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論語詳解311子路篇第十三(9)子衛にゆく*

論語子路篇(9)要約:隣国の衛を訪れた孔子先生と、馬車の手綱を取る冉有ゼンユウ。余りの人出の多さに、師弟は驚きの声を上げます。もちろん先生は、衛国で政治をとる気は満々でした。「何から始めます?」と冉有に聞かれた先生は…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子適衞冉有僕子曰庶矣哉冉有曰旣庶矣又何加焉曰富之曰旣富矣又何加焉曰敎之

校訂

東洋文庫蔵清家本

子適衛冉子僕/子曰庻矣哉/冉有曰旣庻矣又何加焉曰冨之曰旣冨矣又何加焉曰敎之

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……之。」曰:「溉富者a,[有……曰:」教]之。」332

  1. 溉富者、今本作”既富矣”。

標点文

子適衞、冉子僕。子曰、「庶矣哉。」冉有曰、「既庶矣、又何加焉。」曰、「富之。」曰、「溉富者、又何加焉。」曰、「敎之。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文 適 金文衛 金文 冉 金文子 金文僕 金文 子 金文曰 金文 庶 金文矣 金文哉 金文 哉 金文有 金文曰 金文  既 金文庶 金文矣 金文 又 金文何 金文加 金文 曰 金文 富 甲骨文之 金文 曰 金文  既 金文富 甲骨文者 諸 金文 又 金文何 金文加 金文 曰 金文 教 金文之 金文

※富→(甲骨文)。論語の本章は、「焉」字が論語の時代に存在しない。ただし無くともほぼ文意が変わらない。「適」「何」「加」字の用法に疑問がある。

書き下し

ゑいく、冉子ぜんししもべたり。いはく、おほなるかな冉有ぜんいういはく、すでおほなりまたなにをかくはなんいはく、これまさむ。いはく、すでたらば、またなにをかくはなんいはく、これをしへむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 冉求 冉有
先生が衛に行った。馬車の手綱を冉有が取っていた。先生が言った。「多いなあ。」冉有が言った。「まったく多いです。この人々に何をしてやりましょうか。」先生が言った。「人々を豊かにしてやろう。」冉有が言った。「豊かになったら、さらにどうしてやりましょうか。」先生が言った。「教えてやろう。」

意訳

先生が衛に行った。冉有が馬車の手綱を取っていた。
孔子「人が大勢いるなあ。」
冉有「そうですね。どうしてやります?」
孔子「財布を膨らませてやるとするかな。」
冉有「ふふ。膨らんだらどうしてやります?」

孔子 微笑み
孔子「ものを教えてやるとするかな。」

従来訳

下村湖人

先師が衛に行かれた時、冉有がお供をして馬車を御していた。先師はいわれた。――
「この国の人口は大したものだ。」
すると冉有がたずねた。――
「これだけ人が集れば結構でございますが、この上は、どういうことに力を注ぐべきでございましょう。」
先師――
「経済生活をゆたかにしてやりたいね。」
冉有――
「もし経済生活がゆたかになりましたら、その次には?」
先師――
「文教を盛んにすることだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子去衛國,冉有駕車。孔子說:「人真多啊!」冉有說:「人多了,又該做什麽?」孔子說:「使他們富起來。」「富了後,又該做什麽?」「使他們受教育。」

中国哲学書電子化計画

孔子が衛に行き、冉有が車の御者をしていた。孔子が言った。「実に人が多いな!」冉有が言った。「人が多いですね、ではどうしましょう?」孔子が言った。「皆を富ませてやるかな。」「富んだ後は、どうなさいます?」「皆を教育してやろう。」

論語:語釈

() 、「 。」 、「 。」、「 。」、「溉(旣) ()、 。」、「 。」

子(シ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生”。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

適(テキ)

適 楚系戦国文字 適 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”行く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周の金文。ただし字形は「啻」。現行字形の初出は戦国文字。同音は存在しない。字形は〔辶〕+「啇」。「啇」の古形は「啻」で、「啻」は天の神を祭る禘祭を意味した。おそらく神意にかなうことから、「適」の原義は”かなう”。詳細は論語語釈「適」を参照。

衞(エイ)

衛 甲骨文 衛 字解
(甲骨文)

論語の本章では、孔子の生国・魯の北にあった中規模諸侯国。

新字体は「衛」。初出は甲骨文。中国・台湾・香港では、新字体がコード上の正字として扱われている。甲骨文には、「韋」と未分化の例がある。現伝字体につながる甲骨文の字形は、「方」”首かせをはめられた人”+「行」”四つ角”+「夂」”足”で、四つ角で曝された奴隷と監視人のさま。奴隷はおそらく見せしめの異民族で、道路を封鎖して「入るな」と自領を守ること。のち「方」は「囗」”城壁”→”都市国家”に書き換えられる。甲骨文から”守る”の意に用い、春秋末期までに、国名・人名の例がある。詳細は論語語釈「衛」を参照。

冉有(ゼンユウ)・冉子(ゼンシ)

一度目の冉求子有の呼称を、唐石経は「冉有」と記し、清家本は「冉子」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損している。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って一度目の呼称を「冉子」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

論語 冉求 冉有

「冉有」は孔子の弟子、冉求子有のあざ名。子路が孔子の亡命前に季孫家の執事を務めたのと同様、孔子放浪中に帰国して季孫家の執事として仕え、孔子の帰国工作を行った。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

「冉有」を「冉子」と孔子と同格の敬称で呼ぶ例は、論語雍也篇4論語先進篇12論語子路篇14にも例がある。また『春秋左氏伝』哀公十一年の条に、孔子が冉有を「子」と敬称で呼んでいる例がある。冉有は冉伯牛亡き後、冉氏の頭領だったと思われ、孔子はその後援を受けていたこと、それゆえの遠慮があったことを思わせる。孔門十哲の謎も参照。

冉 甲骨文 冉 字解
「冉」(甲骨文)

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

もっとも、この時孔子に従って御者を務めた人物については異説がある。

武内義雄 子貢 問い
武内義雄『論語之研究』によると、『説苑』建本篇と漢代の碑文「熹平石経」の断片を引いて、この時孔子のお供をしたのは冉有ではなく、子貢だった可能性があるという(P.6)。子貢は衛の出身だから、この説には史実の可能性がある。

子貢問為政,孔子曰:富之,既富乃教之也,此治國之本也。

子貢が政治の実際を質問した。孔子が言った。まず豊かにしてやることだ。そうなってから、教育を始めなさい。これが国を治める基本だ。(『説苑』建本篇)

論語は現伝の姿になるまでに、何度も書き換えられ、増補を繰り返したから、いつの間にか人物が入れ替わる可能性は十分にある。ただし2023年現在では、論語の本章に後漢熹平石経の断片はあてがいが無く、論語の本章で孔子の供をしたのが子貢であると断定は出来ない。

僕*(ホク)

僕 甲骨文 僕 字解
(甲骨文)

論語の本章では”御者”。”お供”と訳しても間違いではないが、君子として孔子は車に乗っていただろうし、その一人だけのお供と言えば、御者に他ならない。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし語義が明瞭でない。字形は〔言〕”言葉”を言う人物が〔其〕”かご”に下賜品をもらい受けるさま。「ボク」は呉音。西周の金文では”御者”・”しもべ”の意、また人名の一部に用いた。春秋の金文では、人名の一部に、また”しもべ”の意に用いた。詳細は論語語釈「僕」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

庶(ショ)

庶 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(人が)多い”。初出は甲骨文。甲骨文・金文の字形は「𤇈」で「石」+「火」。原義は明らかでない。甲骨文の用例は数が少なく、欠損も激しいので、語義を確定しがたい。春秋末期までに、”多い”・”もろもろの”・”めかけばらの”の意に、また人名に用いたが、明らかに”庶民”を意味する用例は、戦国時代にならないと確認できない。詳細は論語語釈「庶」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では”~し終える”→”~ている”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠嘆の意。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

既(キ)

唐石経・清家本は全文「旣」と記し、定州竹簡論語は二度目を「溉」と記すが、『大漢和辞典』に条目が無く、「国学大師」は「灌」”水を注ぐ”・”洗う”の意に解しており、論語の本章に適用できない。従って「既」の異体字として扱うしかない。

既 甲骨文 既 字解
(甲骨文)

論語の本章では”すでに”。初出は甲骨文。字形は「ホウ」”たかつきに盛っためし”+「」”口を開けた人”で、腹いっぱい食べ終えたさま。「旣」は異体字だが、文字史上はこちらを正字とするのに理がある。原義は”…し終えた”・”すでに”。甲骨文では原義に、”やめる”の意に、祭祀名に用いた。金文では原義に、”…し尽くす”、誤って「即」の意に用いた。詳細は論語語釈「既」を参照。

又(ユウ)

又 甲骨文 又 字解
(甲骨文)

論語の本章では”さらに”。初出は甲骨文。字形は右手の象形。甲骨文では祭祀名に用い、”みぎ”、”有る”を意味した。金文では”またさらに”・”補佐する”を意味した。詳細は論語語釈「又」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

論語の本章では”何を”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

加(カ)

加 金文 加 字解
(金文)

論語の本章では”付け加える”→”足してやる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「なん」と読んで、”きっと~てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。ただし無くとも文意は大きく変わらない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

富(フウ)

富 甲骨文 富 字解
(甲骨文)

論語の本章では”財産”。「フ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。衛国の民を指す。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

敎(コウ)

教 甲骨文 教 字解
(甲骨文)

論語の本章では”教える”。新字体は「教」。台湾と香港では、「教」を正字としている。清家本も「教」と記す。「キョウ」は呉音。字形は「コウ」”算木”+「子」+「ボク」筆を執った手で、子供に読み書き計算を教えるさま。原義は”おしえる”。甲骨文では地名・人名に用い、春秋の金文では”つたえる”、戦国の金文では原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「教」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は「焉」の字を除けばすべて春秋時代に遡れる。また「焉」字は無くとも文意が大きく変わらず、字形から見て事実上「也」の異体字でもあるため、論語の本章は史実を伝えたものとして扱ってよい。

解説

衛国は、孔子が魯国で失脚し、放浪に出た際に最初に訪れた国。

衛国は孔子にとって、魯国に次ぐ第二の故郷と言っていい国で、孔子一門は国外での活動拠点を、主に衛国に置いた。孔子は衛国の家老たちと面識があり、また弟子の子路の義兄・顔濁鄒ガンダクスウは、衛国を拠点とする任侠道の大親分だった。

国公の霊公も孔子が訪れた際、ポンと111億円もの巨額の捨て扶持を与えており、その後孔子が衛を去ったのちも、いつでも戻っていいよ、という態度を示したと思われる。だからこそ孔子は放浪を切り上げて衛国に戻ったのだろうし、捨て扶持の支給も再開されたことだろう。

孔子が衛国で政治家として何か業績を残した記録はないが、その理由はおそらく、やり手の霊公の下で政界・軍事界に人材が揃っていたことだろう。代わりに子路などの弟子が衛国に仕え、無名の弟子を含めれば、衛国での孔子一門の地位は決して低くなかったと思われる。

また子路の義兄の名は上掲の通り顔濁鄒、孔子の母の名は顔徴在、一番弟子の名は顔回であることを考えると、顔氏一族と孔子には密接な関係があり、顔氏の拠点は衛国で、その頭領が顔濁鄒だった可能性がある。

さらに孔子一門の財政を支えた子貢は衛の出身であり、子貢は一説に衛の商家の出と言われるから、子貢商会(仮名)の本店が衛にあったとしても不思議はない。財政面からも孔子にとって、衛は居心地がよかっただろう。

また衛は「兄弟」と孔子が言ったほど(論語子路篇7)、孔子の生国・魯と同程度の国にもかかわらず、「人が多い」と師弟が感じ入っているのは、やり手の霊公の手腕で、それだけ人口が集まっていた、と考えられる。

論語時代の庶民は、税や労役徴収の対象として、国籍らしきものはあったが、悪政が行われた国からは気兼ねなく出て行くことが出来た。もちろん合法とは言い難く、逃げ出された国は流民を「盗」と呼んで取り締まろうとしたが、技術的制約から逃散防止は不可能だった。

権力から敵視されない流民は「客」と呼ばれ、住民が増えれば国力が増す=徴税対象が増えるので、各国は流民を徴税簿に載せて住民にしたがり、ある意味で流民は歓迎された。霊公当時の衛の庶民が、必ずしも自生えの人々ではなく、もと流民だった可能性を、『左伝』の記述が示唆している。

論語の時代、いずれの諸侯国も邑=城壁で囲まれた都市国家の連合体であり、邑の周辺は邑に隷属する農耕民だけでなく、支配に属さない流浪の集団もあった(→国野制)。『史記』孔子世家に「四方の客の邑に至る者は、有司に求めざれども、皆之にあたえ以て帰らしむ」とあるのは、支配に属さない者=客が邑へ行商に出掛け、おまわりを呼ばなくても代金を踏み倒されなくなった、の意。

孟子
流民については孔子の自称後継者・孟子が、魏の恵王と対談した際にも話題に上っている。「善政を敷いて流民を集めようとしたが、うまくいかない」と恵王はこぼしており、流民は歓迎されたことが伺える。これは論語時代、ひいては春秋戦国時代に特有の現象かも知れない。

というのは、流民は武装すれば群盗であり、群盗は規模が大きくなると反乱軍、ひいては革命軍になりかねなかった。秦以降の中国歴代王朝は、ほぼ流民によって滅ぼされており、権力にとっては決してありがたい存在ではなかった。

それが論語時代に歓迎された理由は、やはり技術的制約で、武器となる青銅の原料、とりわけスズはほとんど採掘できず、刃物は高価だった。しかし漢代になって製鋼法が発見されると、流民は容易に武装できるようになり、各王朝の心肝を寒からしめたのだった。

季康子 白川静
論語の時代に話を戻すと、筆頭家老の季康子が、孔子に「盗」の多さに愚痴を言い(論語顔淵篇18、偽作)、対して孔子は、「あなたが望まなければ、表彰してさえ盗は出ない」と言わされているが、白川静『孔子伝』では、季康子自身が「盗」を呼び寄せていたと想像している。

確かに、政治とは多数派工作であり、属人は私兵でもある。氏族の勢力を強めることになるわけで、季孫家がそうした人々を集めていたことは、『春秋左氏伝』の記述から窺える。

子家子が昭公に言った。「季氏が政治を執るようになってから長く、困った民を食べさせているのも季氏です。彼らは季氏のためなら何でもするでしょう。日が暮れたら暴れ出して、どうなるかわかりません。民衆の怒りは貯まったままでは済みません。その怒りが発酵するほど放置して置いた今、殿への怒りが爆発し、群れを成して襲いかかりますぞ。なのに今さら季氏の討伐ですか。きっと後悔なさいます。」(『春秋左氏伝』昭公二十五年

余話

(思案中)

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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