論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
林放問禮之本。子曰、「大哉問。禮與其奢也、寧儉。喪與其易也、寧戚。」
校訂
定州竹簡論語
……放問禮之本。子曰:「大[哉]38……其易也,寧39……
復元白文
※儉→僉。
書き下し
林放、禮之本を問ふ。子曰く、大いなる哉問。禮は其の奢らん與り也、寧ろ儉め。喪は其の易ふ與り也、寧ろ戚め。
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逐語訳
林放が礼の根本を問うた。先生が言った。「よい質問だ。祭礼は派手にやるが、心は慎ましくしろ。葬礼は這いつくばって見せ物にするが、心は芯まで悲しめ。」
意訳
林放「お作法って何ですか。なんでこんな変なことをしなくちゃいけないんですか。」
孔子「仕官後に、門閥から袋だたきに遭わないためじゃよ。いつも腰を低くし、亡くなった人を本気で悼むと、”可愛げのある奴”ということになって効果的じゃ。」
従来訳
林放が礼の根本義をたずねた。先師がこたえられた。――
「大事な質問だ。吉礼は、ぜいたくに金をかけるよりも、つまし過ぎる方がいい。凶礼は手落がないことよりも、深い悲みの情があらわれている方がよい。」
現代中国での解釈例
林放問禮的本質。孔子說:「這個問題十分重大!禮儀,與其隆重,不如節儉;喪事,與其奢侈,不如悲戚。」
林放が礼の本質を問うた。孔子が言った。「この問題はたいそう重大だ。礼儀とは、重々しいよりはむしろ慎ましい方がよい。葬儀は、派手よりはむしろ悲しむ方がよい。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
林放
(金文)
論語の本章では、孔子の弟子の一人。論語ではこの八佾篇にあと一回出てくるだけで、当時の記録もない。その論語八佾篇の記述を参考にする限り、厳しい性格だったと思われる。
禮(礼)
(金文)
論語の本章では、”礼法”。孔子による仁者はどう振る舞えばいいかの一切を規定するもの。詳細は論語における「礼」を参照。
與(与)
(金文)
論語の本章では、比較の”…よりも”。”…と”・”…よりも”を覚えておくと、漢文では大体間に合う。原義は複数人で象牙を運ぶ姿。詳細な語釈は論語語釈「与」を参照。
奢(シャ)
(金文)
論語の本章では”豪勢に行う”。『大漢和辞典』の第一義は”張る”。
『学研漢和大字典』によると、会意兼形声文字で、者は、煮(熱を充実する)の原字でいっぱいに充実する意を含む。奢は「大+〔音符〕者」で、おおげさに充実しすぎること。都(人の充実したまち)・儲(チョ)(いっぱいためる)・庶(たくさん)・諸(たくさん)と同系のことば、という。
寧
(金文)
論語の本章では、接続辞として”むしろ”。『大漢和辞典』の第一義は”やすらか”。詳細は論語語釈「寧」を参照。
儉(倹)
(金文大篆)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”つづまやか”。つつしむ事。この文字の初出は秦の戦国文字で、論語の当時は「剣」「険」などと共に「僉」と書かれていたと考えられる。詳細は論語語釈「倹」を参照。
易
(金文)
論語の本章では”はいつくばう”とも、”おだやか”(古注)とも、”おさまる”(新注)とも読める。多様な語義のある字で、『学研漢和大字典』による原義は”とかげ”。”おさまる”とするなら、”葬礼は型にはまるより哀しみを表せ”の意味になる。
なお西周時代の書体には、子貢の本名「賜」と書き分けられていないものがある。
(「德鼎」西周早期)
原義はとかげ、もしくは巫女の踊る姿。詳細な語釈は論語語釈「易」を参照。
戚
(金文)
論語の本章では”悲しむ”。『大漢和辞典』の第一義は”オノ・まさかり”。第二義として”いたむ”等が現れる。では、親族や友人など、人が亡くなって悲しむ範囲を指すという。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、尗は、まめの細いつるで、小さく縮んだ意を含む。
戚は「戉(まさかり)+〔音符〕尗(ちいさい)」で、もと小さい手おののこと。促(ソク)(身近にせまる)に当てて、身近な親戚の意に用い、寂(セキ)(心細い)に似た意に用いて、心細く思いわずらう意となった。原義のままではあまり用いられない、という。
詳細は論語語釈「戚」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、「仁」の定義である「礼」の基本が、腰を低くし、親しい人を無くした人に同情することだと答えたのだが、それゆえに後世、「仁」=道徳的な何か、と勘違いさせる要素となった。孔子生前の「仁」とは、あくまでも”貴族らしさ”であり、道徳とは関係が無い。
つまり本章は、新参者として貴族社会へ入っていく弟子たちにとって、血統貴族に対してどのように振る舞うべきかを答えたのであり、腰が低いと見せ、憐れみ深い性格だと思わせることは、弟子たちにとって切実で実用的な教訓だった。新参者の宿命である。
さもないと、既存の貴族層から袋だたきに遭うからで、道徳の話では全くない。道徳はやるかやらないかが、概ね当人の自由に任されるのに対し、実用的な技能は、「火を付ける前には消火の用意」のように、それ無しでは少なくとも大けがをする羽目になる。
ゆえに儒教の言う礼法は、あたかも法律のように、人の行動を規制しうる。だから孔子の在世中は、ほとんどの弟子はこの理屈を受け入れて貴族への道を進んだ。だが孔子没後はそうでない。「なんでそんなことをしなければならないか」が分からぬまま、ただの強制になった。
この論語八佾篇の冒頭に掲示した「八佾の舞」などはその例で、なんでそんな所作をするのか、もはや誰にも説明できない。もっとも八佾そのものが後世の創作だが、孔子の在世中は礼法の言う挙措動作に、それなりの必然性と実用性があった。ただし少々、派手ではあったが。