論語049八佾篇第三(9)夏の礼は吾よくこれを

論語八佾篇(9)要約:滅びたいにしえの王朝の末裔は、すっかり衰えてしまい、その文化がもう分かりません。歴史やお作法の調査が大好きな孔子先生、現地に行きましたが資料は滅びてしまいました。殺風景なもんだ、と嘆いたお話。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「夏禮、吾能言之、杞不足徵也。殷禮、吾能言之、宋不足徵也。文獻不足故也、足則吾能徵之矣。」

書き下し

いはく、れいわれこれへども、るにらざるなりいんれいわれこれへども、そうるにらざるなり文獻ぶんけんらざるがゆゑなりらばすなはわれこれ

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子
先生が言った。「夏の礼法を私は語ることが出来るが、その末裔である杞の国は、礼法の知識を取るに足らない。殷の礼法を私は語ることが出来るが、その末裔である宋の国は、礼法の知識を取るに足らない。文書も器具も残っていないからだ。残っていれば取ることが出来るのだが。」

意訳

論語 孔子 ぼんやり
二代前の、夏王朝の礼法はよく知っている。しかしその末裔の杞の国には、その名残がない。一代前の殷と末裔の宋も同じ。めぼしいものが何もない。殺風景なものだ。

従来訳

 先師がいわれた。――
「私はしばしばの礼制の話をするが、夏の子孫の国である現在のには、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。私はしばしばいんの礼制の話をするが、殷の子孫の国である現在のそうには、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。それは典籍も不十分であり、賢人もいないからだ。それらがありさえすれば、私は私のいうことが正しいということを完全に証拠立てることが出来るのだが。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

杞(キ)・宋

論語 杞 金文 論語 宋 金文
(金文)

論語の本章では、春秋諸侯国のうち杞国と宋国。

杞国は夏王朝の開祖王の末裔を称する国で、殷周革命の際に一時滅亡したが、周王朝の後援を受けて復国した。しかしその後も小国のまま位置も点々とし、どの時点でどこに存在したかもはっきりしない。

下の地図では現在も杞県として名が残っている位置を示したが、論語当時にこの場にあったとは断定できない。BC445年に楚国によって滅ぼされた。

当時から小国として小ばかにされていたらしく、天が落ちてくるのではないかと心配する杞国人の寓話が『列子』に残されており、「杞憂」の語源。

宋国は殷王朝の残党を、殷を滅ぼした周が領地を与えて立てさせた国であり、爵位も公爵と最高で、プライドが高かった。中国王朝の交代期には、全王朝の残党は通常、一人残らず探し出されて殺されるのが通例で、この処遇は珍しい。

だが亡国として杞と同様に小ばかにされていたらしく、偶然手に入れた兎を再度期待して木の株を守る「守株」の寓話(『孟子』)、苗の素早い生長を望んだ百姓が苗を引き抜き、枯れてしまったという「助長」の寓話が残る(『韓非子』)。

また君主の襄公が、身の程知らずにも大国の楚と戦う際、態勢の整わない楚軍を攻めるのは「義」に反するとして大敗した「宋襄の仁」の寓話は史実として扱われている。

論語との関係では、孔子の先祖が住んだと言われ、孔子は晩年、自分は殷の末裔だ、と言ったとされる。

位置は下図参照。

文獻(文献)

論語 文 金文 論語 献 金文
(金文)

論語の本章では、”文献と祭器”。

既存の論語本には、”文書と賢者”と解する訳例がある。『学研漢和大字典』もそれを支持する。しかしここでは「献」=”捧げ物”と解し、祭器として訳した。

論語 徵 金文 論語 徵
(金文)

論語の本章では、”資料として取り上げる”。

論語の本章では、”それを証拠立てるようなしるしを取る”と解した。『大漢和辞典』には、”召す・求める・取り立てる・しるし”の語義をのせる。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、「微の略体+王」で、隠れた所で微賤(ビセン)なさまをしている人材を王が見つけて、とりあげることを示す。チョウは登・昇(のぼる)と同系で、上へ引きあげること。

また、證(=証。ことばで表面に出す)と同系で、わずかな手がかりをつかんでとりあげ表面にのせること、という。

論語:解説・付記

孔子の時代、書籍や史料・資料を収集するのは非常に困難で、図書館はなく、書店の存在も極めて想像しがたい。従って資料収集にはつてを頼って各国の朝廷や貴族の家庭が保管している文献を読むことと、現地調査しか手段がなかっただろう。

庶民として生まれた孔子は、母親が巫女だった関係から、母親が属する呪術者集団の持つ文献を読めた可能性はあるが、その数や種類が豊富だったとは思えず、青年期以降に自分で諸国を回って、時に好意的な貴族から文献を見せて貰い、古老から聞き書きなどをしたと想像する。
論語 二宮金次郎

従って論語為政篇23で夏や殷の礼法について「増減したところを知る」と断言しているが、そう言いきれるほど正確な情報を持っていたとは想像しがたい。確かに弟子よりは知識豊富で、同時代人の通常の貴族よりは知識の多い方だったろうが、その情報源は極めて怪しかった。

だからこそ初めて魯国の祖先祭殿に上がったとき、礼法の手順が正しいかと一々聞かざるを得なかった(論語八佾篇15)。孔子の言う「礼」が史実に基づいたものであったと言い難いのも、こうした事情による。足りない部分は孔子の想像で創作せざるを得なかった。

論語 老子
従って孟孫氏の後援で、論語当時の周の都・洛邑に留学できたのは非常に有り難かったに違いなく、何代目かの老子に教えを受けたのが事実だと訳者が思うのは、この事情による。同時に孔子の言う礼は、論語述而篇1の言葉にも関わらず、多くが「作って述べた」ものだろう。

なお既存の論語本では吉川本で、論語為政篇23「十世知るべきや」と同様、文明には普遍的性格があると捉え、それゆえ夏・殷王朝についても孔子は充分な知識の自信が持てたとする。その上で孔子は、当代である周王朝を文明の頂点としてみている、とする。

だが文明の普遍的性格の定義を言わないので、何のことか分からない。「世界中同じ人間だ」という無邪気な想像だとすると、それは自分の常識を相手に押し付けることで、同時に自分の色眼鏡で相手を見ることにほかならない。だとするなら孔子の「自信」はかなり怪しい。

論語 吉川幸次郎
だから博士の説は放置するとして、論語の本章で孔子が言うのは、自分の教説には根拠がある、ということだ。自分自身で探し歩いて、集められる情報は集め終わった、だから分からないことは分からないが、分かったことをもとに教説を立てた、それが孔子の主張だろう。

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