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論語詳解182述而篇第七(35)奢らば則ち不遜’

論語述而篇(35)要約:人生山あり谷あり。人は余裕が出来ると思い上がり、余裕が無くなると意固地になる。思い上がるよりは、意固地の方がいいと孔子先生。もちろん儒者にとっても、思い上がった他人は嫌いです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰奢則不孫儉則固與其不孫也寧固

校訂

諸本

「寧固」字:宋版『論語注疏』・正平本・文明本・足利本・早大蔵新注・根本本・四庫全書新注同じ。ネット上に「甯固」に記すものあり。

東洋文庫蔵清家本

子曰奢則不遜儉則固與其不遜也寧固

  • 「寧」字:京大本・宮内庁本同じ。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……曰:「奢則不孫a,儉則固。□□不孫也,寧固。」187

  1. 孫、皇本作「遜」。『釋文』云「不孫、音遜」。

標点文

子曰、「奢則不孫、儉則固。與其不孫也、寧固。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 奢 金文則 金文不 金文孫 金文 虔 金文則 金文固 金文 与 金文其 金文不 金文孫 金文也 金文 寧 金文固 金文

※儉→虔・固→(戦国金文)。論語の本章は「固」「寧」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、おごらばすなはゆづまばすなはかたくななり。ゆづむしかたくななれ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

論語 孔子
先生が言った。「順境の時はふてぶてしくなり、逆境の時はかたくなになる。まことにふてぶてしいよりは、かたくなの方がいい。」

意訳

論語 孔子 遠い目
長者は威張っているのが普通で、貧乏人はツンケンしているのが普通だ。(役人や儒者が)ツンケンしているのにも、それなりの道理があるのじゃぞ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「ぜいたくな人は不遜になりがちだし、儉約な人は窮屈になりがちだが、どちらを選ぶかというと、不遜であるよりは、まだしも窮屈な方がいい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「奢侈就會驕狂,節約就會寒酸,與其驕狂,寧可寒酸。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「贅沢すれば威張り返った馬鹿になるに決まっているし、節約すれば貧乏たらしくなるに決まっている。威張り返った馬鹿になるより、むしろ貧乏たらしい方がいい。」

論語:語釈

、「 ()、 () 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

奢(シャ)

奢 金文 奢 字解
(金文)

論語の本章では”優れる”→”余裕がある”。初出は西周早期の金文。字形は「大」+「者」で、大いなるもののさま。原義は”優れた”。春秋時代までの金文では人名に用いられ、”おごる”の意が見られるのは前漢の馬王堆帛書まで時代が下る。詳細は論語語釈「奢」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”とりもなおさず”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

遜(ソン)→孫(ソン)

遜 金文 遜 字解
(金文)

論語の本章では”譲る”→”へり下る”。初出は西周中期の金文。ただし字形は〔王孫〕。現行字体の確実な初出は後漢の『説文解字』。初出の字形の由来は不明。現行字体は〔辶〕”みち”+「孫」swən(平)”年少者”で、年長者に道を譲るさま。春秋末期までの金文で”譲る”の意に用いた。詳細は論語語釈「遜」を参照。

孫 甲骨文 孫 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語、中国伝承の唐石経では「孫」。初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤タイ」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。

論語の伝承は、日中で隋末に分岐した。現伝最古の論語の完本は唐石経で、紙本は宮内庁蔵『論語注疏』だが、それらの文字列が必ずしも、古い論語を保存しているとは言えない。日本が隋末に古注を受け入れた後、中国では古注は一旦消失した。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

清代の儒者が古注の存在を知って大喜びし、日本から輸入した後に真っ青になった事情は、論語八佾篇5「夷狄の君あるは」解説を参照。

儉(ケン)

倹 秦系戦国文字 倹 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では、”つつしみ深い”→”余裕が無い”。新字体は「倹」。初出は秦の戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語の時代の置換候補は「虔」。字形は「亻」”人”+「僉」(㑒)で、初出が春秋末期の金文である「僉」の字形は、「シュウ」”あつめる”+「兄」二つ。「兄」はさらに「口」+「人」に分解でき、甲骨文では「口」に多くの場合、神に対する俗人、王に対する臣下の意味をもたせている。『魏志倭人伝』で奴隷を「生口」と呼ぶのは、はるか後代の名残。「儉」は全体で、”多数派である俗人、臣下らしい人の態度”であり、つまり”つつしむ”となる。詳細は論語語釈「倹」を参照。

固(コ)

固 金文 固 字解
(金文)

論語の本章では”頑固になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。字形は「囗」+「十」+「曰」だが、由来と意味するところは不明。部品で同音の「古」が、「固」の原字とされるが、春秋末期までに”かたい”の用例がない。詳細は論語語釈「固」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”~と”の派生義として”…よりも”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調”…はまさに…”の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

寧(ネイ)

寧 甲骨文 寧 字解
(甲骨文)

論語の本章では、接続辞として”むしろ”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”やすらか”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「皿」+「コウ」”木柄”。器物や長柄道具を丁寧に倉庫に保管するさま。原義は”やすらか”。甲骨文では原義に、また地名に用いた。春秋までの金文では”見舞う”の意に用い、戦国の金文では原義に、”乞い願う”に用いられた。詳細は論語語釈「寧」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、春秋戦国時代の誰一人引用せず、「奢則不遜(孫)」は、前漢後期の劉向が『説苑』権謀20に引用。さらに後漢初期の班固『漢書』董仲舒伝などで引用

論語の本章が、論語学而篇8「學則不固。」と、論語八佾篇4「禮與其奢也、寧儉。喪與其易也、寧戚。」とのニコイチであることは明らかで、定州竹簡論語にはあるから、前漢儒による創作を疑いたくなるが、とりあえず文字史的には論語の時代まで遡りうるから、史実の孔子の言葉として扱う。

前漢年表

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解説

仮に論語の本章が前漢儒の偽作とするなら、創作意図は本章を引用した劉向『説苑』で推測できる。

孝宣皇帝之時,霍氏奢靡,茂陵徐先生曰:「霍氏必亡。夫在人之右而奢,亡之道也。孔子曰:『奢則不遜。』夫不遜者必侮上,侮上者,逆之道也。出人之右,人必害之。今霍氏秉權,天下之人疾害之者多矣。夫天下害之而又以逆道行之,不亡何待?」乃上書言霍氏奢靡,陛下即愛之,宜以時抑制,無使至於亡。書三上,輒報:「聞。」其後霍氏果滅。


前漢宣帝の時、霍光が摂政として専権を振るった。茂陵(帝都長安の西側の郊外)の徐という儒者先生が言った。

「霍光の一族は必ず滅ぶ。人君の補佐をする者が権勢を手にするのは、滅亡への道だ。孔子も言った。権勢を手にすれば思い上がる、と。思い上がった者は必ず目上をあなどる。目上を侮る者は、道理に逆らうことになる。人君の補佐の分を超えれば、その人君は必ず補佐する者を取り除く。今霍光は権勢を欲しいままにしているが、天下にその横暴を嫌う者ははなはだ多い。そもそも天下万民に嫌われているのに道理に逆らったことばかりしていれば、滅ばないでいられるはずが無い。」

徐先生は宣帝に上奏して霍光の専権横暴を訴え、陛下は即座にその意見をよしとしたが、霍光に時間的な余裕を与えて、振る舞いを慎むよううながし、霍光の滅亡を救おうとした。だがさらに三度同じ様な上奏があったのを見て、即座に「わかっておる」と返事をした。その後果たして、霍光の一族は滅ぼされた。

宣帝は定州竹簡論語が埋蔵された当時の君主で、その時代の儒者が霍光の権勢を非難するのに、孔子を持ち出している。事実上の前代昭帝から霍光に政治を任せたのは、前々代武帝の死にぎわの命令によるものだが、昭帝時代の13年間、儒者は霍光に不満を募らせていたと見える。

それも事は単純でない。霍光は武帝に、専権ではなく複数の同僚と共に執権するよう命じられたから、昭帝の7年までは執権の一人でしかなかった。だが専権を振るうため、霍光は全国から「文学」(メルヘン儒者)を集めて気勢を上げ、同僚の桑弘羊の失脚を謀った(塩鉄会議)。

つまり儒者たちと一時的に同盟した。だが専権を握ればもう儒者どもに用は無かった。

昭帝期の13年間は偽作だろうと孔子の言葉として定着するのに十分で、おそらく武帝末期にはすでに、論語の本章は出来ていただろう。武帝の暴君ぶりは論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」に記したが、家臣もまた互いに政敵を作っては滅ぼし合う救いのない治世だった。

詳細は論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。つまり論語の本章は、家臣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふ者を排除するため、儒者があらかじめ仕込んでおいた鉄砲玉と思われる。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰奢則不遜儉則固與其不遜也寜固註孔安國曰俱失之也奢不如儉奢則僭上儉則不及禮耳固陋也疏子曰至寜固 云奢則不遜儉則固者不遜者僭濫不恭之謂也固陋也人若奢華則僭濫不恭若儉約則固陋不及禮也云與其不遜也寜固者二事乃俱為失若不遜陵物物必害之傾覆之期俄頃可待若止復固陋誠為不逮而物所不侵故與其不遜寜為固陋也

孔安国 古注 皇侃
本文「子曰奢則不遜儉則固與其不遜也寜固」。
注釈。孔安国「両方共にダメということである。思い上がれば慎みが無いし、目上を馬鹿にする。だが慎みすぎると礼法に外れる。固とは、卑しいということだ。」

付け足し。先生はどちらかなら頑固である方がよい極致を言った。「奢則不遜儉則固者不遜」とは、目上をバカにしやりたい放題で腰の低さが無いことを言う。固とは卑しいことである。人がもし思い上がると、必ず目上を馬鹿にしやりたい放題して腰が低くなくなる。もし困窮すると、卑しくなって礼法に外れるようなこともする。「與其不遜也寜固」とは、両方ともダメではあるが、思い上がると何事にも高をくくるようになり、その結果必ずしっぺ返しを受ける。その時はいきなりやって来るぞという警告である。もし思い上がらず却って頑固で卑しくなっても、本当に物事に対して高をくくらないでいれば、しっぺ返しがない。だから思い上がるよりは、頑固で卑しい方が良い、というのである。

新注『論語集注』

孫,去聲。孫,順也。固,陋也。奢儉俱失中,而奢之害大。晁氏曰:「不得已而救時之弊也。」

論語 朱子 新注 宋儒
孫の字は尻下がりに読む。孫とは従うことである。固とは卑しいことを言う。思い上がりも堅苦しさも、どちらも偏ってダメではあるが、思い上がった方が害が大きい。

晁説之「当時の乱れた世相に、やむを得ず言った言葉である。」

余話

中華社会の極限

霍光は武帝お気に入りの武将である霍去病の異母弟で、昭帝が死去すると、武帝の孫・劉賀を帝位につけた。同時に闇から闇への権力闘争が始まって一ヶ月足らずで劉賀は廃位、改めて宣帝が迎えられて即位した。即位前の宣帝は武帝に家族を殺され、ただの庶民として成長した。

喜游俠,鬥雞走馬


まちのヤクザと仲が良く、一緒にバクチを打ったりケンカにふけったりしていた。(『漢書』宣帝紀3)

すでに霍光の専権は成立していたが、皇帝廃位という大騒動があったことから、専権は必ずしも安泰と言えなかった。焦った霍光は宣帝の皇后を殺害、一族の女性を皇后に据えた。霍光自身は優れた政治家で身を慎んでいたと言われ、天寿を全うして宣帝の6年に死去した。

霍光の一族が皆殺しにされるのは、その2年後のことである。現代日本人が思うほど、中国の政界は古今まともでない。中華文明の真髄が親子兄弟を含めた他人を売り飛ばして生き残る事にあるからには、その最も激しい場である中華的権力内部は、殺すか殺されるかの業界だった。

おそらく霍光も、すき好んで宣帝の皇后を殺したわけではない。そうでもしないと殺されるから、身を守るためには何でもしなければならなかった。政敵のそれぞれも同様で、一旦権力の世界に生まれ、または足を踏み入れた者は、必ず殺し合いを演じさせられる。

権力の場がなぜその社会の極限であるかは、権力の機能によっている。権力とは誰かから奪い、誰かに与える機能を持つ力で、つまり社会の資源を左右する。資源は中国の天下万民が追い求める福禄寿、乜-的快感とゼニかねと健康・長寿の元手だから、争奪が激化して当たり前。

これは中華社会に限らない。

参考記事

『論語』述而篇:現代語訳・書き下し・原文
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