論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
或問禘之說。子曰、「不知也。知其說者之於天下也、其如示諸斯乎。」指其掌。
校訂
史記
封禅書13:或問禘之說,孔子曰:「不知。知禘之說,其於天下也視其掌。」
定州竹簡論語
(なし)
→或問禘之說。子曰、「不知也。知其說者之於天下也、其如示諸斯乎。」指其掌。
復元白文(論語時代での表記)
掌
※說→兌。論語の本章は、「掌」が論語の時代に存在しない。「或」「問」「也」「其」「如」「示」「諸」「乎」の用法に疑問がある。
書き下し
或るひと禘之說を問ふ。子曰く、知らざる也。其の說を知る者之天が下に於ける也、其れ諸を斯に示すが如き乎」と。其の掌を指せり。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
ある人が禘の由来を問うた。先生が言った。「知らない。それを知っている者は、天下でもこうですな」と言って、手のひらを指さした。
意訳
ある人「禘の祭って、なんかすごいチンチンどんどんをやりますが、あれには何か古来からの、ありがたい由来があるんでしょうか。」
孔子「あるものか。神主どもがもったいつけてやっとるだけじゃよ。由来? そんなもん、誰が知っとるというのかね。」そう言って、空っぽの手のひらを指さした。
従来訳
ある人が禘の祭のことを先師にたずねた。すると先師は、自分の手のひらを指でさしながら、こたえられた。――
「私は知らない。もし禘の祭のことがほんとうにわかっている人が天下を治めたら、その治績のたしかなことは、この手のひらにのせて見るより、明らかなことだろう。」下村湖人先生『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有人問天子舉行祭祖儀式的意義。孔子說:「不知道,知道的人治理天下,如同擺在這裏吧!」指指手掌。
誰かが天子*が取り行う祖先祭の儀式の意味を問うた。孔子が言った。「知らない。知っている人が天下を治めたなら、ここに並べるようなものですな。」手のひらを指さした。
*「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
或(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
禘(テイ)
(金文)
論語の本章では、国公の祖先や天の神を祀る祭礼。詳細は論語語釈「禘」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義は”これ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
說(エツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”解説”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”解き放つ”・”説明する”。詳細は論語語釈「説」を参照。
漢文では音が通じる「悦」と同じとし、”よろこぶ”意に用いることがあり、それは論語でも例外ではないが、本章では”解説”の意味。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「不知也」では「や」と読んで詠歎”…ですなあ”の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。「天下也」では主格の強調。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…をするもの”。新字体は「者」。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…する者”・”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…において”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「烏」。現行字体の初出は春秋中期。その鳴き声を示し、”ああ”という感嘆詞に用いられた。”…において”の用法は、春秋時代末期から見られる。おそらく現行字形の出現と共に、その語義を獲得したとみられる。「オ」は”…において”の場合の呉音。詳細は論語語釈「於」を参照。
天下(テンカ)
(甲骨文)
論語の本章では”天下”。天の下に在る人界全て。
「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。カールグレン上古音はgʰɔ(上/去)。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
如(ジョ)
甲骨文
論語の本章では”~のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。
示(シ/キ)
(甲骨文)
論語の本章では”示す”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。漢音「シ」(去)は”しめす”を意味し、「キ」(平)は「祇」”神霊”を意味する。字形は位牌または祭壇の姿で、原義は”神霊”。甲骨文では”神霊”・”位牌”を意味し、金文では氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「示」を参照。
なお漢語で”示す”を意味する言葉が明らかに確認できるのは戦国時代の「郭店楚簡」にある「旨」からで、本章は少なくともこの字については後世の改変が加わっている。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”これ”。この語義は春秋時代では確認できない。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。
「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉とされる。金文の字形は「言」+「者」で、”さまざまな”の意。詳細は論語語釈「諸」を参照。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では「ここ」と読み、”ここに”の意。初出は西周末期の金文。字形は「其」”ちりとり”+「斤」”おの”で、ばらばらに切り裂くさま。同じ「これ」「この」と読んでも、春秋時代までは意味内容の無い語調を整える助字で、”…は”のような助詞の用法は、戦国時代の竹簡にならないと現れない。詳細は論語語釈「斯」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…(だろう)か”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
指(シ)
(金文)
論語の本章では”指さす”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。同音に「脂」「祗」”つつしむ”(以上平)「旨」「厎」”みがく”「砥」”といし”(以上上)。字形の由来は不明。金文では”頭を下げる”の意にも用いた。詳細は論語語釈「指」を参照。
掌(ショウ)
(戦国文字)
論語の本章では”てのひら”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「尚」+「手」で、「尚」は音符で、言葉のさまを表さない。部品の「手」に”たなごころ”の語釈が『大漢和辞典』にあり、金文から存在するが同音でない。詳細は論語語釈「掌」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、若干違う語句で前漢中期の『史記』が再録するまで、誰も引用していない。
或問禘之說,孔子曰:「不知。知禘之說,其於天下也視其掌。」
ある人が禘の解説を問うた。孔子「知らない。禘の詳細を知るなら、天下を自分の手の平のように見なすだろう。」(『史記』封禅書13)
つまり前漢の前半では、論語の本章を従来訳のように解していたことになる。定州竹簡論語にも無いが、文字史的にも問題がある上に、「示」などの用例にも疑わしい点がある。本章の元となる話はあったのかも知れないが、本章そのものは史実と判断できない。
解説
従来訳のように、論語のほんのささいな言葉から大げさな道徳的教訓を作り上げるのを、微言大儀という。現代的に論語を読む作業は、古注や新注が論語にべったり塗り付けた、根拠無き微言大義をそぎ落とすことから始まる。史実性の検証はその一環でもある。
論語の本章について、既存の論語本では、吉川本に以下のように言う。「祭りについての学問的説明は、孔子のころにすでに議論が分かれていたのであろう。…孔子の答えは…完全に分からなかったのではなく、自信のある説明を難しいとしたのである。」訳者の見解は全然違う。
もし本章が史実だったとすると、孔子は一体何が言いたかったのだろう。前章で検討したように、孔子は極めて開明的な精神の人で、神などいないと思っていた形跡さえある。論語の時代の禘祭が、どのようなものだったかは想像しがたいが、祭礼にふさわしい所作はあったろう。
神楽の舞踊の型とか、チンチンどんどんの伴奏とかである。それが何を意味しているか、「ある人」は興味を持って孔子に聞いたが、孔子は「そんなもんあるものか」と突き放したのだ。それを前提にすると、孔子が太廟で「ことごとに問う」理由も見えてくる(論語八佾篇15)。
神主がもったい付けてやる所作の一つ一つが、若年期の孔子にとって無意味に思えたのだろう。おそらくは「何でそんなバカげたことを」という感情がこもっていただろう。だからこそ神主の言った「田舎者」というさげすみに、それなりの理由が付きもする。
自分らの実効無き秘技をさげすむ者に、言い返すにはそれぐらいしかないからだ。
余話
行商人と用心棒
『春秋左氏伝』には、孔子の存命中に二度禘祭があったことを伝える。一度目は前回記した昭公十五年(BC527)で、孔子はまだ27歳、二度目は定公八年(BC502)で、孔子は50歳、「中都宰」に登用される前年で、まだ政界入りする前だった。
定公八年…十月…辛卯,禘于僖公。
定公八年…十月…辛卯の日、僖公の禘祭を行った。
僖公は魯の第19代国君(位BC659-BC627)、定公は第26代(位BC509-BC495)。第25代昭公(位BC541-BC510)が禘祭を行ったのは第9代武公(位BC825-BC816)。どうやら禘祭の対象になる先祖は、少なくとも一世紀は昔の国君でなければならなかったようだ。
論語の本章の時期は、どちらであると考えても差し支えない。「先祖の霊などいるものか」と思っていたのは上掲のように太廟で祭祀の手伝いをした若年時からだからで、ただしわざわざ人が禘祭の解説を聞きたがったとなると、政界入り直前の50歳の頃だと考えたくなる。
のちの諸国放浪で生死の危険を分かち合った古参の弟子は、すでに孔子に入門したと見られており、彼らは子路・顔淵のように血縁が元で弟子入りした者もいたが、年代から見て、庶民出身の孔子が政界入りしたという実績に惹かれて弟子入りしたわけではない。
子貢のように外国の衛国からも弟子が来たところを見ると、孔子の学問や技術が、外国に聞こえるほど優れていたと想像できる。ただしこれまた想像だが、子貢もただ孔子の名声だけを聞いて遠路はるばる入門したわけではない。かすかながら孔子との縁が会ったからだ。
孔子の母の名を顔徴在といい、弟子の筆頭格に顔淵が居た。幼少時の孔子は母に手を引かれて諸国を巡業したはずだが、城壁を一歩外に出ると言葉も通じない異族がおり、野には虎やサイがいた。そんなサファリパークな旅を、母子二人だけで出来るわけがない。
詳細は孔子の生涯(1)に記したが、母や顔淵の出た顔氏一族は、当時巫女と傭兵のネットワークを諸国間に張り巡らせた一大氏族だった。孔子と同世代の頭領を顔濁鄒といい、山塞を梁父山に、屋敷を衛国の都城に構えていた。そして顔濁鄒の義弟は、孔子の一番弟子・子路である。
子貢の実家は衛国の商家であり、おそらくは行商の護衛として顔濁鄒親分と付き合いがあっただろう。その親分から人並み優れた孔子の話を聞き、はるばる衛国から入門したと思われる。ひょっとすると本章の質問者は、その子貢だったかも知れない。