論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「夏禮、吾能言之、杞不足徵也。殷禮、吾能言之、宋不足徵也。文獻不足故也、足則吾能徵之矣。」
校訂
定州竹簡論語
……[禮,吾能]言之,杞不足徵也;殷禮,[吾能言之,宋不足徵也]。文獻不足故也,足則吾a徵之矣。」44
- 阮本、皇本、「吾」字下有「能」字。
→子曰、「夏禮、吾能言之、杞不足徵也。殷禮、吾能言之、宋不足徵也。文獻不足故也、足則吾徵之矣。」
復元白文
※矣→已。論語の本章は、也の字を断定で用いている。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。
書き下し
子曰く、夏の禮は吾能く之を言へども、杞は徵るに足らざる也。殷の禮は吾能く之を言へども、宋は徵るに足らざる也。文獻足らざるが故也。足らば則ち吾之を徵ら矣。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「夏の礼法を私は語ることが出来るが、その末裔である杞の国は、礼法の知識を取るに足らない。殷の礼法を私は語ることが出来るが、その末裔である宋の国は、礼法の知識を取るに足らない。文書も器具も残っていないからだ。残っていれば取るのだが。」
意訳
二代前の、夏王朝の礼法はよく知っている。しかしその末裔の杞の国には、その名残がない。一代前の殷と末裔の宋も同じ。めぼしいものが何もない。殺風景なものだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私はしばしば夏の礼制の話をするが、夏の子孫の国である現在の杞には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。私はしばしば殷の礼制の話をするが、殷の子孫の国である現在の宋には、私のいうことを証拠立てるようなものが何も残っていない。それは典籍も不十分であり、賢人もいないからだ。それらがありさえすれば、私は私のいうことが正しいということを完全に証拠立てることが出来るのだが。」
現代中国での解釈例
孔子說:「夏朝的禮,我能說清楚,杞國不足以證明;商朝的禮,我能說清楚,宋國不足以證明。現在無法證明是由於文獻不足,否則,我就能證明瞭。」
孔子が言った。「夏王朝の礼法を、私ははっきりと説くことが出来るが、杞国はその証明には役立たない。殷王朝の礼法を、私ははっきり説くことが出来るが、宋国はその証明には役立たない。今、証明する方法が無いのは、文献が不足しているからだ。そうでなければ、私はすぐにも明らかに証明できるのだが。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
杞(キ)・宋
(金文)
論語の本章では、春秋諸侯国のうち杞国と宋国。
杞国は夏王朝の開祖禹王の末裔を称する国で、殷周革命の際に一時滅亡したが、周王朝の後援を受けて復国した。しかしその後も小国のまま位置も点々とし、どの時点でどこに存在したかもはっきりしない。
下の地図では現在も杞県として名が残っている位置を示したが、論語当時にこの場にあったとは断定できない。BC445年に楚国によって滅ぼされた。
当時から小国として小ばかにされていたらしく、天が落ちてくるのではないかと心配する杞国人の寓話が『列子』に残されており、「杞憂」の語源。
宋国は殷王朝の残党を、殷を滅ぼした周が領地を与えて立てさせた国であり、爵位も公爵と最高で、プライドが高かった。中国王朝の交代期には、全王朝の残党は通常、一人残らず探し出されて殺されるのが通例で、この処遇は珍しい。
だが亡国として杞と同様に小ばかにされていたらしく、偶然手に入れた兎を再度期待して木の株を守る「守株」の寓話(『孟子』)、苗の素早い生長を望んだ百姓が苗を引き抜き、枯れてしまったという「助長」の寓話が残る(『韓非子』)。
また君主の襄公が、身の程知らずにも大国の楚と戦う際、態勢の整わない楚軍を攻めるのは「義」に反するとして大敗した「宋襄の仁」の寓話は史実として扱われている。
論語との関係では、孔子の先祖が住んだと言われ、孔子は晩年、自分は殷の末裔だ、と言ったとされる。
位置は下図参照。
文獻(文献)
(金文)
論語の本章では、”文献と祭器”。
既存の論語本には、”文書と賢者”と解する訳例がある。武内本と『学研漢和大字典』もそれを支持する。しかしここでは下記する音の比較から、「献」=”捧げ物”と解し、祭器として訳した。
「文」について詳細は論語語釈「文」を参照。
「献」は『学研漢和大字典』によると部品の鬳(ケン)は「虎+鬲(三本の袋足のついた煮たきする器)」の会意文字で、虎(トラ)などの飾りのついたりっぱな食器。獻は「犬+(音符)鬳」で、犬の肉を食器に盛ってさしあげること、という。『新字源』もほぼ同じ。
『字通』は甑=蒸し器を犬の血でお清めすることと言う。『新漢語林』もほぼ同じ。このような儀式を釁といい、”ちぬる””ちまつり”と訓じる。詳細は論語語釈「献」を参照。
学研漢和大字典 | 昔の文物・制度を知るための書物と賢人のことば。▽「献」は、賢。 |
字通 | 典籍と賢者。制度・文物を検証するもの。 |
大漢和辞典 | 典籍と賢者。古の制度文物を知る証拠となるもの。徴証すべき典籍と賢者。 |
新漢語林 | 書物と賢人。書きしるされたものと、賢人に記憶されたもの。記録と口碑。昔の制度・文物を知る資料となるもの。 |
新字源 | 書物と賢人。むかしの制度や文物を知る証拠となるもの。献は、賢の意。 |
「献」のカールグレン上古音はxi̯ăn(去)。「賢」のカールグレン上古音はgʰien(平)。すなわち「献」→「賢者」は日本語音による勝手な想像、または儒者のデタラメの受け売りであり、成り立たない。
注釈。鄭玄「献はちょうど賢のようなものである。」
後漢きっての大学者と言われる鄭玄だが、煙幕を張っていることにお気づきだろうか。「献は賢者である」とは言っていない。後々の言い逃れのために、ほのめかすに止めたのである。
徵
(金文)
論語の本章では、”資料として取り上げる”。春秋時代では、「微」と書き分けられていなかった。
論語の本章では、”それを証拠立てるようなしるしを取る”と解した。『大漢和辞典』には、”召す・求める・取り立てる・しるし”の語義をのせる。また、”明らかにする”と解するのも別解として良い。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「微の略体+王」で、隠れた所で微賤(ビセン)なさまをしている人材を王が見つけて、とりあげることを示す。チョウは登・昇(のぼる)と同系で、上へ引きあげること。
また、證(=証。ことばで表面に出す)と同系で、わずかな手がかりをつかんでとりあげ表面にのせること、という。詳細は論語語釈「徴」を参照。
論語:解説・付記
上掲の検証にかかわらず、論語の本章は孔子の肉声である可能性を持っている。「也」の用法にさえ目をつぶれば、孔子がいかにも言い出しそうなことだからだ。「也已矣」のような文末の辞が、後世付加された例が『定州論語』との比較で分かる。「也」もそうで無いとは言い切れない。
孔子の時代、書籍や史料・資料を収集するのは非常に困難で、図書館はなく、書店の存在も極めて想像しがたい。従って資料収集にはつてを頼って各国の朝廷や貴族の家庭が保管している文献を読むことと、現地調査しか手段がなかっただろう。
庶民として生まれた孔子は、母親が巫女だった関係から、母親が属する呪術者集団の持つ文献を読めた可能性はあるが、その数や種類が豊富だったとは思えず、青年期以降に自分で諸国を回って、時に好意的な貴族から文献を見せて貰い、古老から聞き書きなどをしたと想像する。
従って論語為政篇23で夏や殷の礼法について「増減したところを知る」と断言しているが、そう言いきれるほど正確な情報を持っていたとは想像しがたい。確かに弟子よりは知識豊富で、同時代人の通常の貴族よりは知識の多い方だったろうが、その情報源は極めて怪しかった。
孔子が魯国の祖先祭殿に上がったとき、礼法の一々に何の意味があるかと問うている。(論語八佾篇15)。孔子の言う「礼」が史実に基づいたものであったと言い難いのも、こうした事情による。足りない部分は孔子の想像で創作せざるを得なかった。
従って孟孫氏の後援で、論語当時の周の都・洛邑に留学できたのは非常に有り難かったに違いなく、何代目かの老子に教えを受けたのが事実だと訳者が思うのは、この事情による。同時に孔子の言う礼は、論語述而篇1の言葉にも関わらず、多くが「作って述べた」ものだろう。
なお既存の論語本では吉川本で、論語為政篇23「十世知るべきや」と同様、文明には普遍的性格があると捉え、それゆえ夏・殷王朝についても孔子は充分な知識の自信が持てたとする。その上で孔子は、当代である周王朝を文明の頂点としてみている、とする。
だが文明の普遍的性格の定義を言わないので、何のことか分からない。「世界中同じ人間だ」という無邪気な想像だとすると、それは自分の常識を相手に押し付けることで、同時に自分の色眼鏡で相手を見ることにほかならない。だとするなら孔子の「自信」はかなり怪しい。
また、「孔子の学問に対する態度が実証を尊重したことが、この章によって示される」とあるが、吉川一流の妄誕(でたらめ)に過ぎない。そもそも孔子の言う「礼」が、孔子の創作だった。孔子は自分の妄想に都合の良い証拠を欲しがっただけで、実証を重視したわけではない。
だから吉川の説は放置するとして、論語の本章で孔子が言わされたのは、自分の創作には根拠がある、ということだ。自分自身で探し歩いて、集められる情報は集め終わった、だから分からないことは分からないが、創作も分かったことをもとにした、それが儒者の主張だろう。