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論語詳解316子路篇第十三(14)冉子朝より退く’

論語子路篇(14)要約:冉有ゼンユウは、実直な実務家で武将としても活躍した孔子先生の弟子。ある日朝廷から夜遅く退勤して、先生に理由を問われます。政務でして、と答える冉有に、先生は意外な言葉を投げかけるのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

冉子退朝子曰何晏也對曰有政子曰其事也如有政雖不吾以吾其與聞之

校訂

東洋文庫蔵清家本

冉子退朝/子曰何晏也對曰有政/子曰其事也/如有政雖不吾以吾其與聞之

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……退朝。子曰:「何晏也?」336……雖不吾以,吾其與聞之。」337

標点文

冉子、退朝。子曰、何晏也。對曰、有政。子曰、其事也。如有政、雖不吾以、吾其與聞之。

復元白文(論語時代での表記)

冉 金文子 金文退 金文朝 金文 子 金文曰 金文 何 金文安 焉 金文也 金文 対 金文曰 金文 有 金文政 金文 子 金文曰 金文 其 金文事 金文也 金文 如 金文有 金文政 金文 雖 金文不 金文吾 金文㠯 以 金文 吾 金文其 金文与 金文聞 金文之 金文

※晏→安。論語の本章は、「也」「吾」の用法に疑問がある。

書き下し

冉子ぜんしおほやけより退く。いはく、なんながゐせるこたへていはく、まつりごとればなり。いはく、ことならむ。まつりごとらば、われもちいへども、われこれあづかかむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

冉求 冉有 孔子
冉有先生が朝廷から退勤してきた。先生が言った。「なぜ滞在が長くなったか。」答えて言った。「政務がありましたので。」先生が言った。「雑用だろう。もし政務なら、そんな話は、私が(重職に)用いられていないからといって、関係者として耳にするだろう。」

意訳

冉先生が遅く帰ってきた。
孔子「どうしたのだ?」
冉有「政務がありまして。」
孔子「雑用だろう? 今は引退の身だが、政務に関わる事なら私の耳にも入るよ。」

従来訳

下村湖人

冉先生が役所から退出して来られると、先師がたずねられた。――
「どうしてこんなにおそくなったのかね。」
冉先生がこたえられた。――
「政治上の相談がひまどりまして。」
先師がいわれた。――
「いや、そうではあるまい。季氏一家の私事ではなかったかね。もし政治向きのことであれば私にも相談があるはずだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

冉子退朝。孔子說:「怎麽這麽晚?」答:「有公事要商量。」孔子說:「是私事吧。如果有公事,我雖然沒當官,也會知道。」

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冉子が朝廷から退勤した。孔子が言った。「どうしてこんなに遅くなった?」答えた。「公務に時間が掛かりましたので。」孔子が言った。「それは私的な用事だろう。もし公務なら、私は公職に無くとも、それでも知ることが出来る。」

論語:語釈

退 、「 。」 、「 。」 、「 。」

冉子(ゼンシ)

孔子の弟子、冉求子有のこと。孔子の初期の弟子で、冉伯牛亡き後、おそらく冉氏の頭領となった。冉氏は孔子の無名時代からの後援者で、孔門の軍事的能力の多くは、冉氏の後援無しには考えられない(孔門十哲の謎)。冉有は放浪中の孔子より一歩先に魯国に戻り、ゆかりのある筆頭家老・季孫家の執事として仕え、孔子の帰国工作を行った。

冉子というのは、”冉先生”という、孔子と同格の敬称だが、この表現は論語の本章のみならず、論語雍也篇4論語先進篇12論語子路篇9にも見られる。詳細は論語の人物・冉求子有を参照。

冉 甲骨文
「冉」(甲骨文)

孔子の弟子、冉求子有のこと。ここでは冉子=冉先生と敬称になっている。それを含め冉有について詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

退(タイ)

退 甲骨文 退 字解
(甲骨文)

論語の本章は”…から帰る”。場の主が目上の場合に用いる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「スイ」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。

朝(チョウ)

朝 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”朝廷”。魯国の政庁を指す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。

上記の通り、冉有は筆頭家老の執事であって、魯国の直臣ではないことになっている。だが哀公十一年の対斉防衛戦で武勲を揚げた後、冉有は孔子の帰国を季孫家の当主・季康子に認めさせ、その後は内政外交に、季康子の名代として派遣されるまでに至っている(『左伝』哀公十四年哀公二十二年)。

魯国の朝廷を季孫家が主宰するようになってすでに長くなっていたことから、冉有も朝廷に出入りして政務をこなすことが多かったのだろう。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

晏(アン)

晏 楚系戦国文字
「晏」(楚系戦国文字)

論語の本章では”滞在が長い”。初出は楚の戦国文字。論語の時代に存在しない。”滞在が長い”・”のんびりする”の語義での置換候補は部品の「安」。字形は「日」”太陽”+「安」で、日が落ち着きどころに帰るさま。原義は”日暮れ”。詳細は論語語釈「晏」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章、「何晏也」では「や」と読んで”~ではないか”。詠嘆を込めた疑問の意。「其事也」では”だろう?”という疑問を込めた断定の意。断定の意は春秋時代では確認出来ない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~があった”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

政(セイ)

政 甲骨文 政 字解
(甲骨文)

論語の本章では”政務”。初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「コン」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章、「其事也」「吾其與聞之」ともに、”そんなものはだな”という詠嘆を込めた指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詠嘆の意は西周の金文から見られ、派生して反語や疑問に解するのにも無理が無い。詳細は論語語釈「其」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”雑務”。字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

論語の本章では”もしも”。この語義は春秋時代では確認できない。字の初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

雖不吾以

論語の本章では、”私は用いられなくても”。春秋時代の中国語には格変化があり、「吾」は目的格には使用されず、「我」を用いる。また否定辞+目的語+動詞の組み合わせは、甲骨文から見られる古い句形。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”ともにする”→”関わる”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”耳に入る”・”伝え聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

論語の時代、「聞」は間接的に聞くこと、または知らない事を教わって明らかにすることを意味した。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史的に置換候補がありながらも春秋時代に遡れる。また『春秋左氏伝』が伝える孔子晩年の孔子と冉有の伝記に合致している。本章は史実の孔子と冉有の対話と見て差し支えない。

解説

従来訳の注に、「冉有は当時魯の大夫季氏の執事をつとめていた。季氏は専横で国政を他の重臣に謀らず、私邸で家臣と謀議するのを常としていた。孔子は現職ではなかつたが、かつて大夫の職にあたつたので当然国政の相談にはあずかるはずであつた。思うに孔子は、冉有が公私の別を正さないのを戒めると共に、間接に季氏の専横を難じたのであろう」とある。

「私邸で家臣と謀議するのを常」というのは、じかに史料的裏付けは無いが、季孫家が魯国の国政を担っていたことは、下掲の通り論拠がある。私邸でも当然、政務の相談を家臣と行っていただろう。だがそれは行政の必要からで、「謀議」などでは決してない。

子家子が言った。「殿様、季氏を許してやって下さい。季氏が政治を執るようになってから長く、困った民を食べさせているのも季氏です。彼らは季氏のためなら何でもするでしょう。日が暮れたら暴れ出して、どうなるかわかりません。民衆の怒りは貯まったままでは済みません。その怒りが発酵するほど放置して置いた今、殿への怒りが爆発し、群れを成して襲いかかりますぞ。なのに今さら季氏の討伐ですか。きっと後悔なさいます。」(『春秋左氏伝』昭公二十五年)

その季氏に執事として仕えている冉有が、政治向きの話を相談されるのももっともだろう。思うにこの時期、孔子と冉有の間はぎくしゃくし始めていたのではないか。例えば論語先進篇16で、孔子は冉有をあたかも破門したように見える。ただしこの話は偽作の疑いがある。

それを割り引いても、両者の関係が微妙になっていたと『春秋左氏伝』は記す。

季孫家が耕地の面積で徴税しようとした。冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。
孔子「知らん。」

三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。

「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。

御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)

論語の本章で孔子は、”政務だと? 生意気なことを言うな。雑用だろう”、”政権から干されているとは言え、ワシの耳に入らない政治むきの話などないわい”と、いささか当てつけるようなことを言っているのは、孔子といえども人間だったからだ。

弟子の中でも年長で、現役政治家としても筆頭格で、孔子没後は二代目宗家をつとめた冉有(=有若。儒家の道統と有若の実像を参照)には、やや油断して八つ当たりをしたものと見える。後世の儒家が持ち出したような、孔子聖人説とはほど遠く、それゆえに本章が史実であることを補強する。

かつて孔子を押し上げる原動力の一つとなった冉氏だが(孔門十哲の謎)、戦国時代にどこで何をしていたかは分からない。ただし、冉氏がその武力を提供した季孫家は、戦国時代には魯から独立して諸侯の仲間入りを果たしている(→費国)。

ただしこれは自己防衛のためで、魯の穆公が親政を開始して門閥三家老家=三桓を圧迫したためで、叔孫家と孟孫家は斉に逃亡、季孫家は独立を選んだ。もっとも、孔子の晩年にはすでに、季孫家は独立の意志を持っていた史料がある。

齊人伐魯,而不能戰,子之恥也,大不列於諸侯矣。

(斉が攻めてきた。出陣を拒む季孫家当主・季康子に冉有が言った。)「斉が我が魯に攻め込んできたというのに、戦えないというのでは、あなたの恥ですぞ。これでは諸侯に昇格することなどとても無理ですね。」(『春秋左氏伝』哀公十一年)

つまり冉有は、季康子が独立したがっているのを知っていたことになる。となると季孫家と共に一族の地位向上を図っていた冉氏は、穆公の親政(BC415)の後、季孫家と行動を共にしたのではないか。孟子が生まれるのはそのあとだが(BC372)、何かを知っていた可能性がある。

余話

アルファー 夜行列車 車掌
古典を読むには、時代背景を知らねばならない。現代人の午後は日が改まるまで”遅”くないかも知れないが、文明のか細い古代では、陽が落ちたらもう”遅”かった。時は全てを闇に消し去る。例えば10年ほど前まで、「夜行列車」という言葉は現実だったが、今は1往復しかない。

ゆえに前世紀まで演歌など叙情詩に、夜汽車を織り込んでヒットした例もあったが、今後は作詩家も、記すのをためらうはずである。聞き手の心象風景に画像が写らない言葉を、使えば当たらないからだ。だからスマホは歌詞になり得ても、PHSはすでになりようがない。

それほどまでに時代の流れが速いという事で、加速させたのはひとえに文明の力。ペニシリン発見前、ささいな伝染病が命取りになった。化学染料が出来るまで、布を原色に染めるのは極めて困難だった。2,500年前の論語の時代を知るには、作詞家と逆の仕事が必要になる。

もし古典を信仰の対象や、人をたぶらかすハッタリに使うのでない限り、読解には幅広い知識が不可欠で、だから真面目な学問の対象になる。古語の翻訳は技能の一つに過ぎないが、読解は一つや二つの専門分野だけで、とうてい書かれた内容を正確に知ることは出来ない。

もちろん真の読解など成立しない。現代宇宙論の帰結では、万物のどの一つも時空を共にしていないという。そうした数理的厳密性にこだわるなら、古典など最初から読まねばよいのだし、この世の誰一人とも理解を止めたらいい。だがその寂しさに耐えられるのだろうか?

お金が無いのも寂しいの一種だ。他人がいなければ貨幣は存在しない。「ビジネスに生かす論語」のたぐいを語るのは、つまり寂しいからに他ならない。だからやりたい者がやればよい。そういうハッタリの手伝いを、タダでやらせようとする者がいるが、図々しいにも程がある。

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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