論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
祭如在祭神如神在子曰吾不與祭如不祭
校訂
東洋文庫蔵清家本
祭如在/祭神如神在/子曰吾不與祭如不祭
※「神」字の〔礻〕は京大本、宮内庁本も同。
後漢熹平石経
…如神在…
定州竹簡論語
……如在,祭a如[在]。46子曰:「吾不與祭,如不祭。」47
- 、今本作「神」。即神字、『説文』云、「、神也。」段注「即神字。」
※四部叢刊初編『説文解字』「䰠:神也。从鬼申聲。」段注「䰠、即神字。許意非一字也。」『玉篇』「䰠、山神也。」
標点文
祭如在、祭神如神在。子曰、「吾不與。祭如不祭。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「如」の用法に疑問がある。
書き下し
祭りは在すが如くし、神を祭らば神在すが如くせり。子曰く、吾與ら不。祭りて祭ら不るが如ければなり。
論語:現代日本語訳
逐語訳
供え物をする祭礼は対象が(目の前に)実在するように行った。神を祭る場合は神が実在するように行った。先生が言った。「私は関わらない。祭っても祭らないのと同じだからだ。」
意訳
お供えの時には、祖先や神様が、目の前におわすと思ってお供えするのが常識だった。それを見た先生が言った。
「ワシはやらん。バカげとる。誰もおりゃあせんぞ。」
従来訳
先師は、祖先を祭る時には、祖先をまのあたりに見るような、また、神を祭る時には、神をまのあたりに見るようなご様子で祭られた。そしていつもいわれた。――
「私は自分みずから祭を行わないと、祭ったという気がしない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
祭祖如祖在,祭神如神在。孔子說:「自己不去祭,如同不祭。」
祖先を祀るときには祖先がいるかのように取り行う。神を祀るときには神がいるかのように取り行う。孔子が言った。「私は祭礼には行かない。祀らないのと同じだからだ。」
論語:語釈
祭(サイ)
(金文)
論語の本章では”霊魂へ供え物を捧げる儀式”。「チンチンドコドン」の”お祭り”ではない。祈願にせよ定期的な供養にせよ、中国の霊魂は供え物という具体的なブツがないと言うことを聞かないと思われていたし、不足を感じれば祟ったりした。字形は〔示〕”祭壇”の上に〔月〕”供え物の肉”を〔又〕”手”で載せるさま。「サイ」は呉音。甲骨文から春秋末期の金文まで、一貫して”祖先の祭祀”の意に用いた。中国では祖先へのお供え物として生肉などが好まれた。そのような祖先への供物を「血食」という。詳細は論語語釈「祭」を参照。
如(ジョ)
甲骨文
論語の本章では”~のようにする”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”存在する”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
神(シン)
唐石経は「神」と記し、清家本は「神」と記し、定州竹簡論語は「」と記す。「」字は『大漢和辞典』にも無く、偏と旁が入れ替わった「䰠」は『説文解字』から見られ「神也」とする。似た字形の字に「𩲣」音「カフ/ケフ」訓「かくれてゐる鬼」があるが初出不明。結局「」は定州竹簡論語に特有の「䰠」の異体字と解するほかない。
また伝承上唐石経は清家本や漢石経で校訂すべきだが、「神」は正字とされ「神」は新字体とされる上に、語義の変更を伴わないから、唐石経に従い「神」のままとした。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では、あらゆる神や超自然的存在。新字体は「神」。初出は西周早期の金文。新字体は「神」だが、台湾・大陸ではこちらが正字として扱われている。字形は「示」”位牌”・”祭壇”+「申」”稲妻”。「申」のみでも「神」を示した。
「申」の初出は甲骨文。「申」は甲骨文では”稲妻”・十干の一つとして用いられ、金文から”神”を意味し、しめすへんを伴うようになった。
「神」は金文では”神”、”先祖”の意に用いた。詳細は論語語釈「神」を参照。
天の最高神を「帝」というが、唯一神・絶対神ではない。人間も優れていれば死後に神となるのは、日本の神と同じ。『封神演義』は、その事情をよく伝えていて、後世になればなるほど神の神聖性は薄れていき、願いを叶えねば社を壊すぞ、と『水滸伝』で脅されるに至る。
しかし論語の時代はそこまで人間が自信を付けておらず、孔子でさえも神は敬うべき存在だった。だが同時に「遠ざく」のも孔子で(論語雍也篇22)、孔子は大自然の摂理を恐れはしたが、その主宰者である神の存在をほとんど信じていなかった。古代に驚くべき合理主義である。
しかし普段は祭司として生活している「小人の儒」(論語雍也篇13)にとっては、神は一般人にとって恐ろしく有り難くないと、生活に差し支える存在でもあった。神への口利きが商売だったからである。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。論語語釈「我」も参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では、”味方する”の派生義”関わる”。新字体は「与」。論語の本章では、”~と”。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章も前章と同様、誰にも孔子の意図を理解できなかったからか、春秋戦国の誰も引用していない。再出はいわゆる儒教の国教化を進めた、前漢の董仲舒の手に成る。定州竹簡論語にあるのもそれゆえだが、「如」の用法に疑問があるほかは文字史的に論語の時代の文章と言ってよく、史実と判断して構わない。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
解説
その董仲舒は何と言ったか。
孔子曰:「吾不與祭,如不祭。祭神如神在。」重祭事,如事生。故聖人於鬼神也,畏之而不敢欺也,信之而不獨任,事之而不專恃。
孔子先生は言った。「私は祭を取り仕切っても、正しく祭れたと思ったことが無い。だから神を祭るときには、神がおわすと思って祭る。」このように祭祀を重んじ、生きた人に仕えるように行った。だから聖人は亡霊や神霊に対して、おそれ敬ってあざむかず、存在を信じて放置せず、奉仕して当てにしない。(『春秋繁露』祭義)
この解釈は現在の通説同様、全くの誤りだが、董仲舒ごときに孔子の理性が分からないのは当然で、董仲舒の理解が低いと言うより、孔子の思考が高すぎた。この誤読が当時定着したことは、漢帝国の金欠記録でも、同様に誤読していたことから明らかになる。
…并為百七十六。又園中各有寢、便殿。日祭於寢,月祭於廟,時祭於便殿。寢,日四上食;廟,歲二十五祠;便殿,歲四祠。又月一游衣冠。…凡三十所。一歲祠,上食二萬四千四百五十五,用衛士四萬五千一百二十九人,祝宰樂人萬二千一百四十七人,養犧牲卒不在數中。
(漢帝国は代々の皇帝の御霊屋を、首都長安と地方に次々と建てた挙げ句、)その数は176箇所に増えた。広大な敷地に寝殿・居殿を建て、毎日寝殿の前で祝詞を上げ、毎月霊廟の前でも祝詞を上げ、日に4度寝殿に食事を捧げた。さらに霊廟では年に25回ちんちんドンドンをやり、居殿では4回やった。衣冠は毎月新品に取り替えた。…(加えて皇帝に加えて皇后の廟が)全てで30箇所あった。そんなわけで一年当たりの費用総額は、捧げる食事に24,455石(≒758t)の穀物、さらに警備員45,129人、神主12,147人分の人件費で、この中には犠牲獣の飼育員は含まれていない。(『漢書』韋賢伝)
湯水の如き税の浪費に耐えきれなくなった御史大夫(宰相)の貢禹が、古い廟の廃止を進言し、時の元帝も賛成したが、職や利権が絡むだけに、神主やらの猛反対にあって頓挫した。貢禹は半年もしないうちに死んだが(たぶん暗殺)、腹をくくった元帝が勅令を出し、廃止を迫った。
久遵而不定,令疏遠卑賤共承尊祀,殆非皇天祖宗之意,朕甚懼焉。傳不云乎?『吾不與祭,如不祭。』
血統の遠近にけじめを付けず、ダラダラただ祭っているだけでは、天や祖先の意志に反するのではないかと、ワシは怯えて暮らしておる。言い伝えにあるではないか。「私は祭を取り仕切っても、正しく祭れたと思ったことが無い」と。(『漢書』同)
元帝と言えば、儒者=文系おたくを政治に関わらせるなと父の宣帝に怒鳴られ、物語では王昭君を手放す間抜けとして知られる暗君だが、カネの話になるとまるで違う。中華皇帝は暗君が通例だが、カネのためなら誰より合理的で、しかも意志強固の英邁な人物に変身した。
勇者一行が魔王討伐の旅に出るというのに、銅貨10枚しかやらないのが王様というもので、討ち果たして凱旋しても、宴会を一度開いておしまい。晋の恵帝はそのあたりのネジがおかしかったから、有りがたそうなおくり名が付けられた。普通の中華皇帝なら、こうはいうかない。
漢の皇帝廟でちんちんドンドンを取り仕切ったのはもちろん儒家の神主で、元帝は官界での儒家の優位を確定させた皇帝だが、儒家の既得権益を認めるつもりはまるで無かった。「改革!」を叫ぶ政治家は、必ずしも民に対する善意を動機にそう叫ぶわけではないのである。
親子も国も叩き売るのが人間で、政治の世界ならなおさらだ。上掲の廃止を進言した貢禹も、自分のカネになると話が別で、「我が家は貧乏ですからカネを下さい」と元帝に直談判している(『漢書』貢禹伝)。口で偉そうな事を言う儒者も、世の中全てカネである原則を外れない。
神がいるような振りをするのも、所詮は金儲けのためである。
さて前々章で検討した通り、孔子は古代人らしからぬ合理精神の持ち主で、少なくとも神が見えるような体質の人ではなかった。論語の本章が、前座と孔子の発言に別れて書かれているとおり、前座は当時の一般的な祭祀の模様を伝えており、孔子はそれを頭から否定したわけ。
『字通』によれば「祭」とは、もと祭祀そのものを言うのではなく、供え物の肉を祭壇に上せた象形で、”おそなえすること”を言う。従って本章の、「祭るにいますが如くす」というのは、”そこに先祖がいるようにして、血の滴る生肉を進めた”ということになる。
現代の都会のまん中でこれをやれば、少なくとも通報はされるだろう。だが古代中国での価値観は違い、人は死んでも魂は不滅と思っていた。だからこそ食事を出すわけだが、孔子はおそらく、死ねばそれまでと思っていた。それは最愛の弟子顔回の死に対しても同じだった。
「供養など知らん」と言ったほどなのだから(論語先進篇11)。なお孔子が「鬼神」に仕えることを重んじたと解せられる章が、論語泰伯編にありはするが、その章は明確に、後世の創作と判別でき、孔子の鬼神観を示すとは言えない。
はるかな後世、新井白石が宣教師のシドッチに、神などおらんと明確に言えたのも、儒学者ならではのことである。白石が依った理気論もまた、宋学がでっち上げた黒魔術ではあったが、開祖の孔子の合理性は、なお宋学を経た江戸時代の日本儒教の中にも宿っていた。
さてここで考えておきたいのは、孔子の回りくどい言い方についてである。「神いまさざればなり」と言わず、なぜ「祭りて祭らざるがごとければなり」と言ったのか。神などいない、と思っていたなら、素直にそれを言えば良かろうに、そのまわりを取り囲むように言った。
これは、言ってしまえば当時の人々から、袋だたきに遭ったからだろう。原文を読めないので受け売りだが、ロジャー・ベーコンもデカルトもニュートンも、極めて回りくどい書き方をしているという。やはり無神論と取られては、袋だたきどころか火あぶりに遭ったからだ。
現代でも、はっきりと「神などいない」と言い切るリチャード・ドーキンスは、危険視されて主要な科学賞から排除されている。ソ連政府はソ連軍とKGBの脅威を背後に無神論を言い、潰れてしまった。現代ですら無神論を言うのは難しい。2,500年前の孔子ならなおさらである。
参考動画
さらに言えば、孔子の立場は無神論ではなく、神の有無を論じないことだった。ゆえに「怪力乱神」を語らないのであり(論語述而篇20)、大事の前の潔斎は慎重に行った(論語述而篇12)。無神論者にも落雷はあるように、自然の猛威は孔子もまた、大いに認めた現象だった。
余話
精白を嫌がる
神など祭っても仕方がない、という孔子の理性は、どこから来たのだろう。おそらくは、祈っても助からなかった命が身近に何人もいたからだろう。この条件は孔子以外の春秋時代人も同じだったが、巫女の私生児に生まれた孔子は一層祈りのムダを知っていただろう。
かつての友人知人に坊主は何人かいたが、通例通り坊主だからこそ仏を拝んでいなかったし、人の死にも慣れていた。孔子の時代の宗教も現代とさほど変わらず、魂の不滅を説く、つまり精神は死なないんだから死ぬのは怖くありませんよと言ってお布施を貰う商売だった。
孔子の時代よりはるかに下るが、漢代の発掘調査では、平均寿命は30強だったという(山東省臨淄出土周~漢墓398体:33.2歳、via https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1026543210)。
さらに乳幼児死亡率は想像も付かないが、孔子が当時の貴族だったにもかかわらず、息子が一人しか居なかったことは、一人しか生き残らなかったのかも知れない。ペニシリンの発見(1928)と公衆衛生が普及する前までは、人類にとって当たり前の現象だった。
明治政府の元勲だった山県有朋は、7人の子をもうけたが次女を除いて全員夭折している。ドイツ医学が入ってこれだったし、その間違いに気付かず明治陸軍は大量の脚気死亡者を出してしまった。日清戦争での戦没者の二割、約4,000人が脚気死亡者だったと言われる。
もちろん論語の時代も変わりは無いだろう。春秋時代の後半は、鉄器と小麦栽培と弩(クロスボウ)の実用化で経済が沸き立っていたが、孔子自身は「食は精白した穀物でもかまわなかった」と論語郷党篇8にいう。この章は偽作の疑いがあるが、この句だけは論語時代に遡れる。
つまり精白を嫌がる社会常識があったということだ。孔子は十分な副食物で、精白した麦飯でも構わなかったのだろう。もっとも、日本で売られているいわゆる押し麦は精白済みで、ふすまは除かれているが、ふすま付きのオートミールほどのビタミンは無いようである。
こう言った保健学は人の精華であり、神に祈って授けられた何かではない。
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