論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰事君盡禮人以爲諂也
校訂
諸本
- 宮内庁蔵論語注疏:文末に「也」字あり。
東洋文庫蔵清家本
子曰事君盡禮人以爲諂
※京大本、宮内庁本も文末の「也」字なし。
後漢熹平石経
…(禮?)…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「事君盡禮、人以爲諂。」
復元白文(論語時代での表記)
諂
※論語の本章は、「諂」が論語の時代に存在しない。「也」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、君に事ふるに禮を盡さば、人以て諂ひと爲す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「主君に仕えるに当たって礼儀を尽くすと、人はそれをへつらいだと言う。」
意訳
ワシが古式ゆかしくお作法通りにご主君に仕え申し上げると、有象無象どもは「ゴマスリだ」とおとしめるのであるぞよ。
従来訳
先師がいわれた。――
「君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然るに世間ではそれをへつらいだという。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「對領導盡禮,人們認為是諂媚。」
孔子が言った。「権力者に礼を尽くすと、人々は媚びへつらいだと思う。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では主君に”仕える”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
君(クン)
(甲骨文)
論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
盡(シン)
(甲骨文)
論語の本章では、”つくす”。新字体は「尽」。「ジン」は呉音。上掲の金文は戦国末期のものだが、甲骨文から存在する。字形は「又」”手”+たわし+「皿」”食器”で、食べ尽くした後食器を洗うさま。原義は”つきる”。甲骨文では人名に用い、戦国の金文では原義に用い、また”ことごとく”を意味した。詳細は論語語釈「尽」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”礼儀作法”。本章は「諂」字の春秋時代における不在から、後世の創作とみるべきで、「礼」を”礼儀作法”に限定して解するのが妥当。孔子生前の「礼」はもっと幅広く、貴族に必須の一般常識を指した。詳細は論語における「礼」を参照。
「禮」の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”(…であると)する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
諂(テン)
(隷書)/「臽」(金文)
論語の本章では、こびへつらいのうち、”相手を落とし穴にはめるようなへつらい”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。同音は存在しない。字形は「言」+「臽」”落とし入れる”で、言葉で人を落とし入れること。詳細は論語語釈「諂」を参照。
也(ヤ)→×
唐石経は本「也」字を文末に記し、清家本は記さない。唐石経は晩唐の初期に、唐朝廷が儒教経典の定本を定めるために建立した。日本にはそれ以前に、古注系統の論語が伝承していた。
唐石経が刻まれる前、文字列に異同のあるさまざまな論語が中国には広まっていたとみられる。しかし唐朝廷は統一の都合から、それらの内一つだけを選ぶか、あるいは文字列を改変して刻石した(論語郷党篇19など)。中国ではその後、唐石経の文字列が伝承された。
従って清家本は年代的には唐石経や論語注疏、新注より新しいのだが、唐朝廷による改変が加わる前の論語を伝えていると見てよい。論語の本章ではこの観点に基づき、文末の「也」字は無いものとして校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。「かな」と読んで詠歎に解すれば、論語の時代の用法と言えるが、本章には論語の時代に存在しない「諂」字があることから、そう解する必要は無い。
初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「事君盡禮」は、孔子より一世代上の斉の宰相、晏嬰(尊称されて晏子)の言行録に記されている以外、先秦両漢の誰も引用していない。「人以為諂(也)」は皆無。論語の本章の再出は事実上、後漢末から南北朝にかけて成立した古注『論語集解義疏』になる。
叔向問晏子曰:「正士之義,邪人之行,何如?」晏子對曰:「正士處勢臨眾不阿私,行于國足養而不忘故;通則事上,使卹其下,窮則教下,使順其上;事君盡禮行忠,不正爵祿,不用則去而不議。其交友也,論身義行,不為苟戚,不同則疏而不悱;不毀進于君,不以刻民尊於國。故用于上則民安,行于下則君尊;故得眾上不疑其身,用于君不悖于行。是以進不喪亡,退不危身,此正士之行也。
晋の叔向が晏子に問うた。「正しい貴族の行動原則と、邪悪な者の行いとは、どのようなものですか。」
晏子「正しい貴族は権力を握ったら、誰に対しても公平で、国家の繁栄に貢献し、古いなじみの恩を忘れません。法に通じて主君に仕え、下の者の憐れみの心を励まし、危急の時には下の者に事情をよく説明し、上の者を従わせます。主君に仕えるには礼を尽くして忠義を貫き、朝臣の身分や俸給を変えませんが、役に立たない者は罷免してその是非を誰かに問いません。友との交わりは、自分を振り返って行動を正しくし、むやみにベタベタせず、意見が違えば口を閉ざして怒らず、正しいと思えば余計な事を言わずに主君に採用を勧め、民をいじめず国を尊びます。だから高い地位に就けば民が安心し、低い地位に就けば主君が目をかけます。だから人気が集まっても主君の疑いを受けず、主君に用いられても悪事を働きません。だから出世はしてもクビにならず、辞任しても復讐にやって来る者がない。これが正しい貴族の行いです。」(『晏子春秋』叔向問正士邪人之行如何晏子對以使下順逆)
ところが同じ晏嬰が、『史記』では孔子の「盡禮」を批判する者として出る。
どちらが本当なのか。あるいは孔子と晏嬰とで「盡禮」の解釈が違うと言えばそれまでだが、何らかの事実を伝えると考えていいだろう。ただし司馬遷は読書家で地方の古老に取材して回ったが、資料がニセで古老が一杯機嫌でデタラメを語っていない証拠は無い。
また漢字で”へつらう”を意味する字には『大漢和辞典』によると以下があり、「壬」などは甲骨文の昔からあるから、論語の本章を含め『晏子春秋』のこの部分も当時から有ったと言い張れなくはないが、無理があるのは認めざるを得ない。
また論語の本章は、定州竹簡論語に存在しない。無いものは無い。古注では、前漢の孔安国が注を付けているが、この男は高祖劉邦の名を避諱しないなど、実在が疑わしい。
註孔安國曰時事君者多無禮故以有禮者為諂也
注釈。孔安国「当時宮仕えをする者には、無礼な者が多かった。だからたまに礼を尽くした者が出ると、”へつらいだ”と悪口を言ったのである。(『論語集解義疏』)
古代人だろうと、「どこが注釈なのか、どうでもいい話ではないか、そもそも本当に見てきたのかお前」と思っただろう。こういう無意味なウンチクには、ふざけた後漢の風味がする。定州本に無いことからも、本章はおそらく後漢儒によるでっち上げだろう。詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
解説
歌舞伎「忠臣蔵」では、塩冶判官が勅使を「式台の上で待つべきか、下で待つべきか」を指導すべき高師直が、イジワルして教えなかったので「刃傷松の廊下」になったことになっている。儒教も礼儀作法はもっとうるさく、「礼儀三百、威儀三千」(『中庸』)と言われる程だった。
だがそんな煩瑣な作法が孔子の生前にあったかどうか、極めて疑わしい。司馬遷は周代の礼儀作法について、綺麗さっぱり失伝したと書いている。
仲尼沒後,受業之徒沈湮而不舉,或適齊、楚,或入河海,豈不痛哉!至秦有天下,悉內六國禮儀,采擇其善,雖不合聖制,其尊君抑臣,朝廷濟濟,依古以來。至于高祖,光有四海,叔孫通頗有所增益減損,大抵皆襲秦故。
孔子が亡くなって後、礼法を学んだ弟子はぜんぜん出世出来ず、あるいは田舎に引き籠もり、あるいは川や海に身投げした。哀れなことである。秦が天下を統一すると、旧六国の礼儀作法を参照し、気に入ったものだけを残して採用した。もちろんいにしえの聖王が定めた礼法とはそぐわない。それでも皇帝を偉そうに演出して家臣が這いつくばり、朝廷にぞろぞろと並んだ景色は、昔に倣ってそのままとした。漢の高祖が即位し天下を取ると、儒者の叔孫通が秦の礼法をいじくって採用したが、だいたいは秦のままだった。(『史記』礼書)
「だいたいは秦のままだった」とは言うが、「礼法が面倒くさいから簡単にしろ」と高祖劉邦が命じたのも『史記』は記しており、「威儀三千」などではなかったことを証している。
高帝悉去秦苛儀法,為簡易。群臣飲酒爭功,醉或妄呼,拔劍擊柱,高帝患之。叔孫通知上益厭之也,說上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願徵魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」高帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮。禮者,因時世人情為之節文者也…。」上曰:「可試為之,令易知,度吾所能行為之。」
高祖劉邦が天下を取ると、秦の面倒な礼法は全部廃止して簡単にした。それをいい事に家臣どもが宮殿で酒を飲んでは功績を誇り合い、大声でわめくは、抜剣して柱に斬り付けるはの騒ぎとなった。高祖が「何とかしてくれ」と言い出し、叔孫通はその弱みに付け込んで言上した。
叔孫通「儒者は天下取りには向きませんが、取った天下を守るのには長けております。さいわいにも弟子に礼法に詳しい者がおりますから、殿中の作法を決めましょう。」
高祖「そうすりゃあの連中がおとなしくなるのかのう?」
叔孫通「もちろんでございます。そもそも礼法は、時代によって簡単にして良いものでして…。」
高祖「じゃあ試しにやってみるか。ただしな、ごく簡単に、ワシにもできるようなのにしてくれい。」(『史記』叔孫通伝)
もとまちヤクザだった高祖劉邦にも分かる程度の礼法では、高師直役を務める儒者にとって収賄の機会が減って困る。というわけで頭がお花畑に出来ている武帝(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照)が即位すると、儒者は繁雑な礼法を定めるよう武帝をけしかけた。ところが。
今上即位,招致儒術之士,令共定儀,十餘年不就。
武帝が「礼法制定審議会」に集めた儒者どもは、それぞれが勝手な説を言い張って譲らないので、十年過ぎても答申が出せなかった。(『史記』礼書)
結局大小の『礼記』など儒教の礼法は、前漢だけでは編み終わらず後漢までかかった。それでやっと「威儀三千」がそろったのだが、それをへつらいに見えるまでやれと他人に説教する動機は儒者にはあったが、孔子がそのようなバカバカしい作法を行い教えた物証は何一つ無い。
そもそも上掲語釈に記した通り、孔子生前の「礼」とは”貴族の一般常識”を意味し、礼儀作法に限られなかった。それは従軍義務のある春秋の君子にとって、戦場で武器が我が身に迫った際、とっさに身を引くか踏み込むかの判断をさせる”常識”であり、内政外交の場で、とっさに反対意見を封じる言葉を言うための”常識”だった。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立(小式部内侍『百人一首』60)
戦場に行かないどころか、女たらしだけが能に成り下がった日本のおじゃる公家も、中納言定頼のイジワルにとっさに歌い返した小式部内侍の当意即妙を賞賛したが、春秋の君子も『詩経』など古歌を巧みに引用した。それは孔子生前の「礼」の半分を、あるいは表しているかも知れない。
つまり、本を読むだけの「お勉強」だけではどうにも身に付かないもので、長年体を張って稽古し、場数を踏む必要のあるものだった。たかが後漢儒に賄賂を渡し、式台の下に這いつくばれば済むものではない。詳細は論語における「礼」を参照。
余話
空気を読む儒者
孔子と礼儀作法とへつらいとは、明代の笑い話集『笑府』がネタにしている。
兩道學先生議論不合。各自詫眞道學。而互詆為假。久之不决。乃共請正于孔子。孔子下階。鞠躬致敬而言曰。吾道甚大。何必相同。二位老先生皆眞正道學。丘素所欣仰。豈有偽哉。兩人各大喜而退。弟子曰。夫子何䛕之甚也。孔子曰。此軰人哄得他去勾了。惹他甚麼。
二人の道学先生(儒者)が議論になり、全然意見が合わず、互いに自分を正しいと言い張り、相手をニセモノだと罵倒した。ずいぶん長くそうやってケンカしていたが、とうとう「では孔子先生に裁決を願おう」ということになった。
そこで先生の所へ出掛けていくと、先生は教壇から転げ落ちるようにして下り、二人の儒者に拝礼して言った。「私の説いた道はまことに幅広く、全く矛盾が無いわけではありません。先生方お二人のご説は両方とも、まことにごもっともで、私がかねてよりそうありたいと願う所、ウソかまことかの判断は、とうてい私ごときの及ぶ所ではございません。」二人の儒者は大喜びして帰って行った。
見送った孔子先生の弟子が呆れて、「先生の媚びへつらいも大変なものでございますね」と言うと、先生曰く、「こういう連中はだまくらかして追い払ってしまうしかないのじゃ。間違いを教えてやってどうなろうぞ。」(『笑府』巻二・問孔子)
「道学」の語は漢代の昔から有るが、宋の新儒教以降は、宇宙物理学を含んだ宋学そのものを言う。「道とは何かを明らかにする学問」の意だが、宋学には数理的裏付けが全くなく、若干の天体観測を除けば、観測や実験の裏付けも無い。要するに頭で考えたオカルトだった。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
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