PRあり

論語詳解033為政篇第二(17)由なんじに知るを°

論語為政篇(17)要約:誰だって見栄を張りたい時はあるもの。しかし事実の裏付けがなければ、見栄はいずれバレてしまうし、その時の恥ずかしさはたまらない。そうはさせじと頑張るほど、苦しくなるばかりじゃよと孔子先生。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰由誨女知之乎知之爲知之不知爲不知是知也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰由誨汝知之乎/知之爲知之不知爲不知是知也

※「誨」字のつくりは〔每〕でなく〔毎〕

後漢熹平石経

子白…

※本章にも当てはまるが、他章のものかも知れない残石。

定州竹簡論語

……曰:「由!誨女a𣉻b乎c![𣉻之為𣉻]之,弗d𣉻e為弗𣉻,是𣉻也。」22

  1. 女、皇本、高麗本作「汝」。
  2. 𣉻、今本作「知」。「𣉻」古文智、知・智皆通。以下同。
  3. 阮本、皇本、「乎」上有「之」字。
  4. 弗、阮本、皇本皆作「不」。
  5. 皇本、「𣉻」下有「之」字。

→子曰、「由、誨女𣉻乎。𣉻之爲𣉻之、不𣉻爲不𣉻、是𣉻也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 由 金文 誨 金文女 金文智 金文乎 金文 智 金文之 金文為 金文智 金文之 金文 不 金文智 金文為 金文不 金文智 金文 是 金文智 金文也 金文

書き下し

いはく、ゆうなんぢ𣉻しれるをしへんこれ𣉻るをこれ𣉻るとし、𣉻るを𣉻せ、𣉻しれるぞや

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 子路
先生が言った。「由よ。お前に知っているとは何かを教えてやろう。確かに知ることをその通り知っているとし、知らないことを知らないとするのが、知ると言うことだぞ。」

意訳

孔子 怒り
ハッタリをかますな。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
(ゆう)よ、お前に『知る』ということはどういうことか、教えてあげよう。知っていることは知っている、知らないことは知らないとして、すなおな態度になる。それが知るということになるのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「子路啊,我告訴你,知道嗎?知道的就是知道的,不知道的就是不知道的,這就關於知道的真諦。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「子路よ、お前に話がある。知っているか? 知っていることがすなわち知っていることであり、知らないことがすなわち知らないことなのだ。これこそが、知るという事の真の見極めに関わるのだ。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では、孔子の弟子(BC543ごろ-BC481ごろ)。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。『史記』によれば孔子より9年少。

政治の才を後世評価され、孔門十哲の一人に数えられる。もっとも初期の弟子で、武芸自慢であり、それだけに本章に見られるように、後輩にハッタリをかます所があったらしい。政争に巻き込まれ孔子に先立って死去し、孔子を嘆かせた。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。

なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。「由」に”理由すじ”の意が西周からあり、”経路”はその派生義だが、明確には戦国時代以降でないと確認できない。

またいみ名の仲由は、通常は姓が仲で、由が名だと考えるべきだが、「仲」とは次男坊の意であり、本来姓も持たない下層民の出身である可能性がある。またあざ名の内「季路」は、「子」という敬称を伴わず、「季」は「末っ子」の意でもある。やはり名も無き庶民だろう。

ただしただの庶民ではなく、義兄は顔氏一族のトップで、国際傭兵団の親玉だった顔濁鄒だった。つまり春秋時代の身分制度的にははなはだ低位の身ながら、当時の社会の中ではコワモテの街のおニイさんとして一目置かれる存在でもあった。

師弟のなれそめは、噂を聞きつけた子路が、ケンカ支度をして孔子の家に押しかけたことによる。腕っ節に自信のある子路は、ベラベラと世間に説教する孔子が頭にきたらしい。しかし対面した孔子は身長2mを超す大男で、亡父の戦友に手ほどきを受けた、武術家でもあった。

孔子の父は、魯の一邑の領主という事になっているが、後世のでっち上げに過ぎない。ただ武勇絶倫の武人だったようで、兵営での顔役だったに違いない。父の没後、孔子がなぜ武術の達人になれたかの理由は、兵営で父の戦友に教わったと考えるしか理屈が立たない。

近代以前、武術は軍事機密で、平民が習えるものではなかったからだ。

その孔子に対面した子路は「孔子の品格に打たれて」弟子入りしたことになっている。訳者に言わせれば、ケンカの一つもしたことが無い人の言うことだ。「しまった」と思った子路に、「ホオ。では庭に出なさい」と孔子は言い、ボコボコに叩きのめしてしまったのだ。
孔子 微笑み 子路 驚愕

勝手に人の家に押しかけてくるような奴が、人格など見る目があるわけがない。そういう子路が心服したからには、徹底的にブチのめされたと考えるしか無い。晴れて孔子の初の弟子となった子路は、生涯孔子に付き従い、身辺警護も務めたし手足となって働きもした。

「剛毅木訥、仁に近し」(論語子路篇27)。子路は教えを、最も体現した弟子の一人だった。

子路の入門伝説に近い話は、合気道のお祖師様のお一人にも同様の伝説がある。戦前の中国で武者修行中、山奥からじいさんが天秤篭を担いで「ヒョッヒョッヒョッ」と降りてきた。何を思ったか若き日のお祖師、「このジジイをぶちのめそう」と考えたらしい。ところが果然はたして

じいさんにボコボコに返り討たれ、その場で平伏して「弟子にして下さい」と願ったという。こんにちポンニチの要人警護のSPは、必ずそのお祖師様の流派で学ぶことになっている。訳者は道場で彼らと拳を突き合わせたこともあるが、途方もなく強くて話にならない。

ゆえに中国じじいは、侮るべきではない。

誨(カイ)

誨 金文 誨 字解
(金文)

論語の本章では”教える・示す”。初出は甲骨文とされるが、「每」(毎)の字形であり、「每」に”おしえる”の語義は甲骨文で確認できない。現行字体の初出は西周中期の金文。字形は「言」+「每」で、「每」は髪飾りを付けた女の姿。ただし漢字の部品としては”暗い”を意味し、「某」と同義だった。春秋末期までの金文では人名のほか、”たくらむ”・”教える”の語義がある。詳細は論語語釈「誨」を参照。

汝(ジョ)→女(ジョ)

論語の本章では”お前”。

汝 甲骨文 汝 字解
「汝」(甲骨文)

「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。

女 甲骨文 常盤貴子
「女」(甲骨文)

定州竹簡論語の「女」の初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。

知(チ)→𣉻(チ)/智(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…(しよう)か”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

誨女𣉻乎(なんぢにしるをおしへんか)

現代中国語(北京語)でも「(我)教你知」と同じ語順で、述語動詞のあとに間接目的語(~に)-直接目的語(~を)となっているが、現代中国語でも漢文でも「於」「于」などの対象を示す助辞を用いて(~を)-(~に)の語順にすることがある。

この、「於」などを使って間接目的語を後ろに回す語法は、殷の甲骨文から見られる。

貞侑羌于丁
う、羌を丁(=武丁。殷の高宗)にすすめんか。(「甲骨文合集」428.3)

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「これ」と読んで”まさしく”。直前が動詞であることを示す記号で、目的語ではない。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

『学研漢和大字典』

直前の語が動詞であることを示す。▽何をさすかは明示されない。「頃之、襄子当出、予譲伏於所当過之橋下=これを頃(しばら)くして、襄子出づるに当たり、予譲当(まさ)に過ぐべき所の橋下に伏す」〈しばらく経ち、襄子の外出を知り、予譲はその道筋の橋の下に待ち伏せた〉〔史記・刺客〕

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…とする”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

不𣉻爲不𣉻

論語の本章では”知らない事を知らないとせよ”。文明本以降の古注では「不知爲不知」と「之」が付け加わる。清儒の程樹徳はこう考証する。

皇本作「不知之爲不知」。皇疏「知之爲知之」句無所明。後子路篇疏引文曰:「由!誨汝知之乎!不知爲不知,是知也。」亦只三句,疑當時本有如此者。(『論語集釋』)

「おそらく古注の時代には之があったのではないか」と言うのだが、皇侃が注を記したのは三国時代、疏=注の付け足しが書かれたのは南朝梁の時代。中国伝承の論語は、定州竹簡論語、唐石経、宋版論語注疏、早大蔵新注ともに「之」を記さない。

論語の本章について、日本に現存する最古の古注本である宮内庁本、次いで古い正平本も記さない。文明本→足利本→根本本は記す。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

本願寺の坊主が筆写した文明本の文字列は、他章にも書き換えが見られる。ゆだんのならない本である。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では、”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「ぞや」と訓読して、強調を含む詠嘆の意。「なり」と読んで断定の意に用いるのは、春秋時代では確認できない。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、先秦両漢のうち『墨子』尚賢中3に詩の引用として「誨女」が見えるだけで、「誨汝」では一件もヒットしない。文字史的には論語の時代まで遡れるが、事実上の再出は前漢中期定州竹簡論語、そのあとは後漢末の熹平石経、次いで後漢末~南北朝の古注『論語集解義疏』になる。

前漢年表

前漢年表 クリックで拡大

だがぎさくの証拠はなく、とりあえず史実として扱う。

解説

論語には多士済々の弟子が登場するが、後世の儒者のでっち上げで、実像以上におバカや筋肉ダルマに描かれる人物もいる。子路は樊遅ハンチと並ぶ孔子一門の武闘派とされ、しかも大物だったから、儒者の格好の餌食になり、『孔子家語』などではただの乱暴者として扱われている。
子路 とげとげしい

ひょろひょろがほとんどの儒者は、やはり肉体派は嫌いなのだろう。ひょろひょろの好みは役人天国であり、それはかつてのソ連や現在の中国で実現した。役人社会には自浄能力が無いから、ベリヤ康生のような男が権力の座に就いてしまい、人民はひどい目に遭わされる。

それを排除できるのは、良くも悪くも腕力でしかない。

動画中で「ジョージ!」と繰り返し呼ばれているのは、ソ連邦首相だったゲオルギー・マレンコフのことで、殴刂込んできたジューコフ元帥の名も同じく「ジョージ」である。作中と通説では、マレンコフの優柔不断ゆえにベリヤの専横を許し、またその失脚を救えなかった。

ただ閉じた世界の話だから、いつ通説がひっくり返るか分からない。

さて子路の実像はこれと異なり、論語で最高の道徳とされる「仁」に、顔回に次いで近づいたと孔子が評価していた可能性がある。子路は論語子路篇27に言う「剛毅ゴウキ木訥ボクトツ」に近い人物であり、ただ「訥」に関してのみ、口数が多かったのを孔子は好まなかった(論語先進篇24)。

孔子 焦り 顔回
仁は孔子でさえ自分は仁者でないと言い(論語述而篇33)、ただ一人顔回だけが、仁者だと孔子に評された。なのに子路が後世小バカにされるのは、まさに論語子張篇で子貢が過去の暴君紂王について言った、「あること無いこと言われるゴミ溜め」(論語子張篇19)だろう。

子路は仕えていた衛国の内乱を見過ごせず、自ら渦中に飛び込んで死んでしまった。だから論語郷党篇で孔子が評したように、政才に恵まれながら自分の派閥を残せなかった。同様に派閥を残さなかった子貢も論語に悪口が書かれたから、早死には死後の損ということだろうか。

なお本サイトでの古注は、「中国哲学書電子化計画」から文字列を引いており、その元本は欽定四庫全書版で、清代の政治上の都合により若干改変が加えられている。その元本は本願寺の坊主が書き換えた文明本、その子孫である足利本を江戸儒者の根本武夷が編集し直したもので、やはり若干の変更が加えられている。

本章では一例として、電子版→文明本など古本を復元した中華書局版を示す。

四庫全書版『論語集解義疏』電子版

子曰由誨汝知之乎註孔安國曰由弟子也姓仲名由字子路也知之為知之不知之為不知是知也疏子曰至知也 此章抑子路兼人也云子曰由者由子路名也子路有兼人之性好以不知為知也孔子將欲教之故先呼其名也云誨汝知之乎者誨教也孔子呼子路名云由我欲教汝知之文事*乎云知之為知之不知之為不知者汝若心有所不知則當云不知不可妄云知之也云是知也者若不知云知此則是無知之人耳若實知而云知此乃是有知之人也又一通云孔子呼子路名云由我從來教化於汝汝知我教汝以不乎汝若知我教則云知若不知則云不知能如此者是有知之人也

※(誤植):章→事

文明本

子曰由此章抑子路兼人也云子曰由者由子路名也誨汝知之乎誨教也孔子呼子路名云我欲教汝知之文事乎

孔安國曰由弟子也姓仲名由字子路也

知之為知之不知之為不知汝若心有所不知則當云不知不可妄云知之也

是知也若不知云知此則是無知之人耳若實知而云知此乃是有知之人也又一通云孔子呼子路名云由我從來教化於汝汝知我教汝以不乎汝若知我教則云知若不知則云不知能如此者是有知之人也 昺云子路性鄙好勇力志伉直冠雄雞佩豭豚陵暴孔子孔子設禮稍誘子路子路後儒服委質因門人請為弟子

※句読点は省略。古注の注と疏に、北宋の論語注疏を含んでおり、のちに根本が参照した足利本には注のみあって疏が無い。根本はこれらを編集して下のように改めた。句ごとの本文-注-疏、冒頭に根本による要約。要約は北宋の『論語注疏』に一部あるが、根本は全文に加筆、の順に並べる。

鵜飼文庫 論語義疏

鵜飼文庫『論語義疏 』

読み下し、文意は変わらないが、根本が行った編集は、それなりにわかりやすさを求めた結果と言える。

電子版現代日本語訳

本文。「子曰由誨汝知之乎。」
注釈。孔安国「由とは弟子である。姓は仲、いみ名は由、あざ名は子路である。

本文。「知之為知之不知之為不知是知也。」

疏(付け足し)。「子曰至知也」(”先生は知の極致を言った”。全章にこのような要約が付いているが、根本による追加)

この章では、子路が出しゃばるのを抑えたのである。「子曰由者」とある「由」は子路のいみ名である。子路は出しゃばる性格で、好んで知ったかぶりをしていた。孔子はその欠点を説諭しようとした。だからまず子路のいみ名を呼んだ。

「誨汝知之乎」とあり、「誨」とは教える事である。孔子は子路をいみ名を呼んで、「由よ、私はお前に知が文化的道徳であることを教えてやろう」と言った。

「知之為知之不知之為不知」とは、お前がもし心に知らない事があれば、知らないと言うべきで、ウソをついて知っていると言ってはいけない、という意味だ。

「是知也」とは、もし知らないのに知っていると言うなら、つまりその者は無知の人に成り下がり、もし本当に知っていることを知っていると言うのなら、つまり知のある人になる、という意味だ。

本章の解釈には異説が一つある。「孔子が子路のいみ名を呼んだ。”由よ、私はずっとお前を教えてきたが、お前は私の教えを知りながら、知らないと言うのか? もし私の教えを知っているなら、知っていると言いなさい。もし知らないなら、知らないと言いなさい。このように言える人が、すなわち知のある人なのだ”。」

古注の特徴は、「注」だけに終わらず、「疏」があることで、このように微に入り細に入り、論語の言葉のいちいちを解説する点にある。だが詳しいからと言っても根拠を全く記していないので、論語を読み解く参考にはならない。ただ知れるのは、儒者が論語をどのように解釈したがっていたか、ということだ。この点は朱子のまとめた新注も変わらない。

従って本サイトでは、儒者の意図を探る必要の無い場合、必ずしも新古の注を記載しない。とりわけ古注の「疏」はほとんど参照しない。新注と古注の間に位置する宋儒・邢昺の『論語注疏』も、校訂の必要がない限り特に参照しない。閲覧者諸賢にはご理解を頂きたい。

余話

本物のワル

毛沢東は自国の古典に通じており、下掲の言葉は論語の本章をふまえているだろう。

懂得和不了解的东西要问下级,不要轻易表示赞成或反对。…我们切不可强不知以为知,要“不耻下问”,要善于倾听下面干部的意见。先做学生,然后再做先生;先向下面干部请教,然后再下命令。…下面干部的话,有正确的,也有不正确的,听了以后要加以分析。对正确的意见,必须听,并且照它做。…对下面来的错误意见也要听,根本不听是不对的;不过听了而不照它做,并且要给以批评。(『毛主席语录』北京外文出版1966年袖珍本第一刷)

毛沢東
わからないことや知らないことは、下級のものに聞くようにし、かるがるしく賛成または反対の意をしめしてはならない。…われわれはけっして知らないのに知ったようなふりをしてはならないし、「下問を恥じない」ようにし、下級幹部の意見によく耳をかたむけるようにしなければならない。まず生徒になってから先生になり、まず下級の幹部に教えを乞うてから指令を出すようにする。…下級幹部の言葉には正しいものもあれば、正しくないものもあるから、聞いたうえで分析をくわえなければならない。正しい意見には、かならず耳をかたむけ、そのとおりに事をはこばなければならない。…下からくるまちがった意見にも耳をかたむけねばならない。頭から聞こうとしないのはまちがっている。そのうえ、これに批判をくわえるようにする。(日本語版『毛主席語録』北京外文出版社1972年第四刷)

『毛語録』だけを読んでいると、毛沢東が合理的で民主的な人物のように勘違いする。編纂を言い出した林彪など毛沢東へのゴマすり男の落とし穴にみごとにはまったと言うべきで、史実の毛沢東は歴代中華皇帝の標準を超える暴君で、かけら一片も民主的な人物でない。

康生
ここから毛沢東を中国史上最悪の暴君に数える本が山と書かれることになったのだが、実は毛沢東は中国の真の頂点にはいなかった。いたのが上掲した康生で、ベリヤと同じく特務機関の親玉である。ベリヤはスターリン次第の小者だったが、中国ではこの関係が逆になっていた。

康生はあまり知られることの無い人物だが、自分の愛人だった江青を毛沢東に近づけて骨抜きにし、文化大革命を起こし、死ぬまで毛沢東と中国を操った。毛沢東より先に死んだから、ベリヤのような目には遭わなかったが、代わりに中共は四人組の一味と断じて党から除名した。

その程度で済んだのは、康生の手先になっていた者がどれほど中共内部に巣食っていたかを物語る。今なおさらなる糾弾がないところを見ると、その根はまだ続いていると見るべきだ。おそらく中華人民共和国の滅亡まで、康生が何者だったかを語る史料は出てこないはずだ。

つまり康生こそ研究するに足る、中華文明の体現者だ。

政治の世界は闇から闇へ。だが中国でのその闇は、他国より一層深い。孔子とおそらく顔淵が、一門の政治的謀略の証拠をカスミのように消して回ったのも、周恩来が善人と思われているのも、中国政界の闇が古代から現代まで一貫して続いていることの小さな例に過ぎない。

つまり理解出来ない他人を陰謀論者呼ばわりするのは、ひどく間抜けだからやめた方がいい。

参考記事

『論語』為政篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました