論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子謂衞公子荊、「善居室、始有、曰、苟合矣。少有、曰、苟完矣。富有、曰、苟美矣。」
校訂
定州竹簡論語
子謂衛公……曰,『茍合矣。』少有,331……
復元白文
※矣→已・完→丸(甲骨文)・富→畐。
書き下し
子衞の公子荊を謂ふ、善く室に居れり、始めて有るに、曰く、苟に合る矣、少しく有るに曰く、苟に完うる矣、富に有るに曰く、苟に美し矣と。
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逐語訳
先生が、衛国の公子・荊について評論した。「見事に奥部屋に座っていた。初めて家産を得た時、”とりあえず間に合った”と言い、少し家産が増えた時、”とりあえず揃った”と言い、大いに家産を得た時、”とりあえずよろしい”と言った。」
意訳
衛国の公子荊どのは、家政に長けたお人だった。初めて財産を得た時、「とりあえず間に合った」と言い、財産が増えだした時、「とりあえず揃った」と言い、大いに富んでからも、「とりあえずよろしい」と言った。欲を張らず、富貴は時の運と心得ておられたのだな。
従来訳
衛の公子荊のことについて、先師がいわれた。――
「あの人は家庭経済をよく心得て、奢らなかった人だ。はじめ型ばかり家財があった時に、どうなり間にあいそうだといい、少し家財がふえると、どうやらこれで十分だといい、足りないものがないようになると、いささか華美になりすぎたといった。」
現代中国での解釈例
孔子評論衛國的公子荊:「善於居家理財,開始有點積蓄時,他說:『湊合著夠了』;稍多時,他說:『可算錢多了』;富有時,他說:『可算完美了』。」
孔子が衛の公子荊を評論した。「家に居てよく家産を治めた。少し蓄えが出来た頃、彼は言った。”必要に近づいた”。やや増えたとき、彼は言った。”金が貯まったと言える”。富んだとき、彼は言った。”全てよくなった”と。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
謂
論語の本章では”評論する”。同じ「いう」でも、「謂」は品定めして結論を言うこと。詳細は論語語釈「謂」を参照。
公子荊
「荊」(金文)
魯の隣国、衛の公子=国君の子。あざ名は南楚。『世族譜』によると、献公の子という。吉川本に「他の文献に見えないが」とあるのは、怠惰な吉川の勉強不足。公子荊については、『春秋左氏伝』襄公二十九年(BC544)の条に記載がある。
呉公子札来聘…適衛、説蘧瑗、史狗、史鰌、公子荊、公叔発、公子朝。曰、「衛多君子、未有患也。」
呉の公子季札が衛に行き、蘧伯玉、史狗、史鰌、公子荊、公叔発、公子朝と会談した。いわく、「衛には人材が揃っている。だから内乱が起きていないのですね。」
ほぼ同文が、『史記』の呉世家にも記されている。BC544はBC551生まれの孔子の少年期で、公子荊は孔子より一世代か二世代年長と思われる。上記『左伝』に名がある人物のうち、蘧伯玉はのちに孔子と顔合わせし、その保護者になったことが『史記』『左伝』から確認できる。
呉の公子季札とは、南方の新興国・呉の貴人で、斉・魯・鄭・衛・晋を歴訪し、音楽の教養や観察力に優れた賢者として登場する。その発言で衛のお偉方を褒めているからと言って、公子荊の人となりが分かるわけではないが、少なくとも悪口は言われていない。
なお同名の公子荊は、後に孔子の同世代人として魯国にもいた。清儒・王鳴成は『蛾術篇』に「春秋の末、魯にも公子荊がおり、哀公の庶子だった。取るに足りない人なので、論語の本章では特に衛の字を付けて区別した」と書いた、と『論語集釋』に引く。ただしリンク先のデータでは確認できなかった。
「荊」の字の初出は西周早期の金文。カールグレン上古音はki̯ĕŋ(平)。いばら、刑罰のむちをつくる木のこと。詳細は論語語釈「荊」を参照。
善居室
直訳すると”みごとに奥の部屋に住まった”。「室」とは家族の私的生活を送る一番奥の部屋で、寝室に用いた。従って”私生活に不満を言わなかった”とも解せるし、”家政を見事に取り仕切った”とも解せる。
苟(コウ)
「まことに」と読み下す本もあるが、文脈から賛成できない。『大漢和辞典』の第一義も”かりそめ”となっている。
通説ではこの文字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しないが、西周早期の金文に遡り得る。詳細は論語語釈「苟」を参照。
合・完・美
「合」「美」(金文)
『学研漢和大字典』によると、「合」の原義は蓋と入れ物がピタリと”合う”こと、「美」の原義は見事なヒツジで、立派なこと、すばらしい事。武内本は「合」を、「足と同意」という。詳細は論語語釈「合」を参照。
「完」は論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はɡʰwɑn(平)。同音は桓、完を部品とする漢字群など多数。うち丸(平)の甲骨文を『字通』が載せ、”まったい”の語釈を大漢和辞典が載せる。
「完」(古文1・古文2・秦系戦国文字)
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、要素の元は、まるい頭を描いた象形文字。完は「宀(やね)+(音符)元」で、まるくとり囲んで欠け目なく守るさまを示す。垣(周囲をとり巻いたかき)・円(まるく欠け目がない)などと同系の言葉。類義語の全は、すべてそろっていること、という。詳細は論語語釈「完」を参照。
この字解は、秦系戦国文字には当てはまるが、古文には適合しない。この点『字通』は、「廟中の儀礼を示す字。元は人の頭部を強調する形。廟中で元服する儀式を冠といい、完に手を加える形」という。古文2はそれを示しているのだろうか。だが古文1には適合しない。
結局、「合」を”必要に適合する。間に合う”と解し、「完」を”備わる。足りる”と解し、「美」を”よろしい。すばらしい”と解するしかない。論語語釈「美」も参照。
苟美矣
吉川本によると、荻生徂徠は「美なりとは、文采有るを謂う也」(美なりとは、文化人らしい生活になったというのである)と注を付けたという。その根拠はないから、徂徠の思い付きに過ぎない。
富
(金文・篆書)
論語の本章では”富む”。この文字の初出は上掲戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はpi̯ŭɡ。同音に不、否。部品の畐(カ音・藤音不明)に”満ちる”の語釈を『大漢和辞典』が載せており、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「富」を参照。
論語:解説・付記
儒者が注釈とじゃ称して、ただの感想文を論語に書き付けた例をこれまでいくつも記したが、本当に感想文のつもりで書いた感想文もありはする。『論語集釋』では自分の言葉で感想を記す代わりに、前漢・劉向の『説苑』を引用している。
智襄子為室美,士茁夕焉,智伯曰:「室美矣夫!」對曰:「美則美矣,抑臣亦有懼也。」智伯曰:「何懼?」對曰:「臣以秉筆事君,記有之曰:高山浚源,不生草木,松柏之地,其土不肥,今土木勝,人臣懼其不安人也。」室成三年而智氏亡。
晋の智襄子(智伯)が立派な部屋を造り、家臣の士茁が夕方の挨拶にやって来た。
智伯「どうじゃすごいじゃろう。」
士茁「すごいはすごいですが、私は心配です。」
智伯「何がじゃ?」
士茁「私は旦那様の書記を務めておりますが、こう書いたことがあります。”高すぎる山や深すぎる水には、草木は生えず、神聖なマツやヒノキの林は、土地がやせている”と。今このように立派過ぎる建築を行ったことは、家臣を務める者としては、不安でたまらないのです。」
果たして完成の三年後、智氏は滅びた。(『説苑』貴徳28)
智襄子とは晋の権臣で、家老の中では最大勢力だったが、あまりに他の家老を馬鹿にしたので、趙・魏・韓三氏の袋だたきに遭って滅びた。儒教的お説教の種にするには好都合の人物だから、創作と思いきや、ほぼ同内容を史書の『国語』が記している。
ただし浚源si̯wən(去)ŋi̯wăn(平)→峻原si̯wən(去)ŋi̯wăn(平)”けわしい高原”になっている。全く同音。浚源”深い水たまり”に草木が生えるとは考えがたいから、劉向のもったいぶった修辞だろう。漢文が暗号化していく一つの例がここに見られる。
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