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論語詳解053八佾篇第三(13)その奥に媚び*

論語八佾篇(13)要約:後世の創作。衛国亡命中の孔子先生。ある貴族から、殿様よりも我らに媚びろと言われます。それをはねつけた孔子先生。神様も殿様も、本当に怒らせたら怖いのですぞ、と後世になって儒者がでっち上げたラノベ。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

王孫賈問曰與其媚於奧寧媚於竈何謂也子曰不然獲罪於天無所禱也

校訂

東洋文庫蔵清家本

王孫賈問曰與其媚於奧寧媚於竈何謂/子曰不然獲罪於天無所禱也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

孫賈問曰:「與其媚於窖a,寧媚於竈,何謂也?」48……罪於天,無所禱49……

  1. 窖、今本作「奧」。窖借為奧。

※訳者注:カールグレン-藤堂上古音、「窖」(k-kɔg)、「奧」(ʔ-”おく”・og/”くま”・ɪok)。ʔと・は空咳の音に近く、音通すると言えばそう思えなくもない。

標点文

王孫賈問曰、「『與其媚於窖、寧媚於竈。』何謂也。」子曰、「不然。獲罪於天、無所禱也。」

復元白文(論語時代での表記)

王 金文孫 金文賈 金文問 金文曰 金文 与 金文其 金文媚 金文於 金文 寧 金文媚 金文於 金文竈 金文 何 金文謂 金文也 金文 子 金文曰 金文 不 金文然 金文 隻 金文非 金文於 金文天 金文 無 金文所 金文論語 祷 金文也 金文

※罪→非。論語の本章は「窖」(奧)が論語の時代に存在しない。「問」「其」「媚」「寧」「竈」「何」「然」の用法に疑問がある。本章は後世の儒者による創作である。

書き下し

王孫賈わうそんかふていはく、おくびんりは、むしかまどびよと、なんいひいはく、しからず、つみあめいのところなきかなと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
王孫が問うて言った。「奥座敷の神に媚びるより、むしろかまどの神に媚びろと言います。どういう意味でしょう。」先生が言った。「そうではありません。罪を天の神に責められれば、祈る所がありませんそ。」

意訳

鄭国に亡命中、軍務相の王孫賈どのが尋ねてきて言った。「天の神より身近なかまどの神に媚びろと言います。孔子どのも我が君より、いっそ我々に…。」

孔子 人形
「勘違いなさるな。天の神に見つかれば、許しを祈るにも祈れなくなりますぞ。」

従来訳

下村湖人
王孫賈(おうそんか)が先師にたずねた。――
(おく)の神様に媚びるよりは、むしろ(かまど)の神様に媚びよ、という諺がございますが、どうお考えになりますか。」
先師がこたえられた。――
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心掛けることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

王孫賈問:「『與其祈禱較尊貴的奧神的保佑,不如祈禱有實權的竈神的賜福』,是什麽意思?」孔子說:「不對。犯了滔天大罪,怎麽祈禱也沒用。」

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王孫賈が問うた。「祈りの利き目を考えるなら、貴い奥座敷の神の助けより、実力のあるかまどの神のお恵みを祈った方がいいと言いますが、これはどういう意味でしょうか。」孔子が言った。「間違いです。天にも聞こえる大罪を犯せば、どんな祈りも利き目がありません。」

論語:語釈

、「『 () 、 。』 。」 、「 。」

王孫賈(オウソンカ)

王 甲骨文 孫 甲骨文 賈 甲骨文
(甲骨文)

孔子と同時代の、衛国の軍事担当家老。孔子もその手腕を認めていた。同名の人物が楚にもいたと『左伝』にある。また後世、斉王の家臣にも同名の人物がいた。「王孫」とは文字通り王族が名のる名で、「賈」は金持ちという目出度い意味があるので、同姓同名は珍しくない。

論語の時代の衛国は、西北の大国・晋に領土を削り取られ、国都も朝歌(殷の古都)から東の帝丘に移っていた。晋国の圧迫はさらに強まり、国君霊公は、晋公の家臣のさらに家臣と対等の盟約を結ばされた。その際霊公は晋人に手を取られ、誓いにすする血を盛った皿に強引に浸けられて、名誉を失った。

ここで王孫賈が走り出て、晋の非礼をとがめた。また憤懣やるかたない霊公が帰国後、王孫賈が晋に送る人質を前に演説すると、住民は全員晋からの離脱を決意した。その結果を悔いた晋が再度の盟約を求めたが、衛は応じなかった(『左伝』定公八年の条・BC502)。

「王」の初出は甲骨文。字形は司法権・軍事権の象徴であるまさかりの象形。詳細は論語語釈「王」を参照。

「孫」の初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤タイ」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。

「賈」の初出は甲骨文。”売買”・”商人”の意では「コ」(上声)と読み、”値段”・国名・姓名の場合は「カ」(去声)と読む。字形は「貝」”貝貨”+「」”はこ”で、貝貨を箱に収納したさま。原義は”商売”。甲骨文での語義は不明、金文では”価格”、”取引”、”商売(人)”、国名に、また戦国早期の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「賈」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。原義=甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では、”~と”の派生義として”…より”。比較を示す。新字体は「与」。論語の本章では、”~と”。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

媚(ビ)

媚 甲骨文 媚 字解
(甲骨文)

論語の本章では”こびる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「眉」=見開いた目で跪く女の姿で、原義は不明。甲骨文では”わざわい”の意に、金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「媚」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

奧*(オウ/イク)→窖*(コウ)

奥 篆書 窖 隷書
「奧」(篆書)/「窖」(隷書)

論語の本章では、”部屋の奥にある神聖空間”。暗に国君の霊公を指す。論語では本章のみに登場。新字体は「奥」。初出は後漢の『説文解字』。後漢ごろに出来た新しい言葉で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。”おく”の意味では「オウ」(去声)と読み、山や川のくま=”おく”の意味では「イク」(入声)と読む。字形は「宀」”屋根”+「米」”穀物”+「キョウ」”ささげる”で、屋内の神聖空間を示す。原義は室内の西南の隅にある神棚。詳細は論語語釈「奥」を参照。

定州竹簡論語の「窖」の初出は前漢の隷書。後漢ごろに出来た新しい言葉で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「穴」+「告」で、「告」は音符。部品の「告」に、「窖」の語義は無い。詳細は論語語釈「窖」を参照。

窖 大漢和辞典

『大漢和辞典』

寧(ネイ)

寧 甲骨文 寧 字解
(甲骨文)

論語の本章では、接続辞として”むしろ”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”やすらか”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「皿」+「コウ」”木柄”。器物や長柄道具を丁寧に倉庫に保管するさま。原義は”やすらか”。甲骨文では原義に、また地名に用いた。春秋までの金文では”見舞う”の意に用い、戦国の金文では原義に、”乞い願う”に用いられた。詳細は論語語釈「寧」を参照。

竈(ソウ)

竈 金文 竈 字解
(金文)

論語の本章では”かまど”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋中期の金文。字形は「穴」+「土」+「黽」で、「土」「黽」は”ひきがえる”とも、”わに”とも解せる。原義はおそらく水生動物の巣。”かまど”の意が確認できるのは、戦国時代の竹簡からになる。「灶」”かまど”の異体字とされるが、字形がまるで違い受け入れられない。詳細は論語語釈「竃」を参照。

論語の時代、かまどの神は、人の生活を監視していて、年に一度天帝に報告すると信じられていた。暗に王孫賈はじめ衛の権臣を指す。

『字通』竃条

[形声]声符は鼀(しゅう)の省文。〔説文〕七下に黽(びん)に従う竈を正形とし、「炊竈なり」という。〔段注〕に「周禮に、竈を以て祝融を祠る」の文を補う。〔左伝、昭二十九年疏に引く賈逵注〕に「句芒(こうぼう)は戸に祀り、祝融は竈に祀り、蓐收は門に祀り、玄冥は井に祀り、后土は中霤(ちゆうりう)(雨だれ落ち)に祀る」とみえる。祝融は火神。竈神は老婦。年末に家族の功過を携えて升天し、上帝に報告するというので、おそれられた。竈の上部は穴ではなく、蓋に空気抜けのあながある形。金文の〔秦公鐘(しんこうしよう)〕に「下國を竈有(さういう)す」とあり、その字形が確かめられる。竈有は奄有の意である。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”由来”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、前半「何謂也」では「や」と読んで疑問の意を示す。後半「無所禱也」では、「かな」と読んで詠歎の意を示す。「かな」と読んで断定に解してもよいが、lこの語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”…(その通り)である”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

獲(カク)

獲 甲骨文 隻 金文
(甲骨文)/「隻」(金文)

論語の本章では”得る”。初出は甲骨文。金文は戦国末期のものが初出。字形は「鳥」+「又」”手”で、鳥を捕るさま。原義は”取る”。古くは「隻」と分化していない。詳細は論語語釈「獲」を参照。

罪(サイ)

罪 金文 罪 字解
(金文)

論語の本章では”つみ”。初出は戦国早期の金文で、その字形は「辠」、論語の時代に存在しない。現行字体の初出は前漢の隷書。「ザイ」は呉音。同音は存在しない。初出の字形は「自」+「辛」で、おそらく自裁すべき罪を意味する。現伝の字形は「网」”あみ”+「非」”ひがごと”であり、捕らえられるべき罪を言う。「辠」は秦代になって皇帝の「皇」と近いのをはばかって、「罪」の字を作字したという。論語の時代の置換候補は「非」。詳細は論語語釈「罪」を参照。

天(テン)

天 甲骨文 天
(甲骨文)

論語の本章では”天(の神)”。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”・地名人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天子」”周王”や「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”…するところの…”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

禱(トウ)

祷 金文 禱 字解
(金文)

論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”いのる”。新字体は「祷」。初出はおそらく西周早期以前。現行字体の初出は楚系戦国文字。字形は「申」”稲妻=神”+「𠙵」”くち”で、神に祈るさま。原義は”いのる”。部品の「壽」に”祈る”の意があり、また甲骨文の「𠦪」は「禱」と釈文されている。詳細は論語語釈「祷」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、先秦両漢の誰一人引用していない。初出は事実上、前漢宣帝期の定州竹簡論語で、前漢になってから儒者によって偽作されたと考えるのが筋が通る。古注では孔安国が注を付けているが、この男は高祖劉邦を避諱ヒキしないなど、存在そのものが疑わしい。

文字史的にも論語の時代に遡れない。用例も怪しく、「竈」は春秋末期まで”かまど”の語義を持たなかった。字形通り、水棲動物の巣穴とみるべきで、それがかまどのようでもあったから、戦国も末になってから”かまど”に転用された。本章は後世の創作がほぼ確実である。

解説

内容的にも、孔子の身分秩序観を示すためにでっち上げられた一節と言える。孔子は成り上がった後に、さらなる挑戦者が出ないよう、反乱の拠点になっていた門閥貴族の根城を破壊しようとしたのであり、国公が実権を持つ周初の身分秩序を復活させようとしたのではない。

高遠な理想から政策を進めたと言うより、既に手にした権力を守るための戦いに入っていた。その利害が一致する限りで、国公や門閥貴族と手を結んだのだが、「自分は成り上がっておいてその態度は何だ」と新興氏族からの反発を喰らって、国外に亡命せざるを得なくなった。

理想の国公として斉の桓公を挙げたのも、宰相管仲に全てを委ねきったからであり、それゆえ自分で政治いじりをした晋の文公を、「小ずるい」とこき下ろした(論語憲問篇16)。亡命先の衛でも同じで、狙ったのはまず国公の後ろ盾であり、だから卿大夫とつるまなかっただけ。

魯国で失脚した孔子が衛国に向かったのは『史記』によるとBC497のことで、三年前に王孫賈が活躍して霊公の屈辱を晴らした事件は知っていただろう。現在の論語ドラマでは、王孫賈はむしろ悪役として登場するが、孔子はそれなりの礼儀で王孫賈に迎えられたに違いない。

衛霊公
当時の衛国は、かなりやり手の霊公が上に立ち、王孫賈や孔子と同姓の孔文子などの家老格が国を支えていた。言い換えると家老たちの権力が拮抗しており、そこから一歩抜きん出たい王孫賈が、魯国の宰相格だった孔子を味方に引き入れたがったと想像出来はする。

だが王孫賈は『春秋左氏伝』が伝える限りでは、霊公の忠臣として働いており、「霊公より自分の味方になれ」とは言いそうに無い。その上霊公は春秋の小国の君主としては、ほぼ申し分ないと言えるほどの君主で、大臣は有能、将軍は勇猛、民からはよく慕われていた。

南子
国公の霊公は、当時南子という夫人を溺愛していたとされ、南子が故国で愛人にしていた男まで衛国に呼んでやったほどだった。その南子がいやがる孔子にサシで会見を求めてついに実現させたことが論語雍也篇28に見え、また霊公と南子のドライブに、孔子は付き合わされた。

それをきっかけに孔子が衛国を出たとされることから、儒者は口を揃えて南子を淫乱だといい、霊公を暗君だとおとしめるが、霊公は晋の圧迫を何とか防ぎ止めたやり手であり、南子程度の奔放さは、論語時代の王侯ではむしろ当たり前でもある。控えめといってもいいほどだ。

他にも記したが、霊公には既にカイカイという先妻の間に出来た世継ぎがいたが、のちの即位後を見ると、要らぬ争いをたびたび引き起こすなど君主としての力量に欠けるダメ息子で、だから霊公は南子の子に期待した。

荘公(=蒯聵)元年(BC480)、位に即くと、家老たちを全て殺そうとして言った。「私は長く国外にいた。そなたたちはその事を知っていたか〔国外で苦労していると知っていたのに、なぜ一人も私を助けなかったのか〕。」しかし家老たちが反乱を起こそうとしたので、怖くなってやめた。

荘公二年(BC479)、魯の孔子が死んだ。

荘公三年(BC478)、荘公が都城の城壁に登って外を見物していると、蛮族の集落が見えた。荘公が言った。「蛮族めがなぜここにいるのだ。追い払ってくれる。」蛮族は恐れ、十月になって西方の大国・晋の実力者で、荘公を帰国させる後ろ盾になった趙簡子に訴えた。

そこで趙簡子が兵を率いて衛の都城を包囲すると、十一月になって荘公は逃亡した。(『史記』衛康叔世家・荘公)

春秋の貴族は、存外血統にこだわらない。手続きを経て認知すれば、すなわち嫡子になれるのである。孔子晩年に隣国の斉で国君を殺し国の乗っ取りを謀った田常(論語憲問篇22)について、次のような伝説がある。

田常(=田恒)は斉国じゅうから身長七尺(約158cm)以上の(体力のある)女性を集め、それで後宮を作り、相談役や私兵の出入りを自由にした。(生まれた子は全て自分の子として認知し、)こうして田常が死ぬ頃には、田氏には七十人以上の男子がいた。(『史記』田敬仲完世家18)

なお上記の検証に拘わらず、孔子が王孫賈から似たような言葉で誘いをかられた可能性はある。しかしそれでも、孔子の宗教観に矛盾はない。孔子は無神論者と言うより、神を論じない立場だった。祭壇に神が降りてくるとは思っていなかったが、天が雷や日照りや洪水を起こすこと、誰の目にも明らかだったからだ。

それを神の作用だとは孔子は言わなかったが、人事を超越した何かが天界にあると思っていただろう。加えて巫女の子として生まれたからには、世間の人間がどれほど神に怯えやすいか知っていたはずであり、抜け目のない王孫賈を黙らせるにも有効だと分かって言ったのだろう。

余話

死後に貼られるレッテル

論語の本章のように、家臣から引き抜き話があるということは、その主君が舐められたバカ殿であったことを裏書きすることにもなる。王孫賈の主君霊公のおくり名は、国を滅ぼす原因を作ったような暗君に贈られるのが通例で、おくり名の基準と言われる『逸周書』にこうある。

死後に志が達成された者を霊という。暴君だったが国が滅びなかった者を霊という。鬼神を知り尽くした者を霊という。努力もせずに名を挙げた者を霊という。死んで奇跡が起こった者を霊という。鬼神の祭祀を好んだ者を霊という。(『逸周書』諡法解)

『逸周書』は『春秋左氏伝』より古いとも言われているが、中国古典の通例で、そうとは断言できないし、後世の書き換えが加わっていないっとは言えない。ともあれ、『三国志演義』で後漢の霊帝が徹底的にバカ殿として扱われたことから、暗君としか思われなくなった。

だが上記の通り、衛の霊公・いみ名は姫元は殿様としては有能で、人間もまともだった。その上姫元が、没後に霊公とおくり名されたかはかなり怪しい。ブツとしての証拠が出土していないからだ。先秦の「霊公」と記された出土品は、2022年1月現在以下の通り。

春秋末期「叔尸鐘」集成276
武𪛈公之所。󱜥武霝公易尸吉金鈇鐈。…武𪛈成子孫。

この「霊公」は、斉の霊公を指している。

「清華大学蔵戦国竹簡」清華二・繫年50
晉襄公󱜥(卒),霝(靈)公高幼。

この「霊公」は言うまでもなく晋の霊公。

「清華大学蔵戦国竹簡」清華二・繫年51
󱜥(左)行󱜥(蔑)与(與)隨會卲(召)襄公之弟󱜥(雍)也于秦。襄而〈夫〉人󱜥(聞)之,乃缶(抱)霝(靈)公以󱜥(號)于廷,曰:「死人可(何)辠(罪)?

『説苑』建本28に「晋の襄公が亡くなったが、太子は若いので弟の雍を立てようとした』という話がある。おそらくここでの「霊公」は晋の霊公。

「清華大学蔵戦国竹簡」清華二・繫年53
之。」乃立霝(靈)公,󱜥(焉)囗爿歹(葬)襄公。

上の続きであり、晋の霊公。

「清華大学蔵戦国竹簡」清華二・繫年55
奔秦。霝(靈)公高立六年,秦公以󱜥(戰)于󱜥󱜥之古(故),󱜥(率)𠂤(師)爲河曲之󱜥(戰)。

上の続きであり、晋の霊公。

「清華大学蔵戦国竹簡」清華二・繫年75
陳公子󱜥(徵)󱜥(舒)殺丌(其)君霝(靈)公,󱜥(莊)王󱜥(率)𠂤(師)回(圍)陳。王命󱜥(申)公屈󱜥(巫) 󱜥(適)秦求𠂤(師),󱜥(得)𠂤(師)以

記述の通り、陳の霊公。

というわけで。衛の殿様姫元を「霊公」と言い出したのは『論語』が初めで、姫元は孔子が世を去る14年前のBC493に逝去しているから、『論語』をまとめだした頃にはおくり名があったはずだが、それが「霊公」だという物的証拠は一つも無い。

孔子は魯国を出ると真っ直ぐに衛国に向かったが、姫元から現代換算で約111億円の捨て扶持を与えられたというのに、どうやら逗留先の顔濁鄒親分とつるんで政府転覆工作を行ったらしい。それを霊公に嗅ぎつけれて、おまわりがうろつきだしたので逃げたと『史記』にある。

しばらくしてある人が霊公に、孔子を悪く言った。霊公は公孫余をつかわして、家の出入りを一々許可制にした。孔子は罰せられるのを恐れ、滞在十ヶ月で衛を去った。(『史記』孔子世家)

これはどう考えても孔子の方が悪い。仕事をさせて貰えなかった怨みかも知れないが、当時の衛国には人材が揃っていたと孔子自身が言っている(論語憲問篇20)。その文中で孔子が姫元を「無道」と言ってしまったものだから、後世の儒者が尻馬に乗って悪口を書き連ねた。

その筆頭はおそらく孟子で、論語に次ぐ「衛霊公」の文献上の再出は『孟子』になる。

曰:「奚不去也?」
曰:「為之兆也。兆足以行矣,而不行,而後去,是以未嘗有所終三年淹也。孔子有見行可之仕,有際可之仕,有公養之仕也。於季桓子,見行可之仕也;於衛靈公,際可之仕也;於衛孝公,公養之仕也。」


弟子の万章「どうして孔子先生はさっさと魯を去らなかったんですか?」

孟子「自分の政治がうまく行っているように見えたからだ。だからその見込みがあるうちは魯の政治を摂った。ところがうまく行かなくなったので、魯を去った。だからどの国でも三年以上は止まらなかった。

孔子先生は見込みが有ると思えばその国に仕え、見込みがあるかも知れんと思っただけでも仕え、殿様の仕込みがいがあると思ったときにも仕えた。同世代の魯の宰相・季桓子にも、見込みが有ると思ったから仕えた。衛の霊公の場合、ひょっとして、と思って仕えたんだが、衛の孝公には、仕込みがいがあると思ったから仕えた。」(『孟子』万章下13)

ここから、孟子の頃には「霊公」が定着していたように思われるが、思われるだけに止まるのは、『孟子』も論語同様、後世の儒者がいじりまくっているからだ。そしてもう一つ面白いことが分かる。孔子が仕えた姫元の次代は「出公」と『春秋左氏伝』や『史記』は伝える。

それを孟子は「孝公」と行っている。どうやらおくり名は後世の都合で、勝手に変わるようである。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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