論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰不憤不啓不悱不發舉一隅不以三隅反則不復也
校訂
諸本
- 武内本:文選西京賦注此章を引くこの三字*あり、此本**と同じ。
*而示之 **清家本 - 正平本:章末の「也」なし。
東洋文庫蔵清家本
子曰不憤不啓不悱不發舉一隅而示之不以三隅反則吾不復
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「不憤不啓。不悱不發。舉一隅而示之、不以三隅反、則吾不復。」
復元白文(論語時代での表記)
悱
※憤→奮・舉→喬・隅→遇。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「發」「示」の用法に疑問がある。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、憤ら不らば啟か不。悱へ不らば發さ不。一隅を擧げ而之を示すも、三隅を以不して反さば、則ち吾復せ不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「疑問で吹き上がらなければ開かない。言いもだえなければ飛び出さない。物事の一角を示して残り三つの角を返さなければ、二度と示さない。」
意訳
疑問で膨れあがって、やっと解決の糸口が見える。思いを言いよどんで、やっと適切な言葉が飛び出てくる。だから基礎を示して応用に気付かない者には、二度と基礎を繰り返して言わない。
従来訳
先師がいわれた。――
「私は、教えを乞う者が、先ず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「不到苦思冥想時,不去提醒;不到欲說無語時,不去引導。不能舉一例能理解三個類似的問題,就不要再教他了。」
孔子が言った。「思い悩むようでないと、ヒントを与えない。語るに語れないようでないと、導かない。一例を挙げて三個の類似を理解できないと、つまり二度と教えない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
憤(フン)
「奮」(金文)/「憤」(楚系戦国文字)
論語の本章では”感情が激発する”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「奮」で、この字と書き分けられなかった。「小学堂」による初出は楚系戦国文字。ただし字形は上下に「奞思」。現行字体の初出は後漢の『説文解字』。「奮」の字形は「衣」”ふくろ”+「隹」”とり”+「田」”鳥かごの底”で、鳥かごに捕らえた鳥が羽ばたいて逃れようとするさま。戦国文字の字形は「奮」の省略形「奞」+「思」。心がふるいたつさま。現行字体の字形は「忄」+「賁」”吹き出す”で、心が吹き出すように高まるさま。ただし春秋末期までの「賁」は”華麗な(装飾)”の意。同音に「分」・「焚」、「賁」とそれを部品とする漢字群。春秋末期までに”奮い立つ”の用例がある。詳細は論語語釈「憤」を参照。
なお勇士のことを「虎賁(の士)」という。「賁」は、奔(はしる)。とらが走るように勇猛である意。周代では周王の護衛にあたった。漢以後には、虎賁郎将など、宮中の宿衛にあたる官がある。
啟(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”開く”→”解決法を教えてやる”。新字体は「啓」。初出は甲骨文。中国・台湾・香港では「啟」がコード上の正字として扱われているが、唐石経・清家本ともに「啓」と記す。『学研漢和大字典』は「啟」字を載せず、「啓」の異体字として「諬」を載せ、「小学堂」は「啟」を「啓」の異体字とはしていないが、「諬」は異体字の一つとして所収。字形は「屮」”手”+「戸」”片開きの門”+「𠙵」”くち”で、門を開いておとなうさま。原義は”ひらく”。甲骨文では”報告する”・”天が晴れる”の意に、金文では”気付く”の意に用いた。戦国の金文では”領土を拡大する”、氏族名・地名・人名に用いた。詳細は論語語釈「啓」を参照。
現代語では「啓発」という。しかし論語の時代の中国語には、熟語はほとんど存在しない。「啓」は”ひらく”。「發」は”射る”が原義だが、ここでは”あきらかにする・あばく”の意。共に”光の当たる方向への道を開く”と考えていい。
悱(ヒ)
(篆書)
論語の本章では”言い悶える”。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔忄〕”こころ”+「非」”裂ける”で、張り裂けそうな思いのさま。同音に「霏」”雪が降る”・「妃」・「騑」”そえうま”・「斐」”うるわしい”・「菲」”野菜の名”。論語に次ぐ文献では、『晏子春秋』に用例があるのみ。『大漢和辞典』に同音同訓は存在しない。部品の「非」には、心理を表す語としての用例が、春秋末期以前に見つからない。
發(ハツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”見つけさせてやる”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「発」。『大漢和辞典』の第一義は”射る”。初出は甲骨文。ただし字形は「㢭」または「𢎿」。字形は「弓」+「攴」”手”で、弓を弾いて矢を射るさま。原義は”射る”。甲骨文では人名の他、否定辞に用いられた。金文では人名や官職名に用いられた。詳細は論語語釈「発」を参照。
舉(キョ)
「舉」(金文)
論語の本章では”示す”。新字体は「挙」。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。初出の字形は「與」(与)+「犬」で、犬を犠牲に捧げるさま。原義は恐らく”ささげる”。ただし初出を除く字形は「與」+「手」で、「與」が上下から両腕を出して象牙を受け渡す様だから、さらに「手」を加えたところで、字形からは語義が分からない。論語時代の置換候補は、”あげる”・”あがる”に限り近音の「喬」。また上古音で同音の「居」には”地位に就く”の意がある。詳細は論語語釈「挙」を参照。
一(イツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”ひとつの”。「イチ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
隅(グ)
(金文)
論語の本章では”すみ”。「グウ」は慣用音。初出は西周末期の金文。ただし字形は「遇」。初出の字形は「辵」(辶)”みち”+「禺」”おながざる”だが、由来と原義は明らかでない。同音に「禺」”おながざる”とそれを部品とする漢字群。春秋末期までに”すみ”の用例があり、また戦国の竹簡では「禺」を「隅」と釈文する例がある。詳細は論語語釈「隅」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…すると同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
示(シ/キ)
(甲骨文)
論語の本章では”示す”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。漢音「シ」(去)は”しめす”を意味し、「キ」(平)は「祇」”神霊”を意味する。字形は位牌または祭壇の姿で、原義は”神霊”。甲骨文では”神霊”・”位牌”を意味し、金文では氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「示」を参照。
なお漢語で”示す”を意味する言葉が明らかに確認できるのは戦国時代の「郭店楚簡」にある「旨」からで、本章は少なくともこの字については後世の改変が加わっている。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
而示之(…てこれをしめす)
中国伝来の唐石経、それを受け継いだ宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では「而示之」を欠く。日本伝来の清家本、正平本は「而示之」を記す。定州竹簡論語は本章全体を欠く。
清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。従って日本伝来本に従って「而示之」があるものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”…で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
三(サン)
「三」(甲骨文)
論語の本章では数字の”さん”。みっつ。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。
反(ハン)
「反」(甲骨文)
論語の本章では”返す”。初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
中国伝来の唐石経、それを受け継いだ宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では「吾」を欠く。日本伝来の清家本、正平本、文明本を底本とする懐徳堂本は「吾」を記す。定州竹簡論語は本章全体を欠く。従って日本伝来本に従って「吾」をつけ加えた。
復(フク)
(甲骨文)
論語の本章では、”もう一度する”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
不以三隅反
伝統的な論語の解説では、「三隅を以て反さざれば」と読む。未然形/已然形+「ば」の仮定条件・確定条件の区別が厳格でない事に目をつぶるにしても、この読み下しには賛成しがたい。「不」と、その否定する動詞「反」の間が、離れているからだ。
「不」が動詞の否定辞とするならば、否定の対象である動詞は直後に来るべきで、この場合は直後の「以」がふさわしい。すると「以」は”~を”という格助詞の如き記号ではなく、”用いる”という動詞であることになる。「以三隅」と三字置いた「反」を否定するとは考えにくい。
ただし論語には、「不我知」のように、「我が知られる」という状態を、「不」が否定する用例が複数ある。これが本章にも当てはまるなら、「三隅を以て反す」という状態を、「不」が否定していると考える事が出来よう。しかしそれでは、文法が複雑になりすぎる。
「不我知」の場合には、甲骨文以来の特殊構文という、由緒正しい?例外としての事例が多数ある。しかし本章の「不」にはそれがない。従って、「三つの隅を用いないで」・「返す」という、動詞が二つある文として解釈した方が単純になる。上掲の読み下しは、その反映。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
中国伝来の唐石経、それを受け継いだ宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では文末の「也」を記す。日本伝来の清家本、正平本、文明本を底本とする懐徳堂本は文末の「也」を欠く。定州竹簡論語は本章全体を欠く。古注は中国では一旦滅びて、唐石経の文字列を伝承した。日本には隋末には古注が伝わり、唐石経より古い論語の文字列を伝える。従って日本伝来本に従って文末の「也」を削除した。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語に無いが、やや先行する『史記』孔子世家に、「不憤不啟(啓)、舉一隅不以三隅反、則弗複也。」とある。「不悱不發」は先秦両漢に引用が無い。おそらく後漢になってからつけ加えられたと思われる。文字史の上からも、本章は前漢以降の創作。
解説
論語の本章、事実上全文の初出となる古注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
註鄭𤣥曰孔子與人言必待其人心憤憤口悱悱乃後啓發為之說也如此則識思之深也說則舉一隅以語之其人不思其類則不復重教之也
注釈。鄭玄「孔子は人に教えるときには、必ずその人の心が吹き上がり、口から言葉に出来ない言葉が出かかってから、ようやくその後で解決法を説いてやった。そうすれば必ず、その人の治世が深まるからである。だが説くときにも、ヒントを一つ与えてやるだけで、その人がヒントから類推して考える事が出来ないなら、二度と教えようとはしなかった。
教える側にとって一方的に都合の良い説教で、教わる側への説教である論語学而篇6(偽作)とセットになっている。
漢帝国以降、儒者は役人でなければ教師稼業でめしを食ったので、伝授の高価値化と弟子の従順を強く求めた。論語に押し込まれた偽作のいくつかは、そういう儒者の都合によって創作された。新注は次の通り。
新注『論語集注』
憤,房粉反。悱,芳匪反。復,扶又反。憤者,心求通而未得之意。悱者,口欲言而未能之貌。啟,謂開其意。發,謂達其辭。物之有四隅者,舉一可知其三。反者,還以相證之義。復,再告也。上章已言聖人誨人不倦之意,因并記此,欲學者勉於用力,以為受教之地也。程子曰:「憤悱,誠意之見於色辭者也。待其誠至而後告之。既告之,又必待其自得,乃復告爾。」又曰:「不待憤悱而發,則知之不能堅固;待其憤悱而後發,則沛然矣。」
憤は、房粉の反切で読む。悱は、芳匪の反切で読む。復は、扶又の反切で読む。憤とは、心が解決を求めているのにまだ会得できないのをいう。悱は、言葉に使用としても出来ない状態を言う。啟は、その隠された意味を明らかにすることである。発は、その言葉の意味を明らかにすることである。物事に四つの要点があれば、一つを示せば残りの三つを知ることが出来る。反とは、もう一度説明することである。復とは、もう一度言うことである。先の章ですでに、聖人は人を教えてもくたびれないとあり、本章を合わせて記すことで、学ぶ者が努力を心がけ、それで教育の基本を作ろうとした。
程頤「憤悱とは、誠実さが表情や言葉に表れたことを言う。その誠実を見て取れてから教える。すでに教えたなら、必ず自分で会得することを期待し、そこでやっとふたたび教える。」
「吹き上がる気持と言葉に出来ない口調が見て取れるのを待たないと、教わる者の知性は強くならない。見て取ったあとで教えてやれば、必ずにわか雨が降るようにパッとものごとが分かるのである。」
余話
ものすごい人生の損失
伝統的な論語の解釈も、上から目線の訳を行うが、言っていることに疑問を持たないのだろうか。吉川本に「これは教育の方法として大へんすぐれた方法である」と言うが、一度でも弟子を取ったことがある人には、こんなのうまくいくわけないだろ、と言いたくなるだろう。
孔子はこの点恵まれていて、成り上がりに燃える弟子たちは、一日も早く実入りのいい仕官が出来るよう、かなり熱心に勉強した。だからこうしたイジワルにも思える教育にも耐えられるかもしれないが、好んでサドを行う者は必ずひ弱であり、怪人孔子にその必要は無かった。
勉学とはどこまで行っても学ぶ者の主体的行為で、教師はその補助者に過ぎない。それは社会運動にせよ個人の成り上がりにせよ同じで、人はしたいことだけをするように出来ており、致し方なくすることに発展はない。その意味でなら本章は史実の孔子塾にも当てはまる。
ただそれでも、愚かな教師が、弟子を脅しつけるためのスローガンであるには違いない。
世に教授法の研究や本は多いが、多くの人間にとって必要なのは教え方ではなく教わり方で、それが説かれることはめったに無い。あったとしても上掲学而篇の説教のように、ひたすら教師に従順であれと言うばかりで、それを説くのはもちろん、教師の側の人間だ。
だが冷静に考えてみれば、ダメ教師に何年従ってもダメが深まるばかりに決まっており、教わる側はまず、教師の目利きが必要になる。武道の世界で「十年稽古するより十年かけて良き師を探せ」と言われるのはこのことわりで、わざ・人格ともに優れた人を探すのが先だ。
良師はめったにいるものではないが、ひとたび見つかったなら、心から師匠を尊敬し、一挙一頭足全てを教え通りに稽古する。そして教わるありがたさを実感する。すると不思議なもので、良師がより良師になる。教える事は教わる事であり、教わる事は教える事だからだ。
身過ぎ世過ぎによっては、良師でないと分かっていながら従う必要がある。そういうときはとりあえず、敬う「ふり」従う「ふり」だけしていれば問題ない。教師も人間であるからには、都合の良い弟子をわざといじめる確率は下がるからだ。それでもいじめる教師はいる。
吉川幸次郎は京大の入試に指導要領を大幅に超える難問を出し、受験生の出来が悪いと吉川本に書いた。ともあれ、「ふり」を見せているのにいじめる教師は、これこそ本物のダメ教師か、あるいは教わる側の「ふり」が稚拙に過ぎて、却って怒らせているかのどちらかだ。
人をだますのなら、ダマシにとことん付き合う覚悟がないと、人はだまされてくれないからだ。また師弟関係に限らず夫婦関係もよく似ており、ダメな連れ合いとくっついたままでは、生涯を不幸に終えることになる。人間は判断ミスをするものだから、損切りは早い方がいい。
「結婚へは、歩け。離婚へは、走れ」とユダヤの格言にあるという(落合信彦『極言』)。訳者自身の経験を言えば、小学校の教師はRedだらけで、「北朝鮮はこの世の天国」と児童にすり込んでいた。中学には学校を出たばかりのDK教師がいて、それはむごい目に遭わされた。
詳細は論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」・論語子罕篇23余話「DK畏るべし」参照。教師を盲信するのは、ものすごい人生の損失である。
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