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論語詳解310子路篇第十三(8)子、衛の公子荊を*

論語子路篇(8)要約:後世の創作。人物評論が大好きな孔子先生。隣国の家老として名が聞こえた人物の、記録を読んで言いました。「家政の達人だ。」先生の教説は道家の教えほど無欲を言いませんが、寡欲を先生も讃えました、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂衞公子荊善居室始有曰苟合矣少有曰苟完矣富有曰苟美矣

  • 「苟」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子謂衛公子荊善居室/始有曰苟合矣少有曰苟完矣冨有曰苟美矣

  • 「苟」字:〔艹〕→〔十十〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

謂衛公……曰,『茍合矣。』少有,331……

標点文

子謂、衞公子荊善居室。始有曰、苟合矣。少有曰、苟完矣。富有曰、苟美矣。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文衛 金文公 金文子 金文荊 金文 善 金文居 挙 舉 金文室 金文  始 金文有 金文 曰 金文 合 金文矣 金文  少 金文有 金文 曰 金文 苟完矣 金文 富 甲骨文有 金文 曰 金文 美 金文矣 金文

※富→(甲骨文)。論語の本章は「苟」「完」字が論語の時代に存在しない。「始」「合」「美」字の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

ゑい公子こうしけいふ、おくれり、はじめてるに、いはく、かりなりすこしくるにいはく、かりそなうるなりゆたかるにいはく、かりなりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が、衛国の公子・荊について評論した。「居住まいが上手だった。初めて(家具を)得た時、”とりあえず間に合った”と言い、少し(家具が)増えた時、”とりあえず揃った”と言い、大いに(家具を)得た時、”とりあえず整った”と言った。」

意訳

孔子 人形
衛国の公子荊どのは、家政に長けたお人だった。初めて財産を得た時、「とりあえず間に合った」と言い、財産が増えだした時、「とりあえず揃った」と言い、大いに富んでからも、「とりあえずよろしい」と言った。欲を張らず、富貴は時の運と心得ておられたのだな。

従来訳

下村湖人

衛の公子荊のことについて、先師がいわれた。――
「あの人は家庭経済をよく心得て、奢らなかった人だ。はじめ型ばかり家財があった時に、どうなり間にあいそうだといい、少し家財がふえると、どうやらこれで十分だといい、足りないものがないようになると、いささか華美になりすぎたといった。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子評論衛國的公子荊:「善於居家理財,開始有點積蓄時,他說:『湊合著夠了』;稍多時,他說:『可算錢多了』;富有時,他說:『可算完美了』。」

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孔子が衛の公子荊を評論した。「家に居てよく家産を治めた。少し蓄えが出来た頃、彼は言った。”必要に近づいた”。やや増えたとき、彼は言った。”金が貯まったと言える”。富んだとき、彼は言った。”全てよくなった”と。」

論語:語釈

、「 、『 。』 、『 。』 、『 。』」


子(シ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生”。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”~と評価する”。本来の語義は、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

衞(エイ)

衛 甲骨文 衛 字解
(甲骨文)

論語の本章では、孔子の生国・魯の北にあった中規模諸侯国。

新字体は「衛」。初出は甲骨文。中国・台湾・香港では、新字体がコード上の正字として扱われている。甲骨文には、「韋」と未分化の例がある。現伝字体につながる甲骨文の字形は、「方」”首かせをはめられた人”+「行」”四つ角”+「夂」”足”で、四つ角で曝された奴隷と監視人のさま。奴隷はおそらく見せしめの異民族で、道路を封鎖して「入るな」と自領を守ること。のち「方」は「囗」”城壁”→”都市国家”に書き換えられる。甲骨文から”守る”の意に用い、春秋末期までに、国名・人名の例がある。詳細は論語語釈「衛」を参照。

公子荊(コウシケイ)

魯の隣国、衛の公子=国君の子。あざ名は南楚。『世族譜』によると、献公の子という。公子荊については、『春秋左氏伝』襄公二十九年(BC544)の条に記載がある。

呉公子札来聘…適衛、説蘧瑗キョエン、史狗、史鰌シシュウ、公子荊、公叔発、公子朝。曰、「衛多君子、未有患也。」

呉の公子季札が衛に行き、蘧伯玉、史狗、史鰌、公子荊、公叔発、公子朝と会談した。いわく、「衛には人材が揃っている。だから内乱が起きていないのですね。」

ほぼ同文が、『史記』の呉世家にも記されている。BC544はBC551生まれの孔子の少年期で、公子荊は孔子より一世代か二世代年長と思われる。上記『左伝』に名がある人物のうち、蘧伯玉はのちに孔子と顔合わせし、その保護者になったことが『史記』『左伝』から確認できる。

呉の公子季札とは、南方の新興国・呉の貴人で、斉・魯・鄭・衛・晋を歴訪し、音楽の教養や観察力に優れた賢者として登場する。その発言で衛のお偉方を褒めているからと言って、公子荊の人となりが分かるわけではないが、少なくとも悪口は言われていない。

なお同名の公子荊は、後に孔子の同世代人として魯国にもいた。清儒・王鳴成は『蛾術篇』に「春秋の末、魯にも公子荊がおり、哀公の庶子だった。取るに足りない人なので、論語の本章では特に衛の字を付けて区別した」と書いた、と『論語集釋』に引く。ただしリンク先のデータでは確認できなかった。

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

荊 金文 荊 字解
(金文)

「荊」の初出は西周早期の金文。字形は×形または〔开〕”いばら”+〔刀〕。草深い辺境を切り拓くさま。西周・春秋の金文では単独、または「楚荊」と記して地名に用いた。詳細は論語語釈「荊」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”上手に”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”座る”→”住む”。「善居」で衣食住のうち、住まい方が達者であるの意。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

室(シツ)

室 甲骨文 室 字解
(甲骨文)

論語の本章では”居間 ”→”住まい”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。

始(シ)

始 金文 始 字解
(金文)

論語の本章では”はじめ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。ただし字形は「㚸 外字」。字形は「司」+「女」+〔㠯〕”農具のスキ”。現伝字形の初出は西周末期の金文。ただし部品が左右で入れ替わっている。女性がスキをとって働くさま。原義は不詳。金文で姓氏名に用いられた。詳細は論語語釈「始」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(住居を)手に入れる”。字の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

苟(コウ)

苟 隷書 苟 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”とりあえず”。初出は戦国の竹簡または金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「句」で、原義は不明。「敬」の古形である「茍」とは別字。『大漢和辞典』の第一義は”かりそめ・かり”。伝統的読み下しでは「いやしくも」と読むが、もはや誤解を招くだけの読みと思う。戦国の竹簡では、”少しでも”の意に用いた。詳細は論語語釈「苟」を参照。

合*(ゴウ)

合 甲骨文 合 字解
(甲骨文)

論語の本章では”間に合う”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。字形は〔亼〕”あつめる”+〔𠙵〕”くち”で、人々の言葉を合わせるさま。容量の単位の場合、漢音は「コウ」。甲骨文の用例では、占いが”合致する”と解せるものが多い。西周の金文では「會」(合)と釈文される用例がある。春秋の金文では”合致する”の用例があり、”間に合わせる”の語義は、戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「合」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では”~し終える”→”~した”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

少(ショウ)

少 甲骨文 少 字解
(甲骨文)

論語の本章では”少しだけ”。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɕi̯oɡ(上/去)。字形は「∴」で”小さい”を表す「小」に一点足したもので、細かく小さいさま。原義は”小さい”。金文になってから、”少ない”、”若い”の意を獲得した。詳細は論語語釈「少」を参照。

完*(カン)

完 秦系戦国文字 完 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”揃う”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。戦国楚竹簡にも見える。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は〔宀〕”屋根”+頭を下げた人。任務の完了を報告するさまか。戦国楚竹簡に”終える”の意が、戦国最末期「睡虎地秦簡」に”まったく”の意が見える。詳細は論語語釈「完」を参照。

富(フウ)

富 甲骨文 富 字解
(甲骨文)

論語の本章では”たくさんある”。初出は甲骨文。字形は「冖」+「フ」は呉音。「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。

美(ビ)

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”整った”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史から戦国時代以降の創作と判断するしかないが、創作の動機が明らかでなく、何らかの伝説を伝える話かもしれない。

本章に見える「苟合」の語は、前漢中期の『塩鉄論』では、”本心をごまかして調子を合わせている”の意で用いられている。

いずれにせよ論語の本章は、後世の創作として扱うしかない。

解説

モノにあふれた生活を送る現代人と異なり、春秋時代の生活は小箱一つとっても人力で木を切り倒し製材し裁断し細工してようやく出来るもので、家具は貴重品だった。仮に論語の本章が何らかの史実を伝えているとするなら、公子というから殿様の家に生まれても、自家に十分な家財をそろえるのは容易ではなかったことをうかがわせる。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子謂衛公子荊善居室註王肅曰荊與蘧瑗史鰌竝為君子也始有曰苟合矣少有曰苟完矣富有曰苟美矣


本文「子謂衛公子荊善居室」。
注釈。王粛「公子荊、蘧瑗、史鰌はみなひとかどの君子だった。」

本文「始有曰苟合矣少有曰苟完矣富有曰苟美矣」。

新注『論語集注』

子謂衛公子荊,「善居室。始有,曰:『苟合矣。』少有,曰:『苟完矣。』富有,曰:『苟美矣。』」公子荊,衛大夫。苟,聊且粗略之意。合,聚也。完,備也。言其循序而有節,不以欲速盡美累其心。楊氏曰:「務為全美,則累物而驕吝之心生。公子荊皆曰苟而已,則不以外物為心,其欲易足故也。」


本文「子謂衛公子荊,善居室。始有,曰:苟合矣。少有,曰:苟完矣。富有,曰:苟美矣。」

公子荊は衛の大夫である。苟とは、乏しく粗雑であるの意である。合とは集まるの意である。完とは備わるの意である。家財が揃っていく過程に従って節度を守り、早く手に入れようとか欲張らず、贅沢しようとか考えなかったというのである。

楊時「すべてが備わるよう努めると、必ずものを得るに従って物惜しみする心が芽生える。公子荊はいつも”とりあえず”と言っていたのだから、ものがあることで安心しなかった。これは質素に済ませるので満足するよう心がけたからである。」

楊時のど腐れようはこれまでたびたび記してきた。宋儒の想像を絶する強欲と傲慢、無慈悲については、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

儒者が注釈とか称して、ただの感想文を論語に書き付けた例をこれまでいくつも記したが、本当に感想文のつもりで書いた感想文もありはする。『論語集釋』では自分の言葉で感想を記す代わりに、前漢・劉向の『説苑』を引用している。

智襄子為室美,士茁夕焉,智伯曰:「室美矣夫!」對曰:「美則美矣,抑臣亦有懼也。」智伯曰:「何懼?」對曰:「臣以秉筆事君,記有之曰:高山浚源,不生草木,松柏之地,其土不肥,今土木勝,人臣懼其不安人也。」室成三年而智氏亡。

劉向
晋の智襄子(智伯)が立派な部屋を造り、家臣の士サツが夕方の挨拶にやって来た。
智伯「どうじゃすごいじゃろう。」
士茁「すごいはすごいですが、私は心配です。」
智伯「何がじゃ?」
士茁「私は旦那様の書記を務めておりますが、こう書いたことがあります。”高すぎる山や深すぎる水には、草木は生えず、神聖なマツやヒノキの林は、土地がやせている”と。今このように立派過ぎる建築を行ったことは、家臣を務める者としては、不安でたまらないのです。」

果たして完成の三年後、智氏は滅びた。(『説苑』貴徳28)

智襄子とは晋の権臣で、家老の中では最大勢力だったが、あまりに他の家老を馬鹿にしたので、趙・魏・韓三氏の袋だたきに遭って滅びた。儒教的お説教の種にするには好都合の人物だから、創作と思いきや、ほぼ同内容を史書の『国語』が記している

劉向
ただし浚源si̯wən(去)ŋi̯wăn(平)→峻原si̯wən(去)ŋi̯wăn(平)”けわしい高原”になっている。全く同音。浚源”深い水たまり”に草木が生えるとは考えがたいから、劉向のもったいぶった修辞だろう。漢文が暗号化していく一つの例がここに見られる。

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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