論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「聖人、吾不得而見之矣。得見君子者、斯可矣。」子曰、「善人、吾不得而見之矣。得見有恆者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「聖人,吾弗a得而見之矣;得見君子者,斯可矣。」169子曰:「善人,吾弗得而見之矣;得見有恒者,斯可矣。170……而為有,虛而為盈,約而為泰,難乎有[恒矣]。」171
- 弗、今本作「不」。
→子曰、「聖人、吾弗得而見之矣。得見君子者、斯可矣。」子曰、「善人、吾不得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恒矣。」
復元白文
虛
泰
※矣→已・盈→𡣍・約→要。「泰」は”ふとい・おおきい”と解することが出来る場合にのみ「太」と置換可能だが本章はそうでない。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国以降の儒者による捏造である。
書き下し
子曰く、聖人は吾得而之を見ざる矣。君子なる者を見るを得る者、斯れ可矣。子曰く、善き人は吾得而之を見ざる矣。恒ある者を見ることを得る者、斯れ可なり。亡くし而有りと爲し、虛しくし而盈てりと爲し、約まり而泰かなりと爲す、難き乎恒あり矣こと。
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逐語訳
先生が言った。「万能の人を私は見たことがない。君子な人を見る可能性はある。」
先生が言った。「有能な人を私は見たことがない。心が不動の人を見る可能性はある。無くてもあると思い、空っぽでも満ちていると思い、追い詰められても安楽だと思う。難しいものだ、不動の心を保ち続けるのは。」
意訳
万能の人には会ったことがないが、君子らしい人にはきっと出会える。有能な人には会ったことがないが、不動心を持った人にはきっと出会える。その人は不足があっても心配せず、泰然としていた。だがいつまで心の緊張が続くのだろう、不動心とは難しいものだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ。」
またいわれた。――
「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね。」
現代中国での解釈例
孔子說:「聖人,我不可能看到了;能看到君子,也就可以了。善人,我不可能看到了;能看到一心向善的人,也就可以了。沒有卻裝作擁有、空虛卻裝作充實、貧窮卻裝作富裕,打腫臉充胖子的人,很難一心向善!」
孔子が言った。「聖人は、私が出会うことはあり得ない。君子に出会えるかどうかは、まああり得るかも知れない。善人は、私が出会うことはあり得ない。一心に善を目指す人に出会えるかどうかは、まああり得るかも知れない。持っていないのに持っているように見せかける、空っぽなのに充実しているように見せかける、貧乏なのに飛んでいるように見せかける、こういうハッタリの人が、一心に善を目指すのは、とても難しい!」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
聖人
(金文)
論語では、キリスト教の聖者のような人ではなく、万能の超人。
「聖」は『字通』では原義は神の声を聞きうる人を指すといい、卜文(呪術に用いる書体)では壬の上に耳を添えた形に書き(𦔽)、聞の原字になったという*。また論語の本章を引いて、人間最高の理想態だという。詳細は論語語釈「聖」を参照。
*ただし音から考えると、「聴」の原字ではないだろうか?
君子
(金文)
論語の本章では、非教養人に対する”教養人”。本章がニセモノであることがその理由。詳細は「君子」とは何かを参照。既存の論語本では吉川本で、君子を「すぐれた道徳者」というが、それは戦国時代になって、孟子が儒学をスピリチュアル商材として儒教化してからの語義である。
善人
(金文)
論語では、人柄のいい人ではなく、酸いも甘いも噛み分けた技の達者。
「善」は『学研漢和大字典』によると羊は、義(よい)や祥(めでたい)に含まれ、おいしくみごとな供え物の代表。言は、かどある明白なもののいい方。善は「羊+言二つ」の会意文字で、たっぷりとみごとなの意をあらわす。
饘(おいしい食べ物)-饍(みごとにそろった食べ物)-亶(たっぷりとする)と同系のことば。のち、広く「よい」意となる、という。
『字通』では正字は譱に作るといい、原義は羊を捧げて神判を仰いだ際の勝訴者を指す。
詳細は論語語釈「美」・「善」を参照。
有恆(恒)者
(金文)
論語の本章では、”不動心のある人”。『字通』によると、「恒」の最も古い形である甲骨文は、上下の線の間に半月を置いた形であり、弓張り月が原義。恒久、恒常の意という。
一方『学研漢和大字典』によると、会意兼形声文字で、亙(コウ)は、三日月の上端下端を二本の線で示し、その間にある月の弦を示した会意文字。恆は「心+(音符)亙」で、月の弦のように、ぴんと張り詰めた心を示す。いつでも緊張してたるまない意となる。
克(コク)(張りきる)・極(上から下まで張った大黒柱)などと同系で、kəkの語尾が鼻音となって伸びたことばである、という。詳細は論語語釈「恒」を参照。
虛
論語の本章では”むなしい”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はxi̯oまたはkʰi̯o。藤堂説によると、魚の平声と知れるのでkʰi̯o。前者の同音に許と虚を部品とする漢字群、後者の同音に墟・椐”ヘビノキ”。詳細は論語語釈「虚」を参照。
盈(エイ)
論語の本章では”みちる”。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯ĕŋで、同音に嬴”みちる”が存在する。詳細は論語語釈「盈」を参照。
約
この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の「要」(締める)は存在した。詳細は論語語釈「約」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は「恒」の語義を追い求めないと理解できない章で、申し訳ないながら、従来訳に代表される従来の論語訳はでたらめ。本章を創作した儒者は、不動心を持った人を尊敬しつつも、心を緊張させっぱなしは無理だと思ったから、「難きかな恒あること」と言った。
従来訳や中国での解釈のような誤訳の元を、いつも通り儒者の注と称する出任せに求めると、古注には「孔安國曰難可名之為有常也」(孔安国「なんと呼んだらいいか分からないものを”常有り”と言うのだ」)とあって、余計にわけが分からない。
また「有恒謂雖不能作善而守常不為惡者也」(恒有る者は善行を行えないかもしれないが、平常心を守って悪いことはしないものだ)ともあるが、こちらはナンボか解り易い。ともあれ従来訳のような誤訳は、少なくとも古注のせいではない。
そこで新注を見てみる。
「無いのにあると言う…の三者は、どれもハッタリであり、こんな奴は誰だろうと、平常心を保てはしない。張敬夫は言った。”聖人君子は、学問を語る。善人や有恒者は中身を語る”と。愚か者である私が考えるに、有恒者と聖人とは雲泥の違いだが、平常心を失ったことが無い者は、聖人に近づくことが出来る。だから本章の最後に、有恒の話をして、徳を身につける道筋を示したのだ。まことに懇ろなことであり、分かりやすい話であるなあ。」
つまり朱子がいつも通り、一杯機嫌でほらを吹き、それをいつも通り、日中の専門家が真に受けていた、というわけ。あまりにいつも通りで、面白くともなんともない。
儒者の書いたものを読んで、ときおり真剣に考え込んでしまうことは、「この人達、何か知的な障害でも負っているんだろうか」ということで、これは決して激語を吐きたくて言うのではない。古注の場合は偽善、新注の場合は狂信がそうさせたと、理解しようとはするのだが。
さて、もし本章が史実なら、孔子自身はある意味普通人で、暇なときにはくつろいでいた。
論語述而篇4で「子の燕居するは」とあるのがそれで、儒者が後世の孟子の言葉「恒産あるものにして恒心あり」から連想して勝手に孔子にぺったり貼り付けたように、いつも鹿爪らしい態度で過ごしていたのではない。精神力も有限で、節約しつつ使う事を心得ていたのだ。
「恒心がないと易は当て損なう」(論語子路篇22)と言ったのがその一例で、易は天意をのぞき見る行為だから、張り詰めていないと当たらないばかりか天罰を喰らう。加えて音楽に巧みだった孔子は、琴の糸を張りすぎ・張りっぱなしにすれば、どうなるか分かっていたはず。