論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子貢欲去吿朔之餼羊子曰賜也女愛其羊我愛其禮
校訂
東洋文庫蔵清家本
子貢欲去吿朔之餼羊/子曰賜也汝愛其羊我愛其禮
漢籍経
…(之?)…
定州竹簡論語
[子a去]53……
- 子去、今本作「子貢欲去」。
※定州竹簡論語では「汝」を全て「女」と記す。
標点文
子貢欲去吿朔之餼羊。子曰、「賜也汝愛其羊、我愛其禮。」
復元白文(論語時代での表記)
餼
※貢→(甲骨文)・朔→逆・愛→哀。論語の本章は、「餼」の字が論語の時代に存在しない。「去」「之」「其」「我」の用法に疑問がある。本章は後世の創作である。
書き下し
子貢吿朔之餼たる羊を去る。子曰く、賜也、汝は其の羊を愛む、我は其の禮を愛む。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子貢が月初めの祭りに供える生きた羊を取りやめた。先生が言った。「賜(子貢の名)よ、お前は羊がもったいないと言う。私は礼法がもったいないと思う。」
意訳
子貢「月初めの祭りってもう意味ないですよね。生け贄の羊も止めます。」
孔子「相変わらず勘定高いなお前は。私は古式ゆかしい祭が絶えるのが惜しい。」
従来訳
子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。――
「賜よ、お前は羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子貢想在祭祀時,省去活羊。孔子說:「子貢啊!你愛惜羊,我愛惜禮。」
子貢が祭礼に際して、生きた羊を供えるのをやめようとした。孔子が言った。「子貢よ、お前は羊を惜しむ。私は礼を惜しむ。」
論語:語釈
子貢
「子」(甲骨文)/「貢」(前漢隷書)
論語では孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。
欲(ヨク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”~しようとする”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義があり、全体で原義は”欲望する”。論語時代の置換候補は部品の「谷」。詳細は論語語釈「欲」を参照。
去(キョ)
(甲骨文)
論語の本章では”取りやめる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「大」”ひと”+「𠙵」”くち”で、甲骨文での「大」はとりわけ上長者を指す。原義はおそらく”去れ”という命令。甲骨文・春秋までの金文では”去る”の意に、戦国の金文では”除く”の意に用いた。詳細は論語語釈「去」を参照。
吿朔(コクサク)
「吿」(甲骨文)/「朔」(戦国金文)
論語の本章では、”月初めを告げる儀式”。
「吿」の初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
「朔」の初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は「索」(入)”あざなう”のみ。字形は「屰」”さかさまの”+「月」”つき”で、満月に対する朔月を示す。原義は”ついたち(の月)”。戦国の金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「朔」を参照。
春秋時代の暦法については訳者は不勉強だから、中国学工具書堤要のこちらのページを参照されたい。
「吿朔」は太陰暦の新月、周王から配布された暦を発表する祭礼。既存の論語本では吉川本に、新月を祖先に告げる祭りという。暦の作製は主権者の象徴であり、ある政治権力の配下に入るのを「正朔を奉じる」と言う。ただし当時は各諸侯国が自前で天体観測して暦を作っており、祭りの意味が無くなっていた。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
餼(キ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では、”生きた動物”。初出は秦系戦国文字。現行字体の初出は後漢の『説文解字』。戦国末期に出来た新しい言葉で、論語の時代に存在しない。同音に気(氣)、愾(なげく、いかる)。字形は「气」”いき”+「米」”穀物”で、生存を養う食物の意。初出の字形は「氣」だが、これは「気」”いき”の初文ではなく、「餼」の初文。「気」の初文は「气」で、初出は甲骨文。詳細は論語語釈「餼」を参照。
羊(ヨウ/ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”吿朔に供える生きた羊”。初出は甲骨文。字形はヒツジの頭の象形。原義は”ひつじ”。”ひつじ”の意味では「ヨウ」と読み、「祥」”よい”の意味では「ショウ」と読む。甲骨文では原義・人名に用い、金文では原義のほか人名に、地名に用いた。詳細は論語語釈「羊」を参照。
論語の時代は周王朝だが、王室の祖先は中国西方で羊を飼っていたとの伝説があり、周代では羊はとりわけ好まれた。君主級の国賓を接待する料理を「牢」と言うが、それは牛・羊・豚の焼き肉セットだった。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
賜(シ)
(金文)
論語の本章では、端木賜子貢の本名。姓は端木。
「賜」の初出は西周早期の金文だが、字形は「易」。現行字体の初出は西周末期の金文。字形は「貝」+「鳥」で、「貝」は宝物、「鳥」は「易」の変形。「易」は甲骨文から、”あたえる”を意味した。詳細は論語語釈「易」を参照。「賜」は戦国早期の金文では人名に用い(越王者旨於賜鐘)、越王家の姓氏名だったという。詳細は論語語釈「賜」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで、呼びかけの意に用いている。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
女(ジョ)→汝(ジョ)
論語の本章では”お前”。唐石経では「女」と記し、定州竹簡論語ではこの部分を欠くが通常「女」と記す。清家本は「汝」と記す。物証的に一文古い清家本に従って校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「女」(甲骨文)
「女」の初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義に用いた。ほか、”母”、「母」”~でない”、「悔」”くやむ”の意に用いた。西周の金文で「如」”ゆく”の意、また二人称に、春秋も金文で「如」”…のようなさま”の意に、戦国の金文で「如」”~のようだ”の意に用いた。唐石経では、もれなく汝を女と書いている。詳細は論語語釈「女」を参照。
(甲骨文)
「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義は氏族名だったと思われる。上古の時代、「女」「汝」はほぼ区別されず使われたが、「汝」はなぜか金文では見られない。再出は戦国の竹簡になる。金文では二人称では「女」を用い、「汝」は地名や川の名に用いられた。詳細は論語語釈「汝」を参照。
宮内庁蔵論語注疏、早大蔵新注では「爾」となっているが、おおむね唐石経を踏襲している宋儒が、ここだけ従わず書き換えた理由は明らかでない。南北の宋皇帝に、いみ名に「女」「汝」を持つ者はいない。
(甲骨文)
「爾」の初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
愛(アイ)
「愛」(金文)/「哀」(金文)
論語の本章では”惜しむ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は戦国末期の金文。一説には戦国初期と言うが、それでも論語の時代に存在しない。同音字は、全て愛を部品としており、戦国時代までしか遡れない。
「愛」は爪”つめ”+冖”帽子”+心”こころ”+夂”遅れる”に分解できるが、いずれの部品も”おしむ・あいする”を意味しない。孔子と入れ替わるように春秋時代末期を生きた墨子は、「兼愛非行」を説いたとされるが、「愛」の字はものすごく新奇で珍妙な言葉だったはず。
ただし同訓近音に「哀」があり、西周初期の金文から存在し、回り道ながら、上古音で音通する。論語の時代までに、「哀」には”かなしい”・”愛する”の意があった。詳細は論語語釈「愛」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(は)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字史的に無理すれば論語の時代まで遡りうるが、「餼→氣」の置換はかなり危うい。「氣」の初出は戦国時代で、「气」は甲骨文からあるものの、”終わる”の意である可能性が高く、春秋末期以前に”生きる”の意である用例は「そう読めなくも無い」程度。
定州竹簡論語はあるものの、「子貢去」しかなく、本当に本章の簡だったのか、現物が破壊された今となっては確かめようが無い。従って本章の史実性は、極めて如何わしいとするしかない。
さらに論語の本章の史実性を検討するには、「告朔」なる儀式が果たしてあったかどうかを知る必要がある。月初めを告げる儀式が春秋諸国にあったと想像するのはたやすいが、それが「周王から頒布されたこよみを受け取る儀式」とまでは言えない。
「告朔」は『春秋左氏伝』文公六年・同『穀梁伝』文公六年・文公十六年・同『公羊伝』文公六年に見えるが、「天子告朔於諸侯,諸侯受乎檷廟,禮也。」と周王の主催であることを記しているのは『穀梁伝』文公十六年だけであり、他の二伝になぜ漏れたのか疑問がある。
なお『春秋左氏伝』の元ネタと言われる『国語』には、「告朔」の語が見えない。
解説
「告朔」を周王主催のそれとして儒家が記したのは後漢以降の時代まで下る。
古注『論語集解義疏』
子貢欲去告朔之餼羊註鄭𤣥曰牲生曰餼禮人君每月告朔於廟有祭謂之朝享也魯自文公始不視朔子貢見其禮廢故欲去其羊也子曰賜也汝愛其羊我愛其禮註苞氏曰羊在猶所以識其禮也羊亡禮遂廢也疏子貢欲至其禮 云子貢欲去告朔之餼羊者告朔者人君每月旦於廟告此月朔之至也禮天子每月旦居於明堂告其時帝布政讀月令之書畢又還太廟吉於大祖諸侯無明堂但告於太廟並用牲天子用牛諸侯用羊于時魯家昏亂自文公而不復告朔以至子貢之時也時君雖不告朔而其國之舊官猶進告朔之羊子貢見告朔之禮久廢而空有其羊故使除去其羊也餼者腥羊也腥牲曰餼云子曰賜也汝愛其羊我愛其禮者孔子不許子貢去羊也言子貢欲去羊之意政言既不告朔徒進羊為費故云愛羊也而我不欲去羊者君雖不告朔而後人見有告朔之羊猶識舊有告朔之禮今既已不告若又去羊則後人無後知有告朔之禮者是告朔禮都亡我今猶欲使人見羊知其有禮故云我愛其禮也 註鄭𤣥曰至羊也 云牲生曰餼者鄭注詩云牛羊豕為牲繫養者曰牢熟曰饔腥曰餼生曰牽而鄭今云牲生曰餼者當腥與生是通名也然必是腥也何以知然者猶生養則子貢何以愛乎政是殺而腥送故賜愛之也云禮人君云云者告朔之祭周禮謂為朝享也鄭注論語云諸侯用羊天子用牛與侃案魯用天子禮告朔應用牛而今用羊者天子告朔時帝事大故用牛魯不告帝故依諸侯用羊也云魯自之公始不視朔者文公是僖公之子也起文公為始而不視告於朔也始文經宣成襄昭定至哀公時子貢當於定末及哀時也然謂月旦為朔者朔者蘇也生也言前月已死此月復生也
※帝:あきらむ。
本文、「子貢欲去告朔之餼羊」。注釈、鄭玄「生きたままいけにえにするのを餼という。礼の定めでは、君主は祖先祭殿で毎月月初めを宣言する事になっており、その際に祭礼を行い、これを朝享と言った。魯では文公の代からこの祭礼に国公が出なくなった。子貢はその礼儀が廃れたのを見て、羊の犠牲を止めようとしたのだ。」
本文、「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」。注釈。苞氏「虚礼だろうと羊を供えるから、古式の由来が分かるのであって、羊を廃止すれば、古式そのものが滅びてしまう。」
付け足し。子貢は礼法を極めようとした。
「子貢欲去告朔之餼羊」とある。告朔とは、君主が毎月の始めに祖先祭殿で”今日がついたちである”と宣言することで、礼法では周王は毎月はじめに明堂(祭礼殿)に出向き、ついたちを宣言し、施政方針を発表し、その月の政令を読み上げ、終えると祖先祭殿に入り、開祖についたちを言上した。諸侯には明堂が無いから、代わりに祖先祭殿で似たようなことをやった。いけにえを捧げたのも同様で、周王は牛を供え、諸侯は羊を供えた。
この時魯の国公家は混乱しており、文公の時代からこの儀式を止めてしまった。子貢の時代になっても、当時の国公はこの儀式をしなかったが、担当部署は残っていて羊をいけにえにしていた。子貢は羊が有名無実になったのを見て、いけにえを止めさせたのである。「餼」というのは新鮮な羊肉のことで、新鮮な供え物を餼と言う。
「子曰賜也汝愛其羊我愛其禮」とある。孔子は子貢が羊のいけにえを止めようとしたのを許さなかったのである。子貢が止めようとした理由は、朝廷がついたちの儀式を行わないのに、羊だけいけにえにするのはもったいないと思ったからである。だから「愛羊」と言った。
それに対して、孔子自らは羊を止めるのを願わなかったのは、国公が儀式を止めてしまっても、いけにえの羊を供えることで、のちの時代の人も昔の儀式を知るからだ。今はすでに儀式は廃れ、この上羊まで止めてしまったら、のちの時代の人は二度とこの儀式を知ることが無く、ついには儀式そのものが廃れることになる。孔子は今でも、人々に羊を見せるのが望ましいと思った。儀式を知るよすがになるからだ。だから孔子は「我愛其禮也」と言った。
注釈。鄭玄「羊をきわめたのだ。生きたまま供えるのを餼という。」
付け足し。鄭注詩にこうある。「牛・羊・豚はいけにえにする。肥え太らせてからいけにえにするのを牢と言い、煮物にして供えるのを饔と言い、生肉で供えるのを餼と言い、生きたまま供えるのを牽という」と。鄭玄の注で「生きたまま供えるのを餼という」とあるのは、腥と生の音が似ているから間違ったのであり、これは絶対に生肉の間違いである。どうしてそれが分かるかと言えば、生きたまま供えて殺さないなら、子貢がどうして惜しんだりしよう。殺して肉にして供えるから、子貢はもったいないと言い出したのだ。
注釈。鄭玄「礼法によると、君主は毎月祖先祭殿でついたちの儀式を執り行う。その際に祭礼があり、これを朝享という。」
付け足し。告朔の祭は、『周礼』では朝享と言う。鄭玄が注を付けた論語に言う。「諸侯は羊を用い、天子は牛を用いる。」わたし皇侃が思うに、魯は天子の格式で儀式を行い、牛を用いたであろう。それが今や羊になったのは、天子が告朔を行うから暦が確定するのであり、事は重大だから牛を用いた。ところが魯は暦を確定しないので、諸侯の格式に戻って羊を用いるようになったのだ。
注釈。鄭玄「魯は文公の代からついたちの儀式を止めてしまった。子貢はその儀礼が廃れたのを見て、羊のいけにえを止めさせようとした。」
付け足し。文公とは僖公の子である。文公の時に、ついたちの儀式に国公が出ないようになった。文公から宣・成・襄・昭・定公と時代が下って哀公に至った。子貢が本章で廃止を言い出したのは定公の時代で、まだ哀公の代になっていなかった。
月の初めを朔と言うのは、朔は蘇ることであり、生きることだからだ。つまり前の月が死に終わって、新しい月がまた生まれたのだ。
そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
古注より前、前漢の『史記』では次の通り記す。
幽、厲之後,周室微,陪臣執政,史不記時,君不告朔,故疇人子弟分散,或在諸夏,或在夷狄,是以其禨祥廢而不統。
周の幽王(位BC781-BC771)・厲王(位BC877-BC841)以降、周の王権は衰え、家臣の家臣が執権となり、年代記は記事を記すのを止め、王は告朔=月初めを告知するのを止めた。だから天文学者の弟子は食えなくなって各地へ散り、ある者は中華諸国に雇われ、ある者は蛮族に雇われた。その結果、吉日凶日の区別がでたらめになって、国ごとに異なる事になった。(『史記』歴書7)
これには『春秋左氏伝』の裏付けがあり、孔子の生前、魯国は自前で暦を作っていたことが知れる。
冬,十二月,螽,季孫問諸仲尼,仲尼曰,丘聞之,火伏而後蟄者畢,今火猶西流,司厤過也。
哀公十二年(BC483)冬十二月、暦では寒い季節のはずなのに、夏に出るイナゴの被害が起こった。筆頭家老の季康子が孔子にわけを問うた。
孔子「火星が地平線に隠れてから、イナゴの害は収まるものです。今火星はまだ西の空に上がっています。これは天文官が暦を作り間違えたのです。」(『春秋左氏伝』哀公十二)
従って、孔子の生前、それも弟子の子貢が国政に口を出せるようになった晩年、魯国がありがたそうに周王の暦を受け取る儀式をしていたとは考えづらい。仮に儀式はあったにせよ、それは魯国が暦を発布して月初めを宣言する儀式であり、周王うんぬんは儒者の作文に過ぎない。
余話
革命家孔子
儒者や従来の通説では、孔子の政治思想が、国公や周王の権威と権力を復活させることにあった、と言う。しかい私立巫女の私生児という、社会の底辺に生まれながら、宰相格に上った孔子は復古主義者でありえるわけがなく、その実は革命家にほかならない。
孔子はおそらく抽象的な政治思想を持たず、政治に対して望んだのは、為政者にふさわしい技能と教養を身につけた人物が、ふさわしい官職を得ることにあった。初の亡命先である衛国で、現代換算で111億円もの年俸を貰いながら、政府乗っ取りを謀ったのはそれゆえだ。
当時の衛国は人材豊富で、反乱を繰り返す、面倒くさい住民がいるまちを子路に押し付けた以外は、弟子を誰も雇わなかったからだ(論語憲問篇20)。『史記』はその顛末をお上品にしてしまったが、実は滞在先におまわりがうろつき始めたので、孔子は脱兎の如く逃げ出した。
子路治蒲,見於孔子曰:「由願受教於夫子。」子曰:「蒲其何如?」對曰:「邑多壯士,又難治也。」
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)
詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。論語の本章の再出は、その後漢の王充による『論衡』が初で、定州竹簡論語はあまりの簡の欠けようから、果たして本章を記したものかどうか怪しまれる。現物はすでに紅衛兵が粉々にしてしまったから、事実は誰にも確かめようがない。
子貢去告朔之餼羊,孔子曰:「賜也!爾愛其羊,我愛其禮。」子貢惡費羊,孔子重廢禮也。故以舊防為無益而去之,必有水災;以舊禮為無補而去之,必有亂患。儒者之在世,禮義之舊防也,有之無益,無之有損。庠序之設,自古有之,重本尊始,故立官置吏。官不可廢,道不可棄。儒生、道官之吏也,以為無益而廢之,是棄道也。夫道無成效於人,成效者須道而成。然足蹈路而行,所蹈之路,須不蹈者;身須手足而動,待不動者。故事或無益,而益者須之;無效,而效者待之。儒生、耕戰所須待也,棄而不存,如何也?
子貢が告朔の餼羊を廃止すると、孔子は「子貢よ…。」と言った。子貢は羊の出費を嫌い、孔子は儀式が廃れるのを重大とみた。なぜかと言えば、古くさい掟に意味が無いからといって止めると、必ず洪水に遭うからだ。古くさい掟が役に立たないからと言って止めると、必ず反乱が起きるからだ。
儒者がこの世で存在意義があるのは、礼儀作法が古くさい掟だからだ。そんな掟は有っても儲からないし、無しでも済む。学校のたぐいは昔から有るが、教説の始まりを重んじ尊ぶよう教えるのは、養成するのが役人だからだ。役人無しでは帝国は成り立たず、儒教に基づいた政道は捨てるわけに行かない。
儒者は上下の役人を教えるのだが、役立たずだからと言って儒者をクビにするのは、儒教に基づいた政道を捨てる事になる。この政道が無ければ人の世に業績は存在せず、業績とは必ず儒教の政道によって達成される。だがこの政道に従っているつもりでも、必ず従いきれない事柄がある。手足を思うように動かすつもりでいて、その実思い通りには動かないのと同じだ。
だから無益に見える物事でも、利益を挙げるには必須の条件だし、効果が無いように見えて、実はいずれ効果を現すのだ。儒者とはそのような者たちであり、直に世の中に存在意義を見せる農民や兵士は、どうやっても儒者無しではやっていけない。もし儒者を世から追い払えば、一体どういうことになるのだろう。(『論衡』非韓3)
訳していて、あまりの身勝手に頭がクラクラしてきた。これが後漢儒というものだ。
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