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論語詳解034為政篇第二(18)子張禄にいたるを*

論語為政篇(18)要約:後世の創作。公務員予備校でもあった孔子塾。弟子の中でも若い子張は就職マニュアルに首っ引き。しかし孔子先生の見るところ、子張くんは役人には向いていません。後世の儒者も悪口を言い放題。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子張學干祿子曰多聞闕疑愼言其餘則寡尤多見闕殆愼行其餘則寡悔言寡尤行寡悔祿在其中矣

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子張學亍祿/子曰多聞闕疑愼言其餘則寡尤/多見闕殆愼行其餘則寡悔/言寡尤行寡悔祿在其中矣

※「亍」は「宁」”たたずむ”ではなく「于」”いたる”の異体字。

後漢熹平石経

…子…行寡悔…

定州竹簡論語

……[祿。子曰:「多聞闕疑,慎言其餘;則寡尤;多]23……殆,慎行其餘,則□□□□尤,行寡悔,祿在其中24……

標点文

子張問亍祿。子曰、「多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤。多見闕殆、愼行其餘、則寡悔。言寡尤、行寡悔、祿在其中矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆学 學 金文于 金文禄 金文 子 金文曰 金文 多 金文聞 金文疑 金文 慎 金文言 金文其 金文余 金文 則 金文寡 金文尤 金文 多 金文見 金文 慎 金文行 金文其 金文余 金文 則 金文寡 金文每 金文 言 金文寡 金文尤 金文 行 金文寡 金文每 金文 禄 金文在 金文其 金文中 金文矣 金文

※張→金文大篆・悔→毎。論語の本章は、「闕」「殆」が論語の時代に存在しない。「祿」「其」「餘」「尤」「行」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の創作である。

書き下し

子張しちやう祿くらゐいたるをまなぶ。いはく、おほきてうたがはしきをき、つつしみてあまりはば、すなはとがめすくなし。おほあやふきをき、つつしみてあまりおこなはば、すなはくいすくなし。ことのはとがめすくなく、おこなひくいすくなからば、祿くらゐうちん。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
子張が官職に就く法を研究していた。先生が言った。「たくさん聞いて疑わしい話を取り除き、慎重に残った事柄を言うなら、めったに非難されることがない。たくさん見て頼りない事柄を取り除き、慎重に残った事柄を行うなら、めったに後悔することがない。発言への非難も行動への後悔も少いから、官職はきっとその中にある。」

意訳

孔子 人形 論語 子張 人形
就職のコツ。
多く情報を集めて、確かなことだけ言ったりやったりすれば、自然によい職がやって来る。

従来訳

下村湖人

子張(しちょう)は求職の方法を知りたがっていた。先師はこれをさとしていわれた。――
「なるだけ多く聞くがいい。そして、疑わしいことをさけて、用心深くたしかなことだけを言つておれば、非難されることが少い。なるだけ多く見るがいい。そして、あぶないと思うことをさけて、自信のあることだけを用心深く実行しておれば、後悔することが少い。非難されることが少く、後悔することが少ければ、自然に就職の道はひらけて来るものだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張學做官,孔子說:「多聽,不要說沒把握的話,即使有把握,說話也要謹慎,就能減少錯誤;多看,不要做沒把握的事,即使有把握,行動也要謹慎,則能減少後悔。說話錯少,行動悔少,就能當好官了。」

中国哲学書電子化計画

子張が官職のありつき方を調べていた。孔子は言った。「よく人の話を聞き、理解していない話はするな。そうすればものごとが分かる。話すにも慎重にしろ。そうすれば間違いを減らせる。よく観察し、理解できないことはするな。そうすればものごとが分かる。行動も慎重にしろ。そうすれば後悔を減らせる。口に出したことに間違いが少なく、行動に悔いが無ければ、すぐさま旨味の多い官職にありつける。」

論語:語釈


子張

子 甲骨文 張 金文
「子」(甲骨文)・「張」(金文大篆)

孔子の弟子。BC503-?。子張は字、姓は顓孫(せんそん)、名は師。陳国出身。孔子より48年少。子張は孔門十哲に含められていないが、『論語』では子路子貢に次いで出現回数が多い。有名な「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「過」(やり過ぎ)と評価された(論語先進篇15)。詳細は論語の人物・子張参照。

「子」とは貴族や知識人に対する敬称で、孔子のように開祖級の知識人は「○子」と呼び、子張のようにその弟子レベルの知識人は「子○」と呼ぶ。文字の初出は甲骨文。字形は生まれたばかりの赤子の象形。詳細は論語語釈「子」を参照。

「張」の字は初出が戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音に長とそれを部品に持つ漢字群。固有名詞のため、同音近音のいかなる字も論語時代の置換候補となるから、復元ではとりあえず秦代の大篆で表記した。戦国文字の字形は「弓」+「長」で、弓に長い弦を張るさま。原義は”張る”。戦国の金文に氏族名で用いた例がある。詳細は論語語釈「張」を参照。

姓の顓孫とは、顓なる人物の末裔を意味する。中国史では、超古代にセンギョクという聖王がいたことになっているが、もちろん儒者のラノベである。名の「師」は、”軍隊”がその原義。それもまとまった数の軍隊で、「師団」というのはここから来ている。しずかなること林の如くとはいかず、ゆえに「師」には”にぎやか”の意がある。だから人の多い首都を京師という。
あをによし

あざ名の子「張」には、言うまでも無く”盛大”の意味がある。本名とあざ名の呼応をかこつければ、こんなところになるだろうか。その名の通り、”やり過ぎ”子張は弟子仲間から、ちょっとイタい人扱いを受けていた形跡がある。そして仕官や学問業績の記録も無い。

だが孔子はそんな子張を可愛がった。孫ほど年が離れていた上に、何か教えればすぐさま、帯の垂れなど手近な物にメモ書きしたからである。教師としては嬉しい人物で、だから孔門十哲ではないにも関わらず、多くの言葉が論語に残り、あまつさえ子張篇まで出来上がった。

なおその子張をイタい者扱いしたのは、教えてもメモも取らなかった曽子である。

さらに子張はそのあざ名「張」の字は論語の当時にさかのぼれないが、澹台滅明タンダイメツメイと違って「人物そのものが実在しなかった」では論語が崩壊する。荀子の証言にも戦国時代に子張派があったというから、おそらく戦国時代になってから付けられた、「あざ名」ではなく「あだ名」の”出しゃばりな奴”だろう。

弟陀其冠、衶禫其辭、禹行而舜趨、是子張氏之賤儒也。

荀子
冠を縮こまらせ、口数を減らして立場をごまかし、いにしえの聖王の掟だと言いながら、奇妙な歩きや小走りを見せつけるのが、子張の系統を引く腐れ儒者だ。(『荀子』非十二子篇)

あだ名を付けたのはもちろん曽子派で、多分孟子である。しかも漢帝国の官僚儒者は、もれなく曽子→孟子派の系統だから、論語編集の過程で呼び名が子張に統一されたと考えるのが、最も単純と考える。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”研究する”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

『史記』弟子伝子張条では「問」になっている。武内本が「學の字古問と同義」と言うのは春秋末期以前に用例が無いから賛同しがたい。定州竹簡論語はこの部分が欠損しており物証とならない。古注では「學」(学)になっている。

『史記』の成立は前漢武帝期で、定州竹簡論語が成立した宣帝期より先行する。現存世界最古の『史記』は現在のところ、戦国武将の直江兼続が所蔵していた南宋本で、参照すると「問」と記している。下掲右頁後ろから四行目。

南宋版『史記』

南宋版『史記』©国立歴史民俗博物館

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。「問」の原義は実は分からない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

干(カン)→于(ウ)

現存最古の定州竹簡論語にはこの部分を欠き、論語の本章について現存最古の古注本である清家本は、東洋文庫蔵・宮内庁蔵ともに「于」の異体字「亍」と記す。これに従い校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

干 甲骨文 干 字解
(甲骨文)

「干」に”求める”の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は武器のさすまたの象形で、原義は”さすまた”。その他甲骨文の字形には、竿の先に「回」形を描き、鬼の角のような形を二本加えるものがある。ゆえに一説には”盾”であるという。甲骨文・金文共に”防禦”の意がある。また金文では、原義で用い、氏名にも用いる。詳細は論語語釈「干」を参照。

于 甲骨文 于 字解
「于」(甲骨文)

「于」の初出は甲骨文。字形の由来と原義は不明。春秋末期までに”至る”・”~に”の用例がある。詳細は論語語釈「于」を参照。

祿(ロク)

彔 甲骨文 禄 字解
(甲骨文)

論語の本章では”給料(の貰える地位)”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「禄」。初出は甲骨文。ただし字形はしめすへんを欠く「彔」。部品が出そろうのは西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。「彔」の字形は谷川を水門でせき止めた溜め池の象形。ゆえに”天の恵み”の意は原義からあったと思われる。甲骨文では「山麓」”ふもと”の意に用い、金文では国名や人名、”さいわい”の意に用いた。戦国の竹簡では「緑」として、また”俸禄”の意に用いた。詳細は論語語釈「禄」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

多(タ)

多 甲骨文 多 字解
(甲骨文)

論語の本章では”多く”。初出は甲骨文。字形は「月」”にく”が二つで、たっぷりと肉があること。原義は”多い”。甲骨文では原義で、金文でも原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「多」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。金文以前の段階では、「聞」「聴」「聖」の区別は明瞭でない。甲骨文の段階で”情報”の語義があり、また金文の段階で”結婚”を意味した。”政務を決済する”の用例は、戦国中期まで時代が下る。詳細は論語語釈「聞」を参照。

闕(ケツ)

闕 秦系戦国文字 欠 甲骨文
「闕」(秦系戦国文字)/「欠」(甲骨文)

論語の本章では、”欠かす”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。『大漢和辞典』によると第一義は”宮門の両側に立つ台”。音が「缼」(欠)と通じるので転用されたという。「缼」の初出は前漢の隷書。略体「欠」の初出は甲骨文。甲骨文「欠」の字形は「𠙵」”くち”を大きく開けた人。原義は”あくび”だったと思われる。甲骨文では人名に、金文でも人名に用いられたという。ただし”かく”・”かける”の用例が無い。春秋末期までに「缼」の部品「夬」の初出は甲骨文で、推測される原義は”壊す”。「缼」も「缶」”容器のかめ”を”壊す”こと。詳細は論語語釈「闕」論語語釈「欠」を参照。

疑(ギ)

疑 甲骨文 疑 字解
(甲骨文)

論語の本章では”疑わしい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「龴」「疋」を欠く「𠤕」。「𠤕」の字形は大きく口を開けた人で、「疑」の甲骨文には「コン」”つえ”を手に取る姿、「亍」”道”を加えた字形がある。原義はおそらく”道に迷う”。詳細は論語語釈「疑」を参照。

愼(シン)

慎 金文 慎 字解
(金文)

論語の本章では”つつしむ”。新字体は「慎」。初出は西周中期の金文。論語の時代に通用した字体では、「真」と書き分けられていないものがある。字形は「阝」”はしご”+「斤」”近い”+「心」。はしごを伝って降りてきた神が近づいたときのような心、を言うのだろう。詳細は論語語釈「慎」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

餘(ヨ)

余 甲骨文 餘 秦系戦国文字
「余」(甲骨文)/「餘」(秦系戦国文字)

論語の本章では、”あまり”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「余」だが、本来別系統の字。「餘」の初出は秦系戦国文字。「余」の初出は甲骨文。甲骨文「余」の字形は「亼」”あつめる”+「木」で、薪や建材など木材を集積したさま。おそらく原義は”豊富にある”→”あまる”。甲骨文から”私”との一人称に転用されたのは、音を借りた仮借としか考えようがない。詳細は論語語釈「余」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「A則B」で”AはBになる”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

寡(カ)

寡 金文 寡 字解
(金文)

論語の本章では”少ない”。初出は西周早期の金文。字形は「宀」”建物”の中に一人だけ大きく目を見開いた人がいて見上げている姿。原義は”孤独”。金文では”未亡人”、”少ない”を意味したが、諸侯が一人称としてもちいたのは戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「寡」を参照。

尤(ユウ)

尤 甲骨文 尤 字解
(甲骨文)

論語の本章では”とがめ(る)”。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”異なる”。甲骨文の字形は「又」”手”+「一」とされ、手に血豆などなんらかの腫れ物のたぐいが出来たことと解され、同音の「ユウ」”いぼ”の原字とされてきた。そのような特異現象から派生して”(天の)とがめ(る)”の意が派生したとされる。金文での用例があるほか、漢代以降に”疾病”・”罪科”の意があったとされる。詳細は論語語釈「尤」を参照。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”こと。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

殆(タイ)

殆 隷書 台 字解
(隷書)

論語の本章では”頼りない”。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は無い。戦国時代の『孟子』『荀子』に”ほとんど”・”あやうい”の意で用いられている。前漢の『説苑』なども同じ。後漢の『説文解字』が、「殆は危うき也。ガツしたがタイの声」と記してから、”あやうい”の意だと疑われなかった。確かに字形は「ガツ」”しかばね”+「台」”ふにゃふにゃと頼りない”で、原義は恐らく”しかばね”。また”頼りない”から”多分”→”ほとんど”の派生義が生まれた。詳細は論語語釈「殆」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

悔(カイ)

悔 晋系文字 悔 字解
(晋系文字)

論語の本章では”後悔”。初出は甲骨文。春秋時代の字形は「每」(毎)+「心」で、心を暗くするさま。原義は”悔いる”。未来を気にかける「憂」に対して、過去への後悔を言う。『字通』によると、甲骨文では部品の「每」で”くやむ”を表したという。詳細は論語語釈「悔」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”存在する”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

中(チュウ)

中 甲骨文 中 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の範疇内”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の『史記』に孔子と子張の問答として載るまで、誰も引用していない。「干祿」を「就職口を求めることだ」と古注に鄭玄が記してからは、本章は子張ががめつく就職先を探す話だと疑われなくなった。だが論語の時代、「祿」にそのような意味は無く語義は”天の恵み”。

解説

戦国末期に儒家のボスだった荀子が、子張をくさしたことは上掲の通りで、曽子の系統を引くと称する後世の儒者、とりわけ宋儒は、子張を口汚く罵っている。

新注『論語集注』

程子曰:「修天爵則人爵至,君子言行能謹,得祿之道也。子張學干祿,故告之以此,使定其心而不為利祿動,若顏閔則無此問矣。或疑如此亦有不得祿者,孔子蓋曰耕也餒在其中,惟理可為者為之而已矣。」

程伊川
程頤「天に恥じぬように君子の務めを行っていれば、俸禄など手に入るものだ。君子は言動を慎めるなら、官職にありつくに決まっている。ところが子張は就職活動ばかり熱心だから、孔子はたしなめたのだ。その心とは、不動心を養って、軽々しく利益に釣られないようにするためで、顔回や閔子騫のような徳に優れた弟子なら、こんな説教は言わずに済んだのだ。場合によってはここで子張があくせくしたように、職に就けない事は有ろうが、孔子はこうも言ったではないか。”耕しても飢えることはある”と。ただ道理を、ひたすら守って実践すれば良いのだ。」

程頤(伊川)は確信的な精神医学上の病人で、他人を見ると「あれもいかん、これもいかん」と口うるさく説教ばかりする男だったらしい。不埒にも科挙に合格し終える前に、皇帝宛てに説教文を書いて出したため、誰からも嫌われて仕官に失敗した。だからこその物言いだろう。

儒学に理気学というオカルトを持ち込んだ張本人でもあり、「分からないからありがたい」というカルト宗教のやり口で、後世の人々を大いに誤らせた罪深い男でもある。だが儒者の説教や坊主の経文を聞いて分かる人がほとんどいないのとは逆に、孔子はオカルトを否定した。

加えて論語の時代、就職マニュアルなど存在しない。そもそも庶民から、最底辺とは言え貴族へのパイプを繋いだのは、ほぼ孔子が中国史上初だったからだ。儒学の根本である礼すらマニュアル化できなかった孔子が、就職マニュアルなど書くわけが無い。

論語の時代、科挙のように制度化された官僚採用があったわけではない。個人的つながりから雇い主が人材を知り、「じゃああの若者を使ってみようか」と国公や大貴族が家臣に加えるわけで、それゆえ論語にも、孔子が口入れ屋を開業していた話が残る(論語先進篇23)。

若き日の孔子が仕官できたのも、孟孫家の先代がたまたま孔子の才能に気付いたからで、孔子の弟子が仕官できたのも、孔子やその伝手を頼ってのことだった。孔子が亡命したのも、大貴族からの不興を被って、弟子を仕官させがたくなったからに他ならない。

余話

強者は子供に甘くなる

仮に論語の本章を史実とするなら、「祿」とは春秋以前の語義”天が恵む幸運”になる。

だが孔子は古代人にかかわらず、天とか神とかを信仰しなかった。いちまちの巫女の私生児としてうまれた孔子は、母が客にやってのける所作に何の意味も無いこと、それに一般人がどれほど怯えるかを、息子だけにうんざりするほど知っていたからだ(孔子はなぜ偉大なのか)。

対して子張は普通に古代人で、天運を自分に引き寄せる法を学んでいたのだろう。春秋の当時、現伝のような易が整備されてはいなかったが、占いの証拠は多数出土しており、子張が天運に「いた」りたがったのも無理はない。だが孔子は「そんなものない」とは言わなかった。

最晩年の弟子だったこともあり、子張は孔子に可愛がられていたのだろう。孔子が説いたのは、ひたすら人に出来ることだけであり、ありのままにものを見聞きし、まじめに言動を慎むことだった。「人事を尽くして天命を待つ」、それが論語の本章の教えである。

『論語』為政篇:現代語訳・書き下し・原文
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