論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
王孫賈問曰、「『與其媚於奧、寧媚於竈。』何謂也*。」子曰、「不然。獲罪於天、無所禱也。」
校訂
武内本
唐石経謂下也の字あり。
定州竹簡論語
王孫賈問曰:「與其媚於窖a,寧媚於竈,何謂也?」48……罪於天,無所禱49……
- 窖、今本作「奧」。窖借為奧。
※訳者注:カールグレン-藤堂上古音、窖(k-kɔg)、奧(ʔ-”おく”・og/”くま”・ɪok)。ʔと・は空咳の音に近く、音通すると言えばそう思えなくもない。
→王孫賈問曰、「『與其媚於窖、寧媚於竈。』何謂也。」子曰、「不然。獲罪於天、無所禱也。」
復元白文
窖
※獲→(甲骨文)・罪→非・禱→壽。論語の本章は上記赤字が論語の時代に存在しない。おそらく也の字を断定で用いている。本章は漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
王孫賈問ふて曰く、其の奧於媚びん與りは、寧ろ竈於媚びよと、何の謂ぞ也。子曰く、然らず、罪を天於獲ば禱る所なき也と。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
王孫賈が問うて言った。「奥座敷の神に媚びるより、むしろかまどの神に媚びろと言います。どういう意味でしょう。」先生が言った。「そうではありません。罪を天の神に責められれば、祈る所がありません。」
意訳
鄭国に亡命中、軍務相の王孫賈どのが尋ねてきて言った。「天の神より身近なかまどの神に媚びろと言います。孔子どのも我が君より、いっそ我々に…。」
「勘違いなさるな。天の神に見つかれば、許しを祈るにも祈れなくなりますぞ。」
従来訳
王孫賈が先師にたずねた。――
「奥の神様に媚びるよりは、むしろ竈の神様に媚びよ、という諺がございますが、どうお考えになりますか。」
先師がこたえられた。――
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心掛けることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ。」
現代中国での解釈例
王孫賈問:「『與其祈禱較尊貴的奧神的保佑,不如祈禱有實權的竈神的賜福』,是什麽意思?」孔子說:「不對。犯了滔天大罪,怎麽祈禱也沒用。」
王孫賈が問うた。「祈りの利き目を考えるなら、貴い奥座敷の神の助けより、実力のあるかまどの神のお恵みを祈った方がいいと言いますが、これはどういう意味でしょうか。」孔子が言った。「間違いです。天にも聞こえる大罪を犯せば、どんな祈りも利き目がありません。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
王孫賈(オウソンカ)
(金文)
孔子と同時代の、衛国の軍事担当家老。孔子もその手腕を認めていた。同名の人物が楚にもいたと『左伝』にある。また後世、斉王の家臣にも同名の人物がいた。「王孫」とは文字通り王族が名のる名で、「賈」は金持ちという目出度い意味があるので、同姓同名は珍しくない。
論語の時代の衛国は、西北の大国・晋に領土を削り取られ、国都も朝歌(殷の古都)から東の帝丘に移っていた。晋国の圧迫はさらに強まり、国君霊公は、晋公の家臣のさらに家臣と対等の盟約を結ばされた。その際霊公は晋人に手を取られ、誓いにすする血を盛った皿に強引に浸けられて、名誉を失った。
ここで王孫賈が走り出て、晋の非礼をとがめた。また憤懣やるかたない霊公が帰国後、王孫賈が晋に送る人質を前に演説すると、人質は全員晋からの離脱を決意した。その結果を悔いた晋が再度の盟約を求めたが、衛は応じなかった(『左伝』定公八年の条・BC502)。
奧/奥
(金文大篆)
論語の本章では、暗に国君の霊公を指す。原義は、部屋の西南の隅でもっとも高貴な場所。この文字は後漢の『説文解字』が初出で、論語の時代に存在しない。同訓「㝔」(ヨウ)は甲骨文・金文が存在しない。カールグレン上古音は子音のʔのみ。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、釆は、播(ハ)の原字で、こまごましたものが散在するさま。奧は「宀(おおい)+釆+両手」で、屋根に囲まれたへやのすみにあるこまごましたものを、手さぐりするさまを示す。
幽(おく深い)・窈(ヨウ)(おく深い)・杳(ヨウ)(暗い)などと同系のことば、という。
[会意]旧字は奧に作る。宀(べん)+釆(べん)+廾(きよう)。〔説文〕七下に「宛なり。室の西南隅なり」とするが、宛は字の誤りであろう。宀は神聖な建物。釆は獣掌の象で膰肉の類。廾はこれを神に薦める意。その祀所を奧という。
窖
初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkのみ。部品の「告」に、「窖」の語義は無い。
竈(ソウ)/竃
(金文)
初出は春秋中期の金文。カールグレン上古音は不明。藤堂上古音はtsog。論語の時代、かまどの神は、人の生活を監視していて、年に一度天帝に報告すると信じられていた。暗に王孫賈はじめ衛の権臣を指す。
『字通』竃条
[形声]声符は鼀(しゅう)の省文。〔説文〕七下に黽(びん)に従う竈を正形とし、「炊竈なり」という。〔段注〕に「周禮に、竈を以て祝融を祠る」の文を補う。〔左伝、昭二十九年疏に引く賈逵注〕に「句芒(こうぼう)は戸に祀り、祝融は竈に祀り、蓐收は門に祀り、玄冥は井に祀り、后土は中霤(ちゆうりう)(雨だれ落ち)に祀る」とみえる。祝融は火神。竈神は老婦。年末に家族の功過を携えて升天し、上帝に報告するというので、おそれられた。竈の上部は穴ではなく、蓋に空気抜けのあながある形。金文の〔秦公鐘(しんこうしよう)〕に「下國を竈有(さういう)す」とあり、その字形が確かめられる。竈有は奄有の意である。
『学研漢和大字典』によると「竈」は会意文字で、「穴+土+黽(細長いへび)」。土できずいて、細長い煙穴を通すことを示す。焦(こげる)・燥(ソウ)(火がさかんにもえる)などと同系のことば、という。
獲
(甲骨文)
論語の本章では”得る”。この文字は論語時代の金文には見られないが、甲骨文・戦国時代の金文が存在する。詳細は論語語釈「獲」を参照。
罪
論語の本章では”つみ”。この文字は楚・秦の戦国文字、戦国末期の中山王壺が初出で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdzʰwədで、同音は存在しない。論語の時代の置換候補は「非」。詳細は論語語釈「罪」を参照。
禱/祷
(金文)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”いのる”。
『説文解字』によると、祈るなかでも、神明に事を告げて幸福を求めること。初出は戦国文字で、『字通』所載の年代不詳の上掲金文には、戦国期特有の細長い流麗さが無く、論語の時代の文字と信じて差し支えないように思われる。ただし確証は無い。
部品の「壽」(=寿)には、”ことほぐ”の語釈が『大漢和辞典』にあり、論語時代の置換候補となる。
金文の上部は「神」で、下は祝詞を収めた器の𠙵に見える。しかし『字通』では、音符を寿=田疇=耕された土地とし、その間に𠙵を記した字で、穀物の豊穣を祈ることだという。
一方『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、壽の原字は「長い線+口二つ」の会意文字で、長々と告げること。音は、トウ。祷の本字はそれを音符とし、示(祭壇)を加えた字で、長々と神に訴えていのること。
道(長いみち、長々とのべる)・疇(チュウ)(長いあぜ道)・壽(ジュ)(=寿。年齢が長くのびる)・濤(トウ)(長々とうねる波)などと同系のことばで、類義語の祈は、近と同系で、願う事がらに近づきたいといのること、という。
上記金文は白川フォントによるものだが、「神」+「𠙵」(サイ)と考えたくなる。
「神」「𠙵」(金文)
詳細は論語語釈「祷」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、孔子の身分秩序観を示すためにでっち上げられた一節。孔子は成り上がった後に、既存勢力である門閥卿大夫の勢力を削ごうとし、そのために国公の後ろ盾を必要としたのであって、国公が実権を持つ周初の身分秩序を復活させようとしたのではない。
理想の国公として斉の桓公を挙げたのも、宰相管仲に全てを委ねきったからであり、それゆえ自分で政治いじりをした晋の文公を、「小ずるい」と小ばかにした(論語憲問篇16)。亡命先の衛でも同じで、狙ったのはまず国公の後ろ盾であり、だから卿大夫とつるまなかっただけ。
魯国で失脚した孔子が衛国に向かったのは『史記』によるとBC497のことで、三年前に王孫賈が活躍して霊公の屈辱を晴らした事件は知っていただろう。現在の論語ドラマでは、王孫賈はむしろ悪役として登場するが、孔子はそれなりの礼儀で王孫賈に迎えられたに違いない。
当時の衛国は、かなりやり手の霊公が上に立ち、王孫賈や孔子と同姓の孔文子などの家老格が国を支えていた。言い換えると家老たちの権力が拮抗しており、そこから一歩抜きん出たい王孫賈が、魯国の宰相格だった孔子を味方に引き入れたがったのも無理はない。
国公の霊公は、当時南子という夫人を溺愛していたとされ、南子が故国で愛人にしていた男まで衛国に呼んでやったほどだった。その南子がいやがる孔子にサシで会見を求めてついに実現させたことが論語雍也篇28に見え、また霊公と南子のドライブに、孔子は付き合わされた。
それをきっかけに孔子が衛国を出たとされることから、儒者は口を揃えて南子を淫乱だといい、霊公を暗君だとおとしめるが、霊公は晋の圧迫を何とか防ぎ止めたやり手であり、南子程度の奔放さは、論語時代の王侯ではむしろ当たり前でもある。控えめといってもいいほどだ。
論語を読むに最大の障害が、この儒者による潤色やでっち上げで、論語の真意を探るには論語だけ、あるいは儒者の注釈だけを読んでいると読み誤る。同時代資料や、儒家に批判的な他学派の書籍も読んだ上で、出来る限りの客観性を保って、読み進める必要がある。
なお既存の論語本では吉川本にこうある。

「まずかまどの前で祭りをしたうえ、奥…で祭りなおすのが掟であった。…二度祭ることから生まれたのがこの諺である。」
「孔子はこたえた。…天の罪人となり、天から見放されるでありましょう。…この条は難解であるが、天とは君であるとする古注の説には、とにかく従わなかった。孔子の天に対する考えは、よりよくそれを示す条が、やがてあとに出て来るであろう。」
「まずかまどの前で祭りをしたうえ、奥…で祭りなおすのが掟であった」と見てきたように書いているが、コピペとハッタリを事とする吉川の言うことだから、どこまで真に受けていいかわからない。「それを示す条」とは、衛国との絡みで言えば、おそらく論語雍也篇28を指すのだろう。
先生が衛国滞在中、殿様の奥方で美貌で知られた南子さまに、「どうしても」と呼ばれ、仕方なくサシで会った。終えて出てきた先生を、子路さんが疑いの目つきででジロジロ眺めるから、先生は慌てて言った。
「誓ってもいい。何もなかった。何もなかったと言っておろうが! 隠したって天が見ているではないか!」
なお上記の検証に拘わらず、孔子が王孫賈から似たような言葉で誘いを翔られた可能性はある。しかしそれでも、孔子の宗教観に矛盾はない。孔子は無神論者と言うより、神を論じない立場だった。祭壇に神が降りてくるとは思っていなかったが、天が雷や日照りや洪水を起こすこと、誰の目にも明らかだったからだ。
それを神の作用だとは孔子は言わなかったが、人事を超越した何かが天界にあると思っていただろう。加えて巫女の子として生まれたからには、世間の人間がどれほど神に怯えやすいか知っていたはずであり、抜け目のない王孫賈を黙らせるにも有効だと分かって言ったのだろう。