論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰如有王者必丗而後仁
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰如有王者必丗而後仁
定州竹簡論語
……[有王者,必世a後]335……
- 今本世下有”而”字。
標点文
子曰、「如有王者、必世後仁。」
復元白文(論語時代での表記)
※仁→(甲骨文)。論語の本章は、論語の時代に存在しない王者という熟語を用いている。本章は孟子による創作である。
書き下し
子曰く、如し王たる者あらば、必ず世にして後に仁ならむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「もし王にふさわしい者が現れたら、必ずその治世の後に、仁義が定着するだろう。」
意訳
孔子「この戦乱の世に、武力による覇道を退け、道徳的な王道を行う真の王者が現れたら、人々を教えさとし、戦争は終わり、情けに満ちあふれた世が実現するのであるぞよ。」
従来訳
先師がいわれた。――
「たとえ真の王者が現われても、少くも一世代を経なければ、民をあまねく仁に化することは出来ない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「如果有英明領袖興起,一定要經過三十年才能實行仁政。」
孔子が言った。「もし英明な指導者が勃興しても、少なくとも三十年が過ぎないと、人生を実現できないだろう。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”もしも”。この語義は春秋時代では確認できない。字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
王者(オウたるもの)
論語の本章では、”戦乱の世を収め、太平の世を開く聖王”。
「王者」という熟語は、原則一文字一意だった孔子在世当時の言葉としては甚だ奇異で、孔子の言葉ではない。孔子の時代、「王」といえば周王に決まっており、副次的には僭称(勝手な名乗り)として南方の楚王を指す。楚はもと周の臣下ではないから、王を名乗り得た。
「王者」を盛んに提唱したのは、孔子より一世紀後の孟子。武力で戦国の世を統一する「覇者」に対する概念で、「王道」=教育によって道徳的に世を統一する聖王。
孟子の時代、すでに周王以外に斉王、趙・魏・韓王が出現しており、壮年期には秦も王号を称した。価値が暴落した王という呼び名に対して、「王者」という新しい概念を提唱して、諸侯に売りつけたのである。
養生喪死無憾,王道之始也。五畝之宅,樹之以桑,五十者可以衣帛矣;雞豚狗彘之畜,無失其時,七十者可以食肉矣;百畝之田,勿奪其時,數口之家可以無飢矣;謹庠序之教,申之以孝悌之義,頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉,黎民不飢不寒,然而不王者,未之有也。
(恵王殿下に申し上げます。)人民の生活を成り立たせ、葬儀を哀れむのが不十分で無いなら、それが殿下が王者と讃えられる第一歩です。一軒の農家が桑を植えれば、五十の者に絹を着せてやれます。家畜の世話に時期を取り逃すことが無ければ、七十の者に肉を食わせてやれます。耕作を共にする農家組合の時間を奪わなければ、一家八人が飢えなくて済みます。学校での教えを守り、道徳教育で孝行や年下らしい態度を躾ければ、白髪の交じった者が、思い物を担いで道を行く必要はありません。老人は絹を着、肉を食べて、農民が飢えず凍えずにいるのに、上に立つ君主が天下の王者で無かったことは、今まであったためしがないのです。」(『孟子』梁恵王上)
(甲骨文)
「王」の初出は甲骨文。字形は司法権・軍事権の象徴であるまさかりの象形。「士」と字源を同じくする漢字で、”斧・まさかりを持つ者”が原義。武装者を意味し、のちに戦士の大なる者を区別するため「士」に一本線を加え、「王」の字が出来た、はずだが、「王」の初出が甲骨文なのに対し、「士」の初出は西周早期の金文。甲骨文・金文では”王”を意味した。詳細は論語語釈「王」を参照。
(金文)
「者」の新字体は「者」(耂と日の間に点が無い)。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
世(セイ)
(金文)
論語の本章では”一治世”。”一世代”の意味もあり、論語古注の注釈から、おおむね三十年の時間だとされ、新注もそれを引き継ぐが、孟子の意図としては期間を意味するのではなく、聖王の統治によって仁義が実現する、ということ。字の初出は西周早期の金文。「セ」は呉音。字形は枝葉の先で、年輪同様、一年で伸びた部分。派生して”世代”の意となった。唐石経・清家本は「丗」と記す。春秋までの金文では”一生”、”世代”、戦国時代では”人界”を意味した。戦国の竹簡では”世代”を意味した。詳細は論語語釈「世」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”常に憐れみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
必世而後仁
論語の本章では”必ずその治世によって仁義が実現する”。
「A而B」は、AとBが分かちがたく関係していることを示し、「非A而B」の場合も、AとBは共に否定の対象。”王者が現れれば必ず仁義が実現する”、”仁義が実現するには、必ず王者が必要だ”ということ。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字は全て春秋時代に遡れるにもかかわらず、読むそばから孟子による偽作と分かる話で、裏返すと孟子の教説がよほど諸侯にウケなかったこと、ウケないほど絵空事だったことを反映している。孔子に語らせて権威づけないと、誰も聞く耳を持たなかったのだ。
その証拠に、論語で「王者」という言葉が用いられたのは本章だけなのに対し、『孟子』では手を変え品を変えして、孟子がくどくどと王者について説教している。熟語だろうと単漢字だろうと、論語では他章に見られない字があったら、まず偽作を疑っていい。
解説
『孟子』の劈頭、「孟子先生、こんな遠くへわざわざおいで下さったのは、何かそれがしに得な話でも持って来て下さったのですかな」と問う魏の恵王に対し、「何とガメツいことをおっしゃる。王がそんなだから、政治も戦争もうまくいかないのです」と孟子は答えている。
驚く恵王に、孟子は仁義を説き、王道を説いたのだが、老練な恵王は孟子に居心地のよい宿は与えたが、教説に聞く耳を持たなかった。すでに諸侯国の食い殺し合いに突入していた戦国時代に、「道徳で統一」とか、孟子の言う絵空事に付き合っていられなかったのである。
しかるに歴代の儒者は、古注に「孔安國曰三十年曰世如有受命王者必三十年仁政乃成也」=”孔安国曰く、三十年を「世」と言い、天命を承けた王者が世に出ても、必ず三十年が過ぎてから仁政がやっと実現するのである”と記されてから、論語の本章を全く疑わずに過ごした。
だから『論語集釋』を参照すると、例によってうんざりするほどの議論が積み重ねられているにもかかわらず、今日的価値のある話はほとんど無い。
余話
(思案中)
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