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論語詳解319子路篇第十三(17)子夏莒父の宰’

論語子路篇(17)要約:孔子一門きってのカタブツ、子夏がとあるまちの代官になります。赴任を前にして子夏は、政治のコツを先生に尋ねますが、引っ込み思案の子夏にも関わらず、意外にも「焦るな」と教えました。そのわけとは…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子夏爲莒父宰問政子曰無欲速無見小利欲速則不達見小利則大事不成

  • 「莒」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子复爲莒父宰問政/子曰毋欲速毋見小利欲速則不逹見小利則大事不成

  • 「莒」字:〔艹〕→〔十十〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……夏為莒父宰,問正。子曰:343……見小利,則大事不成。」344

標点文

子夏爲莒父宰、問「正」。子曰、「毋欲速、毋見小利。欲速、則不達。見小利、則大事不成。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文夏 金文為 金文梠 金文父 金文宰 金文 問 金文政 金文 子 金文曰 金文 無 金文谷速 金文 無 金文見 金文小 金文利 金文 谷速 金文 則 金文不 金文達 金文 見 金文小 金文利 金文 則 金文大 金文事 金文不 金文成 金文

※「莒」→「梠」・「欲」→「谷」。論語の本章は、「問」「速」字の用法に疑問がある。

書き下し

子夏しか莒父きよほさとをさり、まつりごとふ。いはく、すみやかならむことをもとむるかれ、ちひさきためかれ。すみやかならむをほつさばすなはいたらず、ちひさきためすなは大事だいじらず。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子夏 孔子
子夏が莒父のまちの代官となって、政治を問うた。先生が言った。「素早いことを求めてはならない。些細な利益に目を付けてはならない。素早いことを求めれば、必ず達成できない。些細な利益に目を付ければ、大きな業績は挙げられない。」

意訳

子夏 和み 孔子
子夏が莒父のまちの代官になったので、先生に政治の要点を尋ねた。
「焦るんじゃない。政治とは時間がかかるものだ。チマチマした業績を狙ってはならない。そんなことでは大きな業績は上がらないから。」

従来訳

下村湖人

子夏が莒父の代官となった時、政道についてたずねた。先師はこたえられた。――
「功をいそいではならない。小利にとらわれてはならない。功をいそぐと手落ちがある。小利にとらわれると大事を成しとげることが出来ない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子夏做莒父的市長,問政。孔子說:「不要衹求速度,不要貪圖小利。衹求速度,往往達不到目的;貪圖小利,就做不成大事。」

中国哲学書電子化計画

子夏が莒父の市長になって、政治を問うた。孔子が言った。「ただ素早いことだけを求めず、小さな利益を貪るな。ただ素早いことだけを求めれば、とかく目的が達成できない。小さな利益を貪れば、必ず大事が成せなくなる。」

論語:語釈

子夏(シカ)

孔子の弟子。本の虫、カタブツとして知られ、文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。主要弟子の中では若年組に属する。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

子 甲骨文 夏 甲骨文
(甲骨文)

「子」は貴族や知識人への敬称。開祖級の知識人や大夫(家老)級以上の貴族は場合は孔子や孟懿子のように「○子」”○先生”・”○さま”と呼び、弟子や一般貴族は子夏のように「子○」”○さん”と呼ぶ。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「子」を参照。

「夏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

莒*父(キョホ)

論語の本章では、どこのことだか分からない。百度百科は、魯と斉に挟まれた小国、莒のことだというが、曲がりなりにも莒国はこの時存続していて、BC431に楚に滅ぼされるまで独立国だった。

地図 斉

出典:http://shibakyumei.web.

『左伝』定公十四年(BC496)の経文に、「莒父及霄(ショウ)に城(きず)く」とあり、この年孔子は魯国で失脚して放浪の旅に出る。従って本章の時間軸はBC484に孔子が帰国してから後の事になる。つまり莒父はまだ築かれてから10年を過ぎた程度の若いまちだった。

莒 篆書 梠 金文
(篆書)/「梠」(春秋金文)

「莒」の確実な初出は後漢の篆書。ただし「梠」の字形で春秋の金文にも見える。字形は〔艹〕+音符〔呂〕。春秋の金文では「梠」以外の複数の漢字が「莒」と釈文されている。上古音の同音は「筥」”はこ”のみ。本章での「ホ」の音は、”(父親でない)年長者”の意での慣用音で、漢音は「フ」。春秋の金文「梠」は地名(諸侯国名)「莒」と解せる。詳細は論語語釈「莒」を参照。

父 甲骨文 父 字解
(甲骨文)

「父」の初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。

宰(サイ)

宰 甲骨文 宰 字解
(甲骨文)

論語の本章では”執事”。一家の取り締まりを行う、家臣の長。領地の「宰」は”代官”を意味し、一家の「宰」は”執事”を意味する。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

論語時代の諸侯国は、邑=城壁で囲まれた都市国家の連合体であり、邑の領主を卿といい、国公に次ぐ身分だった(→春秋時代の身分秩序)。だが卿は国政を取り仕切る大臣でもあり、自領の邑には代官を派遣することが多かった。これは国公の直轄地でも同様である。

宰とは、もと肉を切り分けるさまをいい、祭祀の肉を切り分けることは、祭祀を主催することに他ならないので、とりまとめ役を意味するようになった。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

政(セイ)→正(セイ)

論語の本章では”政治”。唐石経・清家本では「政」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語では「正」と記す。時系列に従い「正」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

政 甲骨文 正 甲骨文
「政」(甲骨文)/「正」(甲骨文)

「政」の初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「コン」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。

「正」の初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。甲骨文では「正月」をすでに年始の月とした。また地名・祭礼名にも用いた。金文では、”征伐”・”年始”のほか、”長官”、”審査”の意に用いた。”正直”の意は戦国時代の竹簡からで、同時期に「征」”徴税”の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

前漢宣帝期の定州竹簡論語が「正」と記した理由は、恐らく前王朝・秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱ヒキ)。前漢帝室の公式見解では、漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、秦帝国の正統な後継者と位置づけていた。

だから前漢の役人である司馬遷は、高祖劉邦と天下を争った項羽を本紀に記し、あえて正式の中華皇帝として扱った。項羽の残虐伝説が『史記』に記され、劉邦の正当性を訴えたのはそれゆえだ。そう書かなければ司馬遷は、ナニだけでなくリアルに首までちょん切られた。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

無(ブ)→毋(ブ)

論語の本章では”~するな”。現存最古の論語本である定州竹簡論語ではこの部分を欠損し、唐石経は「無」と記し、清家本は「毋」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って「毋」へと校訂した。論語之伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

「無」の初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

毋 金文 毋 字解
(金文)

「毋」は戦国時代以降「無」を意味する言葉として用いられた。初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

速(ソク)

速 甲骨文 速 字解
(甲骨文)

論語の本章では”すみやか”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。字形:甲骨文の字形は〔夂〕”あし”+〔東〕”ふくろ”。金文から〔彳〕”みち”が加わる。原義不明だが、「東」に”袋に詰める”→”集める”の意があり、春秋の金文が人々を”呼び集める”と解しているのには無理が無い。甲骨文の用例は断片化しており明瞭でない。西周の金文ではおそらく人名に用いた。春秋の金文の用例は”招き呼ぶ”と解されている。”はやい”の語義が見られるのは戦国の竹簡から。詳細は論語語釈「速」を参照。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”→”気にする”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

小(ショウ)

小 甲骨文 小 字解
(甲骨文)

論語の本章では”小さい”。初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。

利(リ)

利 甲骨文 利 字解
(甲骨文)

論語の本章では”利益”。初出は甲骨文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「刀」”刃物”。大ガマで穀物を刈り取る様。原義は”収穫(する)”。甲骨文では”目出度いこと”、地名人名に用い、春秋末期までの金文では、加えて”よい”・”研ぐ・するどい”の意に用いた。詳細は論語語釈「利」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~すると~”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

達(タツ)

達 甲骨文 達 字解
(甲骨文)

論語の本章では仕事を”成し遂げる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は↑+「止」”あし”で、歩いてその場にいたるさま。原義は”達する”。甲骨文では人名に用い、金文では”討伐”の意に用い、戦国の竹簡では”発達”を意味した。詳細は論語語釈「達」を参照。

大賓(タイ)

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

論語の本章では”大きな”。初出は甲骨文。字形は人の正面形で、原義は”成人”。甲骨文から”大きい”・”成人”の意に用いた。「ダイ」は呉音。詳細は論語語釈「大」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”仕事”→”業績”。字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

成(セイ)

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

論語の本章では”成し遂げる”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は置換字がありながらも全文春秋時代まで遡れ、内容的にも後世の作為らしき点が見当たらない。史実の孔子と子夏の対話とみて差し支えない。

解説

子夏について詳細はリンク先をご覧頂くとして、論語先進篇15で、過ぎたるは猶及ばざるが如しの「及ばない」とされた人物で、石頭で融通が利かず、引っ込み思案だったとされる。それゆえに孔子の「チマチマするな」という教えになるのだが、子夏には「及ばない」自覚もあったようで、それゆえ「焦るな」と孔子は言ったわけ。

ここで孔子が「焦るな」と諭したことについて、孔子は度々「政治なら一年で実績を上げてみせる」といい(論語子路篇10)、『史記』など他人の目からも、たった三ヶ月で実績を挙げたことが知れる。しかしそれらは孔子が初めて行政官になった50代初頭のことで、十数年に及ぶ放浪から帰った後の本章の時点では、引っ込み思案の子夏にさえ焦らないことを教えるほど、政治に関して老成したと言っていいだろう。

なおここからは仮定だが、莒父が百度の言う通り莒国の都城であったり、そうでないにしても莒に近いどこかだとすれば、本章の「大事」とは何かに意味が付け加わる。地図にあるように、莒あたりの莒父(仮名)は南方の呉が斉を攻める時の通過点であり、港町の琅邪ロウヤと魯の都城・曲阜との中間にあることから、呉と魯をつなぐ交通の要衝であったと分かる。

485 10 67 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す。陳から衛に入る〔衛世家〕 呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧に殺され簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 68 孔文子に軍事を尋ねられる。衛を出て魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝 呉・伍子胥、呉王夫差に迫られて自殺
483 12 69 もう弟子ではないと冉有を破門 季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする
482 13 70 息子の鯉、死去 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗

孔子の帰国の前年、呉は斉を攻めるに当たって水軍で押し寄せたことが史書の記録にあり、おそらくは琅邪を占拠して通過しただろう。そして呉は孔子一門との関係が深い国であり、その王・夫差を、孔子が焚き付けて覇者にしようとした形跡がある。

子夏は石頭の古典研究家にも関わらず、その子夏が莒父の代官になったとすると、孔子の差し金ではないかと考えたくなる。政治に才のある子路や冉有、子貢たちは、とうの昔に仕官していたから、孔子の手元には持ち駒がなかった。石頭ゆえに政治的な信用を置けたのだろう。

なお子夏はおとなしいと言っても、そこは春秋時代の君子であり、孔子と次のような物騒な問答を交わした伝説がある。

子夏 和み 孔子 キメ
子夏「親の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「市場の近くで小屋がけし、楯を枕に寝なさい。仕官はせず、仇討ちに専念しなさい。仇を生かしておいてはならない。そ奴がノコノコと朝市にやって来たら、その場でバッサリ討ち果たし、家に武器を取りに帰って取り逃すことのないように。」

子夏「兄弟の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「仕官してもいいが、仇と同じ国に仕えてはならない。もし君命で仇と顔を合わせることがあっても、我慢して撃ちかかったりしないように。」

子夏「いとこの敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「自分から撃ちかかってはならない。もし主人が仇を討つなら、その時は武器を取って主人の助太刀をしなさい。」(『孔子家語』曲礼子夏問1)

余話

(思案中)

『論語』子路篇:現代語訳・書き下し・原文
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