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論語詳解049八佾篇第三(9)夏の礼は吾これを’

論語八佾篇(9)要約:滅びたいにしえの王朝の末裔は、すっかり衰えてしまい、その文化がもう分かりません。歴史やお作法の調査が大好きな孔子先生、現地に行きましたが資料は滅びてしまいました。殺風景なもんだ、と嘆いた話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰夏禮吾能言之杞不足徵也殷禮吾能言之宋不足徵也文獻不足故也足則吾能徵之矣

校訂

諸本

宋版『史記』孔子世家:「文獻不足故也」を欠く。

東洋文庫蔵清家本

子曰夏禮吾能言之杞不足徵也殷禮吾能言之宋不足徵也文獻不足故也足則吾能徵之矣

※2字目の「徴」のみ〔彳𢽠〕でなく〔彳王攵〕の上に〔山〕。

後漢熹平石経

子白…殷禮吾…

※「殷」字のへんは「郎」と同じ。「禮」字のへんは〔礻〕。

定州竹簡論語

……[禮,吾能]言之,杞不足徵也;殷禮,[吾能言之,宋不足徵也]。文獻不足故也,足則吾a徵之矣。」44

  1. 阮本、皇本、「吾」字下有「能」字。

標点文

子曰、「夏禮、吾能言之、杞不足徵也。殷禮、吾能言之、宋不足徵也。文獻不足故也、足則吾徵之矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 夏 金文礼 金文 吾 金文能 金文言 金文之 金文 杞 金文不 金文足 金文徵 微 金文也 金文 殷 金文礼 金文 吾 金文能 金文言 金文之 金文 宋 金文不 金文足 金文徵 微 金文也 金文 文 金文献 金文不 金文足 金文故 金文也 金文 足 金文則 金文吾 金文徵 微 金文之 金文矣 金文

※論語の本章は、「足」「徵」「也」「則」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作の可能性がある。

書き下し

いはく、よきつねわれこれふにあたへども、るになりいんよきつねわれこれふにあたへども、そうるになりふみうつはるがゆゑなりらばすなはわれこれ

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「夏の貴族の一般常識を私は語ることが出来るが、その末裔である杞の国は、その知識を取るに足らない。殷の貴族の一般常識を私は語ることが出来るが、その末裔である宋の国は、その知識を取るに足らない。文書も器具も残っていないからだ。残っていれば取るのだが。」

意訳

論語 孔子 遠い目
二代前の、夏王朝の上流社会の常識はよく知っている。しかしその末裔の杞の国には、その名残がない。一代前の殷と末裔の宋も同じ。めぼしいものが何もない。殺風景なものだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「私はしばしば()の礼制の話をするが、夏の子孫の国である現在の()には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。私はしばしば(いん)の礼制の話をするが、殷の子孫の国である現在の(そう)には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。それは典籍も不十分であり、賢人もいないからだ。それらがありさえすれば、私は私のいうことが正しいということを完全に証拠立てることが出来るのだが。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「夏朝的禮,我能說清楚,杞國不足以證明;商朝的禮,我能說清楚,宋國不足以證明。現在無法證明是由於文獻不足,否則,我就能證明瞭。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「夏王朝の礼法を、私ははっきりと説くことが出来るが、杞国はその証明には役立たない。殷王朝の礼法を、私ははっきり説くことが出来るが、宋国はその証明には役立たない。今、証明する方法が無いのは、文献が不足しているからだ。そうでなければ、私はすぐにも明らかに証明できるのだが。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

夏(カ)

夏 甲骨文 夏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”夏王朝”。殷より一代前の王朝とされるが、文字のない時代であり疑わしい。孔子や子夏は夏王朝や開祖禹王の名は知っていたが、詳細な伝説が出来上がる前に世を去っている。夏王朝がBC20C-BC17Cに実在したという国家プロジェクトが、中共政府によって行われたが、文字の無い時代の話を、真に受けるわけに行かない。

初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また戦国時代の金文では、川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では「よきつね」と訓読して”貴族の一般常識”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

孔子生前の「礼」は、書き記された教科書があったわけではない。しかも礼法や作法だけでなく、広く貴族の一般常識を指した。従って本章の場合、訓読は礼儀作法「ゐや」でなく、貴族の一般常識「よきつね」と読むのが適切。詳細は論語における「礼」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。論語語釈「我」も参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”かたる”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

杞(キ)

杞 甲骨文 杞 字解
(甲骨文)

論語の本章では、春秋諸侯国のうち杞国。『春秋左氏伝』魯隠公四年(BC719)に「莒人伐杞」とあるから、存在はしたのだろう。初出は甲骨文。カールグレン上古音はkʰi̯əɡ(上)。字形は「木」+「己」で、樹木の一種。甲骨文では地名に用い、金文では諸侯国の一国の名。文献では多く”クコ”の意に用いられるという。詳細は論語語釈「杞」を参照。

夏王朝の開祖、禹の末裔を称する国(→Wikipedia)。だがそれを言い出したのは、滅亡後300年後に生まれた司馬遷で、司馬遷ですら夏の末裔という伝説を真に受けていたかどうか怪しい。

杞東樓公者,夏后禹之後苗裔也。殷時或封或絕。周武王克殷紂,求禹之後,得東樓公,封之於杞,以奉夏后氏祀。…杞小微,其事不足稱述。

論語 司馬遷
杞の東樓公は、夏の禹王の末裔である。殷の時代に、おそらく国を失った。周の武王が殷の紂王を破ると、禹の末裔を探して、東樓公を見つけた。この人物を杞に封じ、夏王朝の祭祀をやらせた。…杞はあまりに小国で、実はどういう国だったかはっきりしない。(『史記』陳杞世家)

孔子は夏王朝と禹王の名は知っていたが、詳細な伝説は知らず、禹王の伝説を創作したのは、孔子と入れ違うように戦国初期を生きた墨子で、自分ら技術者集団の開祖として、また儒家の持ち上げる周公・文王に先立つ聖王として禹王を創作した。

ただし夏の末裔が杞だとは一言も言わなかった。夏の末裔は当然自分ら墨家であり、ほかに元祖や本家があってはならないからだ。そのようなことが言い出されたのは、戦国から前漢にかけて編纂された『管子』に、「夫杞,明王之後也」(大匡10)とあるのが初出。

だが夏と禹王にさらにかぶせるように、すでに杞が滅んでから現れた孟子が、禹王に位を譲った有り難い聖王として舜を創作し、その末裔が斉王だと言った。仕えていた斉王は滅びた陳国の公族の末裔だったが、斉国を乗っ取って日が浅く、家格に箔付けを望んでいたからである。

つまり全て悪党と悪党の相談による創作で、真に受けられない。杞国は存在当時から小国として小ばかにされていたらしく、天が落ちてくるのではないかと心配する杞国人の寓話が『列子』に残されており、「杞憂」の語源。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

足(ショク/シュ)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”足りる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

徵(チョウ)

徴 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”資料として取り上げる”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「徴」。初出は甲骨文。同音は無い。字形は”ノコギリ”+「之」”あし”で、字形の由来と原義は明瞭でない。甲骨文では国名に、金文では氏族名に用いた。戦国の金文では、音階の一つに用いた。詳細は論語語釈「徴」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

殷(イン/アン)

BC17C-BC1046。実在が確認された中国史上最初の王朝の名。文字を持ち、鹿の骨や亀の甲羅をあぶって、そのひび割れで神意を問う、神権政治を行ったとされる。
地図 殷

殷 甲骨文 論語 殷 金文
(甲骨文)/(金文)

初出は甲骨文。字形は占いのため奴隷や捕虜の腹を割き、生き肝を取り出す姿で、殷王朝の他称。”人の生きギモを取る残忍な奴ら”の意。ただし殷自身も甲骨文でこの字を用いており、恐らく原義は”肝を取り出す”。殷の自称は商。「イン」の音は”さかん”を、「アン」の音は血の色を表す。呉音は「オン」「エン」。殷王朝はいけにえとしてむやみに人間を殺したことが、発掘調査から知られている。詳細は論語語釈「殷」を参照。

宋(ソウ)

宋 甲骨文 宋 字解
(甲骨文)

論語の本章では、春秋諸侯国のうち宋国。初出は甲骨文。字形は「宀」”祭殿”+「木」”神木”で、祭殿と鎮守の森を組み合わせた祖先祭殿。原義は”祖先祭殿”。甲骨文では地名・人名に用い、金文では国名・人名・氏族名に用いた。詳細は論語語釈「宋」を参照。

周が殷を滅亡させたとき、摂政の周公が殷王族の微子啓に領地を与えて建てさせた国とされる(→Wikipedia)。爵位も公爵と最高で、プライドが高かった。中国王朝の交代期には、前王朝の残党は通常、一人残らず探し出されて殺されるのが通例で、この処遇は珍しい。

だが小国として杞と同様に小ばかにされていたらしく、偶然手に入れた兎を再度期待して木の株を守る「守株」の寓話(『韓非子』)、苗の素早い生長を望んだ百姓が苗を引き抜き、枯れてしまったという「助長」の寓話が残る(『孟子』)。

また君主の襄公が、身の程知らずにも大国の楚と戦う際、態勢の整わない楚軍を攻めるのは「義」に反するとして大敗した「宋襄の仁」の寓話は史実として扱われている。論語との関係では、孔子の先祖が住んだと言われ、孔子は晩年、自分は殷の末裔だ、と言ったとされる。

位置は下図参照。

文獻(文献)

文 甲骨文 献 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、”文献と祭器”。

「文」は論語の本章では”文字資料”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

「献」の初出は甲骨文。字形は「鬳」”祭器”と「犬」”犠牲獣”で、祭壇に供え物を並べたさま。原義は”たてまつる”。甲骨文での語義は不詳。金文では”飯炊きガマ”、また原義で用いた。詳細は論語語釈「献」を参照。

既存の論語本には、”文書と賢者”と解する訳例がある。武内本と『学研漢和大字典』もそれを支持する。しかしここでは下記する音の比較から、「献」=”捧げ物”と解し、祭器として訳した。戦国末期までの出土例でも、「賢」と解せる例は無い。

「文献」語釈
学研漢和大字典 昔の文物・制度を知るための書物と賢人のことば。▽「献」は、賢。
字通 典籍と賢者。制度・文物を検証するもの。
大漢和辞典 典籍と賢者。古の制度文物を知る証拠となるもの。徴証すべき典籍と賢者。
新漢語林 書物と賢人。書きしるされたものと、賢人に記憶されたもの。記録と口碑。昔の制度・文物を知る資料となるもの。
新字源 書物と賢人。むかしの制度や文物を知る証拠となるもの。献は、賢の意。

「献」のカールグレン上古音はxi̯ăn(去)。「賢」のカールグレン上古音はgʰien(平)。すなわち「献」→「賢者」は日本語音による勝手な想像、または儒者の出任せが元で、真に受けられない。

古注『論語集解義疏』

註鄭𤣥曰獻猶賢也

鄭玄
注釈。鄭玄「献はちょうど賢のようなものである。」

後漢きっての大学者と言われる鄭玄だが、「なお…のごとし」と煙幕を張っていることにお気づきだろうか。「献は賢者である」とは言っていない。後々の言い逃れのために、ほのめかすに止めたのである。

故(コ)

故 金文 故 字解
(金文)

論語の本章では、”理由”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「ボク」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。

文獻不足故也

上掲の通り『史記』孔子世家では「夏禮吾能言之、杞不足征也。殷禮吾能言之、宋不足征也。足、則吾能征之矣。」とあって「文獻不足故也」を欠く。『史記』の成立は定州竹簡論語にやや先行し、定州竹簡論語になって「文獻不足故也」が書き足された可能性がある。一方で『史記』は引用であり、要旨のみを記した可能性もある。校訂すべき理由となるにはやや足りない。なお現存最古の宋版『史記』は、「文獻不足故也」を欠いている。下掲右端。

宋版『史記』

宋版『史記』孔子世家©国立歴史民俗博物館

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「A則B」で”AはBになる”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史的には論語の時代まで遡れるから、その意味では史実性を疑う余地がないが、内容的に第一句はアウトだ。夏王朝の名は孔子も知っていたが、末裔でもない杞国が出てくることで、孔子の発言とは言いかねる。それを含め、本章の再出は前漢の『小載礼記』。

言偃復問曰:「夫子之極言禮也,可得而聞與?」孔子曰:「我欲觀夏道,是故之杞,而不足徵也;吾得夏時焉。我欲觀殷道,是故之宋,而不足徵也;吾得坤乾焉。坤乾之義,夏時之等,吾以是觀之。」


子游が孔子に問うた。「先生の礼法の奥義を、ご教示頂けますか?」孔子が言った。「私は夏の政道を知ろうとしたから、杞に出掛けた。だが取るに足らなかった。ただし夏の暦法は知ることができた。私は殷の政道を知ろうしたから、宋に出掛けた。だが取るに足らなかった。ただし『坤乾』(天地の運行原理を記した書)は知ることができた。坤乾の法則と夏の暦法が同じということが、そうやって知れたのだ。(礼運4)

子曰:「吾說夏禮,杞不足徵也。吾學殷禮,有宋存焉;吾學周禮,今用之,吾從周。」


先生が言った。「私は夏の礼法を説くが、杞はその論拠とするに足りない。私は殷の礼法を学んだが、宋は現存している。私は周の礼法を学んだが、今はこれが行われている。私は周に従う。(中庸30)

また杞が夏の末裔という伝説は、墨子も孟子も荘子も荀子も含め、春秋戦国の誰も言わず、初めて言ったのは上掲の通り、戦国から前漢に掛けて創作が積み上げられた『管子』になる。

解説

さて中国の学問と思想は、事実上孔子が開祖なのだが、孔子はその透明な理性から、弟子の誰にもあとを継げと言わなかった。ゆえに孔子没後は儒家は一旦断絶し、孔子の孫弟子ぐらいに当たる墨子が自派・墨家を立ち上げて天下を席巻した。また儒家への批判として楊朱が出た。

ゆえに孔子没後一世紀に現れた孟子は、「当時の天下は、墨家と楊朱の学派に二分されていた」と証言する。

「聖王不作,諸侯放恣,處士橫議,楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊,則歸墨。楊氏為我,是無君也;墨氏兼愛,是無父也。無父無君,是禽獸也。」

孟子
いつまでたっても聖王は現れず、諸侯は好き勝手に暴れ回り、学者を名乗る連中は、デタラメを言い合っては「はい論破!」とか幼稚なことを言っていたから、楊朱と墨翟の学説に天下を占領された。天下の学説と言えば、楊朱の学派でなければ墨家だった。

だが楊朱の主張は徹底した自分勝手で、君主の存在を認めない。墨家の主張は徹底した無差別主義で、父の存在を認めない。父も君主もいない世の中とは無政府主義もいいところで、人間がトリやケダモノに身を落とすのと変わらないではないか。(『孟子』滕文公下14)

孟子の言い分はたぶんその通りなのだろうが、墨家が当時なりの科学技術集団だったのに対し、楊朱の学説は個人的な心の安らぎにはなり得ても、富国強兵には役立たないばかりか、むしろ逆の効果をもたらした。殿様や領主が何と言おうと「どうぞご勝手に」だからである。

詳細は他人のためにはスネ毛一本抜かないを参照。

論語 春秋諸国と諸子百家

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また孟子が言い忘れるほど微弱だったが、同世代に荘子がいて、いわゆる道家の発端を作った。荘子自身は楊朱と似ていて、世の中全てを他人事のように見てせせら笑う立場を取ったから(一例)、これもまた富国強兵の役には立ちそうもないし、荘子自身にその気が無い。

従って中国思想史の主流は、孔子から墨子に受け継がれたと見るべく、墨子の没後に孟子が現れて、儒家を再興したと言える。ただし孟子のやったことは「言いくるめる」だけで、実用になることを何一つ言わなかったから、諸侯にはほとんど相手にされなかった。

その中で数少ない請負仕事が、当時斉国を乗っ取って日が浅い田氏の家格をはね上げることだった。それなりに本を読んでいた孟子は、当時猛威を振るった墨家の開祖よりさらに前代で偉い舜王を創作し、その末裔が田氏だという「古文書」を作ったが、儒者らしい商売だった。

孟子以降の儒家はそもそも、偽作を生業とした。詳細は論語はどのように作られたかを参照。

ただし孟子がキャンキャンと墨家に噛みついた結果、我も我もと自説をひっさげて諸侯の間に売り歩く世間師が続出した。これがいわゆる諸子百家で、後世に繋がるような業績はほぼ皆無と言ってよいのだが、それでも天下の賑わいではあったし、多少は当時の諸侯に貢献した。

庶民に、ではない。春秋の世なら戦見物に出たり、落ち武者狩りで一儲けできた庶民が、ギリギリと統制されて兵隊に引っ張られ、国が敗れれば戦勝国の奴隷に落とされもした。史料を読みもしないで「百家争鳴」を気軽に誉めあげるのは、現代人としてはちょっと頂けない。

余話

亡国の哀れ

上掲「守株」の出典は次の通り。

宋人有耕田者,田中有株,兔走,觸株折頸而死,因釋其耒而守株,冀復得兔,兔不可復得,而身為宋國笑。今欲以先王之政,治當世之民,皆守株之類也。


宋の人で畑を耕す人がいた。畑の中に切り株があり、走っていた兎が切り株にぶつかって首を折った。(畑を耕す者は兎を売って一儲けした。)耕すのを止めて切り株の番をした。また兎が獲れるだろうと期待した。だが兎は二度と獲れず、その上宋国じゅうの笑い物になった。今の世で昔の聖王の政治に従い、民を治めようとするのは、みな切り株を守るたぐいだ。(『韓非子』五蠹1)

「助長」の出典は次の通り。

「敢問何謂浩然之氣?」
曰:「難言也。其為氣也,至大至剛,以直養而無害,則塞于天地之閒。其為氣也,配義與道;無是,餒也。是集義所生者,非義襲而取之也。行有不慊於心,則餒矣。我故曰,告子未嘗知義,以其外之也。必有事焉而勿正,心勿忘,勿助長也。無若宋人然:宋人有閔其苗之不長而揠之者,芒芒然歸。謂其人曰:『今日病矣,予助苗長矣。』其子趨而往視之,苗則槁矣。天下之不助苗長者寡矣。以為無益而舍之者,不耘苗者也;助之長者,揠苗者也。非徒無益,而又害之。」


弟子の公孫丑「浩然の気とは、一体何ですか。」

孟子「言葉で説明するのは難しい。すごく大きくてすごく固く、正直と素直を守って損をすることが無く、天地の間に満ち満ちている。それが気の一種である理由は、正義にかなえば道徳を盛んにするが、そうでなければ、道徳を萎えさせるからだ。正義が集まって生まれるものだが、自分が正義を積み重ねたつもりでいても、得られるわけではない。行動が恥知らずなら、必ず萎えてしまう。

だから私は言ったのだ、告子の奴はまだ正義の何たるかを知らないと。それで正義でないものを正義と言っている。もし正義を実現しようとするのなら、”これは正義だ”という思い込みがあってはならないし、ものを思う自分自身の存在を忘れてはならないし、正義を盛んにしてやろうとくわだててもならない。愚かな宋人の真似をしてはいけないのだ。

その宋人の話を語ろうか。ある宋人が、苗が全然育たないと悩み、土から引き抜いて突き出させた。ふらふらと家に帰っていう事には、”今日は疲れた。ワシは苗を生長させてやったでな”。(前からおやじがおかしいとにらんでいた)話を聞いたその子が畑に走って見てみると、苗は全部枯れていた。

今の世の中、こういう馬鹿げた助長をしない者は少ない。流した汗が水の泡に終わるのは、真面目に畑を耕さないからで、ズルをしようと思うから、苗を引き抜いて枯れさせてしまう。無駄なだけでなく、有害でさえあるのにな。」(『孟子』公孫丑上2)

「宋襄の仁」の出典は次の通り。

僖公二十二年…冬,十一月,己已,朔,宋公及楚人戰于泓,宋人既成列。楚人未既濟,司馬曰,彼眾我寡,及其未既濟也,請擊之。公曰,不可,既濟而未成列,又以告,公曰,未可,既陳而後擊之,宋師敗績,公傷股,門官殲焉,國人皆咎公,公曰,君子不重傷,不禽二毛,古之為軍也,不以阻隘也,寡人雖亡國之餘,不鼓不成列,子魚曰,君未知戰,勍敵之人,隘而不列,天贊我也,阻而鼓之,不亦可乎,猶有懼焉,且今之勍者,皆吾敵也,雖及胡耇,獲則取之,何有於二毛,明恥教戰,求殺敵也,傷未及死,如何勿重。若愛重傷,則如勿傷。愛其二毛,則如服焉,三軍以利用也,金鼓以聲氣也,利而用之,阻隘可也聲盛致志,鼓儳可也。


僖公二十二年(BC638)…の冬十一月己已の新月の日、宋の襄公が楚と泓水のほとり(現在の河南省商丘市付近)で戦った。宋軍はすでに整列していた。対岸の楚軍が川を渡り終える前に、宋の将軍が言った。「敵は我が方より大軍です。渡り終える前に攻撃しましょう。」襄公が「ダメだ」と言った。楚軍が渡り終えたが、まだ整列が済む前に、また将軍が「攻撃しましょう」と言ったが襄公は「まだだ」と言った。

楚軍が整列を終えると攻撃を始め、宋軍は負けに負けた。襄公は股に傷を負い、近衛隊は全滅した。宋の国人(士族以上の従軍義務がある貴族)が襄公を咎めた。襄公は言った。「君子たる者、負傷者には重ねて手を掛けず、白髪頭の老兵は捕らえないのが、いにしえよりの軍の習いである。相手の地形の不利に付け込んではならない。私はたとえ国を滅ぼそうとも、そうした敵に進軍を促す太鼓は打たないし、陣を構えたりしない。」

公族の子魚が言った。「殿下はいくさというものをまるで知らない。手強い敵が不利な地形で陣立ても済まないのは、天が我が方に味方してくれたのです。地形不利な敵軍には撃ち掛かるのが、上手な戦いというものです。不利にある敵でも恐ろしいものですし、今の強国は、みな我が国の敵です。老兵だろうと捕らえられるなら捕らえるべきで、白髪頭だろうと構ってはいられません。

いくさでの恥とは何かを明らかにし、軍を調練するのは、ひとえに敵を殺すためです。負傷してまだ息がある敵兵を、どうして殺さずにいられましょうか。(立ち上がって撃ってきたらどうするのです。)傷ついた者に手を掛けたくないなら、最初から傷付けねばよろしい。白髪頭を憐れむなら、始めから降服して戦わねばよろしい。

国軍とは戦うための組織であり、鐘や太鼓はその士気を高めるためにあり、敵の不利は付け込むためにあり、不利な地形にある敵こそが味方を奮い立たせるのです。その進撃を命じるためなら、太鼓の革などいくらでも破ってよろしい。」(『春秋左氏伝』僖公二十二年2)

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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