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論語詳解048八佾篇第三(8)巧笑倩たり*

論語八佾篇(8)要約:後世の創作。弟子一番のカタブツ子夏が、儒者の大売り出しバーゲンに引き出され、キャッチコピーを言う生き人形にされています。人間の締めくくりは礼法だ! 化粧の締めくくりが紅を差すのとおんなじだ!

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子夏問曰巧笑倩兮美目盻兮素以爲絢兮何謂也子曰繪事後素曰禮後乎子曰起予者商也始可與言詩巳矣

校訂

諸本

  • 武内本:盻*は盼の誤、釋文盼に作る。釋文、繪一本繢**に作る。者、漢石経なし***。

*ケイ、にらむ・かえりみる。
**カイ、おりあまり・いろどる。
***本章に漢石経があるという話を聞かない。

東洋文庫蔵清家本

子夏問曰巧笑倩兮美目盻兮素以爲絢兮何謂也/子曰繪事後素/曰禮後乎/子曰起予者商也始可與言詩已矣

※「倩」字は〔亻青〕。

後漢熹平石経

…白起予商也始可…

定州竹簡論語

……事後素。」曰「禮後乎?」子曰:「起予a[商]也!始可與言《詩》42……

  1. 起予商也、阮本、皇本、鄭本均作「起予者商也」、漢石経同簡本。

標点文

子夏問曰、「『巧笑倩兮、美目盻兮、素以爲絢兮。』何謂也。」子曰、「繪事後素。」曰、「禮後乎。」子曰、「起予商也、始可與言詩已矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文夏 金文問 金文曰 金文 巧笑倩兮 金文 美 金文目 金文兮 金文 素 金文以 金文為 金文兮 金文 何 金文謂 金文也 金文 子 金文曰 金文 事 金文後 金文素 金文 曰 金文 礼 金文後 金文乎 金文 子 金文曰 金文 予 金文商 金文也 金文 始 金文可 金文与 金文言 金文辞 金文已 金文矣 金文

※詩→辭。論語の本章は上記の赤字が論語の時代に存在しない。「問」「兮」「美」「以」「何」「也」「乎」「始」「與」「已」の用法に疑問がある。本章は後世の儒者による創作である。

書き下し

子夏しかうていはく、うまうるはしきかなまなこうらめしげなるかなしろいものあやつくるをもちゐるかなとは、なんいひいはく、ことしろいものおくると。いはく、ゐやはたおくと。いはく、われおこすはしやうなりはじめてともふべきのみなりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子夏 孔子
子夏が質問して言った。「巧みな笑顔が凛々しい、美しい眼がうらめしげである、素肌に化粧を施している、この歌は何を言っているのですか」。先生が言った。「絵を描くのは下地の白を塗った後で、ということだ」。子夏が言った。「礼法も後ですか」。先生が言った。「私の名を高めるのは商くん(=子夏)だな。やっと初めて共に詩を語れるようになった。」

意訳

石頭の子夏「(棒読み)凛々シイ笑顔ニウルンダマナコ、素肌ノ化粧ガ美シイ。コノ歌ノ意味ハ何デスカ。」
孔子「あーそれはだな、絵を描く前に下地を塗るという話だな、うん。」
「礼法モ化粧ト同ジ、人タル者ノ締メククリ、トイウコトデショウカ。」
「いやあ、よくぞ言った! その通り! 子夏くん君は偉い! 文学の才は君が一番だあ!」

従来訳

下村湖人
子夏(しか)が先師にたずねた。――
「笑えばえくぼが愛くるしい。
眼はぱっちりと澄んでいる。
それにお化粧が匂ってる。
という歌がありますが、これには何か深い意味がありましょうか。」
先師がこたえられた。――
「絵の場合でいえば、見事な絵がかけて、その最後の仕上げにごふんをかけるというようなことだろうね。」
子夏がいった。――
「なるほど。すると礼は人生の最後の仕上げにあたるわけでございましょうか。しかし、人生の下絵が立派でなくては、その仕上げには何のねうちもありませんね。」
先師が喜んでいわれた。
(しょう)よ、お前には私も教えられる。それでこそいっしょに詩の話が出来るというものだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子夏問:「『笑臉真燦爛啊,美目真嫵媚啊,天生麗質打扮得真高雅隘。是什麽意思?」孔子說:「先有宣紙,然後才能繪畫。」子夏問:「先有仁義,後有禮法嗎?」孔子說:「子夏,你啟發了我,可以開始同你談詩了!」

中国哲学書電子化計画

子夏が問うた。「”笑顔が実に輝くようだ。綺麗な瞳がなまめかしい。生まれつきの美質が、まことにみやびな境地に装い得ている”。これはどういう意味ですか?孔子が言った。「絵を描くにはまず画用紙を用意して、やっと描き始めることが出来る、ということだ。」子夏が問うた。まず仁による正義があって、その後に礼法があると言うことですか?」孔子が言った。「子夏よ、お前は私にものを気付かせてくれた。お前と詩を語ることが出来るようになった。」

論語:語釈

、「『 ( 。』 。」 、「 。」、「 。」 、「  ( 。」


子夏(シカ)

子夏

孔子の弟子。文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

巧(コウ)

巧 楚系戦国文字 巧 字解
「巧」(楚系戦国文字)

論語の本章では”たくみな”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。原義は”細かい細工”。現行字体の偏は工作を意味し、つくりは小刀の象形。中国の字書に収められた古い文字(古文)では、へんがてへんになっているものがある。上掲楚系戦国文字は、「〒」も「T]もおそらく工具で、それを用いて「又」=手で巧みに細工することだろう。詳細は論語語釈「巧」を参照。

笑(ショウ)

笑 楚系戦国文字 笑 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”笑顔”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「竹」+「夭」だが、竹簡・帛書の字形は「竹」を上向きに書いており、おそらく「竹」ではない。「夭」も竹簡の字形は異なり、全体として字形の由来は定かではない。詳細は論語語釈「笑」を参照。

倩(セン)

倩 隷書 倩 字解
(隷書)

論語の本章では、(口元が)”うるわしい”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。字形は「亻」+「靑」(青)で、「靑」は「井」+「テツ」”草木の芽”。全体で”みずみずしい人”。原義は恐らく”若者”。漢代に作られた新しい言葉。詳細は論語語釈「倩」を参照。

兮(ケイ)

兮 甲骨文 兮 字解
(甲骨文)

論語の本章では、歌の掛け声を示す。初出は甲骨文。この語義は春秋時代では確認できない。字形は上向きにした鳴子の形。甲骨文では”建物の基礎”、”日没前”を意味し、金文では氏族名に用いた(兮甲盤・西周末期)。詳細は論語語釈「兮」を参照。

美(ビ)

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”うつくしい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

目(ボク)

目 甲骨文 目 字解
(甲骨文)

論語の本章では”目”。初出は甲骨文。「モク」は呉音。字形は目の象形。原義は”め”。甲骨文では原義、”見る”、地名・人名に用いた。金文では氏族名に用いた。詳細は論語語釈「目」を参照。

盻(ケイ)

現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損し、現存最古の古注本である清家本は「盻」”うらめしげ(な目つき)”と記す。日本伝承の正平本・文明本・足利本・根本本も「盻」”うらめしげ”と記す。唐石経とそれを祖本とする現伝論語も「盻」”うらめしげ”とする。早大蔵新注も同様。

しかし中国清乾隆四年・武英殿十三経注疏『論語』では「ハン」”目の白黒がはっきりしている”になっている。同じく乾隆年間の四庫全書『論語精義』では「ケイ」”うらめしげ”のままだから、武英殿本が拠ったとされる明の崇禎本がそうなっていたのかも知れない。

論語の原型を探る目的では、この淵源を掘り下げる作業に意味が無いので、崇禎本などをほじくるのはやめるが、現行の論語本でも、「盼」”はっきり”になっているものもある。ここでは清家本など古本に従い、「盻」”うらめしげ”とする。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

盻 篆書
(篆書)

ケイ」”うらめしげ”の初出は事実上、後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。語義は”にらむ”・”かえりみる”。「盻盻」で”うらめしげなさま”の用例が『孟子』からある。詳細は論語語釈「盻」を参照。

盼 篆書 盼 字解
(篆書)

ハン」は論語の本章では、”目元が涼しい”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は存在しない。字形は「目」+「分」で、白黒のはっきりした美しいまなこのさま。漢代に作られた新しい言葉。詳細は論語語釈「盼」を参照。

素*(ソ)

素 金文 素 字解
(金文)

論語の本章では、”おしろい”。「ス」は呉音。字形は両手で絹糸を紡ぐさま。原義は”白い”。詳細は論語語釈「素」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”~で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”作る”→”…になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

絢(ケン)

絢 篆書 絢 字解
(篆書)

論語の本章では”文様”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。同音は眴”またたく”のみ。字形は「糸」+「旬」”めぐる”で、糸を織り上げて出来た文様のさま。漢代に出来た新しい言葉。詳細は論語語釈「絢」を参照。

素以爲絢兮

論語の本章では、”素肌が化粧を施すなあ”。現伝の『詩経』衛風「碩人」では、この句が抜け落ちている。だがそもそも本章がでっち上げとなればそれもむべなるかな。

文法は次の通り。「以」は三つの意味でしかあり得ない。

  1. 後ろに目的語がある場合、…で。
  2. 後ろに目的語がある場合、…を使って。
  3. 後ろに目的語が無い場合、それで。

論語の本章の場合は3.に相当する。主語の「素」=素肌が、「以」=”それで”、「為」=”作る”。作るのは「絢」=”化粧”。句末の「兮」は詠嘆。まとめると”素肌がそれで化粧を完成させるなあ”。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、上の句「謂也」では「や」と読んで、疑問の意を示す。下の句「商也」は「や」と読んで”…だなあ”の詠歎か、「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

絵 楚系戦国文字 絵 字解
「絵事」(金文大篆)

論語の本章では”絵”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。新字体は「絵」。同音に部品の「會」(会)があり、初出は甲骨文、”絵”の語釈を『大漢和辞典』が載せる。ただし春秋の金文までには、”え”の語義は確認できない。詳細は論語語釈「繪」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”こと”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

後(コウ)

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

論語の本章では”おくれる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

繪(絵)事後素

論語の本章では、”白い下地を塗ってから絵を描く”。「絵事は素を後にす」と読み、描き終えてから白色を塗るとする例があるが、「白い文様を描くのだ」と無理に解するなど、理屈に合わない。なお武内本にいう異説「カイ」には、”絵・描く”の意があるので、文意は変わらない。

伝統的解釈では、”白地を上塗りする”と解するが、その始まりは古注。

古注『論語集解義疏』

註鄭𤣥曰繪畫文也凡畫繪先布衆采然後以素分其間以成其文喻美女雖有倩盼美質亦須禮以成也

古注 鄭玄
注釈。鄭玄「絵を描く際には、先に絵の具で描いてから、白い線で輪郭を付けて完成させる。例えば美女もそうで、顔つきが整っていても素肌が美しくなければ、美人と認められないのである。」

新注『論語集注』はこの点合理的で、「素」を”白い下地”と正確に読み解いている。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では「ゐや」と訓読して”礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子生前の「禮」は「よきつね」と訓読して”貴族の常識”の意。詳細は論語における「禮」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…か”と訳し、疑問の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

起(キ)

起 楚系戦国文字 起 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”気付かせる”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。呉音は「コ」。同音に欺”あざむく”・僛”酔って踊る”・杞”木の名・国名”・屺”はげ山”・芑”白い穀物”。字形は「彳」”みち”+「之」”ゆく”+「己」で、字形の由来は明瞭でない。戦国の竹簡では”おこすの意に用いた。戦国時代になってから出来た新しい言葉。詳細は論語語釈「起」を参照。

予(ヨ)

予 金文 予 字解
(金文)

論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。

者(シャ)

現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの字を記さない。従って無いものとして校訂した。現存最古の古注本である宮内庁蔵清家本は記し、以降の日本伝承論語、唐石経以降の中国伝承論語では記す。ここからおそらく、後漢末から南北朝にかけて編まれた古注から付け加わったのだろう。

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…する者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

商(ショウ)

商 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

論語の本章では、子夏のいみ名=本名。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「𠙵」を欠くものがある。字形は「辛」”針・刃物”+「丙」だが、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では国名、人名、”褒め讃える”、戦国の金文では音階の一つの意に用いた。詳細は論語語釈「商」を参照。

始(シ)

始 金文 始 字解
(金文)

論語の本章では”はじめて”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は殷代末期の金文。ただし字形は「㚸 外字」。字形は「司」+「女」+〔㠯〕”農具のスキ”。現伝字形の初出は西周末期の金文。ただし部品が左右で入れ替わっている。女性がスキをとって働くさま。原義は不詳。金文で姓氏名に用いられた。詳細は論語語釈「始」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…出来る”。積極的に認める意味ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では、”…と(もに)”。新字体は「与」。論語の本章では、”~と”。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”かたる”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

詩(シ)

詩 楚系戦国文字 詩 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”『詩経』”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は近音の「辞」。字形は「言」+「寺」”役所”のものや、「之」”ゆく”+「口」などさまざまある。原義が字形によって異なり、明瞭でない。詳細は論語語釈「詩」を参照。

已(イ)

已 甲骨文 已 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…てしまう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、『史記』弟子伝が全文を再掲するほか、先秦両漢の誰一人引用していない。定州竹簡論語と『史記』にあることから、前漢前期までには成立していたことになるが、春秋戦国の引用例が無いことから、前漢中期にいわゆる儒教が国教化される際、董仲舒やその一派によって創作されたと考えるべきだろう。

というより、論語そのものが董仲舒による創作であることは、『老子道徳経』が戦国の竹簡から見られるのに、『論語』はその断片らしきものしか見つからないこと、いわゆる前漢武帝の儒教の国教化から想像できる。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

前漢年表

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解説

論語の本章は恐らく、論語学而篇15「貧しくしてへつらわず」の焼き直し。如何わしい用例の多さもさることながら、現伝の『詩経』が孔子の編纂でもなんでもなく、漢代になって儒者によって大量に偽作された、実にでたらめな詩集であることがはっきりとわかる。

一例は論語八佾篇20解説参照。

論語の本章は定州竹簡論語にあることから、前漢の儒者による捏造はほぼ決定だが、その意図は上述の通り、礼法にありがたみを持たせ人間必須の教養であるかの如く人々に信じ込ませることにある。漢代、儒者の手練手管を儒術と言ったが、儒者は礼法以外に取り柄がなかった。

まるで実務能力がなかったからである。その代わり、今日の中国にまで息づいているでっち上げ政治、つまり事実でなく権力に都合のよい仮想を人々にすり込み操る技術には長けていた。荘厳で大規模な儀式の執行はその一つであり、こんにちの軍事パレードはその変形である。
中国軍 パレード

パレードがキリリとした軍隊ほど実戦に弱いのはもはや歴史的事実だが、キリリと見せるための足の揚げ方手の振り方、その一々うるさい作法こそ、儒家の言う礼法に他ならない。これを「礼儀千百、威儀三千」といい、ものすごくめんどうくさいものだった。

なお本章引用詩は以下の通り。

碩人其頎、衣錦褧衣。 齊侯之子、衛侯之妻、東宮之妹、邢侯之姨、譚公維私。
(見目よき人はすらりと高く、あや絹をまとい単衣を羽織る。斉侯の子、衛侯の妻、斉太子の妹、邢侯の義妹、譚公は義兄。)

手如柔荑。 膚如凝脂。 領如蝤蠐。 齒如瓠犀。 螓首蛾眉。 巧笑倩兮。 美目盼兮。
(手はなずなのごとく柔らかく、膚はかたまった脂のごとく白く、襟筋は白い長虫のごとく、歯並びは瓜の実のごとく、ひたいは蝉の羽を広げたごとく、眉は蛾のはねのごとく、巧みな笑顔は凛々しく、美しいまなこはくっきりと浮かぶ。)

碩人敖敖、說于農郊。 四牡有驕、朱幩鑣鑣、翟茀以朝。 大夫夙退、無使君勞。
(見目よき人はごうごうとたわむれる、喜ぶその場は郊外の別荘。四頭のオス馬は高ぶり、赤いくつわの飾りはヒョウヒョウと鳴る。羽根で覆われた車でお輿入れ。家老は既に御前を下がり、主君を煩わせるものはない。)

河水洋洋、北流活活。 施罛濊濊、鱣鮪發發、葭菼揭揭。 庶姜孽孽、庶士有朅。
(黄河の水はヨウヨウと盛んに流れる。北へ向かってホワホワとひたすらに。網に何かかかった音がする、竜の如き大魚がかかった。葦が乱れてざわざわと鳴る。姉妹は子宝に恵まれよう、腰元たちの凛々しい顔よ。)

詩の主人公はBC720に斉公室から輿入れし衛公の妻となった荘姜。美人だが子が生まれず、お付きの腰元に衛公が手を出して生まれた子を引き取って育てた。衛公には他にも子があって乱暴者で、それが反乱を起こし…と歴史事実はこの際どうでもいい。

どう読んでもこの詩は、男女の行為を扱っている。論語の本章は石頭の子夏がその意味を問うて、孔子がはぐらかしたというラノベということになる。

余話

あるヤクザの生涯

孔門きってのカタブツとして知られた子夏だが、はるか後世の前漢時代、二つ名として「子夏」を名乗ったヤクザ者がいた。

萭章字子夏,長安人也。長安熾盛,街閭各有豪俠,章在城西柳市,號曰「城西萭子夏」。為京兆尹門下督,從至殿中,侍中諸侯貴人爭欲揖章,莫與京兆尹言者。章逡循甚懼。其後京兆不復從也。與中書令石顯相善,亦得顯權力,門車常接轂。至成帝初,石顯坐專權擅勢免官,徙歸故郡。顯貲巨萬,當去,留床席器物數百萬直,欲以與章,章不受。賓客或問其故,章歎曰:「吾以布衣見哀於石君,石君家破,不能有以安也,而受其財物,此為石氏之禍,萭氏反當以為福邪!」諸公以是服而稱之。河平中,王尊為京兆尹,捕擊豪俠,殺章及箭張回、酒市趙君都、賈子光,皆長安名豪,報仇怨養刺客者也。


万章あざ名は子夏、長安の出身。帝都長安が賑わうと、横丁ごとにそれぞれ親分が現れ、万章は市街西寄りの柳市の親分として、「城西の万子夏」と自ら名乗った。

京兆尹(都知事兼警視総監)から十手を預けられて奉行所の同心になり、殿中に上がったときには皇帝の補佐官や諸侯などの貴人が、争って万章とお辞儀しようとし、上司の京兆尹は放っておかれた。万章はどぎまぎとして恐れ入り、その噂で親分としての威勢が無くなってしまった。

宮廷書記官の石顕と仲が良く、その引きでまた威勢が轟くようになり、屋敷の門前にはひっきりなしに来客があった。成帝の初めごろ、石顕は横暴で勝手な真似をしたかどで免職になり、故郷に帰ることになった。石顕の財産は巨万と言われ、持っていけないものは万章に全てやろうとしたが、万章は断った。ある友人がその理由を問うた。

万章曰く、「ワシは全くの庶民に過ぎないのに、石顕どのが見込んでくださって偉くなった。その石顕どののお家が気の毒なことになったと言うのに、ワシが平気でいられるわけがない。もちろん財産分けなどもってのほかだ。そうすれば石顕どののご不幸も、我が家の幸いに転じるかも知れない。」このうわさが広まって、お偉方が万章を敬い始めた。

だが成帝の河平年間(BC28-BC25)、王尊が京兆尹になるとヤクザの取り締まりを始め、万章や当時知られた親分衆を処刑してしまった。気に食わない者が居たらすぐに殺せるよう、鉄砲玉を養っていたのを咎められたのである。(『史記』游侠伝17)

この万章、もちろん孟子の弟子の万章ではない。万章といういみ名も、孟子の弟子から取った名乗りかも知れない。だが斬った張ったのヤクザ者が、なぜに論語の本章のようなポエット子夏のあざ名を名乗ったか? 教養に自信が無いからあやかろうとした? それとも?

定州竹簡論語と一緒に出土した『孔子家語』には、ひょろひょろ子夏らしくない問答がある。

子夏 和み 孔子 キメ
子夏「親の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「市場の近くで小屋がけし、楯を枕に寝なさい。仕官はせず、仇討ちに専念しなさい。仇を生かしておいてはならない。そ奴がノコノコと朝市にやって来たら、その場でバッサリ討ち果たし、家に武器を取りに帰って取り逃すことのないように。」

子夏「兄弟の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「仕官してもいいが、仇と同じ国に仕えてはならない。もし君命で仇と顔を合わせることがあっても、我慢して撃ちかかったりしないように。」

子夏「いとこの敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「自分から撃ちかかってはならない。もし主人が仇を討つなら、その時は武器を取って主人の助太刀をしなさい。」(『孔子家語』曲礼子夏問1)

つまり前漢の中頃では、子夏は自前で敵討ちをしそうな人物と思われていたことになる。詩も語れる武芸男なら、ヤクザ者があこがれるのはもっともだ。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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