論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰善人敎民七年亦可以即戎矣
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐高祖李淵の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰善人教民七年亦可以即戎矣
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……人教民七年,亦可以節a戎矣。」361
- 節、今本作”卽”。
標点文
子曰、「善人、敎民七年、亦可以節戎矣。」
復元白文(論語時代での表記)
節
※論語の本章は、「節」の字が論語の時代に存在しない。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。
書き下し
子曰く、善き人民を敎へて七年、亦た以て戎を節む可き矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「有能な者が民を教育して七年過ぎれば、やっと軍隊を削減できる。」
意訳
腕利きの政治家でも、民を躾けるのに七年かかる。それが済めば、軍隊や警察を削減できる。
従来訳
先師がいわれた。――
「有徳の人が人民を教化して七年になったら、はじめて戦争に使ってもよいようになるだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「善人訓練百姓七年,也可以讓他們當兵打仗了。」
孔子が言った。「善人が人民を七年訓練して、やっと彼らを兵役に就かせ武器を使わせることが出来る。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では”能力のある”。「善人」で”有能な為政者”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
敎(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”教える”。新字体は「教」。台湾と香港では、「教」を正字としている。清家本も「教」と記す。「キョウ」は呉音。字形は「爻」”算木”+「子」+「攴」筆を執った手で、子供に読み書き計算を教えるさま。原義は”おしえる”。甲骨文では地名・人名に用い、春秋の金文では”つたえる”、戦国の金文では原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「教」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
敎民
論語の本章では”民衆の教育と政策の広報活動”。論語語釈「教」も参照。
民を教える事には違いないのだが、論語で教える対象が民の場合は、ものを教えると言うよりむしろ”躾ける”方が近い。孔子は民の愛護を説きはしたが、決して対等の存在とは認めていなかった。むしろ操作する対象や、政治論を実現するための材料と考えていた。
それは論語時代のことゆえ仕方がないことで、教育が普及していない時代では、技能や教養がある者が、無知無教養の民を率いるしか統治の手段がなかったため。教育の普及した現在も、国会答弁は「国民の皆様」と言葉は丁寧に言うが、決して対等とは思っていないことは明白で、そこから想像すれば、古代ならなおさらだろう。
ただし儒教史から言うなら、教民は為政者や儒者にとって課せられた義務と捉えられた。歴代の王朝は決して民のためだけに働きはしなかったし、個々の儒者は民を搾取の対象にしかしなかったが、それでもこの義務には忠実であろうとした。
一例が明の開祖・朱元璋で、一面を見ると中国歴代の中では屈指の人殺しを行った暴君と言っていいが、同じく屈指の教養人で、論語はもちろん暗記するまで読み、かつ民の愛護を本気で考えていたふしがあり、教民榜文(キョウミンボウブン)と呼ばれた人としての心得を説き、全国津々浦々に至るまで配布し、定期的に村人を集めて村長に読み上げさせた。いわく、
- 父母に孝順なれ(親孝行せよ)
- 長上を尊敬せよ(目上を敬え)
- 郷里に和睦せよ(隣近所と仲良くせよ)
- 子孫を教訓せよ(子供や孫を教育せよ)
- 各の生理に安んぜよ(生まれ持った境遇に満足せよ)
- 非為を作す毋れ(悪いことをするな)
これは裏を返すと、元帝国崩壊後の地獄の中で、父母は見捨てる、目上は付け狙って金を奪い殺す、隣近所でいさかう、子孫は叩き売る、不満に高ぶって暴れ回る、利益のためならどんな無残でもするのが当たり前だったことの証拠であり、そうでもしなければ生き残れなかった。
一般に中国王朝の交代期は、人口が半分以下になる地獄が普通で、殺人強盗飢饉疫病がこぞって押し寄せた。論語時代の中国はそこまでひどい世の中ではなかったから、まだ教育うんぬんを孔子が言い出す余裕があり、ひょっとすると朱元璋は孔子が羨ましかったかも知れない。
論語に話を戻すと、諸侯国に分裂している当時では、徴兵を嫌がって隣国に逃げてしまうのは比較的自由で、郷土愛や初歩的な政治学を教えない限り、庶民を兵に仕立てるのは不可能だった。強制して半ば奴隷兵のように扱うことは出来たが、そうなると戦場で逃げ出すのは必至で、何のために兵糧を用意して食わせたのか意味が無くなる。
従って普段から十分な教育を施しておかないと、諸国は軍を維持することが技術的に出来ず、まして戦争に打って出ることなど不可能だった。もし教育不十分なまま庶民を駆り出すなら、戦勝後の略奪をエサにぶら下げるしか無く、戦場となった地域は阿鼻叫喚の巷と化した。
しかし略奪して帰るのならともかく、論語時代の戦争は言わば陣地取りゲームで、占領した城郭都市は自国に編入せねばならず、住民も自国民として生産に携わって貰わねば困る。従って略奪をエサに侵略すれば、戦後の処理が大変になるので、なかなか取れる手段ではなかった。
七(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では数字の”なな”。初出は甲骨文。「シチ」は呉音。字形は「切」の原字と同じで、たてよこに入れた切れ目。これがなぜ数字の”7”を意味するようになったかは、音を借りた仮借と解する以外に方法が無い。原義は数字の”なな”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文から戦国の竹簡まで一貫して、数字の”なな”の意で用いられている。詳細は論語語釈「七」を参照。
年(デン)
(甲骨文)
論語の本章では”とし”。初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”それでまあ”。婉曲の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。詳細は論語語釈「亦」を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
卽(ショク)→節(セツ)
現存最古の論語本である定州竹簡論語は「節」”制限する”と記し、唐石経・清家本は「卽」”従事させる”の新字体と同じ「即」と記す。時系列に従い、「節」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「卽」(甲骨文)
「卽」の初出は甲骨文。字形は”高坏に盛っためし”+”座った人”。食卓に着くこと。新字体は「即」。台湾や中国では、新字体と同じ字体が正字として扱われているようである。「ソク」は呉音。甲骨文には、「即貞」として占い師の人名の例を多数見られる。西周の金文では、”ゆく”・”その位置に立つ”・”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「即」を参照。
「節」(金文)
定州竹簡論語の「節」は、論語の本章では”従わせる”。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音も存在しない。原義は”竹の節”。詳細は論語語釈「節」を参照。
戎(ジュウ)
(甲骨文)/(金文)
論語の本章では”軍隊”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𢦦」で、「甲」”よろい”または”たて”と「戈」”ほこ”の組み合わせ。あるいは「𢦦」は「戎」の原字ではなく、「重」の原字である可能性がある。金文以降の字形は、「干」”さすまた”と「戈」”ほこ”の組み合わせ。”軍隊”の意。甲骨文「𢦦」は、異民族を指すのに用いた。金文「戎」は、”軍隊”のほか、異民族を指すのに用いた。詳細は論語語釈「戎」を参照。
論語時代の軍隊は、卿・大夫=家老級の貴族が将軍を務め、士=下級貴族が将校となって、主に戦車に乗って戦った。それゆえ孔子塾の必須科目=六芸に弓術と馬車術が入っているのだが、歩兵は徴兵して戦時だけ集めるのが通常だった。論語における君子・春秋時代の身分秩序も参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”~てしまえる”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語の「節」字が「卽」字の誤字やてらった当て字でない限り、春秋時代に遡れない。このため後世の創作と判断するが、仮に誤字や当て字の場合、「卽」の語義で解釈しなければならないから、「節戎」は”兵役に就かせる”の意となる。また文字史的にも、史実の孔子の発言となる。
しかし誤字・当て字の証拠が無い限り、やはり後世の創作とするのが筋が通る。
解説
論語の本章の特徴として、やはり後世の創作である、論語子路篇11との近似が挙げられる。
論語子路篇11 | 子曰、「善人、爲邦百年、亦可以勝俴去殺矣。誠哉是言也。」 |
本章 | 子曰、「善人、敎民七年、亦可以節戎矣。」 |
現伝の論語が確立される漢帝国の時代、儒教の経典が整備されたが、それは言い換えると当時の儒者に都合のよい記事を、せっせとでっち上げることでもあった。論語もその一環として膨らまされたのだが、論語子路篇には本章のほか、前章のように他章とよく似た話があり、膨らましの痕跡になっている。
また論語の本章は、上記の通り文字史的に史実は疑わしいのだが、仮に「節」字が誤字・当て字で、本章が史実だったとすると、論語の時代性をよく反映してもいる。孔子の若年期まで、春秋時代の戦争とは貴族が戦車に乗って戦うもので、庶民には関係なかった。大坂夏の陣で、庶民が弁当持参で見物したのに似ている。
ところが孔子の時代に弩(クロスボウ)が発明され、戦争のありようが変わってしまった。維持や使用に金や技術の要る戦車と違い、弩は素人でも当たるし貫徹力も強い。戦車の突撃を射すくめて止めることも出来た。従って庶民も兵士として有用となり、徴兵されるようになった。
(「弩」の初出は孔子とほぼ同時代の『孫武兵法』。)
魯の貴族、微虎は夜陰に乗じて呉王の宿所を襲撃しようとし、領民七百人を引き連れ、陣屋で三度高飛びさせて徴兵検査し、歩兵三百人を選んだが、その中にはまだ若い者もいた。(『春秋左氏伝』哀公八年)
明治の血税一揆と同じく、いきなり徴兵されるようになった庶民は面食らったに違いない。だが庶民もまた戦士となれば、それは庶民の政治的地位の向上を意味し、これが孔子が社会の底辺から宰相までのし上がる、社会的背景となった。孔子塾もその結果である。
同時に中国の政治に、劇場性が加わった。国家という架空の存在を庶民に理解させ、その存続のためなら命を投げ出すよう洗脳するためには、ウソで固めた軍国美談で洗脳せねばならなかったからだ。孔子より一世紀後の孟子の教説も、洗脳術の一例である。
論語の時代には存在しなかった、「忠」の字が出来るのも戦国時代になってからだ。かつて中国の貴族は領地領民や政治的特権によって、自国防衛の動機があった。しかし数多い徴集兵にそんな特権を与えるわけにはいかず、諸子百家は競って洗脳する技術を開発した。
だがその始まりである孔子はそんな技術など思いもせず、ただ懇々と諭して納得して貰う事を選んだのだろう。それゆえに論語の本章の言葉があるのであり、孔子は特権無き犠牲を庶民に納得させることの不可能を知っていたから、「七年かかる」と言ったわけ。
ところが『韓非子』には、軍事に関して孔子のマヌケぶりを描いた話がある。
楚之有直躬,其父竊羊而謁之吏,令尹曰:「殺之,」以為直於君而曲於父,報而罪之。以是觀之,夫君之直臣,父之暴子也。魯人從君戰,三戰三北,仲尼問其故,對曰:「吾有老父,身死莫之養也。」仲尼以為孝,舉而上之。以是觀之,夫父之孝子,君之背臣也。故令尹誅而楚姦不上聞,仲尼賞而魯民易降北。
楚国に正直者がいて、その父が羊を盗んだと言って役人に訴えた。伝え聞いた宰相は、「殺せ」と言った。君主に忠実だが父のくせ者だから、処刑したのだろう。これをふまえると、君主にとっての忠臣は、父にとってのバカ息子である。
魯の民で、徴兵されるたびに逃亡する男がいた。孔子がその理由を問うと、「老いた父がおり、私が死ねば養う者がおりません。」孔子は「ほう。孝行者じゃな」と言って、将校に取り立てた。こうして考えると、父にとっての孝行息子は、君主にとっての裏切り者だ。
この結果、楚の宰相は処刑によって、国の悪党を王が知らないという政治混乱を招き、孔子は昇進させたことで、魯の民をあっさり降伏したり戦場から逃げ出すようにさせた。(『韓非子』五蠹8)
正直息子が父の羊泥棒を訴えた話は、元ネタが論語の子路篇18で、後半の話は出典が分からないが、たぶん事実ではないだろう。『韓非子』の大半は、戦国諸侯に遊説するための演説ネタ集で、面白ければどんな話でも収録するから、史実と言うより寓話だからだ。
ともあれ論語でるる孔子が説いているように、政治とは現実の処理であって、おとぎ話で済む世界ではない。腕利きが七年もかけねば軍が成り立たないとすると、ぼんやりしていると他国に攻められて国が滅ぶ。庶民教育の難しさを、論語泰伯篇9と同様に語った章と言える。
余話
(思案中)
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