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論語詳解313子路篇第十三(11)善人百年邦を*

論語子路篇(11)要約:後世の創作。現伝の論語が編まれた前漢武帝時代、官吏は皇帝の気分次第で処刑されたり一族皆殺しに遭ったりしました。やめてください、と当時の儒者が、孔子先生を看板に立てて殺伐から逃れようとした創作。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰善人爲邦百年亦可以勝殘去殺矣誠哉是言也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰善人爲邦百年亦可以勝殘去殺矣/誠哉是言也

定州竹簡論語

曰:「『善人為國百年,亦[可]以勝俴a去殺矣。』誠哉是[言也]!」334

  1. 俴、今本作”殘”。

※國は漢高祖劉邦の避諱。

標点文

子曰、「善人爲邦百年、亦可以勝俴去殺矣。誠哉是言也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 善 金文人 金文為 金文邦 金文百 金文年 金文 亦 金文可 金文㠯 以 金文戔 金文去 金文殺 金文矣 金文 哉 金文言 金文也 金文

※俴→戔・誠→成。論語の本章は「勝」「誠」字が論語の時代に存在しない。「爲」の用法に疑問がある。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、ひとくにをさめて百ねんころすをおさころすをなりと。まことなるかなこと

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「善良な人が国を百年治めたら、それでまあ、死刑を抑制し死刑を廃止できるのだ、と言うが、本当だよ、この言葉は。」

意訳

論語 孔子 人形
善良な人に百年国を任せたら、だいたい死刑を廃止できる。ウソじゃないぞ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「古語に、単なる善人に過ぎないような人でも、もしその人が百年間政治の任にあたることが出来たら、人間の残忍性を矯め、死刑のような極刑を用いないでもすむようになる、とあるが、まことにその通りだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「『善人治國百年,也可以戰勝殘暴、免除殺戮了。』這話很對呀!」

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孔子が言った。「善良な人が百年国を治めれば、それだけで兇暴な外国に勝利し、殺戮から免れる、という。この話は本当に正しいな!」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”能力のある”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”治める”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

邦(ホウ)→國(コク)

論語の本章では”くに”。現伝論語では「國」と「邦」を混用し、定州竹簡論語では「國」で統一しているが、これは漢の高祖劉邦のいみ名をを避諱したため。

現存最古の論語本である定州竹簡論語で「國」となっているからには「國」へと校訂すべきなのだが、唐石経・清家本(≒古注)が何の根拠も無く「邦」に改めたとも思えないため、仮にもとは「邦」だったとして校訂した。論語學而篇5などに見える「戦場之國」の語は、唐石経も清家本も「國」のままとしている。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

春秋時代の漢語としては、「國」が金文までは「域」とも記されたように、領土や地域などの場所を主に意味するのに対し、「邦」は神木と加冠した貴人の組み合わせで形成されるように、まつりごとを行う政府を持つ国家的存在を意味する。

国 甲骨文 漢高祖劉邦
(甲骨文)

「國」の新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=ユウであり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。

邦 甲骨文 邦 字解
(甲骨文)

「邦」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。

百(ハク)

百 甲骨文 百 字解
(甲骨文)

論語の本章では数の”ひゃく”。初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は蚕の繭を描いた象形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。「爪である」という郭沫若(中国漢学界のボスで、中国共産党の御用学者)の説は、でたらめばかり言う男なので信用できない。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。

年(デン)

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

論語の本章では”とし”。初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”それでまあ”。婉曲の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。詳細は論語語釈「亦」を参照。

可以(カイ)

論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「クーイー」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。

先秦甲骨金文簡牘詞彙庫 可以

「先秦甲骨金文簡牘詞彙庫」

可 甲骨文 可 字解
「可」(甲骨文)

「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

以 甲骨文 以 字解
「以」(甲骨文)

「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

勝(ショウ)

勝 晋系戦国文字 勝 字解
(晋系戦国文字)

論語の本章では”抑える”。抑止し、数を減らすこと。初出は晋系戦国文字で、論語の時代に存在しない。”抑える”の意では論語時代の置換候補も無い。同音は存在しない。字形は「甘」”重荷”二つ+「力」で、負担に耐えるさま。原義は”耐える”。論語時代の置換候補は、”あげる”・”増やす”の語義で「偁」。詳細は論語語釈「勝」を参照。

殘(サン)→俴(セン)

殘 残 隷書 殘 残 字解
「殘」(前漢隷書)

論語の本章では”死刑”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「戔」。字形は〔歹〕”死体”+「戔」”ほこで何度も切りつける”。人を殺すさま。「ザン」は呉音。戦国中期の『孟子』では”非道”の意に用いた。”残る”・”残す”の意が明瞭に確認出来るのは、後漢の『説文解字』からになる。詳細は論語語釈「残」を参照。

定州竹簡論語の「俴」は『大漢和辞典』では”浅い”・”鎧を着けない”と解されているがそれでは通じない。「殘」字の〔歹〕を〔人〕に換えた字と見なすべきで、語義は同じ。なお『学研漢和大字典』『字通』に条目が無い。

去(キョ)

去 甲骨文 去 字解
(甲骨文)

論語の本章では”去る”→”やめる”。初出は甲骨文。字形は「大」”ひと”+「𠙵」”くち”で、甲骨文での「大」はとりわけ上長者を指す。原義はおそらく”去れ”という命令。甲骨文・春秋までの金文では”去る”の意に、戦国の金文では”除く”の意に用いた。詳細は論語語釈「去」を参照。

殺(サイ)

殺 甲骨文 殺 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死刑”。新字体は「殺」。一説に初出は甲骨文。その字形は「戈」”カマ状のほこ”+斬首した髪。西周中期まではこの字形で、西周末期より髪に「人」形を加えた「𣏂」の形に、「殳」”撃つ”を加えた形に記された。漢音では”ころす”の意では「サツ」と読み、”削ぐ”の意では「サイ」と読む。甲骨文から”ころす”の意に用いたが、”削ぐ”の意は戦国末期まで確認できない。詳細は論語語釈「殺」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”~てしまえる”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

誠*(セイ)

誠 秦系戦国文字 誠 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”本当である”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」+「成」。発言が成り立つこと、つまり”事実である”。同音は「成」、「城」、「盛」。戦国の竹簡から”事実である”の意に用いた。詳細は論語語釈「誠」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”~だなあ”。詠嘆の意。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では”この”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”言葉”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「や」と読んで”まさに”。強調の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史や語の用例から見て、後世の創作は明らか。

解説

論語の本章では、「んなワケねえだろ」と子供でも分かるようなウソを孔子が言わされている。こういう偽善の章は、まずニセモノだと思って間違いない。「朕オモウニワガコーソコーソー」と同様、人々に思考停止を強いて、儒者らの意のままに操ろうとする洗脳である。

ただいわゆる儒教の国教化を進めた前漢の董仲舒には、こういうことを言い出す動機がある。その場の思いつきでむやみに家臣やその家族を殺す武帝の下にあって、”好き勝手に死刑を行うのはやめてください”と心から願うのは当然だった。

董仲舒の弟子筋に当たる司馬遷が、論語の本章を「太史公曰く」として引用したのも同じ意図からである。

孔子言「必世然後仁。善人之治國百年,亦可以勝殘去殺。誠哉是言!」漢興,至孝文四十有餘載,德至盛也。


孔子は言った。慈悲深い世の中の実現には一世代かかる。”能力のある人が国を治めて百年、そうすればまさしく死刑を廃止できる。本当だぞ”と。漢帝国が建国されて文帝時代が四十数年続き、道徳が盛んになった。(『史記』孝文本紀)

当時の朝廷のなんたるかについては、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

余話

本章に対する、儒者の感想文の一つを紹介しよう。宋儒・鄭汝諧の『論語意原』から。

古有此語所以申言之葢省意也周自平王東遷諸侯力爭殆無虛月民之困於傷殘殺戮者二百餘年矣有王者作能朝諸侯而一天下僅可已其亂至於勝殘去殺雖使善人為之非百年相繼之乆必不能致此所以歎當世之習亂而痛斯民未有反古之日也

宋儒
昔からこの言葉はあったのだろうが、おそらく元を一部を切り取って言ったと思われる。西周が滅び、周の平王が都を東に移して東周時代になってから、諸侯は互いに戦争ばかりで、民草は傷害や殺害に苦しみ続けて二百年以上が過ぎた。

だがもし本当の王者が出てきたら、諸侯を従え天下を統一し、速やかに戦乱を終わらせただろう。しかし「勝殘去殺」と言っても、その能も無いただの善人が出てきただけでは、平和な世が百年以上続きでもしない限り、無理だったに違いない。

だから本章の言葉は、当時の戦乱を歎いた言葉で、かつてのような平和な日々を送れなくなった、民草を憐れんだ言葉なのだ。(『論語意原』巻三100)

筆者の鄭汝諧は科挙を通りそこそこ出世した儒者官僚で、北宋滅亡の混乱期に生まれたが、成人した時には南宋が安定しており、結構幸せな生涯を送ったらしい。この部分を読む限り、宋儒独特のオカルトにも毒されていないようだ。

もう一つ、明儒・王訥諫の感想文も記そう。原文に当たれなかったので、『論語集釋』に引く部分のみ孫引きして記す。

子欲善而民善、縱不能旋至立效、亦何至作百年迂疏之談。蓋此是古語、如魯兩生所云「禮樂百年而後可興」之類。周自文武開基、成康之時、乃致刑措。漢高帝平海内、至文景之丗、乃漏網於呑舟之魚、吏治烝烝。不至於奸、蓋去殺若斯之難也。

明儒
孔子先生は善を求め、とりわけ民の善を求めた。たとえすぐさま民を善人へと躾けられないにしても、なんで百年間とか、雲を掴むような話をしたのか。

この言葉は当時のことわざで、『史記』叔孫通伝にある、魯の儒者が言った、「礼楽は百年掛けないと盛んにならない」のたぐいと同じである。(それほど難しいことなのだ。)

周は文王武王が開き、二代成王・三代康王の時代まで、死刑を行わなかった。漢の高祖が天下を平定し、五代文帝・六代景帝の時代まで、かなりの大事でも大目に見たので、おかげで統治は滞りなく行われた。

悪党がはびこらず、死刑を廃止するというのは、これほど珍しいことなのだ。(『四書翼註』)

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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