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論語詳解041八佾篇第三(1)八佾の庭に舞う*

論語八佾篇(1)要約:後世の創作。家老どもが思い上がった舞を舞わせた!とニセ孔子先生が怒りましたが、それを言うなら、底辺から宰相に出世した先生自身が思い上がりです。先生は革命家であっても、因習ジジイではありませんでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

孔子謂季氏八佾舞於庭是可忍也孰不可忍也

校訂

東洋文庫蔵清家本

孔子謂季氏八佾舞於庭是可忍也孰不可忍也

※「庭」字は〔壬〕でなく〔手〕。「孰」字は〔亠〕と〔子〕の間を〔目〕のように記す。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

孔子謂季氏、「八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也。」

復元白文(論語時代での表記)

孔 金文子 金文謂 金文季 金文氏 金文 八 金文舞 金文於 金文庭 金文 是 金文可 金文也 金文 孰 金文不 金文可 金文也 金文

※論語の本章は、上記の赤字が論語当時にさかのぼれない。「孰」の用法に疑問がある。本章は後世、おそらく前漢の儒者による創作である。

書き下し

孔子こうし季氏きしふ。はついつにはふは、しのいづれかしのから

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
孔子が季氏を評した。「八佾ハチイツが庭で舞ったのは、これが耐えられるならまことに、何が耐えられないだろうまことに。」

意訳

孔子 人形
周王陛下の特権である八佾の舞を、陛下の臣下の臣下である季氏が自邸で舞わせた。思い上がりも甚だしい。

従来訳

下村湖人
先師が季氏(きし)を批評していわれた。――
「季氏は前庭で八佾(はついつ)の舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說季氏:「他用天子的舞蹈陣容在自己的庭院中舞蹈,這樣的事可以容忍,什麽事不能容忍?」

中国哲学書電子化計画

孔子が季氏を言った。「彼は天子の舞踏の人数を揃えて自邸の中庭で舞わせた。このようなことを堪え忍べるのなら、どんなことが堪え忍べないだろうか?」

論語:語釈


孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

季氏(キシ)

季 甲骨文 氏 甲骨文
(甲骨文)

論語では、魯国門閥三家老家筆頭、季孫氏のこと。孔子が魯国の政治を執った五十代時点の当主は、季桓子(?-BC492)で、別名季孫とも言う。隣国斉が送った女楽団を主君定公と共に三日間楽しみ、その間政務を執らなかったので、孔子は魯国を捨てて亡命したとされる。

しかし具体的に孔子を排斥した記録はなく、孔子本人や弟子を召し抱えたりするなど、孔子が門閥の根城を壊し始めるまで協力的でさえあった。なお論語本章が孔子帰国後だとすると、当主は季桓子の子、季康子(?-BC468)で、別名季孫肥だが、下記するようにそれには無理がある。

「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。甲骨文では人名に用いた。金文でも人名に用いたほか、”末子”を意味した。論語ではほぼ、魯国門閥三家老家筆頭・季孫氏として登場する。詳細は論語語釈「季」を参照。

「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は人が手にものを提げた姿で、原義は”提げる”。「提」は「氏」と同音。春秋時代までの金文では官職の接尾辞、夫人の呼称に、また”氏族”の意に用いた。詳細は論語語釈「氏」を参照。

八佾(ハツイツ)

八 甲骨文 佾 篆書
〔八〕(甲骨文)/「佾」(篆書)

論語の本章では、”八人の舞い”。

〔八〕の初出は甲骨文。近音に「發」(発)。「ハチ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は広がるさま。原義は恐らく”ひらく”。甲骨文では地名・人名、数詞や助数詞の”はち”に、金文・戦国の竹簡では、数詞や助数詞に用いた。詳細は論語語釈〔八〕を参照。

「佾」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「亻」+〔八〕+「月」”からだ”で、八人の体を示す。詳細は論語語釈「佾」を参照。

八佾の舞と称するちんちんドンドンは、今でも孔子廟で見せ物として行われている。それが論語時代のそれだという保証は全くない。見せ物としてはそれなりに面白いのだが。

ただし季氏のような門閥貴族ですらなかった孔子の廟で、このちんちんドンドンは矛盾するようだが、後世のゴマすりで、孔子は周王と同格の「文宣王」になっているからいいのだろう。書類さえ整っていればなんでもOKという、役人根性と同類である。

舞(ブ)

舞 甲骨文 舞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”舞う”。初出は甲骨文。字形は「無」と同じ。手に飾りを持って舞う姿。原義は”舞(う)”。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「舞」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「烏」。現行字体の初出は春秋中期。その鳴き声を示し、”ああ”という感嘆詞に用いられた。”…において”の用法は、春秋時代末期から見られる。おそらく現行字形の出現と共に、その語義を獲得したとみられる。「オ」は”…において”の場合の呉音。詳細は論語語釈「於」を参照。

庭(テイ)

庭 甲骨文 四合院
(甲骨文)

論語の本章では”にわ”。初出は西周末期の金文。字形は「广」”建物”+「廷」”にわ”で、建物の前の庭。詳細は論語語釈「庭」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では、”これ”。「此」が直近の”これ”を指すのに対し、やや遠いものごとを指す言葉で、論語の本章の場合、直近の「舞」「八佾」ではなく「季氏」を指す。

字の初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(どうにかして)…出来る”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

忍(ジン)

忍 金文 忍 字解
(金文)

初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ニン」は呉音。字形は「刃」+「心」で、「刃」は音符。原義は”耐え忍ぶ”。戦国時代の金文では原義で用いられた。同音に刃を部品とする漢字群。詳細は論語語釈「忍」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで詠歎の意。”まことに~である”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

孰*(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”何を”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

本章は前漢初期の『韓詩外伝』に同類の話が載るまで、誰も引用していない。

天子有爭臣七人,雖無道,不失其天下。昔殷王紂殘賊百姓,絕逆天道,至斮朝涉,刳孕婦,脯鬼侯,醢梅伯,然所以不亡者、以其有箕子比干之故。微子去之,箕子執囚為奴,比干諫而死,然後周加兵而誅絕之。諸侯有爭臣五人,雖無道,不失其國。吳王夫差為無道,至驅一市之民以葬闔閭,然所以不亡者,有伍子胥之故也。胥以死,越王勾踐欲伐之,范蠡諫曰:「子胥之計策尚未忘於吳王之腹心也。」子胥死後三年,越乃能攻之。大夫有爭臣三人,雖無道,不失其家。季氏為無道,僭天子,舞八佾,旅泰山,以雍徹,孔子曰:「是可忍也,孰不可忍也?」然不亡者,以冉有季路為宰臣也。故曰:「有諤諤爭臣者、其國昌,有默默諛臣者、其國亡。」《詩》曰:「不明爾德,時無背無側;爾德不明,以無陪無卿。」言大王咨嗟,痛殷商無輔弼諫諍之臣,而亡天下矣。

漢儒
天子にご意見番が七人いれば、暴君だろうと天下を失わない。むかし殷の紂王が民百姓をいじめ、天の道に逆らい、政務を顧みなくなり、妊婦の腹を割き、義父の鬼侯を干し肉にし、忠臣の梅伯を塩漬けにしたのに、王位を追われなかったのは、箕子や比干といった名臣がいたからだ。だが王族の微子が見限り、箕子は奴隷にされ、比干は苦言を言って殺されたので、周軍が押し寄せて殺された。

諸侯にご意見番が五人いれば、暴君だろうと領国を失わない。呉王夫差は無軌道で、あるまちの住民を全部生き埋めにして先代の闔閭を葬ったが、それでも王位を追われなかったのは、名臣の伍子胥がいたからだ。ところが夫差は伍子胥を死に追いやったので、それを好機として越王勾践が攻めようとしたが、謀臣の范蠡が諌めた。「まだ早いです。夫差は伍子胥を死なせましたが、その政策にはまだ従う積もりです。」伍子胥の死から三年後、やっと越は呉に攻め込むことが出来た。

家老にご意見番が三人いれば、暴君だろうと家を失わない。季孫氏は無軌道で、天子の真似をして、八佾を舞わせ、泰山を祭り、天子専用の曲を食事時に演奏させた。その様子に孔子は言った。「まったくこんな無茶が我慢できるなら、どんなことが我慢できないだろうか。」それでも地位を追われなかったのは、孔子一門の冉有や子路が家令だったからだ。

だからこう言われる。「クドクドと意見する臣下がいれば、国は栄える。ヘコヘコとへつらう臣下がいれば、国は滅ぶ」と。『詩経』にも言う、「お前の見る目を養わなければ、背く者も従う者も分からなくなる。お前の目が曇ったままでは、寄り添う者も助ける者もいなくなる」と。その心は、「ああ大王よ、殷に王を助けるご意見番がいなかったから、天下を失ったことを忘れるな」である。(『韓詩外伝』巻十14)

文字史からも春秋時代の漢語とは言えず、定州竹簡論語にも無いことから、戦国から漢初にかけて創作されたと考える。

解説

論語の本章は、漢文としてはやや異常な構造をしている。

「八佾舞於庭」は”八佾が庭で舞う”の意で、”八佾を…”ではない。中国語は殷代の太古から、主語ー述語ー目的語の順で、助詞や前置詞を必ずしも伴わない中国語は、語順を滅茶苦茶にしたらもう読めない。この句は意味的には通説通り、”季氏が八佾を庭で舞わせた”には違いないのだが、それを変な語順で書いている。

つまりわけの分からない書き方をされた、壊れた漢文なわけで、わけの分からない字を書いて「ゲージュツ」とか言っている書家と同じで、儒者がわけ分からん文を書いて自分に酔っているわけ。こういう、目的語のような主語を「受事主語」と中国語の業界で言い、通常の主語が何かをする「施事主語」と対比させるが、ヘンな主語に名をつければ問題が解決するわけではない。

日本語にも「この道は通れます」と言うから外国人泣かせなのだが、「八佾…」は儒者のせいで異常な文になっているには違いない。「是可忍也、孰不可忍也。」もやはり「受事主語」で、”これが耐えられるか。何が耐えられないか”の意。同様にわけが分からない。

お堅い『論語』に、このようなポエムみたいな文章が載っているとは受け取れないかも知れないが、春秋の君子が必ず戦士を兼ねたのとは違い、帝政中国の儒者官僚はひょろひょろのただの役人で、採用試験がポエム作りだったりもする。書き手が酔っているのはむしろ理の当然だ。

儒家が政界を制覇するきっかけになったのは、常人未満の知能しかない前漢武帝(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)によるいわゆる儒教の国教化だが、その代表人物に董仲舒と並び、司馬相如という、ポエム作りで見出された、ずっと女のヒモで暮らしていたろくでなしがいる。

論語の本章の泣き言も、儒者が自分に酔って書いたというべきで、史実の孔子らしくない。季氏は確かに貴族として格上だが、孔子は宰相職で、身長2mを超す武術の達人で、同時代の誰よりも豊富な知識を持ち、もちろん頭も口も回ったし、国際傭兵団の親分・顔濁鄒と親交があった。

実際『史記』では、孔子は亡命すると真っ先に隣国の親分の屋敷に向かい、わらじを脱いでいる。だから頭に来たなら、朝廷でコテンパンに季氏を論破するか、その屋敷へ武装した弟子を連れて殴り込みに行くか、さっさと国外へ出るかで、ぶつぶつ愚痴を漏らすようなことはしなかった。

さらに親分に頼らずとも、魯国内の新興武装勢力・冉氏、その長老である冉耕伯牛と懇意で、一族から冉有と冉雍仲弓が弟子入りしている。また顔回子淵の実家・顔氏は、流浪の巫女の情報ネットワークを通じて諜報活動が出来た(孔門十哲の謎)。季氏の悪評を広めることだって出来たのだ。

春秋の貴族は、なろう系小説に出て来る同業と違い、家臣や領民にそっぽを向かれると、天寿も全うできない哀れな存在だった(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。筆頭家老の季孫家も、武装し諜報機関まで持つ孔子を怒らせたら、ただでは済まなかったわけだ。

論語八佾篇には他にも本章のような、僭上越権行為を非難する言葉が複数載せられている。ただし八佾の舞そのものが戦国から漢代の儒者による創作だから、真面目に受け取る必要は無い。

孔子は礼法の定めを超えた行為を規制することで、国公の地位を高め秩序を回復しようとしたとされる。しかし実際には、政権は国公の手を離れて久しく、民の保護も行っていなかったことが『左伝』等の記録によって知られる。代わりにそれを担っていたのが魯国では三桓。

三桓とは魯の桓公の子孫で、季孫氏・叔孫氏・孟孫氏の門閥三家老家である。礼法の秩序が崩れるのは当然でもあった。それをとがめたとされる孔子の歳はと言えば、まず国政を担当していた52~54歳あたり。放浪から帰った60代後半では、一旦は高い地位に据えられたものの、すぐに追いやられて政治の第一線から引退しており、三桓との対立は影を潜めている。

また論語子罕篇15で、「私が衛から魯に帰って、やっと音楽は正しくなり」と言っており、本章を帰国後のこととすると矛盾する。それともあれだろうか、権力の座にあったときは本章のようにブツブツいうだけで済ませ、隠居同然の帰国後に止めさせたとでも言うのだろうか。

孔子が国を追われることになった発端は、三桓の根城の規模が臣下の分を超えているとして、破壊を進めたことにあるとされるが、従わない相手とはいくさにまでなった。ここまでする孔子が、音楽だけブツクサ言うだけで済ませたとは考えにくい。

そもそも根城破壊は三桓の当主の意向にも添っていた。三桓は普段国都の曲阜に住まっており、根城は代官に任せていたが、下克上の世となって、代官が根城に立てこもって反抗することもあったからだ。つまり孔子も、舞を止めさせるよりは三桓の協力を得やすかった。

三桓が破壊に協力した事情については、は論語先進篇12余話「カネの切れ目は城の切れ目」を参照。

BC 魯定公 孔子 魯国 その他
501 9 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉に逃亡。次いで晋に〔斉世家〕。ローマ、独裁官設置
500 10 52 司空=治水頭、次いで大司コウ=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける
499 11 53 家老の少正ボウを処刑する 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く
498 12 54 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗
497 13 55 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。衛、孔子を迎える

いずれにせよ、「八佾の舞」の物証は、甲骨文・金文をいくら探しても出てこないので、戦国から前漢に掛けての儒者が、創作した儀礼と断じて良い。

なお既存の論語本の中で、吉川本ではこういう。「階級の存在による秩序こそ、人間を平和にするのであって、それぞれの階級は、それぞれに生活の表現を持つべきであり、それが礼である。その秩序が破壊されるのは、悪である、と言うのが孔子の考えであった。徂徠は異説を立て、これは孔子が暗に魯の君主に対して行った勧告であり、八佾の舞ぐらい勘弁しなさい、といったのだとするが、これは徂徠一流の奇説であろう。」

孔子は社会の底辺から身を起こしたから、戦乱の世のむしろ被害者だったろう。その原因を、各身分がそのワクからはみ出したことにある、と孔子は見たと吉川は言う。だがそれを言うなら底辺から魯の宰相格になった孔子こそ、大変なはみ出し者である。

加えて孔子の下に集った弟子たちも、貴族出身の者は司馬耕ぐらいしか知られず、多くは平民から出たはみ出したがりだった。頭脳明晰な孔子が、この矛盾に気付かなかったはずが無い。従って本章に言う季孫氏の僭上行為に怒ったというのは、どこまで本当か疑わしい。

それともあれだろうか、人は図星を突かれると激怒するし、似た者同士はいがみ合うという。似た者同士非難を言い立てることによって政争を有利にしようとしたのだろうか。しかし季孫氏は弟子の子路冉有をやとった主人でもあり、その筋も考えにくい。

また論語の本章の成立については、かなり遅いと推測できる。理由の一は「子曰く」ではなく「孔子謂う」と孔子を表記していることで、これは孔子が歴史上の人物になってから書かれたことを物語る。もう一つは本篇が、「孔子謂季氏」から季氏篇になってもおかしくない事。

これはすでに季氏篇があったので、「孔子謂季氏、八佾…」から八佾篇を名乗ったことを意味する。ただし八佾篇そのものの成立が新しいことにはならない。おそらく原・八佾篇は、本章を含んでいなかっただろう。次章が三桓の専横の話なので、前に本章をかぶせたわけ。

これにつき『論語集釋』は言う。

翟氏考異:皇氏侃謂此不標季氏而以八佾命篇者,深責其惡,故書其事也。夫篇名非自聖人,何嘗有寓褒貶意?惟第十六篇篇首又值季氏字,此因更以下二字命篇耳。其不於後避前,而前若豫爲地,蓋以論纂成後一時標識而然。


テキコウ(清儒)の『四書考異』に、「皇侃が本篇を季氏篇とせず八佾篇と名づけたのは、季氏の悪行を深く責めたからであり、その一つである八佾の舞を記して篇名とした。篇名は聖人による名付けではなく、遠回しに誉めたりけなしたりすることは決してない。第十六篇も冒頭に季氏と記されているから、本篇は季氏の下二字を取って篇名にしたに過ぎない。後に出てくる話で前の篇名を変えるために、あらかじめ篇名を変えたように見えるのは、たぶん編集のための一時的都合によるのだろう。

ずいぶん窮屈な思考のように見えて、当人は存外そうでもない。

「踊らにゃ損々」である。儒者は論語が完全無欠の聖典であると世間に言いふらすことでめしを食っていたのだから、理性的な者ほど熱心な洗脳者になる。知性と狂信が矛盾しないという、現代科学ではあり得べからざる中華文明の精華の一つが、ここに見て取れる。

それは現中国にも言えて、ITの発達と恐るべき独裁が矛盾しないのはこれゆえだ。

なお武内義雄『論語之研究』によると、論語為政篇から泰伯篇は、論語の中でも最も古い部分という。だが但し書きはあり、いずれの篇も後世に付加された章を含んでいる。前漢武帝時代に現れた古論語では、堯曰篇のうち子張問章が独立しており、1章は200字程度でしかない。

対して現伝の論語は以下の通り。

現伝『論語』文字数一例(総字数15,900字。版本によって異同あり)
学而 為政 八佾 里仁 公冶長 雍也 述而 泰伯 子罕 郷党
493字 579字 689字 501字 869字 816字 873字 613字 806字 642字
先進 顔淵 子路 憲問 衛霊公 季氏 陽貨 微子 子張 堯曰
1054字 992字 1035字 1340字 904字 863字 1019字 618字 824字 370字

前漢の儒者は、相当に論語を膨らませた。本章もおそらくその際に付加された章だろう。

余話

金呉れないなら働かない

『論語』と孔子は中国で、文化大革命中の「非林非孔」が収まりテレビが普及しだした改革開放時代から、ドラマ化されるようになった。そのうち古いものを見てみると、予算も無かったしギャラも安かったのだろう、あまり真面目に踊っていない「八佾」が見られる。

これはこれで面白いが、現中共政権が孔子を持ち上げ、世界征服の一環として孔子学院なるものを世界中に建てて回ってからだと、こういうテケトーな踊りは見られなくなってしまった。今はギャラも良くなったのだろうが、それ以上に権力が怖いからでもある。残念なことだ。

なお台湾でははっきり見せ物と割り切っており、これもまた見せ物として素晴らしい。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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