギ良くない説も同じ本から出た話とするなら、書いた当人をよく知っている。漢文業者には珍しく、弱い者いじめをしない人だったが、訳者と同じく酒とホラが大好きだったから、デタラメを書いても無理は無い。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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