論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子貢欲去吿朔之餼羊。子曰、「賜也、爾*愛其羊、我愛其禮。」
校訂
武内本
(清家本、爾を汝に作る。)汝、唐石経女に作る。
定州竹簡論語
[子a去]53……
- 子
去、今本作「子貢欲去」。
→子貢去吿朔之餼羊。子曰、「賜也、爾愛其羊、我愛其禮。」
復元白文
朔
※貢→江・餼→氣・愛→哀。論語の本章は朔の字が論語の時代に存在しない。「我」を主格に用いている。本章は漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
子貢吿朔之餼たる羊を去る。子曰く、賜也、爾は其の羊を愛む、我は其の禮を愛むと。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子貢が月初めの祭りに供える生きた羊を取りやめた。先生が言った。「賜(子貢の名)よ、お前は羊がもったいないと言う。私は礼法がもったいないと思う。」
意訳
子貢「月初めの祭りってもう意味ないですよね。生け贄の羊も止めます。」
孔子「相変わらず勘定高いなお前は。私は古式ゆかしい祭が絶えるのが惜しい。」
従来訳
子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。――
「賜よ、お前は羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい。」
現代中国での解釈例
子貢想在祭祀時,省去活羊。孔子說:「子貢啊!你愛惜羊,我愛惜禮。」
子貢が祭礼に際して、生きた羊を供えるのをやめようとした。孔子が言った。「子貢よ、お前は羊を惜しむ。私は礼を惜しむ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子貢
(金文)
論語では孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。
吿朔(コクサク)
(金文)
論語の本章では、”月初めを告げる祭り”。
太陰暦の新月、周王から配布された暦を発表する祭礼。既存の論語本では吉川本に、新月を祖先に告げる祭りという。暦の作製は主権者の象徴であり、ある政治権力の配下に入るのを「正朔を奉じる」と言う。ただし当時は各諸侯国が自前で天体観測して暦を作っており、祭りの意味が無くなっていた。
朔の字は上掲戦国末期の金文が初出で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はsɑkで、同音は索(なわ・もとめる)のみ。部品の屰は”さからう・二ツ枝のほこ”であり、”ついたち”の語釈は『大漢和辞典』に無い。
甲骨文「屰」象倒轉人形,表示逆反,不順從的人。
甲骨文象倒立的「大」,「大」象人張開雙臂站立之形,「屰」正好象倒轉人形。倒懸人,表示逆反,不順從的人(楊樹達、季旭昇)。
一說象人自外而至,故頭部向着自己,迎面而來,是「逆」的初文(羅振玉、趙誠)。「逆」古義為迎接,《說文》:「逆,迎也。从辵屰聲。關東曰逆,關西曰迎。」
甲骨文用法與「逆」同,解作「迎」。又表示逆反,不順從,如「屰(逆)祀」即不按順序的祭祀。金文與甲文形同,皆用作人名、族氏徽號。https://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/lexi-mf/bronzePiece.php?piece=%E5%B1%B0
”ついたち”を意味する言葉に「始」があり、殷代末期の金文から確認できる。カールグレン上古音はɕi̯əɡ(ɕはシュに近いシ、əはエに近いア)で、朔と音通するとは断言できない。
『学研漢和大字典』によると「朔」は会意文字で、屰(ギャク)は、逆の原字で、さかさまにもりを打ちこんださま。また大の字(人間が立った姿)をさかさにしたものともいう。朔は「月+屰(さかさ)」で、月が一周してもとの位置に戻ったことを示す。
遡(ソ)(流れと逆に動いてもとにもどる)・泝(ソ)(流れと逆に動いて源のほうにもどる)と同系のことば、という。
[形声]声符は屰(ぎやく)。屰は逆の初文。朔は〔説文〕七上に「月の一日、始めて蘇(よみがへ)るなり」とあり、朔・蘇の畳韻をもって説く。西周の金文に、一ケ月の月相を四週に分かち、第一週を初吉という。吉は詰。月の形がはじめて回復に向かって実(み)つる意。朔は金文にみえず、遡ってその上限に至る意で、月の初日とする。北方を朔とするのは、北方を上方と考えたからであろう。
餼(キ)
「食」「氣」(金文)
論語の本章では、”生きた動物、または生きのいい動物の肉”。論語では本章のみに登場。この字は後漢の『説文解字』が初出で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はxi̯əd。同音に気(氣)、愾(なげく、いかる)。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「食+〔音符〕氣(=気。いき、活力、栄養のもとになるもの)」。藤堂上古音はhɪər(欷:すすり泣く、と同)。
- {名詞}栄養をつける食べ物。人や家畜の食べる糧米。「馬餼不過稂莠=馬は餼稂莠(らういう)に過ぎず」〔国語・魯〕
- {動詞}おくる。食物・食糧を人におくる。《同義語》⇒饋。「秦伯又餼之粟=秦伯又これに粟を餼る」〔春秋左氏伝・僖一五〕
- {名詞}からのついたままの穀物。玄米。
- {名詞}生きたまま供えるいけにえの動物。▽殺して供えるいけにえを饔(ヨウ)という。「餼羊(キヨウ)」。
[形声]声符は氣(気)(き)。氣は食糧とする米穀の類をいい、餼の初文。〔説文〕七上に「氣は客に饋(おく)る芻米(すうまい)なり」とあり、重文として餼を録する。氣の初文は气で雲気の象。氣は芻米。氣を气の意に用いるに及んでまた餼が作られた。〔論語、八佾〕「告朔の餼羊」とは、犠牲として神に供するものをいう。
羊
(金文)
論語の本章では、”吿朔に供える生きた羊”。
論語の時代は周王朝だが、王室の祖先は中国西方で羊を飼っていたとの伝説があり、周代では羊はとりわけ好まれた。君主級の国賓を接待する料理を「牢」と言うが、それは牛・羊・豚の焼き肉セットだった。
『学研漢和大字典』によると「羊」は象形文字で、ひつじを描いたもの。おいしくて、よい姿をしたものの代表と意識され、養・善・義・美などの字に含まれる、という。詳細は論語語釈「美」・「善」を参照。
愛
(金文)
論語の本章では”惜しむ”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。『大漢和辞典』の第一義は”いつくしむ”であり、いい意味での上から目線の愛情。詳細は論語語釈「愛」を参照。
論語:解説・付記
既存の論語本では吉川本によると、当時の暦は純粋な太陰暦ではなく、閏月を入れて一年間の長さを調整した太陰太陽暦だったとし、その暦は太古の聖王堯の頃からあったと伝説に言うとある。
加えて、「魯のくにの吿朔の行事は、もと君主親臨のもとで行われていたが、孔子のまえ百年ばかりの文公(BC六二六から六〇九まで在位)のときから、君主は臨席せず、ただ形式的に餼羊を供える儀式だけが残っていた」とある。
また吿朔を年に一度年末に行われる、周王の使者が暦を配布する儀式という説もあり、それを清の考証学者が熱心に支持しているとも書く。
論語の本章は、反子貢派である曽子・孟子の系統を引き継いだ漢帝国の儒者が、子貢を貶めるために書いたでっち上げ。子貢を、礼法を無視するがめついアキンドだと言いたいわけ。論語の本章を理解するには、礼教的に解釈しても無理で、徹底的に技術論と考える必要がある。
つまり、かつて周王直属の天文台のみが観測できた天体の運行と季節の推移を、上掲『大漢和辞典』の解説通り、すでに各諸侯国で用を済ませられるようになった事実を表す。従って形骸化した羊の犠牲を子貢が廃止するのはあり得ることだが、孔子の反対には根拠が薄い。
庶民にとって天体の運行はワケが分からないのに、確実に季節の循環を示してくれる暦を、遠い周王の元から発布された過去では、なるほど羊の一匹も供えて有り難がる理由はあっただろう。その古式を孔子が惜しむ理由は、単に孔子個人の趣味に帰するしか無くなってしまう。

渾天儀
この論語八佾篇で幾度か示したように、孔子は古代人にしては合理的思考を備えた人で、居もしない神霊に仕える振りをバカバカしく思ったからには、形骸化した羊の犠牲も同様に思っただろう。孔子が復古主義者だという儒者のデタラメは、さっさと捨てないと論語が読めない。
論語時代、すでに諸侯国で独自に観測を行い、暦を作っていたことは、『春秋左氏伝』哀公十二年の条に見え、その誤りを孔子は指摘できる程度には、暦法に通じていた。儒者や私立文系バカのような、数学=合理的計算が出来ない人物に出来ることではない。
冬,十二月,螽,季孫問諸仲尼,仲尼曰,丘聞之,火伏而後蟄者畢,今火猶西流,司厤過也。
冬、十二月、螽(いなご)あり。季孫諸を仲尼に問う。仲尼曰く、丘之を聞けり、火の伏し而後、蟄者畢ぬと。今火猶お西に流るるは、司厤の過ち也。
冬十二月、暦では寒い季節のはずなのに、夏に出るイナゴの被害が起こった。筆頭家老の季康子が孔子にわけを問うた。孔子「火星が地平線に隠れてから、イナゴの害は収まるものです。今火星はまだ西の空に上がっています。これは天文官が暦を作り間違えたのです。」
論語の本章は恐らく、孔子没後に諸国の宰相を兼任した子貢が、羊のいけにえを止めさせた記録があった所に、漢代の儒者が孔子の苦言をつけ加えて、子貢を貶めたものだろう。孔子在世中に子貢が仕官した記録は無く、国家行事である告朔を、子貢がいじくれるはずもない。
対して儒者の注釈は、まるで「儒者ホイホイ」のように、いつも通り本章を徹底的に礼教的・道徳的に捉えている。それをコピペして、あたかも自分の意見のように言う吉川本はなんとも間抜けで、一層ホイホイの度を増している。
なぜかと言えば、下記古注の白文に怖じ気づいて読まず、ダイジェストの新注と『大漢和辞典』のコピペに毛の生えた程度の事を書いてお茶を濁したからだ。この程度の白文を怖がっているようでは、金輪際漢文は読めないと断言してよろしい。
古注『論語義疏』
子貢欲去告朔之餼羊註鄭𤣥曰牲生曰餼禮人君每月告朔於廟有祭謂之朝享也魯自文公始不視朔子貢見其禮廢故欲去其羊也子曰賜也汝愛其羊我愛其禮註苞氏曰羊在猶所以識其禮也羊亡禮遂廢也疏子貢欲至其禮 云子貢欲去告朔之餼羊者告朔者人君每月旦於廟告此月朔之至也禮天子每月旦居於明堂告其時帝布政讀月令之書畢又還太廟吉於大祖諸侯無明堂但告於太廟並用牲天子用牛諸侯用羊于時魯家昏亂自文公而不復告朔以至子貢之時也時君雖不告朔而其國之舊官猶進告朔之羊子貢見告朔之禮久廢而空有其羊故使除去其羊也餼者腥羊也腥牲曰餼云子曰賜也汝愛其羊我愛其禮者孔子不許子貢去羊也言子貢欲去羊之意政言既不告朔徒進羊為費故云愛羊也而我不欲去羊者君雖不告朔而後人見有告朔之羊猶識舊有告朔之禮今既已不告若又去羊則後人無後知有告朔之禮者是告朔禮都亡我今猶欲使人見羊知其有禮故云我愛其禮也 註鄭𤣥曰至羊也 云牲生曰餼者鄭注詩云牛羊豕為牲繫養者曰牢熟曰饔腥曰餼生曰牽而鄭今云牲生曰餼者當腥與生是通名也然必是腥也何以知然者猶生養則子貢何以愛乎政是殺而腥送故賜愛之也云禮人君云云者告朔之祭周禮謂為朝享也鄭注論語云諸侯用羊天子用牛與侃案魯用天子禮告朔應用牛而今用羊者天子告朔時帝事大故用牛魯不告帝故依諸侯用羊也云魯自之公始不視朔者文公是僖公之子也起文公為始而不視告於朔也始文經宣成襄昭定至哀公時子貢當於定末及哀時也然謂月旦為朔者朔者蘇也生也言前月已死此月復生也
※帝:あきらむ。
本文、「子貢欲去告朔之餼羊」。注釈、鄭玄「生きたままいけにえにするのを餼という。礼の定めでは、君主は祖先祭殿で毎月月初めを宣言する事になっており、その際に祭礼を行い、これを朝享と言った。魯では文公の代からこの祭礼に国公が出なくなった。子貢はその礼儀が廃れたのを見て、羊の犠牲を止めようとしたのだ。」
本文、「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」。注釈。苞氏「虚礼だろうと羊を供えるから、古式の由来が分かるのであって、羊を廃止すれば、古式そのものが滅びてしまう。」
付け足し。子貢は礼法を極めようとした。
「子貢欲去告朔之餼羊」とある。告朔とは、君主が毎月の始めに祖先祭殿で”今日がついたちである”と宣言することで、礼法では周王は毎月はじめに明堂(祭礼殿)に出向き、ついたちを宣言し、施政方針を発表し、その月の政令を読み上げ、終えると祖先祭殿に入り、開祖についたちを言上した。諸侯には明堂が無いから、代わりに祖先祭殿で似たようなことをやった。いけにえを捧げたのも同様で、周王は牛を供え、諸侯は羊を供えた。
この時魯の国公家は混乱しており、文公の時代からこの儀式を止めてしまった。子貢の時代になっても、当時の国公はこの儀式をしなかったが、担当部署は残っていて羊をいけにえにしていた。子貢は羊が有名無実になったのを見て、いけにえを止めさせたのである。「餼」というのは新鮮な羊肉のことで、新鮮な供え物を餼と言う。
「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」とある。孔子は子貢が羊のいけにえを止めようとしたのを許さなかったのである。子貢が止めようとした理由は、朝廷がついたちの儀式を行わないのに、羊だけいけにえにするのはもったいないと思ったからである。だから「愛羊」と言った。
それに対して、孔子自らは羊を止めるのを願わなかったのは、国公が儀式を止めてしまっても、いけにえの羊を供えることで、のちの時代の人も昔の儀式を知るからだ。今はすでに儀式は廃れ、この上羊まで止めてしまったら、のちの時代の人は二度とこの儀式を知ることが無く、ついには儀式そのものが廃れることになる。孔子は今でも、人々に羊を見せるのが望ましいと思った。儀式を知るよすがになるからだ。だから孔子は「我愛其禮也」と言った。
注釈。鄭玄「羊をきわめたのだ。生きたまま供えるのを餼という。」
付け足し。鄭注詩にこうある。「牛・羊・豚はいけにえにする。肥え太らせてからいけにえにするのを牢と言い、煮物にして供えるのを饔と言い、生肉で供えるのを餼と言い、生きたまま供えるのを牽という」と。鄭玄の注で「生きたまま供えるのを餼という」とあるのは、腥と生の音が似ているから間違ったのであり、これは絶対に生肉の間違いである。どうしてそれが分かるかと言えば、生きたまま供えて殺さないなら、子貢がどうして惜しんだりしよう。殺して肉にして供えるから、子貢はもったいないと言い出したのだ。
注釈。鄭玄「礼法によると、君主は毎月祖先祭殿でついたちの儀式を執り行う。その際に祭礼があり、これを朝享という。」
付け足し。告朔の祭は、『周礼』では朝享と言う。鄭玄が注を付けた論語に言う。「諸侯は羊を用い、天子は牛を用いる。」わたし皇侃が思うに、魯は天子の格式で儀式を行い、牛を用いたであろう。それが今や羊になったのは、天子が告朔を行うから暦が確定するのであり、事は重大だから牛を用いた。ところが魯は暦を確定しないので、諸侯の格式に戻って羊を用いるようになったのだ。
注釈。鄭玄「魯は文公の代からついたちの儀式を止めてしまった。子貢はその儀礼が廃れたのを見て、羊のいけにえを止めさせようとした。」
付け足し。文公とは僖公の子である。文公の時に、ついたちの儀式に国公が出ないようになった。文公から宣・成・襄・昭・定公と時代が下って哀公に至った。子貢が本章で廃止を言い出したのは定公の時代で、まだ哀公の代になっていなかった。
月の初めを朔と言うのは、朔は蘇ることであり、生きることだからだ。つまり前の月が死に終わって、新しい月がまた生まれたのだ。