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論語詳解051八佾篇第三(11)或る人禘の説を*

論語八佾篇(11)要約:後世の創作ですが史実の可能性も。魯国は格が高く、周王の特権である祖先祭が行われました。その所作に、ある人がその由来を先生に問います。しかし冷ややかに祭を見ていた先生は、「由来なんて分かるものか」と答えたのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

或問禘之說子曰不知也知其說者之於天下也其如示諸斯乎指其掌

  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

校訂

諸本

宋版『史記』封禅書13:或問禘之說孔子曰不知知禘之說其於天下也視其掌

東洋文庫蔵清家本

或問禘之說子曰不知也/知其說者之於天下也其如示諸斯乎指其掌

  • 「禘」字:〔示〕→〔礻〕。
  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

後漢熹平石経

…也知其說□□□天下也□示諸斯乎…

  • 「其」字:上部に縦一画あり。「斯」字も同。「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

定州竹簡論語

(なし)

標点文

或問禘之說。子曰、「不知也。知其說者之於天下也、其如示諸斯乎。」指其掌。

復元白文(論語時代での表記)

或 惑 金文問 金文啻 金文之 金文兌 金文 子 金文曰 金文 不 金文知 金文也 金文 知 金文其 金文兌 金文者 金文之 金文於 金文天 金文下 金文也 金文 其 金文如 金文示 金文者 諸 金文斯 金文乎 金文 指 金文其 金文

※說→兌。論語の本章は、「掌」が論語の時代に存在しない。「或」「問」「其」「如」「示」「乎」の用法に疑問がある。

書き下し

あるひとていときふ。いはく、かなときものあめしたけるもろきはしめすがごと」と。たなごころゆびさせり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
ある人が禘の由来を問うた。先生が言った。「知らないねえ。それを知っている(と称する)者は、まさしく天下でいろいろと条件を言い立てているようですがな」と言って、手のひらを指さした。

意訳

ある人1 孔子
ある人「禘の祭って、なんかすごいチンチンどんどんをやりますが、あれには何か古来からの、ありがたい由来があるんでしょうか。」

孔子「あるものか。神主どもがもったいつけて、それぞれ勝手な絵空事を言っとるだけじゃよ。」そう言って、空っぽの手のひらを指さした。

従来訳

下村湖人
ある人が(てい)の祭のことを先師にたずねた。すると先師は、自分の手のひらを指でさしながら、こたえられた。――
「私は知らない。もし禘の祭のことがほんとうにわかっている人が天下を治めたら、その治績のたしかなことは、この手のひらにのせて見るより、明らかなことだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

有人問天子舉行祭祖儀式的意義。孔子說:「不知道,知道的人治理天下,如同擺在這裏吧!」指指手掌。

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誰かが天子*が取り行う祖先祭の儀式の意味を問うた。孔子が言った。「知らない。知っている人が天下を治めたなら、ここに並べるようなものですな。」手のひらを指さした。

*「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

論語:語釈


或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

禘(テイ)

啻 金文 禘 字解
(金文)

論語の本章では、国公の祖先や天の神を祀る祭礼。詳細は論語語釈「禘」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

說(エツ)

説 楚系戦国文字
(楚系戦国文字)

論語の本章では”解説”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”解き放つ”・”説明する”。詳細は論語語釈「説」を参照。

漢文では音が通じる「悦」と同じとし、”よろこぶ”意に用いることがあり、それは論語でも例外ではないが、本章では”解説”の意味。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「不知也」では「かな」と読んで詠歎”~だねえ”の意に用いている。この語義は春秋の語義、主格の強調からの派生義と理解出来る。「天下也」では主格の強調。”~こそまさに~”。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

漢文では「此」が直近のものを指すのに対し、やや遠い事物を指すのに用いる。論語の本章では孔子の発言ではなく、先に問われた質問「禘之說」”禘祭の解説”を指す。

或問禘之說。子曰、不知也。知說者~。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では、”…をするもの”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…において”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「烏」。現行字体の初出は春秋中期。その鳴き声を示し、”ああ”という感嘆詞に用いられた。”…において”の用法は、春秋時代末期から見られる。おそらく現行字形の出現と共に、その語義を獲得したとみられる。「オ」は”…において”の場合の呉音。詳細は論語語釈「於」を参照。

天下(テンカ)

天 甲骨文 下 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”天下”。天の下に在る人界全て。

「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
甲骨文

論語の本章では”~のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。

示(シ/キ)

示 甲骨文 主 字解
(甲骨文)

論語の本章では”示す”→”条件をうるさく言い立てる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。漢音「シ」(去)は”しめす”を意味し、「キ」(平)は「祇」”神霊”を意味する。字形は位牌または祭壇の姿で、原義は”神霊”。甲骨文では”神霊”・”位牌”を意味し、金文では氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「示」を参照。

なお漢語で”示す”を意味する言葉が明らかに確認できるのは戦国時代の「郭店楚簡」にある「旨」からで、本章は少なくともこの字については後世の改変が加わっている。

諸(ショ)

諸 秦系戦国文字 諸 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”いろいろな”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。

「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉と言い出したのは清儒で、最古の文献である論語には安易に適用すべきではない。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では「きは」と読み、”儀式についてのうんちく”の意。禘祭のいちいちの所作や式次第だけではなく、その言われを含めた祭全体の何たるかを指す。従って禘の意義を知っているとハッタリをかます「天下」の者は、「諸」”あれこれ”とうるさいウンチクを「示」すことになるわけ。

通説では「これ」と訓読するだけで、どのような「これ」なのかさっぱり分からないから、従来訳のような解釈になるしかないが、「斯」とは単なる指示代名詞ではなく、複雑なものごとを含んだ総体や、そのような条件、環境を意味する漢語。

字の初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…(だろう)か”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

其如示諸斯乎(それもろきはをしめすがごときか)

論語の本章では”(禘の専門家として世間に通用している連中は、)その詳細についてあれこれと、うるさく条件を言い立てているようだねえ”。

  • 其:「知其說者」を指す。”禘祭の解説を知る者”の意。
    知其說者之於天下也、如示諸斯乎。
  • 如:”~のようだ”。
  • 示:”示す”。
  • 諸:あれこれ。
  • 斯:禘祭の全体像。式次第や道具の形式など、ただならぬウンチク。
  • 乎:詠嘆の辞。”知りゃあしないのにねえ﹅﹅”という語気を表す。

禘祭の全体像は、若い頃から遠い宋国や杞国にまで出掛けて古記録を読んだ(論語八佾篇9)自信のある孔子にも分からなかった。だから論語の本章で「禘の解説」を乞われても説かなかった。ましてやそなへんの神主ごときが、天下でどんなにちやほやされようと、禘祭の何たるかなど、知っているわけが無いというわけ。

指(シ)

指 金文 指 字解
(金文)

論語の本章では”指さす”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。同音に「脂」「祗」”つつしむ”(以上平)「旨」「厎」”みがく”「砥」”といし”(以上上)。字形の由来は不明。金文では”頭を下げる”の意にも用いた。詳細は論語語釈「指」を参照。

掌(ショウ)

掌 戦国文字 掌 字解
(戦国文字)

論語の本章では”てのひら”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「尚」+「手」で、「尚」は音符で、言葉のさまを表さない。部品の「手」に”たなごころ”の語釈が『大漢和辞典』にあり、金文から存在するが同音でない。詳細は論語語釈「掌」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、若干違う語句で前漢中期の『史記』が再録するまで、誰も引用していない。

仮に「掌」が「手」と書かれていたとするなら、春秋時代の文として通用し、史実と言えるのだが。本章は定州竹簡論語には全文を欠き、漢石経に残石があり、宋版『史記』には一部が載る。定州本は欠損が多いので、そこに無いからと言って当時論語の本章が無かったことを証さない。

ただ『史記』の記事に前後の漢帝国の交代期を生きた包咸の注がある。つじつまを付けるなら、本章ははじめ論語には入らなかったが伝説を史記が記した。後漢が滅びて古注を編む段階では入っており、史記とは若干違う文字列として伝わった。だがカケラにつじつまを付けても仕方が無い。

儒者のデタラメにつじつまを付けようとして、漢学教授は失敗したのだから。

解説

論語は同時代の金文に一切見つからず、戦国の竹簡に材料らしきものが少数見つかるだけ。

だから現伝の論語が作られたのは、おおむね前漢武帝期の董仲舒らのしわざと言ってよいが、時代が下って南宋に刻まれた宋版『史記』では「或問禘之說孔子曰不知知禘之說其於天下也視其掌」となっている。『史記』を編んだ司馬遷は、董仲舒より一世代は下だが同時代人。

或問禘之說孔子曰不知知禘之說其於天下也視其掌孔安國曰爲魯諱也包氏曰孔子謂或人言知禘說者於天下之事如指視以掌中之物言其易了

だが宋版では新しすぎ、論語の校訂には使えない。ただし後世の中国人による解釈は伝える。「それもろきは~」が抜けて、”ある人が禘の解説を聞いて、孔子は知らないと答え、(それでも)天下で知っている者は、この手の平のようだと指さした”の意。

孔安国
知っている者の数が少ないのか、孔子の手の平に収まるほど知る者の理解が足りないのか、どちらとも解せる。宋版『史記』には注が付いていて、実在しない孔安国は”魯国の諱(秘密の祭)である”と書き、儒者に珍しくまじめ人間だった漢儒・包咸は言う。

包咸
”禘の意義が分かるほどの者なら、天下のことは自分の手の平を見るようにたやすく理解出来る”。だが、喜び勇んで異教徒を焼き殺す狂信者が概してまじめであるように、まじめ人間だからといって、言っていることが当たっているとは限らない。

つまり漢儒にも宋儒にも、論語の本章の意味は分からなかったわけだ。すると本章にはがぜん史実の可能性が出てくる。董仲舒にもわけ分からん伝説だったか、わけ分からんことを董仲舒が創作して解釈権を独占し、それを利権にしようとしたかのどちらかだからだ。

董仲舒はもちろん、利権のために論語を編んだのだが、解釈権を独占出来るなら、記事は伝説でも新作でも構わない。つまり伝説の方がより可能性があるわけだ。創作にはコストがかかるが、伝説ならコピペで済む。人は楽をしたい生き物だから、コピペの方が可能性が高い道理である。

董仲舒
コピペであれでっち上げであれ、わけ分からん「聖典」の解釈につき、「これはこうだ」と董仲舒の言うのに聞き料を取れるなら、董仲舒だけ儲かるというビジネスモデルである。なお『史記』の編者司馬遷は、董仲舒による論語の創作を、似たような話を書いて援護した節がある。

わけ分からんから、従来訳のように、論語のほんのささいな言葉から大げさな道徳的教訓を作り上げるのを、微言大儀という。現代的に論語を読む作業は、古注や新注が論語にべったり塗り付けた、根拠無き微言大義をそぎ落とすことから始まる。史実性の検証はその一環でもある。

通説の代表として、論語の本章について既存の論語本では、吉川本に以下のように言う。「祭りについての学問的説明は、孔子のころにすでに議論が分かれていたのであろう。…孔子の答えは…完全に分からなかったのではなく、自信のある説明を難しいとしたのである。」

吉川幸次郎

吉川は常に「であろう」としか言わない男で、そんなに自信が無いのによく京大教授の座に居座って利権をチュウチュウ吸い取り、学界の権威として若い学生を威圧するなど威張り散らし、分厚い本を何冊も書けたものだと妙な感心をするが、論語の本章については、訳者の見解は全然違う。

もし本章が史実だったとすると、孔子は一体何が言いたかったのだろう。前章で検討したように、孔子は極めて開明的な精神の人で、神などいないと思っていた形跡さえある。論語の時代の禘祭が、どのようなものだったかは想像しがたいが、祭礼にふさわしい所作はあったろう。

神楽の舞踊の型とか、チンチンどんどんの伴奏とかである。それが何を意味しているか、「ある人」は興味を持って孔子に聞いたが、孔子は「そんなもんあるものか」と突き放したのだ。それを前提にすると、孔子が太廟で「ことごとに問う」理由も見えてくる(論語八佾篇15)。

神主がもったい付けてやる所作の一つ一つが、若年期の孔子にとって無意味に思えたのだろう。おそらくは「何でそんなバカげたことを」という感情がこもっていただろう。だからこそ太廟の一件で神主の言った「田舎者」というさげすみに、それなりの理由が付きもする。

自分らの実効無きこれ見よがしな秘技をさげすむ者に、言い返すにはそれぐらいしかないからだ。

なお吉川のようなしがない文系教授に利権などあるか、と思われるかも知れないが、京大ともなると受かりたい人はいっぱいいる。それでも学部入試まではまあ公平に行われるが、大学院入試になると露骨なコネがないと受からない。訳者は東大教授が収賄する現場を、何度か目撃している。

余話

行商人と用心棒

『春秋左氏伝』には、孔子の存命中に二度禘祭があったことを伝える。一度目は前回記した昭公十五年(BC527)で、孔子はまだ27歳、二度目は定公八年(BC502)で、孔子は50歳、「中都宰」に登用される前年で、まだ政界入りする前だった。

定公八年…十月…辛卯,禘于僖公。


定公八年…十月…辛卯の日、僖公の禘祭を行った。

僖公は魯の第19代国君(位BC659-BC627)、定公は第26代(位BC509-BC495)。第25代昭公(位BC541-BC510)が禘祭を行ったのは第9代武公(位BC825-BC816)。どうやら禘祭の対象になる先祖は、少なくとも一世紀は昔の国君でなければならなかったようだ。

論語の本章の時期は、どちらであると考えても差し支えない。「先祖の霊などいるものか」と思っていたのは上掲のように太廟で祭祀の手伝いをした若年時からだからで、ただしわざわざ人が禘祭の解説を聞きたがったとなると、政界入り直前の50歳の頃だと考えたくなる。

のちの諸国放浪で生死の危険を分かち合った古参の弟子は、すでに孔子に入門していたと見られており、彼らは子路・顔淵のように血縁が元で弟子入りした者もいたが、年代から見て、庶民出身の孔子が政界入りしたという実績に惹かれて弟子入りしたわけではない。

子貢のように外国の衛国からも弟子が来たところを見ると、孔子の学問や技術が、外国に聞こえるほど優れていたと想像できる。ただしこれまた想像だが、子貢もただ孔子の名声だけを聞いて遠路はるばる入門したわけではない。かすかながら孔子との縁が会ったからだ。

孔子の母の名を顔徴在といい、弟子の筆頭格に顔淵が居た。幼少時の孔子は母に手を引かれて諸国を巡業したはずだが、城壁を一歩外に出ると言葉も通じない異族がおり、野には虎やサイがいた。そんなサファリパークな旅を、母子二人だけで出来るわけがない。

詳細は論語郷党篇16余話「ネバーエンディング荒野」を参照。

詳細は孔子の生涯(1)に記したが、母や顔淵の出た顔氏一族は、当時巫女と傭兵のネットワークを諸国間に張り巡らせた一大氏族だった。孔子と同世代の頭領を顔濁鄒といい、山塞を梁父山に、屋敷を衛国の都城に構えていた。そして顔濁鄒の義弟は、孔子の一番弟子・子路である。

子貢の実家は衛国の商家であり、おそらくは行商の護衛として顔濁鄒親分と付き合いがあっただろう。その親分から人並み優れた孔子の話を聞き、はるばる衛国から入門したと思われる。ひょっとすると本章の質問者は、その子貢だったかも知れない。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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