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論語詳解065八佾篇第三(25)子韶を謂う*

論語八佾篇(25)要約:後世の創作。音楽が得意な孔子先生、昔の聖王の作品にも論評を加えます。尊敬して止まない周の開祖でも、武力で革命を起こしたそのとげとげしさが、曲にも表れていると評した、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂韶盡美矣又盡善也謂武盡美矣未盡善也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子謂韶盡美矣又盡善也/謂武盡美矣未盡善也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子謂韶、「盡美矣、又盡善也。」謂武、「盡美矣、未盡善也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文 盡 尽 金文美 金文矣 金文 又 金文盡 尽 金文善 金文也 金文 謂 金文武 金文 盡 尽 金文美 金文矣 金文 未 金文盡 尽 金文善 金文也 金文

※韶論語の本章は、「韶」の字が論語の時代に存在しない。「美」「未」の用法に疑問がある。「韶」の曲を作曲したとされる舜王は、孟子による架空の人物で実在しない。本章は戦国時代以降の儒者、おそらく前漢の董仲舒による創作である。

書き下し

せうふ、うるはしきをつくまたきをつくせるかなと。ふ、うるはしきをつくも、いまきをつくさざるかなと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が韶の曲について言った。「美を尽くしている。また善を尽くしているなあ」。武の曲について言った。「美を尽くしている。だが善を尽くす境地には至っていないなあ」。

意訳

孔子
シュン王陛下の韶の曲は、美しいし人柄の良さも出ている。武王陛下の武の曲も美しいが、そこまでお人柄は良くないようだ。

従来訳

下村湖人
先師が楽曲(しょう)を評していわれた。――
「美の極致であり、また善の極致である。」
更に楽曲()を評していわれた。――
「美の極致ではあるが、まだ善の極致だとはいえない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子評論《韶樂》:「盡善盡美。」評論《武樂》:「盡美不盡善。」

中国哲学書電子化計画

孔子が韶の音楽を評論した。「善を尽くし美を尽くしている。」武の音楽を評論した。「美を尽くしているが善を尽くしていない。」

論語:語釈

、「 。」 、「 。」

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…だと評価する”。ただ”いう”のではなく、”…だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

韶(ショウ)

韶 篆書 韶 字解
(篆書)

聖王の舜が作ったという曲。初出は戦国の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。

舜 孟子
舜は墨子がでっち上げた夏王朝の始祖・禹王に位を譲ったとされる帝王で、墨家が猛威を振るっていた戦国時代前半、世間師の孟子が顧客の斉王のために作ってやったでっち上げ。当時の田氏斉王室は、姜氏の斉国を乗っ取って日が浅かったため、その後ろめたさを隠すため、輝かしい祖先伝説を欲しがったからである。

つまり韶などという曲はありはしなかったし、孔子はもちろん舜も韶も知らなかった。「韶」の用例としては論語のほか戦国時代の『荀子』にも見える。いわゆる儒教の国教化を進めた前漢武帝期の董仲舒は、『春秋繁露』楚荘王篇6で長々とウンチクを垂れている(下掲)。論語語釈「韶」も参照。

盡(シン)

尽 甲骨文 尽 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つくす”。新字体は「尽」。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。上掲の金文は戦国末期のものだが、甲骨文から存在する。字形は「又」”手”+たわし+「皿」”食器”で、食べ尽くした後食器を洗うさま。原義は”つきる”。甲骨文では人名に用い、戦国の金文では原義に用い、また”ことごとく”を意味した。詳細は論語語釈「尽」を参照。

美(ビ)

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”うつくしい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…ている”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

又(ユウ)

又 甲骨文 又 字解
(甲骨文)

論語の本章では”また同時に”。初出は甲骨文。字形は右手の象形。甲骨文では祭祀名に用い、”みぎ”、”有る”を意味した。金文では”またさらに”・”補佐する”を意味した。詳細は論語語釈「又」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では、”よい”。もとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意”…ている”に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

武(ブ)

武 甲骨文 師 字解
(甲骨文)

論語の本章では、周王朝の事実上の初代・武王が作ったとされる曲。董仲舒は「文王が作った」と言っている(『春秋繁露』楚荘王篇)。その曲は残っていないし、武王が作曲したという事実を立証する証拠は何も無い。孔子が「武」の曲を知っていたという証拠も無い。

「武」の初出は甲骨文。字形は「戈」+「足」で、兵が長柄武器を執って進むさま。原義は”行軍”。甲骨文では地名、また殷王のおくり名に用いられた。金文では原義で用いられ、周の事実上の初代は武王とおくりなされ、武力で建国したことを示している。また武力や武勇を意味した。戦国の金文では、「文」の対語で用いられた。詳細は論語語釈「武」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…でない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

上記の通り「韶」は戦国末期の荀子が引用し、戦国時代の竹簡にも見られる。

故無首虜之獲,無蹈難之賞。反而定三革,偃五兵,合天下,立聲樂,於是武象起而韶護廢矣。

荀子
(周の武王は殷の紂王を討ったが、殷軍が勝手にコケたので、)だから首や捕虜を取らず、部下に褒美も与えなかった。根拠地に帰還して鎧兜を仕舞い、武器を仕舞い、天下を統一し、国定音楽を定め、その結果「武象」の曲が流行って「韶護」は廃れてしまった。(『荀子』儒效18)

凡古樂龍心,益樂龍指,皆教亓(其)人者也。□(賚)武樂取,卲(韶)、夏樂情。


おおざっぱに言って昔の音楽には帝王の心意気があって、自ら盛んに奏でることにより、人々に従うべき道を教えた。周の武王が世に与えた音楽は、韶と呼ばれ、夏王朝の音色があった。(「郭店楚簡」性自28)

荀子は「韶」ではなく「韶護」と言っている。「韶護」は『大漢和辞典』によると、殷の湯王の作、あるいは「韶」が舜の作、「護」が湯王の作という。何が何だか分からないが、いずれも儒者の創作で、つじつまを合わせて解釈する必要も無い。

「武象」の曲についても同様で、「武」とは言っていない。これも『大漢和辞典』とそこに載った儒者の創作によると、「武象」は武王を讃えた曲、あるいは「武」は武王の作、「象」は周公の作だという。こちらも真に受けるだけ損だから、「ふ~ん」で済ませるのがよい。

韶護 大漢和辞典 武象 大漢和辞典
『大漢和辞典』「韶護」・「武象」条。クリックで拡大。

両方に登場する司馬相如ショウジョという男は、春秋の名将司馬穰苴ジョウショに名が似ているが別人28号。前漢武帝期に現れた、訳者のような文系おたくをこじらせ切った大おたくで、そのポエムが史実を明らかにするわけがない。その他の注も、後代の儒者が出任せを言っているだけ。

ただ問題なのは漢字の音で、「韶」のカールグレン上古音はȡi̯oɡ(平)、同音に「紹」”つぐ・うける”、「邵」”邑の名・姓”、「召」があっていずれも荀子がそう書いた可能性が残る。ところが論語に大量のデタラメを書き込んだ董仲舒が、こんなことを言い出した。

舜時,民樂其昭堯之業也,故《韶》。「韶」者,昭也。

董仲舒
舜の時代、民は先代の堯王の政治があかるいことに満足してちんちんドンドンを奏でました。だから曲名を「韶」といい、「韶」とは「昭」であります。(『春秋繁露』楚荘王6)

「昭」のカールグレン上古音はȶi̯oɡ(平)、「韶」のȡi̯oɡ(平)が無声音になっただけではあるが別ものだ。五反野駅で降りても五反田までは20kmほどあり、4時間以上も歩かねばならない。こういう出任せを平気で言うのが儒者という生き物で、やはり「ふ~ん」で済ませるべきだ。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

解説

論語の本章をうんぬんする前に、重複を恐れず中国史について声を励まして言わねばならないことがある。中国史の連続性を保証してきたのは、漢字ただ一つと言ってよいが、その始祖である甲骨文は、21世紀初頭の現在、遺蹟をどうほじくってもBC14世紀までしか遡らない。

つまり、800年を幅とする上掲の年表、一番上の帯の時代は先史時代で、夏王朝など有りはしなかったし、それ以前の堯舜や黄帝ももちろん架空の人物だ。その事実に耐えられなくなった現中共政府は、御用学者を集めて夏殷周年代プロジェクトなる国家事業を行った。

上記の表では西周の成立(通説ではBC1027)まではその宣伝に付き合った年代を載せているが、もとより真に受けられる話ではない。BC1373は、甲骨文に月食の記録があるとされる年だが、考古学的には甲骨文字の出る殷(墟)への遷都は、3代あとの武丁の時代だとされる。

殷周の王朝交替も、「今日から周になりました」というものではなく、周が殷の都を落として以降、殷の残党と旧服属国の征服に相当時間が掛かった(三監の乱)。さらに殷の領域より外にいた部族が、売り出し中の周という国家組合に入ることで、周はその勢力範囲﹅﹅﹅﹅を広げた。

決して「領地」や「領土」ではない。元からの土侯の存在を認知しただけである。そもそも楚国に至っては、殷周の黄河文明圏に対峙する長江文明圏のかしらで、ゆえに国君ははじめから「王」を名乗った。西方の秦も周王室よりよほど毛並みのよい、顓頊の末裔を名乗った。

春秋時代年表

春秋時代年表 クリックで拡大

年代記の上では、楚の君主が「王」を名乗ったのはBC740即位の武王からとされる。だがその前も後も、楚の人名や官職名は漢語とは思えない点が少なからずあり、漢語の「王」にあたる称号は始めから名乗っていたはずだ。その強大な楚国について『史記』は言う。

三十年春,齊桓公率諸侯伐蔡,蔡潰。遂伐楚。楚成王興師問曰:「何故涉吾地?」管仲對曰:「昔召康公命我先君太公曰:『五侯九伯,若實征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣。楚貢包茅不入,王祭不具,是以來責。昭王南征不復,是以來問。」楚王曰:「貢之不入,有之,寡人罪也,敢不共乎!昭王之出不復,君其問之水濱。」

論語 史記
斉の桓公の三十年(BC656)。桓公は諸侯を率いて南方の蔡を討伐し、取り潰した。その勢いで楚に攻め込んだ。楚の成王が迎撃軍を率いて対峙し呼ばわった。

楚王「なんだお前らは。何しにワシらの国に踏み込んだ?」
管仲「えーとですねぇ。むかし周の摂政だった康公が、我が斉の開祖・太公望姜尚に命じました。”五人の侯爵と九人の伯爵を任命した。そなたも領地に帰って、周王室を助けてくれ”と。それで東は海、西は黄河、南は穆陵(山東省の南)、北は無棣(河北省)を与えられました。」

楚王「だから何だ。」
管仲「だから周王室のための出兵でござる。貴国は周王室にカヤの葉を納める義務がありながらサボっています。それで周王室の祭祀が差し支えています。ちゃんと貢納なされよ。その上、いにしえの周の昭王陛下が、貴国に出兵されたまま還御なされていない。これはどういうことでござろう?」

楚王「カヤを納めろ? 知らんぞそんなの。まあこれも付き合いゆえ、今後は送ってやらんでもない。じゃが昭王とやらがいなくなった件は、ワシは知らん。どこぞの川岸で、土左衛門でも探すんだな。」(『史記』斉太公世家36。→同じ話の『春秋左氏伝』版の訳)

楚軍
「何だ手前ェらぁ」と言われて機関銃をぶっ放せたバトーと違い、管仲は明らかにしくじっている。その管仲が死ぬと楚は進撃の巨人に変身、周に取って代わるつもりで北伐を始め、途上の小国は踏み潰された。唯一対抗できたのが晋で、春秋後半はその南北抗争史と言える。

鼎の軽重を問う
宣公三年…楚子伐陸渾之戎,遂至于雒,觀兵于周疆,定王使王孫滿勞楚子,楚子問鼎之大小輕重焉,對曰,在德不在鼎,昔夏之方有德也,遠方圖物,貢金九牧,鑄鼎象物,百物而為之備,使民知神姦,故民入川澤山林,不逢不若,螭魅罔兩,莫能逢之,用能協于上下,以承天休,桀有昏德,鼎遷于商,載祀六百,商紂暴虐,鼎遷于周,德之休明,雖小,重也,其姦回昏亂,雖大,輕也,天祚明德,有所底止,成王定鼎于郟鄏,卜世三十,卜年七百,天所命也,周德雖衰,天命未改,鼎之輕重,未可問也。夏,楚人侵鄭,鄭即晉,故也。

春秋左氏伝 定公五年
宣公三年(BC606)…楚の子爵(荘王)が蛮族陸渾を討伐して、周の都・洛邑近くの洛水(黄河の支流)まで進軍した。そのまま周の領内に入って勝手に軍事パレードを始めた。震え上がった周の定王が、王族の王孫満を派遣して「ご苦労でござる」と挨拶させた。

楚王「ほぉ。苦労ついでに聞くが、周王権の象徴に九つの鼎(かなえ。三本足の付いた青銅の大釜)があるそうな。その重さはいかほどか?」
王孫満「え? 何のためにそんなことをお尋ねになるので?」

楚王「お前さん方には、もう持ち重りがするじゃろう。じゃからご苦労ついでに、持って帰ってやるから有りがたく思え。」
王孫満「王権は鼎にあるのではありません。九鼎はいにしえの夏王朝の頃作られ(うんちくベラベラ)…。というわけで、重さを問うのはまだ早うございます。」

楚王「アホくさ。」そのまま鄭など、晋の配下にあった中原諸国を荒らし回った。(『春秋左氏伝』宣公三年)

中朝韓人が古証文や捏造文を持ち出して、架空の権利を言い張る始めは、かように春秋時代に先例があるが、いずれも自分がウソでニセだと自覚しているからで、管仲も調子に乗ったらあまりに楚が大軍で、真っ青になって一生懸命ハッタリを言った。

従ってうそ泣き儒者が言いふらした、「東周になって諸侯国が勝手なことをし始め、周王の権威が衰えた」という前半はウソである。楚や秦のような国は、もともと周王の臣下ではなかった。組合に入ると技術移転があるから、仕方なしに頭を下げるふりをしただけだ。
論語 地図 周

日本史の戦国の三傑がそろって南蛮人を歓迎したのは、鉄砲や地球儀や遠めがねを持ってきたからで、自前で生産できるようになると出島などに閉じこめたり、捕らえてあぶるなどの蛮行を働いた。人間は好奇心が強い一方で、あまりにヘンなやつとは付き合いたくないのである。

孔子の生国である魯は、周王室の一員である周公の末裔が国公の国だが、それでも孔子の時代、王室を当てにせず勝手に天体観測をして暦を作っていたことを論語八佾篇17に記した。だが周王室の王統や、周が殷を滅ぼして立国したことは魯国貴族の常識だったろう。

ゆえに孔子が知っていたのはせいぜい夏王朝の名前までで、史実の孔子に「舜」と言えば、「誰じゃ」と聞き返されること必定だ。周の武王を知ってはいたろうが、孔子が音楽に優れていた伝説は残っていても、武王が作った曲やそもそも作曲の事実の証拠が残ってはいない。

『史記』は次のように言う。

孔子は鼓と琴を師襄子に学んだ。一曲を学んで十日過ぎたが、次の曲に進まなかった。
師襄子「もう次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子「曲は習い覚えましたが、その論理が分かりません。」

しばらくして師襄子「もう論理は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子「論理は習い覚えましたが、その心が分かりません。」

しばらくして師襄子「もう心は分かったろう、次の曲に進んでも良いぞ。」
孔子「心は習い覚えましたが、その作曲者が分かりません。」

しばらくして孔子「作曲者が分かりました。色黒で背が高く、目つきはぼやけて何も見ていないかのよう。天下統一のお人と見えました。文王でなければ、ほかの誰がこんな曲を作れましょう。」

師襄子は上座を降りて孔子を二度拝み、言った。「我がお師匠も、おそらく文王の作だと言っておられた。」(『史記』孔子世家)

訳者は音楽に暗いのでよく分からないのだが、曲を聴いただけで作曲者の顔つきまでわかるものだろうか。この話は司馬遷が旧魯国当たりの古老から取材したのだろうが、古老が一杯機嫌でデタラメを語っていないとは誰にも言えない。荒唐無稽と切り捨てて構わない。

荒唐無稽と言えば、孔子没後一世紀の孟子がでっち上げた、舜の聖王伝説は読めば分かるが、子供でもでっち上げと分かる出来の悪い伝説で、戦国末に墨家が勝手にコケたりしなければ、ひょっとすると現在まで伝わらなかったかもしれない。

中国古代の聖王伝説をおさらいすると、まず周王朝の開祖・文王が聖人だとされた。これは周王朝治下の孔子は当然受け入れた。また文王の息子である周公旦は、魯の開祖であることからこれも聖人とされた。二人は実在の人物だから、それなりに具体的な記録が残っている。

夏禹王 墨子
だが孔子没後、「あとを継げ」と孔子が誰にも言わなかったので、儒家は一旦滅びた。孔子の孫弟子当たりにあたる墨子は自派を立ち上げ、その開祖に殷より古い夏の初代、禹王をでっち上げた。禹王が治水に優れているとされるのは、墨家の得意技術が土木だったからである。

やがて孔子没後一世紀、孟子が現れるが、当時は墨家と雑家の楊朱が天下の学界を二分していた。そこへ割り込んだ孟子は儒家を再興、顧客である王の家格に箔を付けるため、禹王に位を譲った王・舜をでっち上げた。こうなるともう、誰にもでっち上げ合戦は止められない。

各学派によって屋上屋を架し、堯・神農などが作られ、道家が最古の帝王・黄帝を作って定着したところで秦帝国が成立した。その頂点に、うそデタラメに本気で怒る始皇帝が現れるに及び、学者も世間師も拷問されたり首をちょん切られるのが恐ろしくて、捏造を止めた。

論語 始皇帝
つまり遠回りながら中国史を確定させたのは、秦の始皇帝ということになる。

余話

政府発行ニセ金

小林信彦の『唐獅子株式会社』に、いんちき坊主にだまされて、外国人が寺の縁側に一日中座って、「心眼が開くと竜に見えます」と立て札のある庭石を眺めて暮らす、というのがある。上記した董仲舒のウンチクもそのたぐいで、馬鹿馬鹿しくて真に受けられない。

春秋繁露1-30

四部叢刊初編『春秋繁露』該当部分

天下未遍合和,王者不虛作樂。樂者,盈於內而動發於外者也。應其治時,制禮作樂以成之。成者,本末質文皆以具矣。是故作樂者必反天下之所始樂於己以為本。舜時,民樂其昭堯之業也,故《韶》。「韶」者,昭也。禹之時,民樂其三聖相繼,故《夏》。「夏」者,大也。湯之時,民樂其救之於患害也,故《濩》。「濩」者,救也。文王之時,民樂其同師徵伐也,故《武》。「武」者,伐也。

董仲舒 前漢武帝
天下がまだ平定されていないのに、王者は意味なく作曲したりしません。そもそも音楽とは、我が身の内に満ちあふれたものを外に表したものです。聖王の政治がよく治まったとき、礼儀作法を定め作曲をして政治が完成するのです。完成とは、根本と枝葉、実質と表現、どれも備わった状態を言います。だから作曲した聖王は、必ず天下万民が生を楽しむようになったのを見て、そのさまを我が身の本質にしたのです。

舜の時代、民は何事もあきらかに見抜く堯の政治を楽しみました。だから韶の曲を作ったのです。韶とは、昭であります。禹の時代、民は三人の聖王が続いたのを楽しみました。だから夏の曲を作ったのです。夏とは大であります。湯王の時代、民は桀王の悪政から救われたのを喜びました。だからカクの曲を作ったのです。濩とは救であります。文王の時、民は諸侯が力を合わせて紂王を討ったのを楽しみました。だから武の曲を作ったのです。武とは伐であります。(『春秋繁露』楚荘王6)

あまりに長すぎるウンチク垂れなので前後を端折ったが、辞書の無い時代とは言え、漢字の語義について出任せを言い放題だし、時代考証も滅茶苦茶だ。こういう男を重用していわゆる儒教の国教化を進めた武帝も、運がよかっただけであまりおつむのよろしくない暴君だった。

詳細は論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照。

「武者伐也」の部分は、明らかに武帝にゴマをすった話で、殷討伐軍を起こしたのが文王ではなく武王であることは重々承知の上で、董仲舒は聖王として評判の高い文王にすり替えた。武帝を文王になぞらえたわけだが、武帝をバカにしているし、武帝もその程度の知能だった。

確かに漢帝国はその始まりに劉邦が、冒頓単于に大負けして以降、匈奴に頭が上がらなかった。匈奴が漢より進んだ製鉄術と騎馬術を持っていたからだが、武帝は匈奴の征伐に成功する一方、国家財政を破綻させた。何せ国家がニセ金を発行したのである。

乃以白鹿皮方尺,緣以繢,為皮幣,直四十萬。


そこで白鹿の皮を一尺四方に裁断し、縁にリボンを縫い付けて、皮のお金と呼び、価値を四十万銭とした。(『漢書』食貨志下20)

戦勝は全てを覆い隠すらしいが、国家の支払いに子供銀行券を渡すようなものだ。漢帝国といえども管理通貨制度が出来るほど世間に信用があったわけではなく、前代の始皇帝が青銅半両を鋳て半両銭を流通させたのは、言わば青銅本位制で国の経済を回すしか無かったわけ。

漢帝国になると経済規模の拡大に伴ってインフレになったので民間での私鋳を認めたが、そののとたん穴は大きいは厚みは薄いはで、重さが半両の1/10程度のふざけた銅銭が出回った。まるでニレの実のサヤみたいだったので楡莢銭と呼んだ。そして武帝の時代に至る。

革のニセ金の他に、武帝は貨幣改鋳を行って五銖銭を鋳造、重さが1銖程度になっていた楡莢銭よりは信用があったが、「国税をそれで納めい」と地方に命じたため、都の武帝だけが儲かる仕組みだった。もちろん地方はニセ金で対抗、財政破綻は解決しないまま武帝は死んだ。

それがのちの、塩鉄会議へと繋がっていった。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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