論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
𦯧公問政子曰近者說逺者來
- 「𦯧」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
葉公問政子曰近者悅逺者來
- 「葉」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「悅」字:〔兌〕→〔兊〕。
定州竹簡論語
……問正。子曰:「近者說a,遠342……
- 説、今本作”悅”。
標点文
葉公問「正」。子曰、「近者說、遠者來。」
復元白文(論語時代での表記)









※近→幾・説→兌。論語の本章では、「問」の用法に疑問がある。
書き下し
葉公正を問ふ。子曰く、近き者は說ばせ、遠き者は來す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
葉公が政治を問うた。先生が言った。「近い者を喜ばせ、遠い者を招き寄せることです。」
意訳
南方の大国・楚は、国内がさらに大領主の領地に分割された国だった。その領主の一人、葉公が、政治を問うたので孔子が答えた。
「善政を敷いて領民を喜ばせ、領地外の民も慕い寄ってくるようにしなされ。」
従来訳
葉公が政道についてたずねた。先師はこたえられた。――
「領内の人民が悦服すれば、領外の者も慕って参りましょう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
葉公問政。孔子說:「使本地人幸福、外地人來移民。」
葉公が政治を問うた。孔子が言った。「自領民を幸福にし、外地人が移民してくるようにすることです。」
論語:語釈
葉公(ショウコウ)

論語では、楚の王族で楚王の諸侯の一人。詳細は論語述而篇18語釈を参照。

(金文)
「葉」の初出は春秋時代の金文。ただしくさかんむりを欠く。字形は「木」に葉が生えた象形。春秋時代の用例では「世」と釈文されているが、”枝分かれ”→”家に伝える”とも解せる。戦国の竹簡では”葉っぱ”の意で用いた。詳細は論語語釈「葉」を参照。

「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
問(ブン)

(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
政(セイ)→正(セイ)
論語の本章では”政治”。唐石経・清家本では「政」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語では「正」と記す。時系列に従い「正」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

「政」(甲骨文)/「正」(甲骨文)
「政」の初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
「正」の初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。甲骨文では「正月」をすでに年始の月とした。また地名・祭礼名にも用いた。金文では、”征伐”・”年始”のほか、”長官”、”審査”の意に用いた。”正直”の意は戦国時代の竹簡からで、同時期に「征」”徴税”の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。
前漢宣帝期の定州竹簡論語が「正」と記した理由は、恐らく前王朝・秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱)。前漢帝室の公式見解では、漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、秦帝国の正統な後継者と位置づけていた。
だから前漢の役人である司馬遷は、高祖劉邦と天下を争った項羽を本紀に記し、あえて正式の中華皇帝として扱った。項羽の残虐伝説が『史記』に記され、劉邦の正当性を訴えたのはそれゆえだ。そう書かなければ司馬遷は、ナニだけでなくリアルに首までちょん切られた。
子曰(シエツ)(し、いわく)

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
近(キン)

(楚系戦国文字)
論語の本章では”近づく”。初出は楚系戦国文字。戦国文字の字形は「辵」(辶)”みちのり”+「斤」”おの”で、「斤」は音符、全体で”道のりが近い”。同音には”ちかい”の語釈を持つ字が『大漢和辞典』にない。論語時代の置換候補は「幾」。部品の「斤」も候補に挙がるが、”ちかい”の用例が出土史料にない。詳細は論語語釈「近」を参照。
者(シャ)

(金文)
論語の本章では”~である者”。新字体は「者」(耂と日の間に点が無い)。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
說(エツ)・悅(エツ)

(楚系戦国文字)
論語の本章では”(善政を敷いて)喜ばせる”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
清家本は「悅」と記す。初出は戦国時代の竹簡。新字体は「悦」。語義は出現当初から”よろこぶ”。論語時代の置換候補は部品の「兌」。詳細は論語語釈「悦」を参照。
遠(エン)

(甲骨文)
論語の本章では”遠くの”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。詳細は論語語釈「遠」を参照。
來(ライ)

(甲骨文)
論語の本章では”来る”、”来たるべきもの”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。
近者說、遠者來
「近者」を説ばせ、「遠者」に来させることで、主語が目的語のようになって一見ヘンテコだが、日本語で「この道は通れます」と言うのと同様、漢文でも主語が動作の受け手になることがある。これを受事主語という。
論語:付記
検証
論語の本章は置換候補を用いれば春秋時代まで遡れ、漢字の用法についての疑問も「問」字だけとなる。史実の孔子と葉公との対話と考えてよい。
解説
論語の前章と比較して頂きたいが、まじめに政治の話をするなら孔子はこのように簡潔に、的の中心を射貫くように言う。それも当然で、上記の如く孔子にとって葉公は、何やら後ろ暗いことまで含めた政治的な同盟者であって、歌舞伎の真似などしている場合ではなかった。
領民に善政をしけというのは当たり前の理屈だが、遠くまで懐かせろと言うのは評判になれということではなく、流入してくる人口によって領地の政治経済軍事力を増せという、極めて現実的な政治論。当時の領民には移動の自由があり、君主が阻止しようとしても出来なかった。
ローマ史で移動の自由がないコロヌスが成立し得たのは、コンスタンティヌス帝の強権あればこそで、逃亡コロヌスだけでなく、かくまった者をも罰することが出来たからだ。だが春秋戦国の中国はそうでない。諸侯も領主も、逃亡してくる者を大いに歓迎し、かくまった。
それは技術的制約からであり、エンジンのない古代では人とは国力そのもので、医学も未発達だから、領民だけをタネにちまちま人口を増やそうとしても合理的ではない。従って時にはいくさに訴えて、隣国から民を拉致するように連れてくることもあった。
逆に、連れ去られた者を取り戻す法まであった。
魯國之法,魯人有贖臣妾於諸侯者,皆取金於府。子貢贖人於諸侯,而還其金。孔子聞之,曰:「賜失之矣!夫聖人之舉事也,可以移風易俗,而教導可以施於百姓,非獨適身之行也。今魯國富者寡而貧者眾,贖人,受金則為不廉,則何以相贖乎?自今以後,魯人不復贖人於諸侯。」

魯国の法では、魯国人でありながら他国で奴隷に身を落とした者を、連れ戻すための代価は、政府が支給することになっていた。だが富豪の子貢は、ある奴隷を他国から買い戻したとき、給付金を返納した。孔子がそれを聞いて言った。
「子貢よ、それは間違いだぞ。聖人=万能の人(魯国の開祖、周公旦を指す)が法を定めたわけは、民百姓の習俗を改善し、何が正しいのか教え諭すためで、自分さえ格好が付けばそれでいい、というものではない。今の魯国では没落する富豪が多く、貧乏人が増えている。人を買い戻した代金を政府から貰ったとて、それを図々しいと非難されるようでは、買い戻すことが出来なくなるぞ? 今後、お前のやったことが世間の常識になってしまえば、魯国人は同胞をどうやって買い戻したらいいのだ。」(『孔子家語』致思18)
孔子家語が王粛の偽作であると言うのは清儒の誣告だが、それでもこの話には実は怪しいところがあって、論語の時代で実在が確認できない「金」が出てくる。だがこの一字に目をつぶって、何かしらそのような制度があったのだろうと断じてここに記すことにした。
ともあれ洋の東西を問わず、奴隷にされるのは戦時捕虜か、債務奴隷か、人狩りに遭った異民族である。論語の時代は前代の殷と異なり、人狩りの形跡はか細い。理由は一つに、周代では生け贄が廃れたからだが、捕虜や債務奴隷は存在した。経済発展中の乱世だったからだ。
葉公は『左伝』などを読む限り、自分が楚王になろうとはしなかったが、領地を繁栄させたいとは思っただろう。楚国はいわば周の縮小版で、国王の元に諸侯に当たる大領主が割拠しており、時には互いに戦争までしたから、葉公の悩みは諸侯とあまり違わない。
楚王になろうとすればなれただろうが、ならなかったのは王のそばで政治を補佐して、国王とはそんなに楽しいものではないと思っていたからだろう。周王が諸侯の増長に困っていたように、楚王もまた困っていたのだから。
余話
(思案中)




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