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論語詳解042八佾篇第三(2)三家は雍を以て’

論語八佾篇(2)要約:孔子先生の魯国では、殿様がお飾りとなり、門閥家老三家=三桓が、実権を握っていました。驕った三家は家老身分に許されぬ音楽を奏で、それを孔子先生が激怒して、口を極めて非難した、という疑わしい話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

三家者以雍徹子曰相維辟公天子穆穆奚取於三家之堂

校訂

諸本

  • 武内本:釋文、撤一本徹に作る。

東洋文庫蔵清家本

三家者以雍徹/子曰相維辟公天子穆〻奚取三家之堂

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……□徹。子曰:「『相維闢公,天子穆穆a』,奚取於[三]37……

  1. 皇本「穆穆」下有「矣」字。

標点文

三家者以雍徹。子曰、「『相維闢公、天子穆穆。』奚取於三家之堂。」

復元白文(論語時代での表記)

三 金文家 金文者 金文以 金文雍 金文徹 金文 子 金文曰 金文 相維 金文闢 金文公 金文 天 金文子 金文穆 金文穆 金文 奚 金文取 金文於 金文三 金文家 金文之 金文𣥺 金文

※論語の本章は、「奚」「堂」の用法に疑問がある。

書き下し

つのいへようもつとりされり。いはく、たすくるは闢公うんかく天子あまつみこ穆穆なごやかなりと。なんつのいへざしきらんと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
三家は雍の歌で(食器を)取り下げた。先生が言った。「♪お助けするのは殿上人、天子様は慎ましく、だと? なぜ三家の庭で採用する?」

意訳

論語 孔子 居直り
三家がまた身分違いの歌で宴会を行った。食後に♪名君賢臣あい揃い、天子様はお平らに、だと? 家老ごときがちゃんちゃらおかしい。

従来訳

下村湖人
三家のものが、雍の詩を歌って祭祀の供物を下げた。先師がこれを非難していわれた。――
(よう)の詩には、『諸侯が祭りを助けている。天子はその座にあって威儀を正している。』という意味の言葉もあるし、元来三家の祭りなどで歌えるような性質のものではないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

掌握魯國實權的三個家族在祭祖儀式結束時,唱著天子祭祖時所用的詩歌。孔子說:「歌詞中的『諸侯輔助,天子肅穆』,怎能唱於三家的廟堂?」

中国哲学書電子化計画

魯国の実権を握っている三家族が祖先の祭礼を締めくくるとき、天子が祖先を祀る時に用いる歌を歌った。孔子が言った。「歌に言う”諸侯が手助けし、天子は慎む深く恭しい”を、なぜ三家の祖先霊殿で歌えるのか?」

論語:語釈

、「『 ( 。』 。」

三家(サンカ)

三 甲骨文 家 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、魯公室の分家で、門閥家老だったいわゆる三桓を指す。具体的には、司徒=宰相を務めた季孫家、司空=法相兼建設相を務めた孟孫家、司馬=陸相を務めた叔孫家の三家。

新興勢力である孔子を、門閥の三桓と互いに政敵だったとするのは儒者のデタラメで、孔子の政界デビューを後押ししたのは孟孫家、孔子や弟子を雇い入れたのは季孫家。孔子が宰相代理を辞め放浪に出たのも、あまりにやり過ぎて貴族ばかりか庶民まで敵に回したので、居づらくなって出たに過ぎない。春秋政界では政争に敗れると殺されるのが普通だが、孔子は鼻歌を歌いながら悠々と出掛けたばかりか、有力弟子の冉有は季孫家に仕えたままだった。

「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

「家」の初出は甲骨文。「ケ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「宀」”屋根”+〔豕〕”ぶた”で、祭殿に生け贄を供えたさま。原義は”祭殿”。甲骨文には、〔豕〕が「犬」など他の家畜になっているものがある。甲骨文では”祖先祭殿”・”家族”を意味し、金文では”王室”、”世帯”、人名に用いられた。詳細は論語語釈「家」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…は”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”~で”は、春秋時代の不在を回避できる。ただし「もちいる」と読むことで、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

雍(ヨウ)

雍 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

論語の本章では、音楽の名。初出は甲骨文。同音は「雍」を部品とする漢字群、「邕」”川に囲まれたまち”、「廱」”天子の学び舎”、「癰」”できもの”。字形は「隹」”とり”+「囗」二つで、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”ふさぐ”、”煮物”、擬声音に用い、戦国の竹簡では”ふさぐ”に用いられた。詳細は論語語釈「雍」を参照。

食事が終わった後に奏でる。既存の論語本では天子専用の歌「ヨウ」であるという。「雝」は「雍」の古字。『大漢和辞典』にも「楽の名。食事が終わった時に奏でる」とあり、出典として論語の本章を載せる。

『詩経』周頌・雝

有來雝雝、至止肅肅。 相維辟公、天子穆穆。 於薦廣牡、相予肆祀。 假哉皇考、綏予孝子。 宣哲維人、文武維后。 燕及皇天、克昌厥後。 綏我眉壽、介以繁祉。 既右烈考、亦右文母。

雝雝と来る有り、至りて肅肅と止まる。相(たす)くるは維(こ)れ辟公(ヘキコウ)、天子穆穆(ボクボク)たり。於(ああ)廣(おおい)なる牡(いけにえ)薦(すす)め、予(われ)を相けて肆(ここ)に祀る。假(おお)いなる哉(かな)皇考(コウコウ)、予ら孝子を綏(たす)く。哲(さと)りを宣ぶる維の人、文あり武ある維れ后(きみ)。 燕(やす)んじるに皇天に及び、克(よ)く厥(そ)の後を昌(さか)んにす。我らに眉(なが)き壽(よわい)を綏(やす)んじ、以て繁き祉(さち)を介(ま)す。 既に烈(かがや)く考(ちち)に右(すす)め、亦た文なる母に右(すす)む。


ヨウヨウと和やかに来たり、シュクシュクと謹んで御前に侍る。祭祀を補助する諸侯たち、天子はにこやか。ああ、ここで大きな雄牛を犠牲に捧げよう、諸侯の助けを借りて祀ろう。大いなる我が父よ、我ら子孫を助ける父よ。真理を世に広めた人、文武を兼ねた我が主。天の神も安らいで、我ら子孫を栄えさせた。我らに長い寿命を賜い、大いなる幸せを下された。まずは輝ける父に捧げ、次いで文徳ある母に捧げん。

徹(テツ)

徹 甲骨文 徹 字解
(甲骨文)

論語の本章では”取り去る”。初出は甲骨文。ただし字形は「レキ」”三本足の鍋”+「又」”手”。火から鍋をおろすさま。原義は”取り去る”。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”統治する”に用いた。詳細は論語語釈「撤」を参照。

”つらねる”と読んで、祭器を並べた時に歌わせた、と解することも出来るが、「雍」が”食後の音楽”だから、料理を盛りつけた器を一旦配膳して、宴会が終わって雍を歌わせながら食器を”取り去る”の方が可能性がある。

『学研漢和大字典』は語義としては以下を挙げ、”つらねる”の意は挙げていない。

  1. {動詞}とおる(とほる)。するりと突き抜ける。つらぬきとおす。
  2. {動詞}とる。すっと抜きとる。とり去る。場にある物をとり去る。

『大漢和辞典』で”つらねる”の出典として挙げられているのは、一つは方言であり、もう一つは後漢末にサイヨウが書いた『独断』に出てくる一節で、漢代最高位の爵位、徹侯の説明のために用いている。論語の本章で”つらねる”と読むのは無理がある。

雍徹

『論語集釋』は異同を次のように記す。

舊文「徹」爲「撤」。五經文字曰:「撤,去也。見論語。」論語釋文曰:「『撤』,本或作『徹』。」 詩「雍」字作「雝」。黃氏後案:「徹」當作「勶」。「徹」借字,「撤」俗字。見說文段注。

「五經文字」は唐の張参による字様書。「釋文」は南朝陳の『経典釈文』。

字様書(じようしょ)とは唐代、漢字(楷書)の異体字関係を整理して正字を定め、標準字体の筆画を示した書物。…安史の乱によって再び五経のテキストに乱れが生じ、代宗の時、張参が五経の文字を校勘して『五経文字』を著し、…西安市の碑林で見ることができる。(wikipedia字様書条)

「黃氏後案」は清儒・黄式三(1789-1862)の『論語後案』を言う。いずれも論説が新しすぎるか、論拠がないので賛成できない。『詩経』全編が論語より先に成立したと考えるのには、文字史の上から無理がある。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

相*(ショウ)

相 甲骨文 相 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。「ソウ」は呉音。字形は「木」+「目」。木をじっと見るさま。原義は”見る”。甲骨文では地名に用い、春秋時代までの金文では原義に、戦国の金文では”補佐する”、”宰相”、”失う”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”相互に”、”補助する”、”遂行する”の意に用いられた。詳細は論語語釈「相」を参照。

維(イ)

維 金文 維 字解
(金文)

初出は殷代末期または西周初期の金文。ただし字形は「隹」”とり”。現行字体の初出は西周末期の金文。「ユイ」は呉音。論語では本章のみに登場。字形は「糸」+「隹」。鳥をひもでゆわえるさま。原義は”つなぐ”。金文では人名に用いられ、”これ”・”つな”と解せる用例もある。詳細は論語語釈「維」を参照。

辟公(ヘキコウ)→闢公(ヘキコウ)

辟 甲骨文 公 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”高官と諸侯”。

武内本は「辟公は諸侯」といい、古注に包咸が注釈して「辟公謂諸侯及二王之後也」としたことから、封建領主とそれに含まれる夏・殷の末裔を指すとされた。しかし西周早期の「大盂鼎」に「邊(辺)侯」と「百辟」が別ものと記されていることから、「辟」は”諸侯”ではなく”官僚”・”高官”を意味するだろう。

ただし封建時代の高官は、同時に諸侯でもあることから、”諸侯”と解するのは全く間違いとは言えないが、正確でもない。「辟公」で”中央政府の高官と諸侯”。

「辟」の初出は甲骨文。字形は「卩」”うずくまった奴隷”+「口」”ことば”+「辛」”針または小刀で入れる入れ墨”で、甲骨文では「口」を欠くものがある。原義は意見や武器で君主に仕える者の意で、王の側仕え。甲骨文では原義のほか人名に用い、金文では”管理”、”君主”、”長官”、”法則”、”君主への奉仕”の意に用いられた。”たとえる”の語義は、「比」と通じ、戦国時代以降に音を借りた仮借。詳細は論語語釈「辟」を参照。

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族・古人・父への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

闢 金文 闢 字解
「闢」(金文)

定州竹簡論語「闢」の初出は西周早期の金文。但し字形は「門」+「又」”手”二つ。現行字体の初出はおそらく定州竹簡論語。確実な初出は後漢の『説文解字』。「ビャク」は呉音。同音に「辟」。初出の字形は手で門を開くさまで、原義は”ひらく”。春秋時代までの金文では”とりぞのぞく”に、戦国の金文では原義に用いられた。詳細は論語語釈「闢」を参照。

天子(テンシ)

天 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”周王”。天命を受けて全人界を統治する君主を言う。

「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

穆穆

穆 甲骨文 穆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”安らか・にこやか”。初出は甲骨文。字形はイネ科の実ったさまで、原義はイネ科の”穂”。甲骨文では地名に、金文では周王のおくり名に、”よい”、”敬いつつしむ”の意に用いられた。戦国の竹簡では、楚王のおくり名に用いられた。「穆穆」は三種に解釈されている。一つは”おそれつつしむ”(師朢鼎・西周中期)、二つは”盛んなさま”(大克鼎・西周末期)、三つは”音楽の調和”(許子鐘・春秋中期)。詳細は論語語釈「穆」を参照。

古注では後ろに「矣」を付ける。定州竹簡論語に無く、清家本正平本に無し。従って三国時代以降につけ加えられたことになる。

奚(ケイ)

奚 甲骨文 奚 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɡʰieg(平)。字形は「𡗞」”弁髪を垂らした人”+「爪」”手”で、原義は捕虜になった異民族。甲骨文では地名のほか人のいけにえを意味し、甲骨文・金文では家紋や人名、”奴隷”の意に用いられた。春秋末期までに、疑問辞としての用例は見られない。詳細は論語語釈「奚」を参照。

取(シュ)

取 甲骨 取 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

堂(トウ)

𣥺 金文 堂
(金文)

論語の本章では、”座敷”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𣥺」。現行字体の初出は戦国中期の金文。「ドウ」は呉音。同音に「唐」とそれを部品とする漢字群、「湯」を部品とする漢字群など、「宕」”岩屋”。字形は〔八〕”屋根”+「ケイ」”たかどの”+「土」で、土盛りをした上に建てられた比較的大きな建物のさま。原義は”大きな建物”。戦国の金文では原義、”見なす”の意に用い、戦国の竹簡では”…に対して”の意に用いられた。詳細は論語語釈「堂」を参照。

中国家屋

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は後漢前期の班固『漢書』楚元王伝に再録されるのみ。定州竹簡論語にはあるから、前漢の前半までには論語に入っていた事になるが、春秋戦国の誰一人引用していないし、再録もしていない。いわゆる前漢による儒教の国教化の過程で創作された可能性がある。

だが偽作を断じる証拠もないので、とりあえず史実として扱う。

解説

儒家にとって音楽とはただの娯楽ではなく、政治の一部分だった。こんにちでも独裁国家が派手な軍事パレードをやらかすように、音楽は民を躾けるための重要な手段と見なされていた。従って儒学を別名、礼楽(作法と音楽)と言った。音楽を重視したのは、孔子も変わらない。

孔子は政治工作として、楽団を組織して派手にあちこちでちんちんドンドンや、わ~あ~をやらせたらしい。孔子と入れ替わるように生きた墨子が、晏嬰の口を借りてそれを証言している。

晏嬰
いくら金を掛けても、彼らの言う楽団の楽器は揃えきれません。言葉を飾ってよこしまな企みで国君を惑わし、合唱団を巡業させて愚かな民を惑わしています。(『墨子』非儒下篇)

孔子の生前はこの程度で済んだ。諸侯も真に受けなかった。だが帝国の儒者は、論語に「鄭声は淫ら」(論語陽貨篇18)とあるのを利用し、気に食わない音楽を「鄭声だ」と言って弾圧した。利権争奪でない弾圧は、権力を握った者の娯楽である。迷惑な連中と言うしかない。

なお通説では雍の歌で”祭祀の器具を取り去った/配置した”と解するが、祭祀にこだわらねばならない理由はない。論語の本章が後世の創作であるにしても、やはり祭祀に限定して解する理由はない。

諸橋轍次 大漢和辞典 後漢儒
『大漢和辞典』は「雍」について、前漢武帝期の『淮南子』の注「雍、已食之楽也」を引いて”食事の終わったときに奏する”と記し、祭祀のさの字も書いてない。注記者が高誘か許慎かは不明だが、いずれにせよ後漢儒であり、当時も祭祀に限定してはいなかったと知れる。

原文は次の通り。

當此之時,鼛鼓而食,奏《雍》而徹,已飯而祭灶,行不用巫祝,鬼神弗敢祟,山川弗敢禍,可謂至貴矣。

漢儒
当時は太鼓や鼓を叩いて食事し、雍の歌で食器を下げた。食事が終わってからかまどを祭ったが、その時にみこも神主も呼ばなかった。それでも亡者の亡霊や自然界の精霊は祟りを起こさず、山川の神も災害を起こさなかった。だからこそ貴いと評価できる。(『淮南子』主術訓)

通説の淵源はいつも通り、古注。

古注『論語集解義疏』

三家者以雍徹註馬融曰三家者謂仲孫叔孫秀孫也雍周頌臣工篇名也天子祭於宗廟歌之以徹祭今三家亦作此樂者也子曰相維辟公天子穆穆矣奚取於三家之堂註苞氏曰辟公謂諸侯及二王之後也穆穆天子之容也雍篇歌此曲者有諸侯及二王之後來助祭故也今三家但家臣而已何取此義而作之於堂耶

馬融 包咸
本文「三家者以雍徹」。
注釈。馬融「三家とは季孫・叔孫・孟孫家のことだ。雍は周の典礼歌で、『詩経』臣工篇にある名だ。天子が宗廟で祭祀を行うときこれを歌わせる。それで祭祀を締めくくる。対して三家もまたこの歌を歌わせたのだ。

本文「子曰相維辟公天子穆穆矣奚取於三家之堂」。
注釈。包咸ホウカン「辟公とは諸侯と、夏・殷の末裔の当主のことだ。穆穆とは天子のようすを言う。雍の合唱曲は、諸侯や夏殷の末裔が周王の祭祀を補助するさまを歌う。対して三家が諸侯の家臣に過ぎないのに、その邸宅で歌わせても、どうしてこの歌詞が当てはまるだろうか。」

新から後漢初期の包咸は、まだまじめな儒者と言えるのだが、馬融は鄭玄と並び後漢の不真面目儒者の代表で、その言い分は信用ならない。新注もあまり変わらない。

新注『論語集注』

徹,直列反。相,去聲。三家,魯大夫孟孫、叔孫、季孫之家也。雍,周頌篇名。徹,祭畢而收其俎也。天子宗廟之祭,則歌雍以徹,是時三家僭而用之。相,助也。辟公,諸侯也。穆穆,深遠之意,天子之容也。此雍詩之辭,孔子引之,言三家之堂非有此事,亦何取於此義而歌之乎?譏其無知妄作,以取僭竊之罪。程子曰:「周公之功固大矣,皆臣子之分所當為,魯安得獨用天子禮樂哉?成王之賜,伯禽之受,皆非也。其因襲之弊,遂使季氏僭八佾,三家僭雍徹,故仲尼譏之。」

論語 朱子 新注 論語 程伊川
徹は「直-列」の反切。相は、尻下がりに読む。三家は、魯の大夫である孟孫家、叔孫家、季孫家のことである。雍は、『詩経』周頌篇の名である。徹は、祭礼を終えてお供えを載せたまな板を下げることである。天子が宗廟で祭るとき、必ず雍を歌ってまな板を下げた。論語の本章の時代、三家が分不相応にこの歌を歌って祀った。相とは助けることである。辟公とは、諸侯である。穆穆とは、重厚であることで、天子の表情である。この雍の歌の歌詞を孔子が引用して、三家の座敷で歌うのは間違いだと言った。どうして歌詞で非難したのか? 何が歌われているかも知らない、無知蒙昧を示して、分不相応の罪を告発した。

程頤「周初に摂政を務めた周公の功績は言うまでも無く大きい。(分不相応者の反乱を鎮めて懲らしめたことで、)みな臣下の分を守って破らなかった。だがその末裔である、魯の国公がどうしてただ一人天子の音楽を用いたのか? 成王が許可を出し、周公の子・魯の初代伯禽がその許可を受けたが、どちらも間違いを犯した。代々その間違いが積み重なって、とうとう季孫家が勝手に八佾を舞わせ、三家が雍を歌わせて祭祀を締めくくった。だから孔子が非難したのだ。」

余話

政治と音楽

上記の通り帝国儒者にとって歌や音楽も政治の一環だったが、人類社会に独裁政権がある限り、同様の不条理は続くだろう。文革で毛沢東が神格化された頃、中国国歌やそれに次ぐ「歌唱祖国」の歌は追いやられ、毛沢東賛歌「東方紅」が国歌の扱いを受けた

事は中国に限らない。

二次大戦終結後、ドイツは東西に分割され、うち東ドイツは全く新しい国歌を採用した。ナチはもう去った、平和な社会を建設するために働こう。ドイツを太陽が明るく照らす、と至ってまともな歌だったが、1970年頃にソ連に「歌うな」と命じられて歌われなくなったという。

いわゆるブレジネフ=ドクトリンを象徴するような出来事の一つだった。

公式行事では曲の奏楽のみが行われたと聞く。東ドイツがソ連も真っ青の陰険な警察国家だったことはよく知られている。この点だけはナチの時代と全然変わらなかったわけだが、対して西ドイツは曲*はそのままに、ワイマール以来の「世界に冠たるドイツ」部分を省いて歌った。

*どうも現行のドイツ国歌は、もとはオーストリア帝国の国歌だったとwikiが言う。ドイツ語も楽譜も全く読めない訳者には、本当かどうか知るすべがない。

日本は制定以来、曲も歌詞も変更がない。敗戦時に議論されたようだが、戦時中に第二国歌扱いされた「海ゆかば」を聞くと、訳者の親の世代は露骨に嫌な顔をした。だが「君が代」についてあれこれ言っていた記憶が無い。軍部は嫌われていたが天皇はそうでもなかったらしい。

むしろ驚くべきは、一次大戦敗戦時のドイツ国歌の不変更で、軍部が「カブラの冬」をはじめドイツ国民をさんざん苦しめたというのに、皇帝は嫌われても軍部への支持は失われなかったし、失った少数の人々は「インターナショナル」を歌いつつ共産党に入って過激化した。

背後の一突き」伝説が流布したように、多数派がドイツ的強権支配を望んだからだろう。ドイツ軍歌「ラインの守り」はイェールや同志社の校歌として歌われているそうだが、それは元の様子を知らなかったからで、新島襄ほどの知性が、ドイツ軍部の蛮行を知ったら激怒したに違いない。

フランスは政体変更のたびに国歌が違うというし、ソ連崩壊時にロシア連邦は新国歌を採用したが、不人気だったので歌詞を変えてソ連国歌の曲に戻した。ただしリフレーン部分など同じ文字列も多い。今でもやはり音楽は政治の一部だ。

短波で朝鮮中央放送を聞くと、冒頭に国歌、次いで金日成の賛歌、次いで金正日の賛歌と延々「マンセー! マンセー!」の音楽が続く。中国国際放送も、冒頭のジングルはかつて「東方紅」で、今は国歌の頭を流す。政治にウソが多ければ多いほど、ちんちんドンドンやわ~あ~が要るわけだ。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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