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論語詳解064八佾篇第三(24)儀の封人まみえを’

論語八佾篇(24)要約:宰相格に出世した孔子先生、権力の好き放題が過ぎて魯の国じゅうから鼻つまみ者に。でも先生はイソイソと隣国との関所に向かい、その時の様子を描いた話。ただし先生と関守の悩みはそれぞれ違います。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

儀封人請見曰君子之至於斯也吾未甞不得見也從者見之出曰二三子何患於喪乎天下之無道也久矣天將以夫子爲木鐸

※「將」字のつくりは〔寽〕。

校訂

東洋文庫蔵清家本

儀封人請見/曰君子之至於斯者吾未甞不得見也從者見之/出曰二三子何患於喪乎天下之無道也久矣/天將以夫子爲木鐸

※「將」字のつくりは〔寽〕。

後漢熹平石経

…吾未嘗不得見也從者…出白…無道也久…

  • 「不」字:上下に〔一八个〕。
  • 「嘗」字:上下に〔龸口一日〕。
  • 「從」字:〔辶䒑ワ〕
  • 「無」字:上下に〔一卌一灬〕。つまり「無」-〔丿〕。

定州竹簡論語

……從者見之a。「二三子何患於喪b?天下61……

  1. 今本「之」下有「出曰」二字。
  2. 今本「喪」后有「乎」字。

標点文

儀封人請見。曰、「君子之至於斯者、吾未嘗不得見也。」從者見之。出曰、二三子、何患於喪乎。天下之無道也久矣、天將以夫子爲木鐸。

復元白文(論語時代での表記)

儀 金文封 金文人 金文青 金文見 金文 曰 金文 君 金文子 金文之 金文至 金文於 金文者 諸 金文 吾 金文未 金文嘗 金文不 金文得 金文見 金文也 金文 従 金文者 金文見 金文之 金文 出 金文曰 金文 二 金文三 金文子 金文 何 金文圂 金文於 金文喪 金文 天 金文下 金文之 金文無 金文道 金文也 金文久 金文矣 金文 天 金文将 金文㠯 以 金文夫 金文子 金文為 金文木 金文鐸 金文

※請→靑・患→圂。論語の本章は「封」「之」「也」「未」「嘗」「從」「何」「鐸」の用法に疑問がある。

書き下し

封人せきもりまみえをふ。いはく、君子もののふここいたものは、われいまかつまみゆるをんばあらざるなりと。したがものこれまみえしむ。でていはく、二三子ていしらなんうしなへるうれへむあめしたみちきはひさしきなれば、あめまさ夫子かのきみもつ木鐸きうちのかねさんとすればなりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

儀の関所役人が孔子に面会を求めて言った。「身分ある方がこの場に至った際、これまで私は面会しないことはない」。従者が(役人を)面会させた。(役人が)出てきて言った。「君たち、どうして(先生が国や地位を)失ったことを心配するのか。天下に原則が無くなってずいぶんすぎてしまったから、天はまさしく今、先生を正義の伝道者にしようとしているのだから。」

意訳

故国魯を去って衛国に入る際、儀のまちから入った。その関守が孔子に面会を求め、終えてから付き従う弟子に言った。「君たち気を落とすな。こんなひどい世の中に、天は先生を正義の伝道者に選んだのだから。」
孔子入関図

従来訳

下村湖人
()関守(せきもり)が先師に面会を求めていった。――
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません。」
お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。――
「諸君は、先生が()に下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸(ぼくたく)にしようとしているのです。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

儀地長官求見孔子,他說:「君子到了這裏,我都要求見。」見孔子後,出來說:「諸位,不要在乎官職,天下無道很久了,老天要你們的老師成為號令天下的聖人。」

中国哲学書電子化計画

儀の長官が孔子に会うことを求めた。彼は言った。「君子がここに来たら、私は全て会見を求める。」孔子と会った後、出てきて言った。「諸君。官職を求めるな。天下の無軌道は非常に長くなった。天は君たちの先生を天下に号令する聖人に仕立てるおつもりだ。」

論語:語釈


儀(ギ)

儀 金文 儀 字解
(金文)

論語では、衛国の国境にあったまちと古来解する。武内本は「儀は衛の西境にあり」という。下図参照。魯から衛の国都・帝丘に向かうにしては遠回りだが、当時の交通事情は、もはや分からない。

「儀」の初出は西周末期の金文。字形は「亻」+「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”。部品の「義」=「羊」+「我」に、西周中期以前に”(格好の)よい”の語義があることから、原義は”格好のよい人(たる属性)”の意であると思われる。論語の時代は「義」(初出は甲骨文)と書き分けられていなかった。詳細は論語語釈「儀」を参照。

儒家以外での初出は『呉子』圖國篇の「起對曰、古之明王、必謹君臣之禮、飾上下之儀、安集吏民、順俗而教、簡募良材、以備不虞。」であり、呉起は子夏の弟子。『左伝』では冒頭の隠公から出てくる。

封人(ホウジン)

封 甲骨文 人 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”関所役人”。武内本も同じ。この語義は春秋時代では確認できない。「フウニン」は呉音。「封」は論語では本章のみに登場。封は土盛りで、当時交通の要衝に土盛りを築いて関所とした。

「封」の初出は甲骨文。ただし字形は「丰」。甲骨文の字形は根菜類の姿。金文から土に植えた姿や「又」”手”が加わるようになり、”植える”の意となった。甲骨文の語義は不明。春秋までの金文では”保存する”の意があり、戦国時代の金文で”領域”の意がある。詳細は論語語釈「封」を参照。また論語語釈「人」を参照。

請(セイ)

請 金文 請 字解
(戦国金文)

論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”→”会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

君子(クンシ)

君 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族”→”身分ある者”。「君」「子」共に初出は甲骨文。

「君」は「コン」”筋道”を握る「又」”手”の下に「𠙵」”くち”を記した形で、原義は天界と人界の願いを仲介する者の意。古代国家の君主が最高神官を務めるのは、どの文明圏でも変わらない。辞書的には論語語釈「君」を参照。

「子」は春秋時代では、貴族や知識人に対する敬称。原義は王族の幼い子供。詳細は論語語釈「子」を参照。

論語 貴族 孟子
以上の様な事情で、「君子」とは孔子の生前は単に”貴族”を意味するか、孔子が弟子に呼びかけるときの”諸君”の意でしかない。それが後世、”情け深い教養人”などと偽善的意味に変化したのは、儒家を乗っ取って世間から金をせびり取る商材にした、孔子没後一世紀の孟子から。詳細は論語における「君子」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”と”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(その国に)到着する”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では”まさしくこの場所”の意。国境という非日常空間の、その通行を管理する関所を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

也(ヤ)→者(シャ)/(無し)

唐石経は封人の言を「君子之至於斯也」と記し、清家本は「君子之至於斯者」と記す。定州竹簡論語と漢石経はこの部分を欠く。時系列では清家本の方が新しいが、唐朝の都合でかなり書き換えられるより前の文字列を伝える。清家本に従い校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「君子之至於斯也」では「や」と読んで主格の強調と、「吾未嘗不得見也」「天下之無道也久矣」では「なり」と読んで断定の意に用いている。後者の語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

者 諸 金文 者 字解
(金文)

「者」は論語の本章では、”…をするもの”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今までにいない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

嘗(ショウ)

嘗 金文 嘗 字解
(金文)

論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の機会にありつく”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”従う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

見之

「これをまみえしむ」と使役に読んだが、原文には使役の記号は無い。「見」は”見る・会う・現れる”の意を持つが、論語の本章では孔子に”会う”だろう。ここの主語は「従者」で、之=「封人」でも孔子でもない。すると違式だが”会わせる”という使役に読むしかない。『大漢和辞典』もまるで困ったように、”まみえしめる”の語釈を独立して立てている。

漢語は表意文字を使い、語の変化が無いという特徴から、同じ漢語=漢字が、名詞や動詞などさまざまな品詞になったり、自動詞にも他動詞にもなったりする。論語の本章の場合、「従者」が「封人」を「見させる」という他動詞で用いていると理解すれば解決する。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”孔子の居所から出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

二三子(ジサンシ)

論語の本種では”君たち”。孔子の弟子に対して、関守が語りかけた言葉。「ニ」を「ニ」と読むのは呉音。「子」は貴族や知識人に対する敬称。辞書的には論語語釈「二」論語語釈「三」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

患(カン)

患 楚系戦国文字 患 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では、”気に病む”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「毋」”暗い”+「心」。「串」に記すのは篆書以降の誤り。論語時代の置換候補は近音の「圂」または「困」。詳細は論語語釈「患」を参照。

喪(ソウ)

喪 甲骨文 喪 字解
(甲骨文)

論語の本章では”失う”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。

天下(テンカ)

天 甲骨文 下 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”天下”。天の下に在る人界全て。

「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。

無道(ブトウ)

無 甲骨文 道 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”原則が無い”→”弱肉強食の滅茶苦茶”。

「無」の初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

「道」の初出は甲骨文。「ドウ」は呉音。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。原義は”みち”。”道徳”の語義は戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「道」を参照。

「道」は論語の本章でも道徳的なそれではなく、”まともな政道”であり、原則のある政治を言う。当時西北の大国・晋は衛国はじめ周辺の小国から領土を攻め取っており、その実力者趙簡子は、小国の尊厳を全く意にかけなかった。

いきおい、諸小国も道徳的で礼法などの原則に従った行政が行えるはずもなく、だまし合い・殺し合いは日常茶飯事だった。

久(キュウ)

久 秦系戦国文字 不明 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”~が続く”。初出は西周早期の金文。ただし漢字の部品として存在し、語義は不明。明確な初出は秦系戦国文字。字形の由来は不明。「国学大師」は、原義を灸を据える姿とする。同音に九、灸、疚(やまい・やましい)、玖(黒い宝石)。詳細は論語語釈「久」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…てしまった”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

將(ショウ)

將 甲骨文 将 字解
(甲骨文)

論語の本章では”もうすぐ~しようとする”。近い将来を想像する言葉。新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。詳細は論語語釈「将」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…にする”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

木鐸

木 甲骨文 鐸 金文
「木」(甲骨文)/「鐸」(金文)

論語の本章では”世間を啓蒙する者”。銅鐸の打ち舌が木製のものを思うとよい。「鐸」は論語では本章のみに登場。

武内本によると、もとは木の打ち舌が付いた鐘で、政令発布の時に鳴らされたという。軍事で用いる金鐸=金属の打ち舌が付いた鐘よりも、柔らかい音が出たとされる。本章から木鐸とは、”正しい政治を伝える何か紙のようなもの”を意味するようになった。

「木」の初出は甲骨文。「モク」は呉音。字形は木の象形。甲骨文では原義のほか地名・国名に、金文でも原義に用いられた。詳細は論語語釈「木」を参照。

「鐸」の初出は春秋末期の金文。”かね”の語義は春秋時代では確認できない。字形は「金」”青銅”+「睪」”伺い視る”+「廾」”両手で持つ”で、「睪」(エキ/タク)は音符と解するほかにないが、同音に楽器関連の語義を持つ字は「射」のみで、想像はされているようだがどのような音かは不明。詳細は論語語釈「鐸」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、封人の科白があまりにも孔子を神格化しているが、出来事自体は史実とみてよい。「封人」は戦国時代の『荘子』・『荀子』に用例がある。「二三子」は『孟子』に見え、「木鐸」は『春秋左氏伝』に用例があり、銅鐸のたぐいは春秋時代以前に物証がある。

解説

論語 春秋諸国と諸子百家
春秋時代も後半に入ると、鋳鉄ではあるが鉄器が実用化され、作るに難しいが美味しい小麦が普及した。つまり社会が活気付いたわけだが、同時に図々しくもなり、それまで戦争に負けても国君が交替する程度で済んだのが、大国が小国を占領して併合するようになった。

中規模の諸侯国である魯も、周辺の小国を併合しようと攻め込んだ。論語の時代まではそれでも、しぶとく小国が復活したのだが、孔子の生前にその一例があり、チュに攻め込んだ筆頭家老の季康子に、反対派の家老が銅鐸を叩いて引き返しを促している(『春秋左氏伝』)。

赤字で「顓臾センユ」とあるのも元は小国で、魯が占領した話が論語季氏篇1にある。また「トウ」とあるのは、孔子没後一世紀に現れた孟子の所説を、唯一買ってくれた殿様が出た小国だが、孟子一行はスリッパ泥棒を働いた挙げ句、孟子の言う通りにしたら国が滅びてしまった。

孟子が子分どもを引き連れてトウの国へ巡業し、殿様の屋敷に逗留した。子分の一人が、窓の上に置いてあったスリッパをくすね、屋敷の管理人が探しても見つからない。

管理人「ああたの従者って、平気で人のものを盗むんですね。」
孟子「管理人どの、我らがスリッパ泥棒の巡業に来たとでも?」
管理人「そうまでは言いませんが…。」(『孟子』盡心下76)

対して論語の時代までは、現代のような国境線が引けるような土木・交通技術力はまだ無かった。各諸侯国は、平原に点在する都市国家や村落=邑の連合体であり、飛び地があるのは珍しくない。詳細は論語郷党篇16余話「ネバーエンディング荒野」を参照。

従って国境を主張するものは、論語の本章にあるような、兵の駐屯する関所だった。

国境のありようは地域によってさまざまで、青州=山東省から出土したと伝わる、周初の「ホウセイ𣪘」に、「のぞみてちかう 外字ちかひ、コウ 外字さかいを成す」とあり、邑=都市国家の周囲に拓いた耕地が隣邑と接し、境界を定める必要が出る場所もあれば、ただの原野で放置された場所もあった。

孔子が世を去った翌年(BC478)、衛の荘公が都城から外を見物していると、「戎虜」=異民族の集団が小屋がけして住んでいるのが見えた。国の支配に服さない異民族が、都城のすぐ外にまでいた事例である。地図に線を引くだけで、国境が出来上がる時代ではなかった。

また論語の本章の出来事が、孔子失脚直後のそれとする証拠はない。既存の論語本では吉川本にも「いつの旅行の時であったか」と記す。なお孔子一行はかなりの重武装で移動していたことが、『史記』の記述から知れる

孔子 威厳
孔子に面会する前は高圧的だった関守が、終えると弟子を励ますように言っている。それが本章のようなおべんちゃらではなかったにせよ、何かしら孔子に感じる所はあったのだろう。こういう効果が論語の言う「徳」であって、訳すなら「威に打たれる」といったあたりか。

詳細は論語における「徳」を参照。

また論語時代の乱世を嘆いた者が、下級役人にもいたことが分かる。ただしなげきの対象は、孔子と封人で異なっている。鉄器が普及し、小麦の栽培のような経済的に余裕の有る社会=戦乱のできる乱世になったことは、社会の最下層からのし上がる孔子にとってよいことだった。

しかしお役目大事(と言っても、世襲した家職だろうが)に生涯を生きる役人にとってはそうでない。乱世=変化を歎くのが役人なら、孔子が歎いたのは自分の思いが通用しないこと、つまり革命運動の不成功、つまり世が変化しないことだった。

余話

中国人の口と腹

中国人にはもともと国境の概念が無いと言われることがある。

溥天之下、莫非王土。率土之濱、莫非王臣。大夫不均、我從事獨賢。


天の下にある土地は全て、中華の王の所領だ。大地の果てに至るまで、住民は中華の王の臣下だ。だが王に仕える大臣は賢愚さまざま、私は公務に勤めてただ一人ものが見えている。(『詩経』小雅・北山)

詩だから多様な解釈があり得るが、儒者を当てにしないで訳すとこうなる。恐るべき自大意識だが、未開の民族とはだいたいこういうもので、詩を書くようになった時代でもなお、中国人はこう書いた。だがポエムにこうあるからと言って、脳みそがこうなっているとは限らない。

「夜郎自大」という故事成句がある。前漢の時代、中国西南の蛮族で、最大勢力が夜郎だったと『史記』にある。隣国の君主が漢の使者に「漢孰與我大?」(漢と我が国はどちらが大きいのか)と聞いたことが元ネタだが、笑った漢人も大して変わらないのは、あくまでポエムの話。

西南夷君長以什數,夜郎最大;其西靡莫之屬以什數,滇最大。…滇王與漢使者言曰:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。


西南の酋長は十ほどおり、夜郎が最も勢力が大きい。その西隣りで夜郎に服属していない酋長も十ほどおり、滇が最大の勢力である。…滇王が漢の使者に聞いた。「漢と我が国はどちらが大きいのか?」夜郎の酋長もまた同じだった。(『史記』西南夷伝)

『詩経』が整うのはおそらく前漢からで、この詩は『春秋左氏伝』にも引用があるから戦国時代までには出来ていたのだろうが、当時の中国人にも王土でもない土地があり、王臣でもない人間がいることは分かっていた。でないと連年押し込んでくる蛮族の説明が付かない。

ただ現代にまで至る中国人の心理として、その場限りでしかものを考えないというのがある。つまり中国の国力が圧倒的で、脅しても報復が怖くない相手には、平気でこう言うポエムを言い立てる。だが人類には、殴られてやり返さない者ばかりではない事実を考えない。

だから本気で怒ってかかると、あっけなく引き下がる事が多い。そういう結果まで含めて見るなら、中国人は実に物わかりが良い人々だ。脳みそと口と胃袋と下半身が、それぞれ別のことを勝手にやっていると見ればよい。口先だけに本気で怒っては、損な結果を招く。

昭和前半の日本人にはそれが分からなかった。漢文が読めなかったからだろう。

なお上掲の詩をテキストによっては、「北山之什」に分類したり、「谷風之什」に分類したりする。前者はこの詩を目立たせるための分類法で、中国人が口で民族主義を語り出すとこういう仕儀となる。リンク先の「中国哲学書電子化計画」はもちろん前者になっている。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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